5.簪を武器にする
幾度も繰り返された隊長自らによる審査を経て、ある日の早朝、仁威は道場に一つの武器を持参した。仁威の手のひらから現れたそれは一本の簪だった。
どこで手に入れた物か、爪の先ほどの丸い薄桃色の珊瑚の玉一つのみ、無駄な装飾の一切ない清楚なその簪は、一見してただの普通の簪だった。やや特異な点は、それが丈の短い幼女用の物であることか。
「これが俺の考えたお前の武器だ」
仁威の言葉は珪己の心を素通りした。本来であれば思い出すべきところ、あまりに過去に合致する提案であったため、その実、本能が理解することを拒んだのかもしれない。
仁威のほうでも言葉が足りていないという自覚はあるらしく「見ていろ」と一言告げると自然な動作で一歩下がった。
何をする気か、と構えもとらずただ突っ立っている珪己に、仁威はさらに小さく一歩下がった。その足で、後ろに重心をかける直前で再度前へ、珪己のほうへとやや大きく近づいてくる。
仁威の視線がふっと珪己の左の耳にうつった。
その後の仁威の動きは日常のありふれた仕草をしてみせただけのものだった。視線を向けた珪己のその耳へ、仁威は腕を伸ばして右手で触れようとしただけだった。
何か耳のあたりに付いている物を取り除こうとしているのか、もしくは顔にかかる髪をその耳にかけてやろうとしているのか――心が緩んだままの珪己はそう勘違いし、素直にされるがままに待ち受けてしまった。それくらい、仁威の自然な動きにはここが稽古場であるということを束の間忘れさせるものがあった。
そこへ、わずかに腕の軌跡を変えた仁威の右の手から簪が飛び出した。そして珪己の首筋に突き刺さる直前でぴたりと止まった。
どくん、と、珪己の心臓が大きく跳ねた。
向かう少女の瞳に恐れの色が浮かんだのを見てとり、仁威が静かに腕を降ろした。
「……このように体術を補完できる武器をまずは習得してもらう。おそらくお前には今後も今のような、もろ手をふって武器を持ち込めないような場での任務が舞い込むだろうからな。そのような場では体術こそが必須だが、これまでお前を見てきた限り、やはり全ての敵に対して有効な業をすぐに身に着けることは難しいと言わざるをえない」
険しい顔をした珪己に「いや」と仁威は言葉を続けた。
「お前が問題なのではない。自分よりも大きな者と対戦するための技量を会得するのは男であっても容易なことではないんだ。特に武器を持てないという状況下においては、技量が互角の者同士の戦いであれば、結果はほとんどが体躯の質によって決まってしまうものなんだ」
「……じゃあ、やっぱり私が小さいのが原因じゃないですか」
やや口を尖らせた珪己を「だから早とちりをするな」と仁威がたしなめた。
「いいか。武官とは国からの任によって戦いの場に出る者のことをいう。そして戦いの場であると分かって素手で行くような武官はいない。自分が得意な獲物を持っていけばいいんだ。必勝こそが武官の使命だからな。そしてお前の場合、お前だけが『今この時が戦いの場となる』ことを知って行動すること、そして敵は『相手は武芸者ではないし、当然武器も持たないか弱い存在でしかない』と思いこませることが肝要なんだ。そういう戦いの場でどう勝ちに行くか。それこそ武官となるお前が一番に習得すべき業だ」
であるからこれを用意した、と、仁威は自身の手のひらに再度簪を乗せて示した。
「手のひらに隠れるほどの大きさで、体術によって間合いを詰めれば敵を刺し仕留めることができる武器。それが今のお前にふさわしい武器だ。敵に致命傷を与えられる物か、少なくとも動きを止めることができる物でなくてはならないのだが、女のお前であれば簪あたりが良いだろうと考えた」
「か……簪が、ですか」
「そうだ。別段かまわないだろう?」
口ごもった珪己を、仁威は刺すような視線で見つめてきた。
簪を武器にする。
この言葉が引き金となり、記憶の奥底に封じていた過去が珪己の中で一気に蘇った。まるで突風のようにきりきりと渦巻いて――そして、途端にはじけた。
宮城。後宮。
黄真珠の簪――。
皇帝から下賜されたその簪を、王美人は憎み、奪い、珪己に向かって振り下ろしてきた。その先端が迷いもなく珪己の瞳めがけて向かってきて――。
(私は――)
先ほど仁威によって首筋にあてられた簪。あれもそう。もしもあれが止まらなければ?
(私は死んでいた――?)
これまで考えることを放棄してきたその事実が、雷のように珪己の全身を貫いた。




