3.これが生きているってことなんだ
善は急げと、父である皇帝・趙英龍の機転により、翌日には後宮内に一頭の馬が連れてこられた。
英龍は小さないたずら心で馬を連れていくことを菊花には知らせなかった。ただ、「今日は天気が良いから外で会おう」と言付け、娘を天陽園に招いたのである。
これまで人間と昆虫と空を飛ぶ鳥しか知らなかった菊花にとって、動物というものを見るのも触るのも、これが初めての経験だった。英龍にすればちょっと驚かせるつもりのことだったが、突然の馬の登場に菊花は心底度肝を抜かれた。
「……菊花。菊花、大丈夫か?」
気づけば、英龍が菊花の顔を覗き込んでいた。何度も問われていたことにも気づかないほど、しばし放心していたらしい。
「父上……これは馬、でしょうか?」
「そうだ。これが馬だ」
「……大きいのですね」
ふっと英龍が笑った。
「これでもまだ子供の馬だ。大人の馬の顔は余の顔と同じくらいの高さにあるぞ」
仔馬ですら、幼女の、しかも人間以外の哺乳類を見たことがない菊花にとってはとてつもなく大きい。それに……少し怖くもある。それでもそっと近づくと、仔馬は大きな漆黒の瞳を艶めかせ、じいっと菊花を見つめてきた。長い睫に大きな口、どれも書物のとおりだが実物の迫力は衝撃的ともいえた。
菊花と目を合わせていた仔馬は、やがて無関心そうにすいっと視線をそらした。それでも菊花は馬から目をそらすことができなかった。
はっはっと呼吸をするさまを眺めていると、ぶるっと仔馬の体が震えた。それが菊花にとっては突然のことで、思わず小さく叫んでしまった。さっと英龍の背に隠れ、ぎゅっと英龍の黄袍を掴む。
皇帝の黄袍を強く握りしめることができるのは、今ではこの姫だけであろう。
英龍は上半身だけで振り向き、背後の菊花の頭をなでてやった。見れば、菊花は隠れながらも、その大きな瞳で真っ直ぐに仔馬を見つめ続けていた。
「どうだ、気に入ったか。この仔馬は菊花にやろうと思って用意させたのだよ」
菊花は無言のままである。背に隠れているから表情までは読めない。
娘が喜んでくれたのか、英龍は不安になった。
「馬に乗ってみないか?」
「の、乗るのですか? 私がですか?」
「そうだ。おとなしい馬を連れてこさせたから菊花でも乗れるであろう。馬に乗るのは面白いぞ」
しばらく父の背の後ろでぐずぐずしていた菊花であったが、見つめる先の馬がふと顔をあげてまた目が合い――吸い寄せられた。
「父上……私、乗ってみたいです!」
背から飛び出し一歩前に出た菊花の瞳には、冒険に出る前のような、少しの不安と、それ以上に楽しみや好奇心の光がありありと浮かんでいた。
英龍は安堵し、もう一度菊花の頭をなでた。
*
父の手で馬の背に乗せられたあのときのことを、目の前に広がる視界が一気に高くなり開放感で胸がいっぱいになったあのときの打ち震えるような感動を、菊花は今でも覚えている。
馬の背に触れた手のひらから伝わるのは、生き物特有の温かい脈動。
とくん、とくんと伝わってくるその動きの一つ一つは、菊花に己の命を分け与えるかのようだった。
太陽が近い。空が近い。雲が近い。
手を伸ばせば届きそうな世界にいる。
見下ろせば父や女官がいる。
唐突にその思いが全身を貫いた。
(ああ、これが生きているってことなんだ――!)




