2.書物に目覚める
ここは後宮、菊花は自室において満面の笑みで文に目を通していた。
下座に控える女官らは珪己に感化され虫をも恐れぬ豪胆な心を手に入れた強者ぞろいである。
今も室内には少なくとも十の虫籠があり、そのどれもが皆で収集した自称名品揃いである。彼女達は収集作業を楽しむどころか、日々獲物の虫を自慢し合う品評会を開くほど、虫をこよなく愛でる心を持つまでになっていた。
その変貌のさまは、菊花付以外の女官からすれば変わり者にしか見えていない。だが当人達にとっては『姫を理解できるのは私達だけ』と自尊心を満たす効果さえあった。
そんな姫の最近の新たなお気に入りは元女官である珪己からの文である。
珪己のことは、今では後宮内では伝説の女官として、物語の主人公のように語られている。
いわく、官吏一の美形に惚れられてついには恋人になったが、皇帝陛下の寵愛を受けてしまい、二人の男の愛に翻弄されながらも真に愛する恋人を選んで後宮をあとにした――といった具合の、適度な緊張と甘い期待がつまった夢物語としてである。
この話を初めて聞いた新人は、あまりの現実離れした展開に目をむきつつも、自分にもそんな華やかで煌めく未来があるかもしれないと胸を躍らせる。やがてこの話は様々な女官の手にかかり肥大化し、ついには画や楽曲、はては一般大衆向けの演劇の素材にまで展開されるのだが、それはこれよりだいぶ後のことである。
もちろん、菊花付の女官にとっては、珪己は愛憎劇の主人公というよりも、主人である菊花が認める唯一の友人、そして菊花と自分達を感化し繋いでくれた恩人だ。なので、こうして二人が文をかわせるようになり、どの女官も内心ほろりとしていた。
(皇帝陛下は寵愛を断った珪己さんのことをお許しになったのですね)
(ありがたいことですわ……)
菊花は文を読み終えると、それを大事に箱にしまった。どの女官もその箱が宝物を入れるためのものだと知っている。そして今、その箱は蓋をかぶせてもきちんと閉まらないくらいに文の束で膨れ上がっていた。
お茶を飲み一服したところで、菊花が誰にともなく問うた。
「芯国とはどのような国なのだ?」
問われ、女官らは我先にと己が持つ知識を総動員して説明していった。ただ、それらは女官となるべく育てられた彼女達特有の偏った知識であった。
「あそこは南のほうで、大変暑うございますようです」
「我らよりも鮮やかな色の衣を好むそうですわ。女でもうなじがまるきり見えるように髪を切りそろえる者がいるとか」
「湯にはつからず、水浴びのみですますそうです」
貴族中の貴族、高貴な家で生まれ育った彼女達にとって、興味があるのは第一に美に関することなのだ。
そんな中、一人の女官の発言が菊花の興味を惹いた。
「そうそう、香の物も有名ですわ。茉莉花や最高級の薔薇、それにじゃ香は芯国からしか入手できませんから」
「なんだそれは」
少し首をかしげた菊花に別の女官が口を添えた。
「茉莉花と薔薇は花の名前でございます。じゃ香のほうは動物から採取できる香の物でございます」
「動物……?」
動物と聞いて菊花の頭に浮かんだものは、犬と猫と鼠、それに龍であった。
前者はまだ年端もいかない頃に読んだ御伽草子に擬人化されてよく登場していたから知っている。しかし描かれたこれらは『実際には動かない』ため、当時の菊花の興味を全く惹かなかった。
以降、気をきかせた女官の配慮によって、動物の登場する御伽草子は後宮から姿を消した。そのため、この三種の獣はようやく菊花の記憶にとどまっている程度の存在でしかない。
ちなみに後者の龍とは、菊花を含む皇族を表す神獣として、宮内の壁から柱から、いたるところに意匠があり、菊花にとって最も身近な獣であったりもする。が、さすがに菊花も龍が想像上の生き物であることは知っている。そのため、
「その動物とは犬か猫か?」
と、菊花が問うたのも無理はなかった。
鹿の一種で芯国のような温暖な地域にしか生息しないのだと聞いても「鹿とはなんだ?」と菊花の内にさらなる疑問がわく。ここでようやく、居並ぶ女官達にも菊花と自分達の間で相互理解が進まない理由が察せられた。
今度こそ本当に気のきいた者によって、書庫にある動物に関係する本が片端から後宮に持ち運ばれた。積まれた書物に菊花は虫を見る時のように目を輝かせた。
それから数日、菊花はむさぼるように書物を読み漁り、乾いた土のように多くを吸収していった。もちろん七歳に識別できる文字には限りがあるので、主に目を通したのは画や図が多く載る書物であるが。
(動物とはすごい。犬、猫、それに鹿だけではないのだ。牛に馬、熊に兎、一体どれだけの種類があるのか。それに姿かたちも大きさも千差万別。本当にこういう生き物がこの地にいるというのか……!)
何度読んでも驚きばかりで全く飽きることがない。目を爛々と輝かせ、ひたすら頁をめくっていく。それは菊花が書物の面白さに目覚めた瞬間でもあった。
この特異な行為は父母にも当然知れ渡った。生まれてこの方、日がな庭園で土いじりをして遊ぶだけであった娘が、自ら室にこもり書物に向かい合っているのである。
二人は不憫をかけた愛娘のことをしばらく甘やかすつもりであった。が、皇族の姫としてこの国で生き続けるためにも、この千載一遇の機会を親としては見逃すわけにはいかなかった。




