7.熱しやすいものはすぐ冷める、はず
「……悪いな」
二人になったところで仁威が最初に発した言葉は謝罪だった。
もうこの広い室内、片付けに勤しむ調理人以外、二人しかいない。先ほどまでの喧騒が嘘のようなのどかな午後である。
おや、という顔をして侑生が仁威の目の前の椅子に座った。
「どうした、珍しいな。てっきり『話とはなんだ』と威嚇してくるかと思っていたが」
これに仁威があからさまにむっとした顔をした。だがその表情はすぐに隊長然としたものに戻り、侑生にとって下位の者がとるべき態度にとって変わった。
「申し訳ない。俺が部下のことをよく分かっていなかったばかりに」
そのあまりに殊勝な態度に、侑生も、
「いや、いいんだ。別に私にとっては大した労苦ではないし」
と、思わず補うように言葉を続けると、
「お前にとっては扱いに困る女を他にあてがえるし、武官に対する己の心証もよくなるし、一石二鳥であることは分かっているが……それでも俺の部下が喜んでいるのは確かだから礼を言いたい」
かしこまった顔のまま仁威が平然と言ってのけた。礼なのかどうかよく分からないが、一応感謝している、ということなのだろう。
侑生があきれて笑った。
「本当に素直じゃないな」
(本気で部下の私生活まで心配していたくせに)
侑生の瞳の様子から心を読み、仁威はわずかに顔を赤らめてこほんと一つ咳をした。
「まあでも、どこまで部下の内面に踏み込んでいいのか、判断が難しいな。こういう生活を強いているのは俺のほうだし、であればああいう悩みを解決することを俺も今後は考えたほうがいいのかもしれん」
「どうやって?」
ずばっと痛いところをつかれ、仁威がやや動揺した。
「うむ……それはこれから考える」
「ははは。そういうことこそ枢密院で考えるよ。それに私の指南は秘術でもなんでもないのだから、第一隊の間でいずれは浸透するさ。以前手ほどきした第三隊のほうでも、自分達でしっかりと私の紹介を元に人脈を広げていき恋を勝ち取っているからね。仁威はこれからも今までどおりのやり方で部下をまとめてくれればいい。何かあればいつでも相談にはのらせてほしいけどね」
ところで、と侑生が話を切り替える。
「なんだって馬侍郎が仁威に会いに来たんだ?」
「……どこから見てた?」
「馬侍郎が乙女のように胸ときめかせたところはしっかりと見させてもらっていたよ」
今度こそ本当に仁威の機嫌は損なわれた。ちっと舌打ちをする。
「なんだって女は……分からない奴らだ」
「奴ら? 馬侍郎と、あとは姉上のことか?」
自身の姉ではあるが、別段気にもとめず話題にのせる。
「いや。楊珪己だ」
「え。珪己殿?」
「ああ。なんだって俺が笑ったくらいで、堅物の馬侍郎がおかしくなって、かたやそういう年頃のあいつに気持ち悪がられないといけないんだ」
思い出し、本心から怒りがわいてきたようだ。「くそっあいつら」と声が漏れる。
「……それはまたすごいね」
侑生からすると精悍な顔立ちの仁威のどこが気持ち悪いのかさっぱり分からない。時代が変われば、まず間違いなく自分以上に仁威は女人を虜にするはずだからだ。それだけの魅力を十分有している男なのだ、目の前に座るこの男は。今だって、文官だとか武官だとかいう肩書にとらわれない女人にとっては、仁威の有する誠実さこそ最も尊いものになるだろう。と、同性であればこそ侑生は思うのだ。
それに、それを面と向かって本人に言い放つ珪己にも感心してしまう。感心するが……それができるということは、珪己が仁威に心をひらいているからだろう。二人が朝夕ともに宮城に通っていることも、仁威が早朝に特別な稽古をつけていることも、侑生は玄徳や仁威本人から聞いて知っていた。
先日の酒楼で感じた違和感がここでも生じた。
(……なぜ私は)
そのためらいに仁威は気づかなかった。
「まあ、楊珪己はともかく、馬侍郎のほうには早々にあきらめてもらわなくてはな。しばらくは馬侍郎の動きには用心するとするか……。ああくそ、面倒だな」
「用心って……馬侍郎を敵のように扱ってどうする。それにもうとっくに仁威のことを好きになっているじゃないか」
「大丈夫だ。熱しやすいものはすぐ冷める」
「姉上は全然冷めていないぞ」
「……清照と馬侍郎は違う」
「年上好きの袁隊長にはお似合いだと思うけど?」
先ほどの部下との会話を聞いていたことを如実に指摘される。
「だから……年上だとか年下だとか、そういうことではないだろう」
「ではどういうことなんだ」
「ちっ……うるさいなあ。何だってお前にそんなことまで話さなくてはいけないんだ」
少し憤然とした様子で仁威が口を閉ざした。
からいかすぎたか、と侑生が話を元に戻した。
「で、馬侍郎は何をしに来たんだ」
その声音で仁威も自身の任を思い起こした。
「名を名乗れない主から『頼まれて』、楊珪己に文を渡すように依頼されたんだと」
「文?」
「幼い者からだ」
「ああ。なるほど」
幼い者と聞けば、侑生にも即座に合点がいった。ただ、そのことに純粋に珪己の喜びを想像した仁威とは違い、侑生は珍しくその秀麗な顔を険しくさせた。
「……それはやっかいなことにならなければいいね」




