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9.恋は喜びでもあり毒でもある

 温忠は二人の杯にお茶をつぎ足し、一口飲むと口を開いた。


「実は僕も好きな人がいるんだよね」

「え? 温忠さんもですか? 勉学一筋かと思ってましたが違うんですね」

「勉強は勉強。恋は恋だよ。勉強は志して努力してするものだけど、恋は落ちるものでしょ。自分の考えで始めたりやめたりできるものじゃないしねえ」

「はあ、そういうものなんですか」


 弁当の残りを片付けながら気のない返事をする珪己に、温忠は「またまたあ」と笑った。


「そんな言い方してるけど、珪己だって黒太子を見て胸がときめいているんでしょ? もしそれが真実の運命の恋とかじゃなくても、惹かれる人に体や心が反応するってことは、人間であれば当然のことじゃないか」

「う、うん……確かにそうですね」


(体や心が反応する?)

(自分の意志で始めたりやめたりできない?)


 この時代、恋を寛容する雰囲気はあるが、結婚といえば、自由恋愛によるものだけでなく、家同士の繋がりや親の思惑が絡むものもまだ少なからずあった。後者は特に貴族階級や官吏、豪商に多い。


 珪己自身は枢密院の長官、枢密使の娘であるから、恋とは芸や本の世界で楽しむ他人事の世界、そして愛とは定められた婚姻相手に持つべき感情だろうと、そんなふうに思ってこれまで生きてきた。男親の玄徳からは母親とのなれそめを聞いたこともなく、恋について語ったこともないが……いつの間にか、なんとなくそう思っていたのである。


(愛って……愛することって、相手に対して自分で『そうする』と決めることだと思っていたんだけどな)

(だったら恋だって自分の意志でやめることができなくちゃ困るんじゃないの?)


 この疑問を口にすると、温忠は今度こそ本当に驚いた顔をした。


「それって一体いつの時代の話? そんなことを言う人はよっぽどいい家の人間だけだよ。珪己の家ってそんなに裕福なわけ?」

「いえ、そんな裕福ってわけでもないんですけど……一応官吏の娘なので」


 温忠は珪己の生家については追及してこなかった。だが、代わりに少し可哀想な人を見るような目つきをされてしまった。


「ああ、よほどの箱入り娘なんだね。だって、同い年の女の子同士で話していたら、恋や愛について語らずして何を話すんだって感じでしょ」


 ああそうか、と今頃になって珪己は腑に落ちた。


(男の子と武芸の稽古ばかりしていたから……だからこういう話にうとくなっちゃったんだ)


 とはいえ、真実を語ると面倒なので、あははと笑ってごまかした。


「じゃあ黒太子が初めての恋なんだね」

「え? ……うん、まあ、そうなんですかね」

「それはおめでとう!」


 温忠はにっこりと笑うと、歓迎するとばかりに珪己の手をとりぎゅっと握りしめた。思いがけない強さに「いたたた」とつぶやくと、温忠はあわてて手をほどいた。


「ああ、ごめん。痛かった?」

「はい、もう大丈夫です。突然だったからびっくりしただけです」

「ごめんね、今度からは気をつけるから。……あ、そうだ。気をつけるといえば、その恋にも気をつけなよ」


 温忠はいつの間にか真面目な表情になっている。


「気をつけるって何をですか?」

「だから、その恋にだよ。珪己は何も分かっていないみたいだからちょっと心配になった。はまりすぎると中毒になるからね」


 それでも理解できずに首をかしげる珪己に、温忠は今度は本当に優しくそっとその手を包んだ。


「初めての恋ほど甘く心を溶かすものはないんだよ。けれどこれほど自分を壊してしまうものもないんだ。いろんな意味でね」

「自分を、壊す?」


 温忠の手が珪己の手の甲をゆるりとなでた。


「そう……恋には自分を壊してしまうほどの凶暴性が潜んでいるからね。恋は喜びでもあり毒でもあるよ。剣に護る力と殺す力があるようにね。そして初恋にはその傾向が顕著だ。まさに諸刃の剣さ。だから気をつけて」


 じっと珪己の手の甲を見つめなでる温忠の伏し目がちな瞳に、彼の語った恋の全ての面が見えるようであった。


 甘さと凶暴性。喜びと毒。諸刃の剣。


 自分を壊す……いろいろな意味で。


 珪己は悟った。温忠は辛い初恋を経験しているのだと。


「……初恋が実らないっていうのは、だからでしょうか」


 初恋は実らない。その一文は少し本を読む人間であれば誰もが聞く定型文である。


 温忠の話を聞く限り、初恋は危険だ。甘いだけの毒に価値などあるわけもない。であれば初恋は『実らないほうがいい』。


 顔を上げた温忠の瞳からは、先ほどまでの胡乱な感情は消えていた。まるで遠い昔の幻であったかのように。


「僕はそれでも実ってほしいけどね。自分がどうなろうともこの恋を守りたいって思うからさ」

「……ということは、温忠さんの好きな方って」

「そう。実は今も絶賛初恋継続中」

「じゃあ、温忠さんにとっては初恋が真実の運命の恋だったんですね」


 珪己のなぐさめるような言葉に、温忠は照れたように頭をかいた。


 その表情はどこか誇らしげでもあった。

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