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5.試されている

 と、その瞬間、仁威がその拳を解いた。


「……よし。ではもう一度。次はこれだ」


 え? え? と、不可解な表情を浮かべる珪己を促して再度対峙させると、仁威はまたも両の拳を胸の前に構えた。


「では次はこちらから行くぞ」


 宣言されたその瞬間、今度は仁威のほうから間合いをつめてきた。


「ま、待ってください……!」


 自分よりも体格の大きな相手と戦う術が脳内で整理しきれていなかったが、仁威の拳は遠慮なく振り下ろされてくる。


「わわっ」


 短い期間ながらも沁みついたその習慣または本能で、珪己は先ほどと同様に半身で避けた。ただし今回は間合いを保ったままで、だ。だがこれでは、避けたからといって次にできることなどない。


(どうすればいいの……!)


 と、また仁威の構えが解かれた。


「……では次はこうしよう」


 三度目も仁威は同じように拳を構えた。


「は、はいっ」


 正直、珪己の頭はこれ以上にないほど混乱している。それでも武芸者の意地で構えはとった。


 と、構えたその瞬間、仁威は拳を腰の高さにまでおとした。あれ? と思ったところで、仁威の体がくるりと踊るように、やや大げさに左回りに回転し始めた。その勢いのまま、間合いをつめながら仁威の背中がゆっくりと珪己に向き、次の瞬間、倍の勢いで回転を加速させ、かつ一気に距離を縮めてきた。


 振り向きざまに鞭のようにしなって打ち下ろされてきたのは、高らかに上げられていた仁威の左足だ。よく稽古を積んでいる武芸者の勲章とも言うべき硬い踵が、予想していた拳よりも素早く、かつまるで長物のように珪己を狙いさだめている。


 これまでの珪己の動きは、相手が間合いをつめてくるのと同時に自身も間合いをつめることに特徴があった。それは、間合いをつめるという動作においては、静止している時よりも相手の動きに制約が出るためである。


 もっと簡単に言えば、真っ直ぐに向かってくる相手を直前で避けさえすれば、勢いを殺しきれない相手は脇をすり抜けていき、その隙に自分は相手の背後に容易に近づけるという利点があるわけだ。


 そのため、当然、珪己は今回も突然とはいえ仁威が動き出すのに合わせて間合いをつめ始めていた。だが仁威の蹴りに慌てた結果、今回はすり足で後退するはめになった。先ほどは横に避けたところを、今は下がる以外に道はなかったのである。


 下がるや、珪己の顔の前を仁威の足の甲が通り過ぎていった。


 風圧で珪己の前髪がふわっと揺れた。


「……っ!」


 道化師のように華麗に一回転し終えた仁威が、その左足を着地し、元のように両の拳を構える姿勢に戻った。まるで何事もなかったかのように。


 対する珪己は、一拍おいて心臓がどきどきと鳴り始めたのを感じていた。


 仁威の動きには一貫して余裕がある。それは対峙する珪己にこそよく分かっていた。珪己が仁威の蹴りを避けることができなければ、おそらく仁威は顔面の手前で蹴りを寸止めしてくれたことだろう。


 周定莉との体術の稽古のほうが、今よりもよほど気の応酬があった。浩托との稽古では剣気に凍りついてしまった。だが今は……この稽古に別次元の恐れを感じている。


『試されている』


 その一言につきる。



 *


 

 ――それからは手も足も出ない勝負の連続だった。


 仁威は子鼠を弄ぶ山猫のようであった。散々思い通りに動かして、あれやこれやとからかって遊び、鼠が追いつめられたと負けを覚悟すれば、踏んだ尻尾を放してしまう。逃がされた鼠が選択できることはただ一つ、勝つまで戦うことだけだ。


 間違いなく、今朝、珪己と向き合う以前の仁威からは熱が放たれていた。額にはうっすらと汗もかいていた。それが、珪己と向き合いしばらくすると、いつの間にかその汗はひいていた。本気を出すべき稽古が終了していることをその体が如実に語っている。


 それでも悔しいなどという感傷は起こらなかった。なぜなら珪己は子鼠でしかないからだ。つまり、必死で応酬するしかなかったのである。


「……よし、今日はこれで終わろう」


 その一声に、珪己の張りつめていた気がようやくほどけた。窓から差し込む日はだいぶ高くなっている。開始からおよそ半刻ほどが経っていた。


 珪己は大きく息を吐いた。それを皮切りに、息を吸って吐いてをひたすら繰り返していった。


 本当に強い武芸者と対峙するとき、息をすることすら難しくなることを珪己は初めて実感していた。師匠である鄭古亥との稽古でもここまでの状況に追い込まれたことはない……。


 この稽古の終盤では、仁威の動きにのまれて一挙手一投足、そして呼吸すら相手に制御されていた。ここで息を吸えば隙を見せてしまう、息を吐けば気が乱れる――そのわずかな隙を見せることができず、かつ、ようやくできる時を見つけたと思ったらそれが相手の策であったり、敢えて与えられた一瞬の休息であったりするのだ。


(四肢の全てを操られることがこれほどまでに疲労困憊することだなんて……)


 ようやく解放されたことの歓喜とともに、珪己の本能が飢えるように呼吸を求めている。


 肩を落とし体全体で呼吸する珪己とは対照的に、仁威は最後までその姿勢を崩すことはなかった。珪己はといえば、息を整えることに専念するほかない。ぽつ、ぽつと床ではじける汗は、とどまることを知らない。


 頭上から仁威のつぶやきが聞こえた。


「……ふむ。もう少し知る必要があるな」

「え?」


 重たい頭を上げると、仁威がちらりと珪己を見た。


「明日も同じ稽古をしよう」

「……え?」


 明日も同じということは、この濃密な稽古がまだ続くということか。

 微かにひきつった部下の表情を上司が鋭く睨みつける。


「何か問題があるか?」

「……いえ、ありません。明日も引き続き……よろしくお願いします……」


 そして最後に、気合いだけで腹の底から叫んだ。


「ありがとうございました……!」

 

 稽古は礼をもって終了しなくてはならない。


 床に座り頭を深く下げた珪己には、そのとき仁威が小さく笑う表情は見えなかった。

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