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4.好きなようにかかってこい

 向かい合う仁威からは先ほどの怒気は消え去り、すっかり隊長然とした態度を取り戻している。


「突きでも蹴りでも、急所を狙うのも何でもありだ。好きなようにかかってこい」


 そう告げると、仁威は静かに両の拳を胸の前に構えた。


 それは初めて長剣で向かいあった時とは明らかに異なっていた。何の気概もなく、ただ構えたかのような仁威の仕草に珪己は虚を突かれた。


 この古亥の道場に通うようなあどけない子供たちですら、稽古相手に対峙すれば多少なりとも闘気を放つ。気を放出することで相手の動きを抑制したり、相手のわずかな動きをいち早く察知できるからだ。


 また、手に持つ武器にその気を乗せなくては、武器を制御しきることは不可能である。道場での稽古とは戦いを仮想した訓練であり、それはすなわち、いつでも自身の全力をねん出できるようにすることが主目的の一つだということだ。


 ゆえにこの場で闘気を出すことは当然であり必須なのである。


 しかし目の前に立つ仁威はそれをしない。


「えっと……」


 珪己のためらいを、仁威はその鋭い双眸だけで無言で制した。つまり、戦えということである。


 この時珪己は気づかなかったが、仁威が闘気を出さないことで、珪己は稽古に自然と入ることができた。もちろん、仁威にとってこの稽古は新人武官の実力を測る意味合いがあるため、珪己に自身と向き合わせる必要があったからなのだが――正直に言えば、実力に差があり過ぎて気を出す必要を感じなかったことも理由ではある。


 仁威にならい、珪己も両の拳を胸の前に構える。と、


「好きなように戦えと言っただろう。お前が拳を使えないことは分かっているし、まだ無理だ」


 すげなく的確に指摘された。


(確かに……もっともだわ)


 先日初めて体術を学んだばかりの珪己の拳は、相手の顔面を打ち砕くことはもとより、柔らかな腹部にめり込ませるだけの威力もない。そのような拳に作り替えるには、布や藁を詰めた革袋を日々打ち込んで硬化させるなり、自身の体重を増してその重さを利用できるようにする必要がある。


 だが珪己には革袋を打った経験はなかった。それに生まれながらの体質でどちらかというとほっそりとした体つきをしており、珪己自身、自分に体術の素質があるとも思えなかった。さすがに同年代の女子と比べればやや筋肉は多くついているものの、男子と比べれば全然大したことはない。


 仁威の指摘は腑に落ちたので、珪己は素直に構えを変えた。


 拳を解き、ゆるく体の横にたらす。


 この体勢はよう珪信けいしんという名で男装してしゅう定莉ていりと稽古を積んでいた際、初めての体術にも関わらず試行錯誤をした結果編み出した型である。当然、隊長として部下の稽古をつぶさに観察してきた仁威にもそれは分かっている。ぱっと見れば脱力したようなこの型は、相手との間合いをつめれば、拳を構える型よりも効果を発揮する場合がある。


 それはつまり――。


 珪己は一息整えるや、その右足の指先をぴくりと動かした。そこから流れるようにすり足で間合いをつめる。


 間合いをつめながら、珪己は腰のほうから仁威の胸ぐらに向かって両手を一気に持ち上げた。――こうすると、向かう相手はいつどの瞬間、どの距離で珪己の両の手が攻撃範囲に入ったのかが正確に読み取れなくなる。どこまでが自分の間合いなのかを定量的に測らせないということは、至近距離で合いまみえる体術という業において非常に大きな意味を持つ。


 珪己にならうかのように仁威も一歩進んだ。かつ、その一歩を踏み出す瞬間に腰を大きくひねった。右の拳がこれでもかと背後に引き寄せられていく。過剰に大きな動作や本人しては緩やかなそれは、稽古ならではのものだ。


 珪己にもそれは理解できた。だから、仁威が引き寄せた右の拳を珪己に向かって繰り出しつつ、その拳と、そして同時に進めた右足に思いきり体重を乗せてきたその瞬間、左に半身はんみによけた。これにより、一直線に仁威に向かっていた珪己の軌道が若干左に修正され、かつ、前に進んだ勢いを殺すことなく、仁威との間合いを最大限につめられるというわけだ。


 実はこの動き、かの王美人の騒ぎが起こった際、果鈴に対して仕掛け、成功した業である。ここから前に伸ばした左手で相手の着衣の襟首をつかみ、あとは引き倒すなり転倒させるなりすればいいのだが――今回、それは叶わなかった。力を込めて襟首を掴めるほどには近づくことができなかったからである。


 十分に間合いをつめることには成功した。小柄な周定莉や女官であった果鈴相手であれば文句ないほどに。


 だが、相手が悪かった。対する仁威は珪己よりも頭一つ背が高く、手を伸ばしても襟首に指先が触れるのが限度だったのだ。引きずり倒す以前の問題、むりやり襟首くを掴もうとすれば腕が伸びてしまい力を入れることができない。


 間合いをつめ、仁威の右の拳の裏を抜け、さあ今この瞬間に襟首をつかもうとし――見当違いをしていたことに珪己は愕然とした。


(これではむやみに近づいただけだ……!)


 ここで打撃可能な拳を持っていればまだ勝算はあるのだが……勝敗を決することのできる一手もないのに間合いをつめただけの現状は、明らかに珪己にとって不利であった。仁威の体から発せられる熱すら感じられるこの近しい間合いで、さてどうすればいいのか。


 珪己の一連の動きに乱れが生じた。

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