2.皇帝の喜び
「何か楽しいことでもあったのか」
ここは昇龍殿、皇帝・趙英龍の執務室。そこで黄袍の英龍は黒衣の龍崇といくつかの案件について打ち合わせたところであった。
英龍にとって龍崇は気を許せる希少な人物の一人である。だからこそ華殿の長という重要な任を与え、今もこうして政治的な会話ができるわけなのだが――それでもこの異母弟のことを英龍は完全に理解できているわけではなかった。
こんなふうに業務中に顔をゆるめるような彼は初めて見た。
「あ、ああ。すみません」
――それにこんなふうにあわてる姿も。
無理やり顔をひきしめて平静さを取り戻そうとしたところ、見事に失敗している。その様子に、頼りになる彼が年下であったことに英龍は今さらながらに気がついた。そしてそのことがやけにうれしかった。
「崇をそのような顔にさせることだ。よっぽど面白いことがあったのだろう。ん?」
英龍のややつり上がった大きな瞳には、きらきらと純粋な好奇心が宿っている。それを認めて、龍崇はこほんと軽く咳払いをし、今度こそ常の表情をその顔に戻した。
「申し訳ありません」
「いやいや、よいのだ。で、何があったか余に教えろ」
「……いえ、大したことではありません」
「なんだ水くさいな。秘密にするのか」
少女との一連の会話をどう説明すればいいのか。逡巡し、
「『そういえば』、先ほど菊花姫付であった楊珪己をみかけました」
「……何? 楊珪己を?」
案の定、英龍は少女の『名』のほうに食いついた。
*
「珪己が登城しているのですか」
ややつり上がった大きな瞳をこれでもかと見開いたのは、皇帝・趙英龍の唯一の息女、菊花である。
ここは後宮、菊花の産みの母である胡麗の部屋に家族三人が水入らずで集っている。つい最近まで、三人はお互いのことを想いながらも不器用にすれ違い、語り合うこともままならなかった。
三人を隔ててきた時間は菊花が麗の腹に宿ったときにまで遡る。
英龍と麗は物心ついたときからの旧知の仲であったが、この初春に和解した後、娘の菊花とは一から心を通わせるところから始めなくてはならなかった。なので、三人は、三人での時間を大切にしながらも戸惑う心に翻弄され……それでも徐々に、ようやく少しずつ心をひらき寄り添い合えるようになってきたところであった。
このように睦まじい時を過ごせるようになったのも、ひとえに一人の少女の協力があってこそだ。それを三人はよく分かっていた。
英龍は期待以上に菊花の反応がよく安堵した。今日、龍崇からその名を聞き、そうだこれは菊花が喜ぶ話題だ、と今さらながら気づいたのである。
「女官を辞めて、今度は官吏となったのね。しかも文官と武官の二足のわらじとは」
心底驚いた様子で、麗が袖で口元を覆った。
「珪己さんは本当によくお勤めなさる方なのね」
「余もそう思うよ。官吏補の兼務は柳中書令が言い出したことなのだがね」
「父上! 珪己は礼部で働いているのですね?」
父母の間に割って入った菊花の顔は紅潮し、瞳は爛々と輝いている。
「そうだよ。芯国と正式に国交を開くために礼部で色々とやってもらっているのだけどね、楊珪己はその手伝いのための臨時の文官、官吏補になったのだよ。これが片付けば、楊珪己は正式に武官としての任に就くことになるだろうね」
「父上! 父上はもう珪己に会ったのですかっ?」
何度も父と連呼され、ねだるように無邪気にその身を寄せてくる菊花に、英龍はたまらず破顔した。
「いや。余は会っていない」
「私は会いとうございます! 礼部に行けば会えるのですか?」
「ほら菊花、落ち着きなさい」
麗が優しく菊花をたしなめる。
「珪己さんは今は官吏補としてお勤めされているのです。ご迷惑をおかけしてはいけません」
本当は『私たちは内壁の外へは出れない』。
英龍の妃である麗、そして娘である菊花は、基本的に後宮から出ることは許されていないのだ。
「……分かりました」
見るからに落胆した菊花は、まごうことなきまだ幼い二人の娘であった。そのいじらしさに英龍は「だが文を書くくらいはいいぞ」と思わず言ってしまい、麗に軽く睨まれてしまった。姫が元女官、そして今でも官吏補でしかない少女に文を送るなど、本来であれば言語道断だ。菊花もそれが理解できているから、今まで珪己に対して何もせず、二人に珪己の話をねだることもなかったというのに。
だが皇帝の言質をとった菊花は花咲くように満面の笑みを浮かべた。そして衝動的に英龍にぎゅっと抱きついた。
自分の半分にも満たない小さな体で、全身で喜びを表すのは己のたった一人の娘。
(――ああ、なんて愛しい娘だ)
愛しい、その一言だけが英龍の全身を支配する。他に何を言えようか。
両腕を菊花に回し目を閉じた英龍の表情があまりにも喜びに満ち溢れていて、だから麗もこれ以上は何も言えずただ苦笑するしかなかった。




