6.騒動の元は
多くを語ることはなかったが、それから侑生と仁威はゆっくりと酒を干し、料理を口にし、全てを平らげて個室を出た。これで二人に課せられた至上の命令は果たされたというわけだ。
だが戸を開けたところで、何やら騒がしいことに気づいた。
騒動の元は女だ。
しかも複数人の声がする。
女だけでの飲酒はここ開陽では別段珍しいことではなくなっているが、このような高級酒楼においては若干話は違う。まだ官吏にも豪商にも女人の数は少ないからだ。それに騒ぐほどまでに酒におぼれるような者は、性別問わずこの品と格のある店では希少である。
何人かの給仕が騒動の主がこもる室の前でおろおろとしていた。そのうちの一人、女給がなじみ客である侑生に気づき、たまらずといった感じで駆け寄ってきた。
「李侑生様……! 申し訳ありませんが、お力をお貸しいただくことはできますでしょうか?」
「おや、どうしたのかな」
仁威は横目で侑生を見やり、ちっと舌打ちをした。
(またこいつは女に色目を使いやがって……)
侑生は他者、特に女性と接するとき、爽やかで気持ちの良い好青年を演じる癖がある。持って生まれた美貌と出自からくる洗練された物腰は、侑生の意識一つで女性が好む男へと変貌できるというわけだ。そして侑生への好意という種は宮城から市井まで、いたるところにばらまかれている。侑生が必要なときに必要な種に水をやり、女を虜にする花を咲かせるためだ。
普通、侑生のような男は同性の反感を買うものだが、侑生は仮面を付け替えるのも非常にうまい。同性の前では誠実で忠義に厚い部分を前面に押し出すのだ。するとなんとなく憎めない存在として受け入れられてしまう。どの性質も全て侑生が実際に有しているものであるから、決して嘘ではない。ただ、どの部分をいつどこで用いるかを本人が完璧に制御しているだけなのだ。
そうはいっても、まだそのような業を完成させていなかった若かりし頃のことを知る仁威としては、そのような人物としてふるまう理由が推し量れるからこそ、この侑生の所作がわざとらしく不愉快に感じる。……痛々しくも、感じる。
侑生に顔をのぞきこまれ、当の女給がぽっと顔を赤らめた。それでも給仕としての資質が高いその女給は、難解な現状を思い出して元の青い顔に戻った。
「だいぶ前からあの室のお客様が大変な騒ぎようでして。何度か戸の隙間から中をのぞいたんですが、あまりにも白熱していて……怖くてなかなかご注意できなくて」
「なるほど。酔っぱらっているのかな」
「いえ、そのような感じではなくて」
「とは?」
「何やらもめているようです。それにお客の一人が紫袍の方でして……」
「ああ。それでは手が出しにくいね」
紫の袍衣は上級官吏の証である。そして女性でそれを身に着けることが許されている者は、この時、十数人程度と非常に希少であった。そのため、紫袍の女性は、少数派であるというだけで、市井の民からすれば同じ官位である男よりも優れた存在に映っていた。高級酒楼に勤めるとはいえ、女給ごときが注意できる相手ではないのだ。
侑生からの明瞭な同意を得て、女給があからさまにほっとした顔をした。
「ええ、そうなんです。でもこのままでは他のお客様のご迷惑になりますし、どうしたらいいのか。枢密副使である李侑生様のお助けをいただければ」
侑生よりも官位の高い女官吏は限られている。その中にこのような醜態をさらすような存在はいないはず――。ざっと頭をめぐらせ、そう結論づけると、侑生はほほ笑んでみせた。
「私でよければ」
(だからいざというときにはあなたを利用させていだだきますよ)
侑生の黒い腹の内を知ることもなく、女給は感激のあまり幾度も頭を下げ礼を述べた。後ろに立つ仁威は芸事の茶番を見ているような心持ちである。それでも侑生と女給と共に、騒ぎの元である室までついていった。
だが。戸を開け、室内の惨状が明らかになったとき――。
それぞれが自身に関係のある者を見て取るや唖然とした。
まず侑生。
姉の清照、そして礼部の侍郎を認めて青くなった。
「っ、姉上! それに馬侍郎まで!」
その声に怒気を解くこともなく戸を向いた清照は、侑生ではなく、その後ろに立つ武官に頬を桃色に染めた。
「仁……!」
仁威は清照の乱れた髪に気おされ、次に頬を染めた清照の心を理解して無意識に一歩あとずさった。
「……清照」
仁、という名に興味をひかれ、祥歌が仁威に視線をうつした。今この時まで祥歌は仁威のことを詩歌の世界でしか知らず、これが初の対面であった。その時ちょうど仁威の視線が祥歌に移った。
(……!)
この時の祥歌の表情の変化を見ていたものは誰もいなかった。
対する仁威すら、清照の視線を避けるために室内を見やっていただけで、祥歌の前を素通りした視線は、机につっぷして寝る濃紺の袍衣の少女に焦点が当たるやぴたりと止まった。ほぼ同時に侑生もその少女の存在に気づいた。
「楊珪己?」
「珪己殿……?」
二人の声に反応したのか、上半身を机にへばりつかせたまま、その少女――珪己が手に持つ杯を頭上に挙げた。
「すみませーん。もう一杯くださーい……」
杯を持つ腕が力なく机に倒れると、もう一方の腕で枕のごとく自身の頭を乗せた珪己はその顔を横に向けた。ほころんだ顔はなんとも幸せそうだ。かと思うと、すーすーと心地よさげな寝息をたて始めた。珪己が伏せている机上には、空の徳利がいくつも転がっていた。




