1.慶事
「野村……お前なあ、津村に無茶させるなと言っただろうが」
「あ、あははは……いや、本当ごめんなさい。悪気はなかったんだけど、想いが爆発しちゃって」
「というかその双眼鏡、毎回毎回どこから持ち出してるんだお前」
「施設で大事に保管されてたんです! そりゃもう埃で灰色に見えるくらい奥底に大事に!」
「で、その年代物の双眼鏡でまたストーカーしてたと」
「ストーカーじゃないですよ! ただの自然観察!」
「ほう、職員室に向けてなあ?」
「うっ」
「津村に必死に止められながらなあ?」
「グッ……! ごめんなさいって! 本当に反省してます、こんなに方々に迷惑かけるとは思わなかったのー!」
「悠里、大丈夫……だよ。だからごめん、ちょっとボリューム下げて。頭がガンガン」
「うわああん、ごめん芽衣ー!」
「う、ん……ボリューム……」
とても賑やかな声が聞こえる。
目に映るのは、義姉と自らの番にそっくりの男女。
2人より視線の低い位置にメイリアーデの視線はあった。
……ああ、そうか。
そっくりではなくて本人達か。
これはずっとずっと昔の思い出だ。
メイリアーデの中からいつか消えてしまう前世の記憶。
実際すでに前世の記憶は随分な数が失せていた。
道具とか、言葉とか、小さなことから抜けていく。
職員室が一体何なのか、メイリアーデにはもう分からない。
ユーリが一体何を観察したのか、もう思い出すことができない。
鮮明に蘇ったこの光景すら、メイリアーデにはまるで身に覚えのないものだった。
他人の世間話を聞いているような、そういった微妙な距離感でただただ見つめるばかりだ。
どうして今になってこれほど鮮明な夢を見ているのか、メイリアーデには分からなかった。
前世の夢を見るのは本当に久しぶりのことだ。
ナサドと結ばれ神の眷属により前世との繋がりを絶たれた後には見ることのなくなっていたもの。
10年ぶり。
メイリアーデが津村芽衣と切り離されてから、もうそれほどの歳月が経過していた。
悠里の顔や声、名前までもはっきりと映し出した夢は少し異質に思える。
前世との繋がりが残っていた頃ですら分からなかったものが何故いま分かるのか。
答えは見つからないままに、目の前に広がった光景はふっとろうそくの火のような揺らめきをもって消えた。
「メイリアーデ様」
「ん……」
代わりに響いたのは、最早なじみとなった声。
すぐ耳元に届く柔らかな声。
同時に頬に添えられた温かな感触に引っ張られる。
「ナサド」
途端に意識が覚醒して目を開いた先には、メイリアーデの番がいた。
顔の輪郭を捉えることが出来ない程に近づいたその目は、少しだけ憂いを帯びている。
優しく頬を撫でられ、その手が向かった先はメイリアーデの目元。
柔く拭われて初めてメイリアーデは自分が涙を流していることに気付いた。
「あ、れ……?」
「怖い夢でもご覧になられましたか?」
「ううん、どちらかと言えば優しい夢……だった、ような」
「ならば良いのですが。……大丈夫ですか?」
「ええ。何だか懐かしいような、寂しいような、変な気持ち」
不思議な感覚にぼんやりしながら、しかしメイリアーデはふっと笑う。
「それよりも。おはよう、ナサド」
メイリアーデにとっては、目覚め一番に挨拶できる喜びの方が大きかったらしい。
当然のように触れられるようになった温もりにどうしても顔は綻ぶ。
差し込む光は天蓋を通しているから淡く優しいものだ。
その中でこうして共に朝を迎えられる今を、10年経った今ですらメイリアーデは奇跡のようだと思っていた。
片想いが長かったおかげで、どうやらすっかり拗らせてしまったらしい。
ナサドと両想いであることも、番となり夫婦となったことも、こうして同じ部屋で同じ時を過ごすことが当たり前となったことも、未だに現実として信じ切れていない。
差し出された手を絡めて逃げないようにと柔く拘束すると、ナサドが苦笑して握り返してくれた。
「おはようございます、メイリアーデ様」
「もう。違うでしょう、ナサド」
「……おはよう、メイ」
「うん、おはよう」
いつも通りのメイリアーデの我儘に、ふっと吹き出すよう2人一緒に笑う。
こつんとおでこがぶつかったから、いつものようにメイリアーデは目を閉ざした。
唇に柔らかな感触が降る。
「……そろそろ起きる時間?」
「まだ少し早い時間です。もう少しお休みになられますか?」
「ううん。ナサドさえ良ければだけれど、ぎゅっとしても良い?」
「……はい?」
「何だか、無性にそうしたくて」
「勿論構いませんが、メイリアーデ様」
「大丈夫、本当よ。けれど、なぜかな? すごく人恋しくて」
「……ならば、思う存分どうぞ」
「ふふ、ありがとう」
お互い寝台の上に座り直して向かい合う。
勢いよく抱きついてぎゅっと力を込めれば、柔い拘束で返された。
とくとくとナサドの心臓の音が規則正しく響いている。
薄い夜着越しだから体温も何も直に感じた。
ドクドクとメイリアーデの心臓は元気に高鳴り始めるけれど、それ以上に安堵が強くなってほっと一息つく。
髪を優しくすかれて、幸せな気持ちが広がった。
「……ラン兄様が見たら、砂吐いてしまうかしら」
「かもしれませんが、イェランもあまり人のことは言えないと思いますよ」
「え、ナサド、ラン兄様のそういうところ見たことあるの?」
「専属時代に、数度。誰とて蜜月はあるものです」
「けれどラン兄様とユーリお姉様って、ずっと蜜月のような?」
「分かりますが、それこそ“お前が言うな”と返されてしまいそうですね」
「た、確かに。けれど仕方ないじゃない、実際幸せなんだもの」
「……朝からそう武器を振り回さないで下さい、メイリアーデ様。私が持ちません」
「え、武器? 持つって、何が?」
「いつになったら覚えて下さるんですか、ご自分の威力を」
遠慮のない言葉のやり取り。
温もりを分け合いながらの朝の一時。
少し人に見せるには恥ずかしい時間を過ごして、笑い合う。
10年、変わることのなかった、いや、甘さを増した触れ合いは結局いつも通りの起床時間ぎりぎりまで続いた。
夢の影響か妙に寂しくいつも以上にナサドから離れがたかったメイリアーデ、基本的にメイリアーデに激甘のナサド、邪魔する者がいないとなればそうなるのは必然だ。
コンコンと、遠慮がちなノックの音でようやく我に返った頃には急いで着替えを要する時間となっていた。
2人揃って慌てたのは、当然他の家族達にはあまりに恥ずかしくて内緒の話だ。
「あ、メイリアーデ、ナサドさん、おはよう!」
「ユーリお姉様、おはようございます」
「おはようございます、ユーリ様」
「もう、ナサドさんってばいい加減私のこと気安く呼んでくださいよ。何年経ったと思ってるんですか」
「敬うべきお相手であることには変わりありませんので。ユーリ様こそ、いつになれば慣れて下さるのですか」
「……う。もうここまで来たら無理だから諦めてくれません?」
「では私が気安く出来ぬことも諦めてください」
「……駄目だ、今日も勝てない」
「…………相変わらずだな、お前ら」
「ラン兄様! おはようございます」
「イェラン様、おはようございます」
「……ああ」
朝食を済ませ公務へと向かう廊下。
偶然すれ違った次兄夫婦にメイリアーデは笑いかける。
ユーリとナサドの言葉の攻防も、近頃は名物となりかけていた。
敬われることが慣れないからと何とかナサドの言葉を砕けさせようと奮闘するユーリと、相変わらず龍人一家に丁寧な言葉遣いを辞めないナサド。
それを呆れた顔でイェランが眺めるまでが恒例だ。
「ラン様、ナサドさんが今日も手強いです」
「そうか」
「もう10年経つんですよ? 良いと思いませんか? ナサドさんに様付けの敬語使われるとムズムズするんですよ?」
「そうか」
「最近じゃわざと敬語使って私をからかってるようにすら思えてくる……」
「そうか」
「ちょっとラン様、聞いてます!?」
イェランとユーリもまた相変わらずだ。
テンポの良い会話で、ひたすら陽のユーリが感情豊かに話を広げてイェランが受け止める。
思わず従者達からも笑みがこぼれるくらいに穏やかな空気が流れていた。
「ああ、賑やかだと思ったらここにお揃いでしたか」
「あ、ムト兄様! おはようございます」
「うん、おはようメイ。今日も元気そうで何より。一体何の話で盛り上がっていたんだい?」
「ユーリお姉様とナサドがいつもの攻防をしていただけですよ」
「ああ、成程。ナサド、僕のこともいつでも“義兄上”と呼んでくれて良いんだよ?」
「おはようございます、アラムト殿下。本日も良い天候に恵まれましたね」
「あはは、本当従順そうに見えて意志が固いんだよね君って」
「……混ざるな、ムト」
「ラン兄上、おはようございます。嫌だな、大事な家族の団らんじゃないですか」
今日も龍王家は賑やかだ。
少し時間はかかったし想像していたような形とも少し違ったけれど、ナサドも何だかんだで新たな家族に馴染んでいる。
気安い……とまではいかずとも、無理のない距離感で互いに接することができるようになっていた。
肩の力を抜いて自然に応対できるようになるまで、ナサドが一体何度胃を壊したかは……ナサドの名誉のために決して口外しないようにしようとメイリアーデは密かに決意している。
そういう日々を知っているからこそ尚更、今のこの瞬間が愛しく思えるのだ。
ふふっと笑んで見守れば、アラムトがにこりと笑い返す。
「と、遊んでいる場合ではなかったね。メイ、ナサド、2人とも今日は早くから公務入っていたよね」
「え? はい、もうそろそろ出ようかと思っていましたが」
「ラン兄上もリガルド家に行く予定でしたっけ」
「ああ」
「ユーリ義姉上はお茶会予定でしたよね」
「そうですよ、セイラ姉様と一緒に……って、ムト様よく覚えてますね」
「あはは、特技ですから。でもそれ全部中止です」
「……はい?」
龍王家全員の予定が中止。
滅多にない出来事に思わずメイリアーデは聞き返す。
滅多にどころか今まで一度もなかったことだ。
龍人は数少なく、当然王族も他国に比べれば少ない。
その人数で国を回すとなれば、1人にかかる役割は必然的に多くなる。
龍王家は、だからこそ多忙だ。
いつも公務や国民との交流に時間を追われている。
その重要さも代わりに受けられる恩恵も重々知っているからこそ、誰も文句など言わないが。
ただ、だからこそ詰まりに詰まったはずの予定が白紙になるのが普通ではなかった。
何事かと必死に思考を巡らせるメイリアーデ。
同じようにユーリもまた目を瞬かせている。
一方で眉を寄せて黙り込んだのがイェランで、「もしや」と声をあげたのがナサドだ。
2人は女性陣とは違い何か思い当たるものがあったらしい。
「ムトとメイリアーデの時もそうだったな」
「ええ、同じですね」
そうして分かり合ったように言葉を交わす。
その言葉にユーリが何か気付いたようにハッと息をのんだ。
「も、もしかして!?」
パアッと途端に明るい表情を見せるユーリに、やはりメイリアーデは何が何だか分からず困惑するばかりだ。
アラムトがそんなメイリアーデを見てぽんぽんと頭を撫でる。
おかしそうに笑って、真っ先にメイリアーデに向かい教えてくれた。
「慶事だよ、メイ。今日は仕事は全て中断、オル兄上とセイラ義姉上のところに行こうか」
「え、オル兄様と……セイラお姉様?」
そこまで言われてもなお分からない。
困り果てて視線を彷徨わせた先、ナサドと目が合う。
ナサドは顔を綻ばせ説明する。
「メイリアーデ様もそうして喜ばれたのですよ、同じように」
「私、も? えっと、それはいつ」
「そうですね、メイリアーデ様がお生まれになられる1年ほど前のことでしょうか」
「私が生まれる1年前……、……っ、そ、それってもしかして」
ようやくメイリアーデは察した。
アラムトが嬉しそうに笑っている。
ユーリが目を輝かせていた。
ナサドがメイリアーデに頷き返してくれる。
イェランは……相変わらずの無表情だが。
それでもどことなく空気が柔らかい。
「新しい、家族!?」
「うん、そう。メイにとっては初めての“後輩”かな?」
冬もようやく終わり、花が咲き始める頃。
植物の芽吹きと共に、龍王家にもひとつ新しい命が宿る。
吉報は、瞬く間に龍王国に広がった。




