51.龍の約束
遠慮の知らない抱擁だった。
歯を食いしばり声が漏れないよう必死に抑える様子が耳に伝わる。
時折首筋に届く彼の息で体が震える。
何もかもが愛しくて、メイリアーデは力の限り抱きしめ返した。
自然と体はつま先立ちになり、足が痺れる。
それでも全く気にならない。
初めてメイリアーデは、ナサドが丸ごと心を預けてくれたのだとそう感じることができたから。
どれほどその状態が続いただろうか。
メイリアーデには判断が付かず、判断を付ける気も起きない。
それでもナサドの腕の力が少し緩み、その手がメイリアーデの髪に絡むまでずいぶんと長く感じた。
「な、ナサド……? あの、その」
優しく丁寧に、それでも躊躇うことなく触れられるナサドの手。
ゆっくり髪を撫でられるその感覚が慣れなくてメイリアーデはどもることしか出来ない。
くすりと、少し余裕のある声が耳に届いたのはほどなくしてだった。
「約束を、思い出して下さったのですか?」
一言、柔らかい声色でナサドは聞いてくる。
戸惑い緊張しカクカクと頷くしかできなくなってしまったメイリアーデに、ナサドはただ「そうですか」と返事をくれた。
「その約束の続きを、覚えていらっしゃるでしょうか」
「つづ、き……?」
「はい、続きです」
そうして尋ねられた問いに、メイリアーデは首を傾げる。
思い出すことは、出来なかったからだ。
津村芽衣が松木に誓ったただひとつの約束だけが、メイリアーデの思い出せた全て。
それ以上はどう頭の中を探ってみても見つからない。
続きなんてあっただろうか。
それすら分からなかった。
ナサドはメイリアーデの反応から察したのだろう。
少しの間を置いてから教えてくれる。
「津村は言ったのですよ。もし約束を果たせたなら、私の本心を教えて欲しいと」
「っ、それ、は」
「立場も事情も何もかも関係なく、今度は私の本当の気持ちひとつで返事が欲しいと津村は言った。……見抜かれていたのでしょうね、必死に本音を隠し続けていたことを」
ぱっと体を起こしメイリアーデはナサドの顔を見上げる。
今までにないほど距離の縮まった顔。
ナサドは離れることなく、赤く染まった目を隠すこともなく、苦笑していた。
優しく柔く、降参したとばかりに笑う彼のその目に映るのは諦めの色。
何かを諦めたと分かるのに、それはどこか清々しくも感じて不思議な感じだ。
一体何を諦めたのか、知りたいと思った。
「教えてくれるの? 貴方の本音」
訊ねれば、ナサドは苦笑したまましっかりと頷く。
そうしてぽつぽつと頼りない声で小さく、話し始めた。
「先日、貴女様に申し上げたことは何一つ嘘ではありません。龍国は私にとっての故郷で、龍人様は憧れで、何一つ損ないたくないとそう願いました。愚かな選択をしてでもこの身に抱えた秘密を守らねばならないと、そう思った。かつてフレディー公がその秘密を守り続けたように」
「……うん」
「貴女様が私を番にと仰って下さったとき、あまりに分不相応だと思ったのです。私の存在は、過去の経歴は、貴女様の重荷にしかならない。望む資格すらないのだと今も思っております。もし、メイリアーデ様が津村の記憶を引きずり続けているならばなおのこと、それは互いに不幸にしかならないだろうとも」
違うと咄嗟に言おうとしたメイリアーデ。
しかしナサドは優しくメイリアーデの口を手で押さえ首を振る。
「けれど」と声が続いたのは直後だ。
「本当はずっと……ずっと、思っていました。分不相応で厚かましい夢を、消すことはできなかった」
「……どんな夢?」
「俺は、龍として生きたい。津村と、メイリアーデ様と、共に……っ」
初めてのことだった。
ナサドがメイリアーデへの想いを口にしてくれたのは。
メイリアーデに対してだけではなく、芽衣に対しても。
だからメイリアーデも躊躇いなく、惜しむこともなく、言葉を紡ぐ。
「厚かましくなんてないわ。だってそれは、私にとって願ってもいない素敵な夢だもの。私だって望んでいる、貴方と共に生きたいって」
ナサドの心が嬉しくて、心を預け本音を晒してくれたことが嬉しくて、どうしても顔に浮かぶのは笑みだ。
それをナサドは苦く笑い受け止めてくれる。
彼の中に未だ葛藤があるのは当然のことで、どうしてもナサドは自分の願いを叶えようとする前に周囲への影響を考えてしまう。
それでも彼はメイリアーデに心を見せてくれた。
はっきりとメイリアーデと生きたいと言ってくれた。
津村芽衣の記憶を繋ぎこうしてここにいるメイリアーデと共にと。
だからメイリアーデは彼の葛藤にはあえて触れずに告げる。
「一緒に生きよう、ナサド。番として、龍として。貴方が堂々と空飛ぶ姿を、私見たいわ」
言葉を受けたナサドは、メイリアーデの目をじっと見つめた後ゆっくりと目を閉ざした。
わずかに震える手を見ないふりはできない。
それでもただひたすらに彼の中で答えがちゃんと出るまで待つ。
時間にして数分という短かな時間だろう。
沈黙の流れる中、そっと目を開いたナサドは最後とばかりにメイリアーデに尋ねた。
「……よろしいのですか、本当に? 私の人生に貴女様を巻き込むということは、いらぬ苦労を貴女様にもおかけすることになります。国民達のメイリアーデ様に対する信頼さえ、揺るがすことにもなりかねない」
最後の最後まで自分の希望よりメイリアーデの今後を心配するナサド。
何とも彼らしい問いに、メイリアーデは呆れたよう笑う。
「必死に約束を思い出した私にまだそれを言うの? とっくに覚悟なんて出来ているわ、いらないとも苦労とも微塵も思わないくらいには貴方が大好きなのに」
「……っ、申し訳ございません、愚問でしたか」
「そうよ、愚問よ」
そう、答えなどもう決まっているのだ。
ずっとずっと、想いを自覚した時からナサドの全てを受け入れると決めた。
良いところも悪いところも共に乗り越えて番になっていくのだと。
メイリアーデは胸を張って笑う。
きっぱり告げれば、ようやくナサドは曇りのない笑みを見せてくれた。
ナサドのこの顔を見るのは一体何年振りか。
いや、初めてかもしれない。
そうしてナサドはメイリアーデの目の前ですっと膝を折る。
差し出された手に手を重ねれば、そこにそっと口付けられた。
「身の程知らずな願いだとは承知の上で、どうか私の我儘をお聞きいただけますか」
「……ええ」
「どうか、私を姫の番にお選び下さい。貴女様のただ一人の伴侶に、私はなりたい」
「っ、もちろん! 私も貴方のたった一人の番でありたい……!」
「……ありがとうございます、メイリアーデ様。この身果てるまで、御身の傍で貴女様を守り続けるとここで誓います」
ぎゅっと強く握られ掲げられたメイリアーデの手。
額をつけて、ナサドが誓う。
はっきりと、疑いようもなくナサドが決意してくれたのだとやっとメイリアーデの頭が理解した。
途端に緊張が体から抜けて、その場に座り込む。
「よ、良かったあ……もう駄目かと思ったわ、本当」
「……申し訳ございません。融通の利かない性格なのです」
「本当よ、もう」
笑い合って、冗談を言い合う。
想いが通じたとやっと実感できた。
だからこそメイリアーデの中に生まれたのはほんの小さな欲。
「ねえ、ナサド。約束は貴方の本心を教えてもらうことだったよね? 私、まだ決定的な言葉を聞いていないわ。ナサドが私をどう思っているか」
「……もう伝わっているのでは?」
「駄目。そうやってはぐらかそうとしても許さないんだから。約束は約束よ? ちゃんと言って」
子供っぽい我儘だと我ながら思う。
それでもどうしても言葉を引き出したくて、わざと不機嫌な顔でナサドを見上げるメイリアーデ。
案の定ナサドは苦笑して、両手を上げる。
降参したとばかりに首を振って、やがてメイリアーデの頬をその手で包み込んだ。
「……愛しています、メイリアーデ様」
囁くように、心を込めて告げられた一言。
ただ「好き」という言葉を引き出したかっただけのメイリアーデは、予想の上を行く言葉に硬直する。
「は、反則……っ」
顔中熱くて湯気でも出そうだ。
ナサドを見上げれば、その顔は笑んでいた。
少し意地悪そうに歪んだ笑み。いたずらが成功したかのようなそんな顔。
今までナサドが決してメイリアーデには見せてこなかった一面だろう。
嬉しい気持ち半分、振り回され通しで面白くない気持ち半分。
乙女心は複雑だというが、もしかしたらこういう時のことを言うのだろうかなどと思ってしまう
しかしじっとりとナサドを見つめたメイリアーデはふと気づいた。
「……耳、真っ赤」
そう、ナサドも案外見た目ほど余裕はないらしいと。
今まで見られなかったその反応があまりに嬉しくてメイリアーデは無邪気に喜ぶ。
すると目の前でナサドの肩がぴくりと揺れた。
そうしてメイリアーデに視線を合わせたかと思えば、ニコリと微笑む。
「あ、黒い笑み」などと内心で思った。
「この際ですから、しっかりと申し上げておかねばなりませんねメイリアーデ様」
「な、なに?」
「貴女様のその素直さは大変美徳です。その気性に私も殿下方も救われてきました。が、それを承知の上でどうか心にお留め置き下さい。貴女様は、少々無防備すぎます」
「む、無防備……? ちゃんと護衛達の言うこと聞いてるよ?」
「警備の問題ではございません。精神の問題です。誰彼構わず懐に入れてしまわれるから、私のような厄介で面倒な男が拗らせるのです。少しは御身の尊さとご自身の影響力をご自覚ください」
「……ナサドが拗らせてくれるなら大歓迎なのだけど」
「メイリアーデ様?」
「う……何もそんなに怒らなくても」
「いいえ、怒ります。私の理性が持たないのです。本能のまま貴女様を傷付けてしまったならばどうするおつもりですか」
「貴方の理性が飛んでくれるなら、それも大歓迎よ? だってナサドってあまり心を晒してくれないんだもの!」
唐突に始まったのはナサドの説教で、訳も分からぬままメイリアーデが大いに刺激してしまったのはナサドの本能。
メイリアーデの返答にグッと唸りナサドは頭を抱える。
「……お覚悟下さい、メイリアーデ様。ご存知かとは思いますが、龍の本能は生半可なものではございませんから」
苦し紛れにナサドは言う。
それでもやはりメイリアーデは内心思ってしまうのだ。
出来ることならばその本能、さらけ出して欲しいと。
自分を求め暴走してしまうナサドなんて最高ではないか。
そんなことすら思ってしまう。
どうあがいてもやはりメイリアーデはナサドを誰よりも愛しているのだ。
世界中の誰を探してもここまでナサドを好きな人など他にいないと断言できるほど。
「大好きよ、ナサド」
きゅっとナサドの手を握りしめて、今度はこちらからその甲に口付けを送る。
こうやって互いの熱を分け合いながら生きていきたい。
隠す必要のなくなった愛しさのままにメイリアーデはそう思う。
一方で、がっちりと手を握りしめられたナサドの方と言えば。
「……理性で無理やり抑え込む日々はまだ続きそうだな」
今までとはまた別の意味で、苦行が始まるのだと覚悟を決めたのだった。




