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龍の約束  作者: 雪見桜
本編
35/74

34.一面



「この世界には可能性が溢れている。この世界の人々は自力で空すら飛んでしまうんだ。だから津村、お前だって諦めることはないんだぞ。諦めることはないんだ」


「けれど先生、私はもう希望を持つことに疲れてしまったんです。体はどんどん言うことを聞かなくなっていくし、いつ動けなくなるかも分からない。完治したっていう症例だって……」


「津村……」


「……ごめんなさい、愚痴ったって仕方ないのに。先生の前だと私弱音ばっかり。もっとしゃんとしていたいのに」


「良いさ、そうして少しでも心が軽くなるならいくらでも話せ」



誰かを守るということは簡単なことではない。

物理的に守るのも、精神的に守るのも、どちらも同じくらい難しいことだ。

前世、津村芽衣のことを松木は物理的には守ってくれなかった。

彼は養護教諭ではあったが医者ではない。

世界中のどんな医者ですら治したことのない難病を治せるはずがないのは当然のことだ。

けれど、間違いなく松木は津村芽衣の心を守ってくれた。

苦しくなれば話をとことん聞いてくれ、いつだって希望を捨てず、誰よりも芽衣の幸せを諦めないでいてくれた人。松木の言葉は現実的ではなかったかもしれないし、それこそ綺麗事で埋め尽くされていたかもしれない。それでも、八つ当たり陰鬱な言葉すら吐いた芽衣のことを決して投げ出さずとことん向き合ってくれた。


守られたのだと、転生してなおメイリアーデは断言できる。

死んで生まれ変わってほんのりとしか前世を思い出せない今ではあるが、メイリアーデにとって彼と過ごした日々は間違いなく幸せだったのだ。

盲目と言って良いほどに、松木のことを信じ愛していた。



「約束を、果たさなきゃ。先生に、会いに行くの」


……その言葉はいつのものだっただろうか。

声はかすれ、音量を上げる力すら失い、それでも強く吐き出した言葉。

どうしても約束を果たしに行かなければならないとそう思ったのだ。

その約束を、おそらく自分は未だ果たせてはいない。



「約束を、果たさなきゃ」


もうその約束を交わした自分は、心と記憶以外変わってしまっているけれど。

津村芽衣よりも幾分高く、そして健康的な声。

はっきりと変わった自分の声を耳で拾って、悲しいような嬉しいような言葉で表せない複雑な気持ちになった。

それでももう自分は津村芽衣には戻れないし、メイリアーデとして生きる今を捨てることもできない。

なぜだかそんなことをメイリアーデは思う。



「目が覚めた? 気分はどう? メイ」


「っ、ムト……兄様?」


「うん。大変だったね、メイ。よく頑張りました」


事件が起こってから今が何日後なのか、メイリアーデは把握できていなかった。

見える景色はもうずいぶんと懐かしく感じる自室の豪華な寝台。

耳に届いた穏やかな声は、何日も会っていなかった歳近い兄のもの。

アラムトも随分と気を揉んだのだろう、自力で起き上がりパチパチと目を瞬かせる妹の幾分元気そうな姿に安堵したように笑う。


あの後、いよいよ体力が底をついたメイリアーデはその場に倒れ込んで意識を閉ざした。

ナサドを助けなければとそれだけで保っていた意識だ、ナサドを見付け兄達と合流したことで張りつめていた気が一気に抜けたのだろう。

そこからどれほど経ったのか分からないが、メイリアーデ自身深く深く眠っていたように感じる。

体もどこかを動かすたびにピキピキと悲鳴を上げるのだから、その感覚は間違いなさそうだ。

そしてそこまで思い出すと、やはりメイリアーデの口から出て来るのはただ一人の安否だった。



「ムト兄様、ナサドはっ」


「落ち着きなさい。君も5日間眠ったまま目覚めなかったんだよ、安静に」


勢いよく起き上がり寝台を飛び出そうとしたメイリアーデをアラムトが宥める。

軽く肩を押し戻されただけでへにゃりと体が負けて立ち上がれなくなるのだから、思ったよりも体は弱っているのだろう。

相変わらずナサドのこととなると目の色が変わる妹にアラムトは苦笑した。



「大丈夫、ナサドも無事だよ。ただ彼もだいぶ満身創痍の状態でね、しばらくは静養が必要なようだ」


「こ、後遺症は?」


「まだ何とも。ただ現時点ではそのような報告はないよ」


「良かったぁ……」


そうしてようやくメイリアーデの体から力が抜ける。

本音を言うならいち早く顔を見て安心したいが、自分の体も現時点で思い通りにはならない。

とにかく自分の信頼がおける人からナサドの状況を断言してもらっただけでも有難かった。

そしてナサドの安否が分かってようやくメイリアーデには他の事を考える余裕が生まれるのだ。



「あの、ごめんなさい。ムト兄様にもご心配おかけしました、よね?」


「それはもう。半狂乱になる父上を抑えるのも大変だったんだから」


「う……ごめんなさい。それと、ありがとうございます。ずっと付いていてくれたんですか?」


「まあ、父上も母上も兄上達も事後処理で忙しいからね。僕くらい君に付きっきりでも許されるでしょう」



相変わらず自分の中心はナサドであり、他のことは中々目に入りにくい。

まだまだだなと思いながらもそれはどうしようもない衝動で、年若いメイリアーデはそれを抑える術を知らなかった。

メイリアーデと最も仲が良く過ごしてきた時間が長いアラムトには、メイリアーデの心情などお見通しなのだろう。苦笑したままメイリアーデの頭を撫で続けている。



「オル兄上とラン兄上がね、君に感謝していたよ。気落ちして負の感情に呑み込まれそうになったところを引き留めてくれたって」


その言葉にメイリアーデは一瞬目を瞬かせた後、どうにも苦い気持ちになって顔を俯かせた。

その様子に「おや」とアラムトが首を傾げる。

思わず吐露してしまったのは、アラムトのそういった空気作りのおかげだろう。



「私、何もできなかった。オル兄様とラン兄様を引き留めたのは、私ではなくてナサドです。私は何も気づけずただ捕まって、人の手を借りて逃げ出して、外聞もなく叫んでわめいて、それしか出来なかった。自分の未熟さを痛感しました」


「そう? そんなことはないと思うけど」


「ううん、そうなんです。何もかも甘く考えすぎだった、綺麗な世界に守られるだけで分かった気でいたのかもしれない」



グッと握りしめる手の力はいまだ弱く、それがなおさら自分の無力さを感じさせる。

思い返してみても自分が何かを出来ただろうかと考えて何も思い当たらないのだ。

口では立派な事を言いながら、行動が伴っていない。

そんな自分を認めることが苦しくて、その妙なプライドすらも今のメイリアーデには滑稽に思えた。

しかしメイリアーデの言葉にアラムトは首を振り、ゆるく息を吐き出して応える。



「それでも君は動いた。誰かを守ろうと努力しただろう? その気持ちが誰かを拾い上げることだってあるんだよ、メイ。兄上達も、ナサドも、そんなメイがいたから何とか踏ん張って立ち上がったんだ」


しっかりと視線をメイリアーデに合わせ、言い聞かせるようにアラムトは言葉を紡ぐ。

普段から笑みが絶えずメイリアーデをからかうことも多い兄。

ともすれば軽薄ともいわれそうなその雰囲気はなりを潜め、彼はただ真摯にメイリアーデに説いた。



「そもそもメイは今回完全な被害者だ、余裕などなかっただろうにそれでも周りを気遣い立ち回った君に責められるようなことなど何もない」


「完全な被害者……そうなのかな、私はそうは思えないんです。だって彼らにあれほどのことをさせた原因は」


「メイ。いかなる理由があろうと、スワルゼ家が今回行ったことは許されない行為だよ。国の規律を乱し王族を虐げる行為に弁解の余地はないんだ」



これほど強い口調で誰かを糾弾するアラムトをメイリアーデは見たことがない。

だからメイリアーデは思わず言葉に詰まりアラムトを些か驚いた顔で見返す。

しかし次の瞬間にはやはり釈然としなくて微妙な顔になってしまうのは仕方ないのかもしれない。

頭ではアラムトの言うことも分かるのだ、彼の言うことはもっともで自分だってスワルゼ家が自分やナサドに行ったことを許すことはできない。

それでもそもそもその原因を作ったのは自分ではないだろうか、もしかしたらこうなる前に回避できたのではないだろうかと、そう思う自分もまた否定できない。

それに今回のスワルゼ家の行動を全て否定してしまうことはどうにも理不尽な気すらするのだ。いま罪人とされているナサドにだって事情があったように、彼らにだって何らかの事情があったのかもしれないとそう思うところもある。

だからグッと口を強く結びメイリアーデはアラムトを見つめる。



「教えてください、ムト兄様。なぜスワルゼ家はあのようなことを? 何が彼らをあそこまで追い詰めたのか、私は知りたい」


「メイ」


「……落ち込むだけでは何も変わらないから。知るだけで何かが変わるとは、思わないけど」



背筋を伸ばし聞く姿勢を取ったメイリアーデにアラムトが小さく息をのんだ。

メイリアーデの手はわずかに震え、本人が口にはしないものの心の方にも相当な傷が付いたことをアラムトは察する。

それでも顔を上げるメイリアーデを見て何を感じたのか、彼から聞こえてきたのは長い長い溜息だ。

まだ聞かせるには早いと思ったのかもしれない。出来ることならば聞かせたくないとも思ったのかもしれない。

しかし彼はメイリアーデの望み通り、今までメイリアーデに聞かせてこなかったこの国の一面を教えてくれた。


「あくまでも僕の推測が絡んではいるけれど」


始まりは、そんな一言だ。



「今からそう遠くない過去……具体的に言うならば父上がまだ幼少期の頃はね、三大貴族なんて言葉存在していなかったんだ。スワルゼ家が一強の龍貴族社会だったらしい」


そうして語り始められたその事実の最初からメイリアーデは目を瞬かせる。

スワルゼ家の一強、初めて聞くことだった。

おまけに今の情勢を考えれば信じがたいことだ。

アラムトは補足するように言葉を重ねる。


「国の治安を維持するリガルド家、龍や国の歴史を管理し学を広めるユイガ家。両家ともこの国において当時だって大事な役割を果たしていた事には変わりないよ。けれど、それでも両家はあくまで有力貴族の一角であっただけで、スワルゼ家とは天と地ほども差があった」


「そこまで、ですか? 確かに医学だって国を守る上ではとても大事ですけれど、リガルド家やユイガ家の役割とはっきり比べられる程差があるようには」


「うん、そうだね。実際スワルゼ家が圧倒的な筆頭貴族だったのは、医学が重要だったからというよりも彼らの忠義心が強く龍人族から最も信頼された一族だったから……と国では広まっている」


「……“国では”? ということは」


「うん、彼らが優遇されていたのには別の理由があったんだよ。メイ、君は龍毒草を知っているかな?」




龍毒草。

スワルゼ家の中でも何度か聞いた名前だ。

目を見開き分かりやすく固まったメイリアーデに、アラムトは頷く。



「龍人にとって唯一の弱点と言っても良い毒草だ。不思議なもので、人間には効き目がないのに龍にだけ効く。龍のみを死に追いやる草、ゆえに名前が龍毒草」



龍人の唯一の弱点。

そのようなものの存在などメイリアーデは初めて知った。

龍人にも弱点があったのだと、それすら知らなかったのだ。



「龍国でも最たる機密だ。そしてその龍毒草の存在を知り管理と研究、秘匿を任されていたのがスワルゼ家だった。スワルゼ家が長く一強だった理由だ」


「……まさか」


「……うん、おそらく君に使われたのは龍毒草だろう」


ぶるりとメイリアーデの体が震える。

スワルゼ家が自分に使った毒。

龍毒草がもしアラムトの言う通り毒草なのだとすれば、メイリアーデが味わった眩暈や意識の混濁、視界不良に説明がつく。いや、話を聞いた限りだとそれでもメイリアーデの症状は軽い方だ。

それほど恐ろしいものを使われていたのかと思うと、無意識にでも背筋が寒くなるのは仕方のないことだった。



「君は女龍だ。知っているかもしれないけど、女龍は男龍よりも力が強い。もしかすると龍毒草への耐性も僕達よりはるかに強いのかもしれないね。この程度で済んで良かった……とは言えない状態ではあるけれど」



椅子に腰かけ天井を仰ぎながらアラムトは言う。

小さく息を吐き出し、どこか切なげに説明をくれる彼の胸中などメイリアーデは知らない。

しかしアラムトがアラムトなりに何かを憂い悲しんでいることだけは分かった。

思わず手を伸ばしてしまいそうなほどに、彼の目は遠くを見ているように感じるのだ。



「とにかく、それほど大事な機密を共に守るほどスワルゼ家は信頼されて圧倒的な権力を持った一家だったんだよ。けれどその体制を父上は変えようとした」


「……お父様?」


「そう、父上。詳しくは僕も知らない。けれどもしかするとスワルゼ家の圧倒的一強といった状況に何かを感じたのかもしれないね。それまでずっとスワルゼ家からのみ選出されていた専属従者をリガルド家やユイガ家からも選ばせるようした」


あくまでも冷静に、第三者の視点でアラムトは語る。

誰が良いとか悪いとか、そういった話は一切せずに事実を淡々と話すアラムト。

推測は推測ときっぱり前置き、メイリアーデにも分かるよう説明をくれた。

そうして見えてきたのは、スワルゼ家があそこまで権力に固執するその鱗片だ。



「父上には現在専属がいない。意図があったかどうかは分からない、けれど父上はオル兄上が生まれた時にご自身の専属従者にオル兄上を託しそれ以降専属従者を置かなかった」


「そ、そういえばお父様には専属がいません」


「今も龍王付きの従者は数多い。ただ主要従者こそいるけれど、その主要従者達に対しては皆平等に接しているみたいだね」


「……どこかの家が、一強にならないようにですか?」


「まあ、あくまで僕の推測だけれどね」



スワルゼ家が圧倒的な力を持っていた龍貴族家。

父の行動によりスワルゼ家の影響力はやや落ち、代わりにリガルドやユイガの力が増した。

オルフェルにスワルゼ家、イェランにリガルド家、アラムトにユイガ家からそれぞれ専属が選ばれ龍貴族の頂点は3家に分かれる。

それでも王太子たるオルフェルにスワルゼ家の専属を据えたのは龍王なりの配慮だろうとアラムトは言う。

オルフェルがいずれ王となった時、オルフェルがその専属にスワルゼ家を求め続けたならばスワルゼ家の地位は元通り筆頭になるのだ。

ただスワルゼ以外の専属従者という前例ができたため、リガルドやユイガもまたスワルゼ家にとって決して無視できない家格となった。緩やかに、しかし偏りすぎていた権力を少し崩すことこそが龍王の目的だったのかもしれないと、そう告げたアラムト。一方のメイリアーデは、専属従者そのものがスワルゼ家からしか選ばれていなかったという事実を初めて知ったこともあり、驚きで声を出せずいた。

しかもそのような体制になったのはメイリアーデの想像よりもうんと最近の話だ。それではまだ貴族達も混乱の最中だろうと、やっと国の情勢を理解しはじめる。



「けれどそんな父上の読みにも誤算が生じた」


必死に頭を整理していたメイリアーデの耳にそれが届いて、思わず顔が上がる。

アラムトの目を見つめれば、ふいにアラムトは視線をメイリアーデから外し何かを回想するよう上を見た。



「ラン兄上が覚醒して才の龍と騒がれ始めた頃、僕はまだ生まれていない。だから当時の状況なんて僕には人から聞いた話からしか分からなくてね。ただ、僕が生まれ物心ついた頃にはもう兄上達の派閥闘争は起きていたように思う」


「……王にどちらが相応しいか、ですか?」


「そう」


スワルゼ家の一強を少し崩し、緩やかにその力を他家にも回るよう采配していた龍王。

しかし、ここでその龍王も想定していなかった事態が起きた。

それが次男イェランの才の龍覚醒だ。



「父上が愛し選んだ母上はリガルド家出身、オル兄上と王権を争うラン兄上の専属もまたリガルド家のナサド。スワルゼ家はこの事実をどう思うかな」


「それ、は」


「あくまでスワルゼ家優位なままリガルドとユイガの地位を上げて力関係の調整をかけようとしていたけれど、ここにきてどうにもリガルド家が目立つようになる。スワルゼ家にとっては気が気じゃなかっただろうね、リガルドを脅威に感じても仕方がない」


「……待って、下さい。では、私の番としてあれほどリンゼルがルイを推していたのは」


「そう、気付いたね。おそらくはだけれど、君の番にルイが選ばれればスワルゼ家の地位が安泰になると考えたのだろう。だから何としてもルイを選ばせようとした。ただ、君の有力候補として挙がっていたのはルイ以外ではロンガとナサド。どちらもリガルド縁の者達だ」



アラムトからの言葉でメイリアーデは完全に沈黙する。

知らぬ間にメイリアーデは自分が火に油を注いでしまっていたのだと気付く。

アラムトはあくまでもメイリアーデに責任はないと言う。客観的に見てただただタイミングが悪かったのだとメイリアーデもそう思う部分はあった。

しかしスワルゼ家を追い詰めてしまった一因に自分は間違いなく関わっていると言わざるをえないのだ。

ずっと抑えてきたであろうものが、メイリアーデの番問題で一気に噴出してしまった。

スワルゼ家だけの責かと問われれば、是と言える自信など当然ない。

それでもアラムトは気落ちして俯きがちになるメイリアーデに首を振った。



「スワルゼ家にも事情はあっただろう。気付いていながら支えきれなかった僕にも責は当然ある。責めは受けるべきだし省みなければいけない。けれどね、それでもスワルゼ家の行いを僕達が許すわけにはいかないんだよ」


それは初めてアラムトが示す明確な意思なのかもしれない。

今までどちらかと言えば中立的で何が良いか、何が悪いかアラムトははっきりと意見を述べることが少なかった。

メイリアーデに数々の助言はくれるものの、自分の意見や答えは極力言わない人だったと思う。

だからメイリアーデはアラムトの吐き出した言葉にただただ驚いて見返すだけだ。

「どうしてそこまで」と頭では出ている言葉が口から出てこない。

それでもメイリアーデの思考は正確に読み取られたのだろう、アラムトがメイリアーデの疑問に正しく応えてくれた。



「彼らをここで許してしまったら、ナサドの立場があまりにもない」


「……ナサド、の、立場?」


「事情を抱えていたのはナサドも同じだ。しかもナサドが抱えた事情は僕達龍人を守るための事情だった。それなのに、そのナサドが罰されスワルゼ家が罰されないというのは、道理が通らないだろう?」



メイリアーデは息をのむ。

ここでナサドの名が出るとは思わなかったのだ。

オルフェルやイェランのみならず、アラムトもまたナサドの事情を知っている。



「僕は傍観者だ、何かを成すだけの実力もない。矢面に立つことはほとんどなく、どっちつかずで何か一つを明確には選べない。けれど、それでも、そんな僕にも矜持はあるんだ。曲げてはならないものが、ある」


「ムト兄様」


「……難しいね、何かを守るということは。それが国ともなればなおのこと。僕にも、何かできることはあるんだろうか」



グッと強く握りしめられたアラムトの拳。

優しい声とは裏腹に震える程固く握られたそれに、アラムトが強い感情を押し込めているのだと理解する。

怒りなのか悲しみなのか葛藤なのか、その心情の深くまでは分からない。

それでもアラムトの中にも確固とした信念があることを、メイリアーデはこの日改めて知った。







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