28.変わり果てた目
頭がふわふわと浮いた感覚を覚える。
ここはどこだろうか。考えようとすると、やはり脳がふわふわともやがかって集中できない。
「津村」
その代わり頭に響いたのはメイリアーデにとってとても大事な従者の声だった。
ナサドと、そう声をあげようとしてしかしメイリアーデの口からこぼれるのは別の言葉。
「先生」
ああ、そうか。また自分は夢を見ているのか。
ここにきてやっとメイリアーデは自覚する。
随分と久しく感じる、昔の夢。「先生」と呼ぶことすらどこかぎこちなくなるほどに、どんどんと津村芽衣の感覚はメイリアーデの中から抜けている。そんなことにもやっと気付いた。
ナサドも松木もメイリアーデにとっては大事で切り離せない。彼の本当の姿がどちらなのか、どちらでももうメイリアーデにとって大きな問題ではなくなっている。どちらであろうと大事で今いる彼を大事に思って過ごしたいと、そう思うようになったからだ。そうしてそう思えるようになってからメイリアーデは夢を見ることがなくなっていたように思う。
……このまま、消えていくのだろうか。
津村芽衣というもう一つの自分の名前、もう一人の自分が心から愛した優しく穏やかな恩師、友達と馬鹿なことをやりながら笑った日々の記憶。メイリアーデとして生きる時間が増すごとに一つずつ抜け落ち、やがて自分は完全にメイリアーデとして生きていくことになるのかもしれない。
それはとても寂しいことだとメイリアーデは思った。メイリアーデにとってそうなることが自然なのだと思っても、今の自分は前世の自分を無しには成り立たない。
「先生、私本当は気付いていたんです。先生がいつだってどこか遠くを見ていること。先生の望む場所は、ここじゃないって」
「津、村……お前」
「知らないふりをして、もしかしたらそれでもいつかはこっちを向いてくれるかもしれないって傲慢に期待して、先生の都合も考えずいつだって突撃していたような気がします。先生にとっては迷惑でしかないのに」
「っ、違う! 迷惑だなどと思ったことはっ」
……メイリアーデにとって、これは記憶にない会話だ。
人気のない、夜の保健室。
なぜこんなシチュエーションで芽衣が松木と2人きりいるのか分からない。
制服を着て、明かりもつけず、お互い立ったままいつになく真剣に会話を交わすこんな思い出はメイリアーデの中には残っていない。
それでもメイリアーデは、いや、芽衣は松木から発せられる言葉にとてつもない喜びを感じ笑顔を見せる。
それは何故だかどこか痛さも含んだ歪な笑みではあったが。
「松木先生。私に多くの希望を与えてくれて本当にありがとう、こんなに幸せに笑える自分を与えてくれてありがとう。私、先生に会えて本当の本当に良かったです」
「津、村」
「……もし、もし本当に先生が私のこの想いも全部含めて迷惑だと思わずいてくれたのならば。一つだけ、約束をしてくれませんか?」
ああ、これはもしかすると別れの挨拶なのかもしれない。
津村芽衣と松木先生が出会う最後の時。
どういった経緯で別れたのか、メイリアーデは覚えていない。
わずかな日常しかメイリアーデの中には残っていなくて、津村芽衣としての最期も松木との最後の瞬間も知らないままここまで来た。
しかしどうやら、津村芽衣はちゃんと松木に「さよなら」を言えたらしい。
「……約束?」
「私……」
……その後に告げた言葉は一体何だったのだろうか?
別れ際、これが最後だと知りながら津村芽衣が松木にお願いした約束は何?
知りたいのに、目の前の松木は薄くなり白くなっていく。
芽衣の頬に流れる涙も、体中震えるほどに沸き上がる気持ちも、ゆるゆると白い景色の中に溶けていく。
それでも、芽衣は最後の最後で松木と大事な約束をしたというその事実だけは消えずに残った。
その内容を、思い出したいと無性に思った。
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「ん……、せん、せい」
「……お気づきになられましたか、メイリアーデ姫様」
意識が浮上する。
頭は相変わらずふわふわと浮いていて、視界の隅は白い。
ぼんやりとする頭の片隅で、誰かに声をかけられた気がする。
ここは、どこだろうか。
そう思考が回るまでずいぶんとかかった気がした。
「メイリアーデ姫様」
もう一度、名前を呼ばれゆるりとメイリアーデの脳は活動を開始する。
白く明るい部屋、見覚えのない天蓋。
ほのかに甘ったるい花の香りがする。
視線を声のする方へと向ければ、どこかで見たような顔が映った。
「私が分かりますか? ルイにございます」
ルイ。
そういえば、そのような名を聞いたことがあるような気がする。
綺麗な笑顔を浮かべ、色とりどりの花に囲まれた、貴族らしい貴族。
ナサドには少し厳しい対応をするが、貴族としてどうあるべきか考え動くそんな。
と、そこまで思考が戻りメイリアーデはハッと我に返った。
「ナサド!!」
そう、意識を閉ざす前に目にした力なく倒れるナサドの姿。
そうだ、自分は何者かに襲われナサドの体に明らかな異常が起きていた。
ナサドは無事なのか。思い出すと、自分の体などどうでも良く感じてしまう。
バッと勢いよく起き上がるメイリアーデ。ぐらりと視界が歪むのはすぐのことだ。
「姫様、どうかご安静に。2日も目覚めなかったのです、無理はなりません」
「で、でもっ、ナサドが!」
「なりません。あの男の心配など無用です」
必死に寝台から飛び出そうとするメイリアーデを、硬質な声でルイは諫める。
強く肩を押されれば、歪んだ視界はさらに渦巻き起き上がっていられない。
あの男。ルイがナサドをそう呼んだ違和感に気付くのはやや置いてからだ。
いくらナサドを嫌い警戒していたからといえ、そのように乱暴に言うことは無かった。
厳しく冷たい語気で接していたが呼び捨てにはしていなかったし、一定の敬意も払っていたように思う。
そこで初めてルイに視線を移したメイリアーデは、ルイのその眼光の鋭さに驚く。
「ルイ……? 貴方、どうしたの。何が」
「……姫様が襲撃を受けたと聞いた時、生きた心地が致しませんでした。このようなことになるならば強引にでももっと早くあの男を貴女様から引き離すべきだった」
「何を、言っているの?」
「イェラン殿下だけでは飽き足らずメイリアーデ姫様まで連れ去ろうとするとは、ナサドは正に悪の権化だ」
耳に届いた言葉にメイリアーデは絶句した。
今、ルイは何と言った?
ナサドがメイリアーデを連れ去ろうとした?
そのようなわけがない。ナサドはあんなに苦しそうにしながらもメイリアーデを守るため動いてくれた。
「待って、何を言っているのルイ? ナサドは私を助けてくれようとしたわ。ねえ、ナサドは無事なの?」
「姫様はあの男に洗脳されておいでです。姫様を襲撃した一味が首謀者の名にあの男を挙げた、皆一様に口を揃えてです」
「ナサドはそんなことしない!」
「……姫様」
まるで言葉が通じる様子は無く、メイリアーデの言葉はルイに届かない。
メイリアーデが真実を告げれば告げるほど、ルイの顔は険しくなっていく。
「賊とあの男が繋がっているという証言もあるのです、間違いありません」
「有り得ない。ナサドは明らかに毒で体が弱っていた、倒れた瞬間を私は見ているわ」
「あの場で毒で倒れた者など誰一人確認されておりませんよ。姫様は信を置いた者に裏切られた衝撃で記憶が混濁しておられるご様子……助けが間に合って本当に良かった」
……おかしい。
明らかにメイリアーデの記憶とルイの証言は矛盾している。
まるで会話がかみ合っていないように感じた。
ナサドを信頼しているメイリアーデとナサドを信用できないルイ。
その違いがこの認識の違いを生んでいるのだろうか?
メイリアーデがナサドを庇えば庇うほどルイからは憐みの眼差しを向けられる。
まるでメイリアーデがナサドから洗脳を受けおかしくなっているのだと言わんばかりに。
「ルイ、貴方がナサドを信用できないのは仕方のないことよ。それを責めるつもりもないわ。けれど今回に関しては絶対に違う。ナサドは無実よ」
「姫様はとても慈悲深いお方だ。それゆえ私は姫様のお心を踏みにじったあの者が許せない」
メイリアーデが宥めるようにナサドの無実を訴えても、ルイはいつも以上に強い語気でナサドを否定し続けた。
一度たりともその名すら口にしない。目に宿っている感情は明らかな怒りと軽蔑。
しかしルイにそこまで言われてもなお、メイリアーデの中に残ったのは違和感しかない。
メイリアーデを襲ったという賊は、ルイの話によると10名強の集団だったそうだ。
百人規模の護衛を連れていたメイリアーデを襲うには少々心許ない数に思える。
龍人の護衛に選ばれた者達は弱くない。むしろ選りすぐりの兵達で、そんな優秀な兵相手に10名強という数はいくら何でも無謀だろう。リガルド家に生まれ軍部に詳しいナサドが知らないわけがない。
そもそもナサドがメイリアーデを害するつもりならば襲撃などしなくとも機会はいくらでもあったはずだ。
メイリアーデは分かりやすくナサドに信頼を置き2人きりになることだって多かったのだから。
冷静に考えてみても、ナサドを犯人とするのはやはり無理があるように思えた。
しかし、それでもルイにとってナサドはもう確定された悪なのだろう。
メイリアーデの言葉に首を振り続け、懇々とメイリアーデに説く。
「確かに姫様の仰る通り、数は圧倒的に護衛に分が御座いました。しかし現場は騒然としており混乱状態だったと言います。詳しく事情を聞けば、賊は随分と此度の護衛達の陣形や特徴を理解し攻撃してきたとのこと」
「……ナサドが情報を漏らしたとでも?」
「そうとしか考えられません。それに賊が使用した武具、催涙弾や煙幕といった類のものは我が国では馴染みないもの。それを使いこなせる者とて限られているはずです。……誰ならば可能なのか、それは限られております」
怒りと憎悪を隠すことなく言葉を吐き出すルイには、もうナサド以外の犯人など存在していないのだろう。
他の可能性を全て排除し、目の前の状況も証言も全てナサドが犯人であることに結びつけて話している。
確かにルイの言うことに一理ある部分もあるのが何とも厄介だ。
メイリアーデが「違う」と断言する根拠は、残念ながらルイがナサドを犯人と判断したのと同じ程度のものしかない。あくまでも客観的に見れば、だが。
ナサドの人となりを知り共に過ごしてきた時間を思い返し、だからこそ有り得ないとメイリアーデは確信している。しかし他者を納得させられるだけの物的証拠など何もない。信じてくれと言うだけでは難しいだろうことはメイリアーデ自身分かっていた。
それでも、それでもだ。
「ルイ、どうか落ち着いて。私の話にも少しだけで良いから耳を傾けて欲しいの。確かに貴方の言うことも道理はかなっているかもしれない。けれど私を助けようと必死に動いてくれたナサドが犯人とはやはりどうしても思えないわ。他の可能性も考えて調べることは出来ない?」
「姫様、しかしあの者は!」
「もし仮にナサド以外が犯人ならば、早く見付けなくてはいけないわ。私を狙った理由は分からないけれど、龍人を狙った犯行なのだとすればお父様やお兄様達が危ない」
もし。仮に。
そのような言葉を本当は使いたくなどなかったが、これくらい言っておかなければ聞き入れてくれないような気がした。なるべく声を落ち着けて、ルイが聞き入れやすい様言葉を選んでメイリアーデはルイに問いかける。
……もしナサドが所謂スケープゴートとなっているのならば、ナサドとて危ない。
メイリアーデの中で大部分を占めているのは、ナサドの安否に対する不安だった。
お願い、どうか無事でいて。
メイリアーデは内心焦りながら、ひたすらにそう願う。
そしてそんなメイリアーデの様子は、ルイにとってナサドを嫌悪する材料としかならなかったようだ。
「……お労しい。姫様は、そこまであの男に洗脳されておいでか」
「ルイ」
「父上の言う通りだ。少々手荒であろうとも、姫様をお救いするにはこれしかない」
「……ルイ?」
何かがおかしいとメイリアーデが思ったのは、ルイの声が低さを増したあたりから。
平坦な、温度を失った彼らしからぬ声に、メイリアーデの中で何かが震える。
「姫様、どうぞご安心を。貴女様の御身は私が守ってさしあげます」
ルイの目とメイリアーデの目が合わさる。
どこか異様な空気を発するルイの笑顔に、メイリアーデは寒気を覚えた。
どろりと、その目の色が濁っているように見えるのは気のせいか。
メイリアーデの知るルイとは明らかに様子が違う。
思わずメイリアーデはルイから距離を取るように後ずさる。
寝台の上、ルイのいない方へと身体をじりじりと寄せればルイはまた小さく笑った。
やはりおかしいと、疑いが確信に変わる。
しかしメイリアーデの思考が正常に働いたのは、ここまでだ。
「さあ、メイリアーデ姫様。少しお休みを」
「そのようなこと言っている場合、で、は…………うっ」
「じきに気分も落ち着きましょう、お休みなさいませ」
「ル、イ……なに、を」
頭がぼやける。
視界が真っ白にはじけ、思考が溶けていく。
身体の感覚は遠のき、やがてなくなった。
ほのかに香ったのは、ずいぶんと甘ったるい匂い。
まもなく意識は地面に吸い込まれていくように、深く沈んだ。




