堕ちる、偽りの空
疲れが泥のようにまとわりついていた。
ケンは疲れ切った身体を引きずって、本拠地である迷宮都市へ辿りつく。
つい三か月前までは多くの人々が行き交い賑わっていた迷宮都市。
その面影は既になく、寒々しい空気が流れているだけだった。
人影を見つけたとしても、それは全て、いつ敵の襲来が来ても良いようにムートンが配置した魔導人形のみ。
その間を数台の馬車が過り、出口の門を潜ってゆく。
猫の子一匹みつけられない寒々しい街を、ケンは屋根から屋根へ飛び移って進んでゆく。
そして街の中心に聳えるシャトー家の本拠地:カベルネ城の、巨大な城壁の上へ静かに降り立った。
「お帰りなさい。お疲れ様でした、ケンさん」
この城と都市の主である第1973代シャトー家当主ムートン=シャトーが静かに労いの声を掛けて来る。
かつてのように彼女を取り囲む無数の従者の姿は無かった。
「ただいま。ここも随分と寂しくなったな」
ケンが視線を閑散とした街へ落とすと、ムートンは苦笑いを浮かべた。
「先ほど最後の馬車が出発しました。これでここに残っているのは私達と警備のホムンクルスだけですよ」
いつ敵がシャトー家の中心地である迷宮都市へ侵攻してくるか分からない。
もし戦闘になれば多大な犠牲が生じる。
そう考え、住民の生命を第一に考えたムートンはここ一か月の間に、住民へ迷宮都市からの退去を勧告していた。
住民も危険を察知してか、我先にと去って行き、今や迷宮都市はゴーストタウンと化していた。
二人は無機質なホムンクルスだけが警備する、広くて静かな城の中を進んでゆく。
そして書類や書籍が乱雑に積みあがったムートンの執務室へ入った。
ケンがソファーへ腰を据えると、ムートンはその正面へ腰を据える。
柔らかく心地よいソファーに座しても、彼らの表情は強張ったまま、微塵も緩みはしなかった。
「メールはどうでしたか?」
ムートンはケンが急行した街の名前を口にする。
彼は険しい表情のまま、静かに首を横へ振った。
「元奴隷兵士達とモンスター共に挟撃されてな。手遅れだったよ。できることはしてきたけどな」
「そうですか。お疲れ様です。ありがとうございました」
「そっちの状況は? 包囲網は今どうなってる?」
ケンは懸念事項である”包囲網”のことを聞く。
「かなり厳しいですね。ここ数日でバエルから更に増援が来たと報告されています。正規兵や元冒険者達からも諦めの声が沢山上がっていますし、奴らは着実にこちらへ向かって来ているようです」
ケン達が暮らし、シャトー家の本拠地がある大陸は、もう一つの巨大勢力:オーパス家と分断するためか、グリモワールの放った飛竜を主としたモンスターの包囲網に覆われていた。
奴らの目的はおそらくこの迷宮都市。
「参ったな、そりゃ……」
二人はそれっきり押し黙る。
執務室に寒々しい静寂が訪れた。
三か月。
たったそれだけの期間で、この世界は秩序を失い、混沌の渦に飲まれていた。
開戦当初はシャトー家の正規兵や、ギルドに所属する冒険者たちも、こぞってこの世界を守ろうと戦いに身を投じていた。
しかし敵は凶悪なモンスターで、しかも序列迷宮が存在する限り、無限にそこから湧いて出る。
訓練された兵士達も、屈強な冒険者たちも、立ち上がった一般市民さえ、グリモワールが世界に放ったモンスター共は殺し、喰らってゆく。
結果としてギルド制度は崩壊し、唯一今でも戦い続けているのがケン達のみ、という最悪な状況になっていた。
「早く終わらせたいですね……バエルさえ落とせれば……」
ムートンは声に疲れ滲ませ呟く。
本来ならば世界を二分するシャトー家とオーパス家が手を組み、一気に攻め込めばこの状況を覆せるかもしれない。
しかし現状、シャトー家のある大陸と、オーパス家のあるカフォルニア島はグリモワールの放ったモンスターによって完全に分断されていた。
この世界の連絡手段と云えば、早馬を飛ばすか、鳥を飛ばすあたりである。
大陸がモンスターに囲まれている以上、そうした連絡手段は使えない。
行くことは疎か、連絡さえ取れない状況で、団結を図るのは難しいと言わざるを得ない。
実際、オーパス家が無事かどうかも確認が取れていない状況だった。
「やはり私達だけで攻め込むべきでしょうか?」
ムートンは何度も口にした答えの一つを提示する。
しかしケンは決して首を縦に振らない。
その案は最も手っ取り早いが、決定的な力がかけているケン達にとっては愚策以上の何物でもなかった。
確かにムートンの云う通り、グリモワールが拠点とする一位迷宮バエルへ攻め込み、混乱の原因であるDRアイテム「黙示録ノ箱」を奪取し、破壊してしまえばこの混乱に終止符を打つことができる。
しかしバエルの存在する北の雪原地帯は強力なモンスター軍団で鉄壁の守りを敷いていた。
例え単機で数千の兵力に匹敵するケン達が飛び込んでも、バエルへ潜入するどころか近づくこともできない。
更に敵の攻撃は日増しに強さを増している現状。戦力を集中させようにも、暇も無く敵の攻撃が相次ぎ、その対応で手いっぱいなのが正直なところであった。
――何かもう一つ大きな力さえあれば……
敵の包囲網を突破し、敵の本拠地へ攻め込むだけの十分な戦力が無い。
シャトー家自慢の飛竜やホムンクルスのみでは十分な戦力とは言えない。
正規兵や冒険者は現状に絶望し著しく士気を低下させているのだから、彼らの協力を取り付けるのは現実的ではない。
対する敵は無尽蔵なモンスター軍団に、無法者と化した元奴隷兵士達。
考えれば考えるほど、敵の戦力の方が圧倒的に上回っていた。
――いや、何かあるはずだ。きっと、この状況を覆せる何かが……
だがいたずらにこの状況を続けていては、世界は確実にグリモワールの手によって破滅を迎える。
それだけは絶対に阻止しなければならなかった。
ケンは奴隷兵士という最悪な形でこの世界に呼び出された。
しかし同時にこの世界は彼が愛する彼女達と出会い、幸せを誓い合った地だった。
彼女達の未来のためにも、この世界を破滅させるわけにはいかない。
この状況を覆す手段が他にある筈。
そう信じて彼は思考を続ける。
ふと、甘い香りが鼻をかすめた。
「お疲れ様です、ケンさん、ムーさん。お菓子焼けたのでちょっと休憩にしませんか?」
気づくと盆に焼きたてのクッキーと、ティーポットを乗せたラフィがにこやかに佇んでいた。
「そうだね。ケンさん、頂きましょうか?」
ムートンも緊張感を解いて、柔らかに聞いてくる。
ケンは力を抜いてソファーへ深く座りなおす。
「ケン、ムー! 大変!」
突然、城の上で警備に当たっていたリオンが飛び込んできた。
執務室の空気が一気に引き締まる。
「赤いゴワゴワ来てる! 早くッ!」
ケン達は一切の疑問も持たずに執務室から飛び出した。
遮二無二城の中を駆け、そしてカベルネ城の城壁の上へ向かう。
「あれは……?」
ムートンは空を見上げ、そして声を震わせる。
魔力によって強引に外から無理やり空を切り取り、映し出されている偽りの空。
その向こうに真っ赤な渦のようなものがみえた。
それは次第に近づき、空を目一杯覆う程、巨大化する。
そして空が落ちた。
偽りの空が赤い渦によってぽっかりと穴が開けられた。
穴の向こうでは真っ赤な本物の夕日が見え、真っ赤な光りの柱を迷宮都市に差し込む。
まるでその柱を伝うかのように、瓦礫と共に巨大な人型の何かが迷宮都市へ降り立った。
赤紫色をした不気味な巨人。
羊の頭に禍々しい角を生やした風貌は、タロットカードなどで見る、バフォメットそのもの。
巨大な悪魔を彷彿とさせるモンスターは、鈍重な足音を響かせながら、ケン達のいるカベルネ城へ向けて歩き始めた。




