風を見た人(2)
フェオドット青年の歩みはこころなしか重たかった。
それは飲み水をスクヴェッタの池から持ってきたからではない。
白い霧が晴れて広がった景色がどことなく濁っているのだ。
今歩いている丘陵地帯には目立った森や林は無く雨宿りのあてが見つからない。
それならあの水の精霊の林に戻るのが得策な気がして後ろ髪をひかれていたわけだ。
そしてもう一つ気になることもあった。
「ルドゥーシュカ。〈契約者〉ってなんなんだ?」
「うるさい。それぐらい、自分で調べたら?」
「調べられる状況にあればな。それにいちいち喧嘩腰なのやめろよ。リュオスに着くまでは一緒なんだからさ」
棒きれの先でフェオドットとともに揺れるランタンは相変わらず口が悪かった。
「別に頼んでませんーっだ! ボクだっておまえを〈契約者〉にした覚えなんか……。あっ! そうか!」
精霊の声は爆ぜる炎のようにはっきりとして高い。
「おまえ、ボクの願いを叶えただろう!」
「願いだって? おまえ、人にものを頼めるような性格をしていないだろう?」
「はあ? いちいちつっかかってくんなよ! ボクの言うとおり馬鹿正直にあの瓶から出したくせにさ!」
「出せって言うから気の毒に思ってだな……! あっ、そうか!」
「そうだよ!」
フェオドットは合点がいった。
ルドゥーシュカをかわいい人形だと思って手助けをした結果が今なのだ。
「その〈契約者〉ってのは、精霊の願いを叶えた人間がなれるものなのか! へえ! ……しかし」
彼は棒きれを手前に持ってきてランタンの中を覗き込んだ。
「なんでスクヴェッタは人と同じ大きさでおまえは小さいんだ?」
「うっわ。傷ついた。謝れよ」
フェオドットの黒い瞳に向かってルドゥーシュカが赤い髪を逆立てた。
昼の光に透けると毛先が黄金色に輝き、さながら燃え盛る炎のようだ。
「えっ。質問しただけなのに?」
「ふん」
いじけた精霊の入ったランタンを再び肩に担ぐ前にふわりと景色が開けた。
会話のために足を止めていたはずなのに、と青年は背筋を凍らせた。
なぜなら彼のつま先に突然崖が現れたからだ。
上には真っ青な空が、下には真っ黒な森が広がっている。
道を間違えたのか? 思わず後ずさった青年の背中に、何かがぶつかって語りかけてきた。
「ようこそようこそ、風の丘へ。あなたが行きたいのは、こっち、あっち、どっち?」
「常昼の国リュオスに向かっているところだ」
「ああ、そっちね」
「知っているのか? じゃあ教えて――!」
振り向いた青年は絶句した。
確かに暖かな何かにぶつかったはずなのだが、そこには誰もいなかった。
フェオドットは前にも後ろにも動けなくなってしまった。
しかし、声の主は露ほども気遣ってくれない。
「ではでは、暇つぶし。楽しい謎かけ、答えてちょうだい。わたしの気分が変わる前に」
陽気な物言いがかえって怪しさを誘う。
相手の気分を損ねてはいけない。青年はこわごわ尋ねた。
「暇つぶしにつきあいたくはない。けれど、君の気分が変わったらどうなるんだ?」
「あすこらへんの、雨雲ちぎって遊びたい。そんな気分がむくむくしてる」
えっへん、と胸を張らん勢いで投げられた答えにルドゥーシュカも負けなかった。
「それはダメ! おまえ、絶対に正解するんだぞ!」
小さな道連れがむきになる理由をフェオドットは一瞬で悟った。
「おまえ、雨風が相手じゃあ、死んじまうのか?」
炎の精霊がめずらしく無言で答えた。どうやら正解らしい。
それを目に見えぬ女が笑い飛ばした。
「まあまあ何かと思ったら。エルドゥールの小さな子! ホントに消えるかどうなのか、試してみたいそうしたい」
からからと笑う声がかえって残忍そうに聞こえて青年は胃のあたりがカッとなった。
命を軽んじることは許されない。ましてや、遊びのためになんて! 腹の底から燃える感情が何かはわからなかったが喜びでないことは確かだった。
「なぞなぞいくよ。誰の目にもとまらぬ速さ、隙間を縫うのが大得意。物を壊すの大好きで、後片付けは大嫌い。誰もが知ってる喉自慢。体は香りにすぐ染まり、何をするにも気まぐれさん。だけど昼夜の関係なく、全く休まぬ働き者。さて、なーんだ?」
軽妙でともすれば小馬鹿にしているような口調だった。
フェオドットは棒きれごと両腕を組んだ。
目にもとまらぬ速さで隙間を縫う。
物を壊しては素知らぬ顔をして去ってゆく。
それを責めれば、にゃーんと甘い声で言い訳をするし、腹に顔をうずめればお日さまの香りがする。フェオドットの言うことはきかないが、弟には常に連れ添っている気まぐれ屋。
フェオドットにはすぐに思い当たった。
「猫だ!」
「はずれっ」
「どうして? ほとんどあてはまるだろう」
「はずれは、はずれさ。あたってない」
その声は近づいたり遠のいたりする。
透明な存在はどうやら位置を変えているようだ。
青年は一歩踏み出して崖から少しでも離れようと試みながら頭をまわした。
気まぐれなところまでは猫に当てはまったが、昼夜を問わず働く点が違ったようだ。
では、なんだろう? 生き物じゃないのか?
そのとき、おしゃべりな小鳥が独り言をまきちらしながら、どこからともなくやってきた。
フェオドットは天を仰いだ。
その上をナイチンゲールがすいすい泳いでいく。いや、泳いでいると言うにはあまりにも忙しなく羽ばたいて、何かを求めて溺れているようにも見える。その姿が、先日池で溺れかけた自分と重なった。普段気にも留めない空気が、あんなに恋しいなんてな。
そう考えて、青年はピンときた。
小鳥がもがくその理由とは。
「なあ、君」
「わたしのことかな?」
「ああ。俺が正解したら、ちゃんとリュオスのほうへ道案内をしてくれるんだろうな?」
「はいはい、もちろん。そっちのほうは、ご安心。嘘はつかない、お墨付き。でもでもしかし、飽きちゃう前に」
小気味良いリズムに乗せて女の声が承諾するのに、フェオドットは確信を持った。
「答えは、君だ。もしくは、風」
「はあ? おまえやっぱり馬鹿だろ!」
ランタンのルドゥーシュカがちかちかと爆ぜているとその光が何かに包まれた。
青年の棒きれをふわりと持ち上げたのは、羽毛に包まれた細長い両手だった。
「あたりっ」
そう言う口は鳥のくちばしに似ていたし、笑うたびに揺れるまだらの髪はよく見ると全てが風切り羽だった。彼女は三つ又に分かれた両足をばねにして器用に宙返りをした。
「素晴らしい、君の〈契約者〉! うらやましくてなぞかけしたが、いじわる回避、頭もよい!」
「ああああ! やめろ! 目が回るっ!」
炎の娘が振り回されるのを気の毒に、そしていい気味だと思いつつフェオドットは口を開いた。
「俺はフェオドット。風さん、リュオスはどっちだい?」
「わたしは風のヴィンドゥール。名前は可憐なゴーラちゃん。リュオスは道行くそっちのほう。土の匂いがしているほう」
指さすついでに、ぽい、と棒きれとランタンが放り出されたので、青年はタイミングよくそれを受け止めた。中では小さなルドゥーシュカがへたり込んでいる。
「ありがとう。道なりに行けばいいんだな」
「ノンノン。それは大間違い。風の一族、気まぐれさん。看板全て裏返し。矢印上下、みぎひだり。よくよく嗅いで、土の匂い」
ゴーラはそう言うとたっぷりの空気を体に吸い込んで再び透明になった。
だがフェオドットには彼女がどこへ行ったかすぐにわかった。
あたりを覆っていた薄気味悪い雲が晴れ、優しい日差しが訪れたからだ。
読んでくださってありがとうございました。
次回更新は、明日21時ごろです。
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