水の反映(3)
「君、ルドゥーシュカ、だっけ? そもそも〈きらきら〉って何なんだ?」
一本の道を歩くフェオドットがふと疑問を口にしたのが始まりだった。
「はあ? ボクが知るわけないでしょ」
青年は遅まきながら旅の連れが最高に不親切な人間だと気付いた。
「ていうかボクをリュオスに連れていくことぐらいリュスラーナなら簡単にできちゃうのになんでおまえみたいな知らない奴と旅なんかしなきゃならないのさ! 大体さぁ、〈きらきら〉とか言っちゃって。美点とか、長所とか、なんだかよくわかんないけど。いつも定まってないし!」
正確には炎の精霊か、と彼が思いなおす前にルドゥーシュカという名の精霊娘は子どもっぽい声でどんどんまくしたてる。
ヒントを得られたが青年は気落ちした。
「長所? ……俺には無いな……」
彼はこっそりと心の中で自分を卑下した。
容姿端麗でも頭脳明晰でもなければ肉体に自信があるわけでもない。
極めて普通、あるいは普通よりも劣る人間だという自己評価を持っていたからだ。
そんな兄を故郷に置いてきた弟は盲目的に慕ってくれている。
フェオドットにはそれがいつも不思議でたまらなかった。
「見るからに無さそうだよね」
「うるさい」
白い霧に包まれてから、道なき道を行くのでは、と危惧していたのに、道は親切にフェオドットの手前でどんどん生まれていく。
空の色も見知った青で雨も降っていない。
地図を見ても、今どこにいるのかは見当がつかない。
しかし肉体は正直だった。
どれだけ歩いたかはわからずとも疲労感だけは彼に訴えている。
そろそろ休憩すべきであると。
そう思った瞬間に林が見えてきた。
林があるならば、と青年は思った。
「せせらぎがあるかもしれない。休んでいこう」
「やだ。ボクは平気」
棒きれに振動が伝わってくる。
ルドゥーシュカが抗議にランタンを振っているのだ。
「俺が疲れたんだよ」
「人間って弱いね」
「ここに置いていくぞ」
「やーだー!」
生意気でわがままで天の邪鬼な道連れに嫌気がささないと言えば嘘だ。
けれども彼女を常昼の国リュオスで回復させなくては望みの品―魔法のランプを手に入れることができない。
そもそも精霊が濡れるきっかけを与えたのはフェオドットなのだ。
そう考えるとうるさい小娘よりも己の浅はかさのほうが嫌になる。
そうしているうちに清涼な空気とともに池が旅人たちを迎えてくれた。
青年は思わず荷物を放り出した。
背後でがしゃんとランタンが落ちる。
「いたっ! もっと丁寧に置けよな!」
「後で戻してやるよ」
ルドゥーシュカの悪態を流したフェオドットは湖畔に膝をついた。
水底が透明で藻すら浮かんでいない。
両の手のひらで掬ってみるとひんやりと冷たかった。軽く舌をつける。苦味もなく柔らかだった。
「飲める……!」
清らかな水辺が険悪な雰囲気一瞬で拭ってくれた。
フェオがそう思った矢先のことだった。
「あのう……」
遠慮がちな声に青年が顔を上げると水の中に長い髪の娘が一人立っていた。
「ご、ごめん! いるって気付かなくて!」
いつからか水浴びをしていたらしい娘からフェオドットが驚きのあまり身を引くと彼女は申し訳なさそうに言った。
濡れている素肌がつややかに光を跳ね返している。
「旅のかた。どうか助けてくださいませんか」
「着替えなら取ってきてあげよう。足がつったのなら手を。それかすぐに離れるのも結構。それじゃあ」
フェオドットが顔を染めて早口になるのを娘が遮る。
「違います。あそこを見てください」
青白い指先が池の底を指し示す。
水底にはきらりと輝くものが一つ落ちていた。
「大切な指輪を落としてしまいました。取ろうと潜り続けているのですが私は泳ぐことができないのです。旅のかた、どうかあれを取ってくださいませんか?」
なんだ、そんなことか。
青年はほっと胸を撫で下ろした。
「俺でよければ」
不安げに手を組んで頼んでくる娘が不憫に思えて、フェオドットはうなずいた。
湖の国に生まれた彼に泳ぎに対する苦手意識は無かった。
青年は防寒具を脱ぎ、濡れてもよい格好になると、そのまま池に体を沈めた。
透明度の高い水の下に虹色に光る粒がある。
あれを取ってくればいいんだな。
胸にたっぷりの空気を集めてから潜った。
頭を下にし、腕を伸ばして掻いてゆくけれど、虹色は近づかない。
むしろ、どんどんと遠のく感じがした。
鼻から少しずつ出していた空気が底をつきそうになったので息継ぎをしようとした。
そのときだった。
何かがフェオドットの足首を掴んだ。
驚いたせいで喉からも空気が漏れて水を飲んでしまった。
手足をばたつかせて逃れようとするが掴まれた足ごとフェオドットは水底へと引きずられそうになる。
そうか。青年は遅まきながら気付いた。
あの娘はこの池そのものだったのか。
「馬鹿じゃないの!」
遠くなる意識の中で、フェオは何かを聞いた気がした。
***
水を吐きながら咳き込むという息苦しさとともに、青年は目覚めた。
苦しみから解放されるために苦しむとは。けれども、肺に空気を送り込めている事実が、彼に生を実感させた。
気付けば、彼の近くにはたき火が起こされていた。その薪の上には我が物顔で座る小人がいる。
「あ、あの子は? ルドゥーシュカ、おまえ、なんでランタンから出て―?」
「おまえ、ホント馬鹿だ。おまえを殺そうとした奴の心配するなんてさ」
「うんうん」
青年は、変わらない減らず口がまた聞けて、なんだか涙が出てきた。
「あと、雑な扱いのおかげでボクが外に出られたっていう、自分の幸運にも感謝しとけ、馬鹿」
「うんうん」
だが、相槌を打ったのがあの水の娘だとわかると、フェオドットは驚いた。だが、冷えきった肉体は思い通りに動かない。
「そうですよ。エルドゥールの〈契約者〉だと知っていれば、私だって取り込もうとは思いませんでしたよ。おかげで池の水位が減ってしまいました」
聞き慣れない単語に答えを探しあぐねていると、ルドゥーシュカが代わってくれた。
「ボクだって、最初からもうちょっと近づいていればヴァトゥンだってわかったのにさ。それにしても、フェオの馬鹿! お人よし! 見るからに怪しかっただろうが!」
「待て、一体何が起きた……?」
鼻に入った水にむせながらフェオドットが問うと、池のふちで顎肘をついている娘が口を開いた。
「私は水の一族ヴァトゥンのスクヴェッタ。まだ〈契約者〉がいないので、あの指輪をとってくれる勇気ある若者を探していたのです」
そう言う少女の色のない髪は、湿った輝きを見せているが、不思議と乾いている。あのつややかだと思った肌には、鱗がびっしりと生えそろっていた。
「でも、人間は潜るのがそんなに上手ではありませんから、お手伝いしたんです。そうしたらあなたは溺れてしまうし、小さなエルドゥールは怒るし……。それでしかたがなく丘に戻してあげたのです」
スクヴェッタはつまらなそうに言うが、青年の肝は冷えるばかりだった。
「あ、あのさ、それで死ぬところだったんだぞ……」
***
魔女の住む場所と違って、この不思議な旅路には昼夜の間隔がきちんとあった。
だからフェオドットは、水底で休む水の娘にびくびくしながらも池のほとりで一夜を過ごした。
目覚めてみて、警戒しつつもしっかり眠っていた自分の図太さに気付いた。
たき火のそばにいたので、体はすっかり乾いて、喉をいがらっぽくしていた水分もなくなっていた。
くすぶっている炭の上ですやすやと眠る赤いルドゥーシュカが火種のように見えた。
朝を迎えると、水の精霊の娘が言った。
「この道を行けば風の丘にたどり着くと思います。私がリュオスに行く近道です。丘に着いたら誰でもいいのでヴィンドゥールに尋ねてみてください。彼らは気まぐれですが、嘘はつきません」
池の中にいる娘へルドゥーシュカが小さな顔をゆがませる。
「それこそ、おまえの嘘じゃないだろうね?」
そう言われてみれば、とフェオドットが体を固くすると、スクヴェッタは水面のように輝く水色の瞳を細めた。
「もちろん。だって嘘は、自分のためにつくものですから」




