第37話 止まれない七海
安アパートの小さな部屋。
美香と夕食を終え、七海は、後片付けをしている。
洗い物を終え、タオルで手を拭く。エプロンを脱ぎながら、七海はスマホを確認する。
文化祭の打ち上げ、カラオケの場で提案されたBBQ。その具体的な内容がグループチャットで話し合われる中、「BBQなんて、面倒なだけだろ」という投稿があった。
——本当に、そうだろうか?
クラスメートとBBQをすることにどのような意味があるか、七海は、論文検索を行う。そして関連する論文(※1-5)を見つけた。七海は、グループチャットに、次のような投稿をしていく。
七海「信頼性の高い論文から、内容の要点を投稿」
七海「共食・共同調理・屋外という3要素が重なるBBQは、協力や一体感を高める。BBQの『みんなで取り分ける・一緒に焼く』行動は、対立を和らげる証拠あり」
七海「世界規模のデータ。誰かと食事を共有する頻度が、幸福・満足と強く関連。因果は限定的だが、共食が幸福の土台になりやすい」
七海「自発的・参加型の屋外会食は、安全性向上に貢献。BBQがクラス内の安全に寄与する可能性」
七海「屋外に出ること自体が、ストレス軽減・主観的健康の向上と関連。BBQはこれ社交と一緒に行える点が強み」
七海「とはいえ、良いことばかりではありません」
七海「まず、BBQからの煙を吸い込むのは健康に悪いです。あと、BBQには、生焼けなどによる食中毒リスクがあります。こうした点に注意すれば、BBQには、面倒でも遂行する価値があると考えます」
クラス内での、七海に対するイメージが大きく変わった瞬間。
七海は、高嶺の花、美少女、お姫様だった。みんなが、七海の魅力的すぎる外見から、そうしたイメージを作ってしまうのは、仕方のないことだ。
しかし、グループチャットは、外見の影響を受けにくいツールである。だからこそ、その人となりが露呈しやすい。
「七海教授! 参加するであります!」
「先生だ。先生がおる」
「教授ー! 参加で!」
「俺も参加する」
「参加」
「煙、気をつけろ係やります!」
「じゃ、俺は生焼けチェッカー」
「藤咲先生! 参加!」
七海のチャットに書き込まれた「藤咲先生」という言葉をみて、七海の心が揺れる。
まず、医師だった父のことが思い出される。
そして、医学を志す自分のことを考える。別に、自分が「先生」と呼ばれたいわけじゃない。ただ、こう呼ばれる違和感は、いつの日か、なくなるのかもしれない。
——今の私は、今だけなんだ。過去の私は、もういないんだ
そう気づいた七海は、急に、御影以外の男子とコミュニケーションをしている自分に、激しい嫌悪感を持った。
今の御影もまた、今しかいない。それを強く意識した七海は、御影にチャットする。
七海「会いたい」
御影「今から、そっちの家、行っていい?」
七海「待てない」
御影「ビデオ通話にする?」
既読にならない。
自宅マンションを飛び出す御影。位置共有アプリを確認する。七海は自宅にいることになっている。
七海のアパートのある方向に、走り始める御影。
七海を探しながら、御影が走る。「七海!」「七海!」。叫ぶ御影。
住宅街の路上、電灯の下、七海と御影が、お互いの姿をみる。たまらず走り寄るふたり。
七海は、スマホを持ってきていないばかりか、靴下姿で、靴さえ履いていない。
七海「蓮くん! 私! 私!」
何も答えず、御影は、七海を強く抱きしめる。
七海「私、他の男の人と、関わりたくない! 他の男の人と、少しも、話したくない! 蓮くんとだけ、ずっと一緒にいたい!」
御影「うん」
七海「一緒に、暮らしたい。蓮くんと、ふたりだけで、暮らしたい」
御影「うん」
それが不可能であることは、わかっている。ただ、そうありたいと静かに願うだけでは、もう、七海は止まれなかった。
御影「お義母さんに、ちゃんと話してみよう」
七海「うん」
御影「寂しい思いさせて、ごめん」
七海「うん」
御影「七海、靴、履いてない」
七海「え? あれ?」
御影は、七海をヒョイと抱え上げた。
そのまま、七海のアパートに戻るふたり。七海は冷静になって、顔を真っ赤にしている。
七海「お、おろして! 恥ずかしい!」
御影「ダメ」
——もう嫌! 私、なんでこんななの? 止まれない!
美香「ねえね、おかえりー」
置いて行かれ、泣いているかと思われた美香は、全く動じていなかった。急に「蓮くん!」と叫んで飛び出していく姉は、美香にとって、もはや異常ではないのだろう。
七海の母親は、その晩、23時ごろに帰宅した。
今日は夜勤ではないと聞いて、御影は、それを待っていた。美香はもう寝ている。御影は、丁寧な挨拶をして、非常識な時間、いきなりの訪問を謝罪する。
七海母「蓮くん、大丈夫よ。どうせ、七海がなんかしたんでしょ?」
七海母に、今日あった出来事も含めて、これまでの経緯と、自分たちが「事実婚」をしていることまで、丁寧に伝えた。御影の誠実な態度を受けて
七海母「そんなことだろうと思ってました。驚きません。七海は、なにか話すことない?」
七海「許してもらえるかは別にして、私が、心から望んでいること、話してもいい?」
七海母「やっと、そういうふうに話せるようになったのね」
七海「?」
七海母「七海、あなたは、我慢して、我慢して、爆発する子なの」
七海「最近、やっと自覚しました……」
七海母「だから。あなたが我慢せず、自分の希望を言えるようになったことに、関心したの。蓮くんのおかげね」
七海「うん」
七海母「で、あなたの希望だけど。蓮くんとふたりで暮らしたいんでしょ?」
七海「え、どうして?」
七海母「わかるわよ、それくらい。七海が蓮くんと付き合ってるって知ってから、お母さんずっと、七海、駆け落ちするんじゃないかって心配してた」
七海「……私なら、やりかねません」
七海母「でも、蓮くんのこと知るようになって。蓮くんなら、そうなる前に、私に話してくれるって思った。それからは、もう、心配してない」
——大切な人が、大切にしていることを、理由を問わずに、大切にする
七海「じゃあ、いいの? ふたりで暮らしても、いいの?」
七海母「それは、だめ。七海、あなた、自分のこと、少しはわかるようになったんでしょ? 蓮くんとふたりで暮らしたら、どうなるか、想像できない?」
七海「?」
七海母「七海、あなたが我慢できなくなって、子どもができちゃうのよ。これ、絶対ね」
七海は、今日も元気に、顔を真っ赤にする。確かに七海には、御影を襲った前科がある。
七海母「蓮くんは、大丈夫よ。ちゃんと七海のこと考えてくれるから。まあ、そういうことがあっても、避妊してくれる。でもあなた、七海は、やばいのよ。あなた、自分がやばい子だって、自覚ある?」
七海は、もう、何も言えない。でも、こうして自分が理解されていることに、安心する。
七海母「私は、付き合うことも、事実婚も、結婚も、あまり違いがわからないタイプ。看護師として、様々なご家庭を見てきたから」
七海「うん。家族の形は、たくさんあるって、わかる」
七海母「だから別に、ふたりで暮らすこと自体には、反対じゃない。もちろん、蓮くんのお母様にも認めてもらえるなら、だけど」
御影「母には、事実婚のことも、同棲する可能性についても、すでに話してあります。そして母からも、『七海さんのお母様が認めてくれるなら』、という条件付きで、許可をもらってます」
七海母「さすが蓮くん、みんなから信頼されてるね。なら問題は、七海が避妊できないってことだけね」
消え入るような小声で、
七海「で、できるもん……」
七海母「じゃあ、蓮くん、うちで暮らしなさいよ。美香がいれば、さすがに、そういうことしないでしょ?」
七海「こんな狭いところに、無理よ」
七海母「狭いところだから、監視できるんでしょ? 蓮くんが一人暮らししているマンションは、何部屋あるの?」
御影「2LDKのマンションですから、ベッドルームが2つと、リビング、ダイニング、キッチンです。それと風呂トイレ別なので、『扉が閉まる部屋』って意味なら、たくさんありますね……」
七海母「私には、みえます——扉が閉まる部屋に——そこに隠れている七海が——その前を通る御影くんを——部屋に引きずりこむ——そんなシーンがみえます——そこの旦那さん、みえませんか?」
御影「……みえます」
七海「……みえてしまいました」
七海母「だから、うちの方がいいのよ。あ、でも蓮くん、トイレだけは気をつけてね。七海がトイレに入っているときは、トイレの扉に近づいちゃダメよ」
七海「ひ、ひどい……」
御影は、御影の母親に、ここでの話をメッセした。すぐに、「よかったね、蓮」と返ってきた。このメッセで、御影はこれから、七海のアパートで一緒に暮らすことが決まった。
今、御影が住んでいるマンションは、物置にすると一旦は決まった。が、家賃がもったいないのと、御影の荷物が少ないことから、様子を見て、解約する方向とした。
七海母「一度、蓮くんのお母様にも、ご挨拶しないといけないわね」
御影「ご存知かとは思いますが、母は神戸でして。同族会社を経営しており、滅多に東京へは来ません」
七海母「じゃあ、みんなで神戸、行っちゃおうか!」
七海「え、お金ないし、無理でしょ?」
七海母「私、看護師長に昇格したのよ。お給料もボーナスも、前よりもずっといいから、心配しなくて大丈夫。借金だって、先月、全部返し終わってるし」
七海「そ、そうなの? まだ数年分あったと思うけど?」
七海母「ボーナスの時期、知らないの? とにかく、借金返済祝いも兼ねて、家族旅行しよ! もう何年も旅行なんてしてないし、楽しみね」
もう遅いからと、七海の母親は、御影を自宅に帰さなかった。「大人として、たとえ男子でも、こんな時間に高校生一人で外を歩かせることはできません」とのこと。
狭い部屋で、ぎゅうぎゅうで寝る。
確かに窮屈だ。けれど、それがむしろ嬉しい七海。七海は、御影の隣で寝ている自分が、信じられない。
——夢みたい
メッセで、藤咲家と御影家、「事実婚挨拶」の場所と日程が調整される。
御影は「神戸に、妻を連れていくことになりました」と、白嶺学院時代の担任にもメッセした。遅い時間なのに、すぐに返信がある。
そして、七海と御影は、白嶺学院にも、ご挨拶に伺うことになった。こちらの日程については、また後日とのこと。
七海「なんだか、全部、よかった」
◇
1年B組のBBQ当日。
秋風の吹く、気持ちの良い河川敷が会場。
残念ながら、クラスメート全員での参加とはならなかった。ただそれは、バイトや家族旅行と重なったという理由で、次の機会には参加したいという話だった。
普段は見られない、みんなの私服姿。普段は見せない顔。普段はしゃべらない人との会話。全部が、新鮮で嬉しい。みんなにとって、忘れられない思い出になった。
集合写真には、欠席者たちも自然に見えるよう合成され、登場している。合成には賛否あったが、誰かの「心の風景ってことで」という発言で、合成が決まった。
写真の中の七海は、御影の腕にからみついて、最高の笑顔を見せている。
——いまのみんなは、いまだけなんだ。過去のみんなは、もういないんだ
第4章の始まり。第37話まで、お読みいただきました。本当に、ありがとうございます。嬉しいです。
少しでも、読めるところがあったなら、是非とも☆評価をお願いしたいです。執筆の励みになると同時に、明日もまた頑張っていこうという気持ちになります。
さて。
七海は、止まれません。それで苦労をすることもあります。しかし、そこが七海の魅力でもあると考えています。人間は、多様です。それぞれに異なる苦労があり、そして、異なる幸せの形があるのだと思います。
引き続き、よろしくお願い致します。
参考文献;
1. Woolley, K., & Fishbach, A. (2019). Shared Plates, Shared Minds: Consuming From a Shared Plate Promotes Cooperation. Psychological Science, 30(4), 541–552.
2. World Happiness Report (2025). Sharing meals with others: How sharing meals supports happiness and social connections.
3. Sinchaisri, W. P., & Jensen, S. T. (2021). Community vibrancy and its relationship with safety in Philadelphia. PLOS ONE, 16(12): e0257530.
4. Twohig-Bennett, C., & Jones, A. (2018). The health benefits of the great outdoors: A systematic review and meta-analysis of greenspace exposure and health outcomes. Environmental Research, 166, 628–637.
5. Reicks, M., et al. (2019). Impact of cooking and home food preparation interventions among adults: A systematic review. Public Health Nutrition, 22(5), 1–14.




