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第18話 思い出のチャペル

 その日の夜。


 七海は、先に寝ていた美香の布団にそっと滑り込んだ。


 明日、補習のない金曜日の放課後。御影が「秘密」を明かすと言った。


——それを聞いた上で、私が大丈夫なら、御影くんと結婚できる


 七海は、嬉しくなる。同時にこわくなる。


 七海の心が離れるかもしれないほどの「秘密」とは?


——なんだろう。知りたくない。でも、知らなくちゃいけない


 まぶたを閉じると、夢が始まった。それは、夢と呼ぶにはあまりにも"ほんとう"だった。



 保育園の教室にいる。


 冷たい蛍光灯の光が、夕方の暖かさをかき消していた。


 美香がいる——いや、美香ではない。5歳の頃の七海だ。


 もう一人、銀色の短い髪、青い目をした少年がいる。5歳の御影。


七海「どうして、あんなこと言ったの? レネーなんて、大嫌い!」


 場面が跳ぶ。


 父親がまだ生きていた頃の自宅にいる。


 美香はまだいない。七海は、父親の胸で泣いている。母親が、七海の取り乱しようにオロオロしている。


七海「レネー、ごめんなさい! 大好きなのに! 大好きだったのに!」


 そこで目が覚めた。


 涙でぐしょぐしょの顔を、美香の小さな手が拭いてくれている。


 七海の初恋は、あのとき、いちど終わっていた。


——私たちは、確かに、あの場にいた


 七海は、約束の放課後を待てなかった。



 朝。七海は、御影を校門のところで待ち伏せしている。


 七海は、やってきた御影をみるやいなや御影の手首をつかみ、4階の空き教室に引っ張っていった。


七海「ごめんなさい。でも、待てなかった」


 御影はゆっくりと言葉を選んでいた。七海は、夢の記憶とともに息を整えている。


御影「まず、名前のこと。俺の当時の名前は、René van Egmond (レネー・ファン・エグモンド)。生まれてから5歳まで、オランダにいた。父はオランダ人、母は日本人」


七海「うん」


御影「10年前。両親が離婚して、俺は母と一緒に日本に来た。実家のある神戸に落ち着くまでの数ヶ月、東京のホテルにいたんだ。その間だけ——七海ちゃん、俺は君のいた保育園に通っていた」


 七海は指の震えを止めるため、机の角を強く(つか)んだ。


御影「俺と七海ちゃんの親は、どちらも忙しかった。だから保育園で、最後まで残っているのはいつも俺たち2人だった」


七海「うん」


御影「そこで大切な時間を積み上げた。俺は、君と仲良くなったつもりだった」


七海「うん」


御影「ある日。君が、お母様の車に乗り込む直前、勝手に言葉が出たんだ——『七海ちゃんと結婚したい』って。君は窓ごしに何か言っていたけど、聞こえなかった」


七海「うん」


御影「次の日、君は——『大嫌い!』と俺に言った。それから七海ちゃんは、俺だけじゃなくて、他の男の子のことも避けるようになった」


七海「うん、そうだった」


御影「そのまま俺たちは話さなくなって。俺は、君にお別れの挨拶をすることもなく、神戸へ移ったんだ」


 御影は視線を落とし、短く息を吐いた。


御影「君が男性のことをこわいと感じるようになった原因。俺なんだ。俺は、君のこと、壊してしまった」


七海「ち……」


御影「この事実を隠したまま、俺が君と一緒になることはできない。でも、この事実を君に伝えてしまったら、君はあの時みたいに『大嫌い』っていうに決まってる」


七海「ちがう」


御影「君が男性のことをこわいって感じるのは、いまも続いていた。それを知って、俺は君に近づくべきじゃないって思った。でも……うまく距離を保てなかった。だって俺は——」


七海「ちがう、全然、ちがう!」


——ほんとうのことを。ただ、どこまでも、ほんのとうのことを


七海「家では、私いつも『レネーが大好き』って両親に話してた。そしてあの日、私は『レネーにプロポーズされた! 私、レネーと結婚する!』ってお父さんとお母さんに言ったの」


御影「……」


七海「そしたら、お父さんが『七海。結婚したら、お父さんやお母さんと一緒には暮らせないんだよ?』って」


 七海は小さく笑い、ありし日の父親を思い出して目を潤ませた。


——誰も、悪くなかった


七海「あの夜、ほんとうに、ほんとうに、悩んだの。レネーとお別れするか、お父さんお母さんとお別れするか。どっちも無理だった。そんなの選べなかった」


御影「……」


七海「私にとっては、レネーも両親もどちらも同じくらい大事だった。だから、お別れのきっかけになる『結婚』なんて言い出したレネーのこと、憎くなった——それで『大嫌い』って言ったの」


 御影の喉が、かすかに動く。


七海「そのあと男の子を避けるようになったのは……男の子と仲良くなってしまえば、その子とも『お別れ』を選ばなきゃいけないって思ったから。こわかったからじゃない」


 空き教室を通る風が、チョークの粉をわずかに揺らす。


七海「私のこと大切に思ってくれたのに。それなのに『大嫌い』なんて言われたレネー。そのままずっと、そのことを悩み続けた、かわいそうなレネー」


——あなたが私を壊したんじゃない。私が、あなたを壊したの


七海「あなたが、自分の感情も他人の感情もわからなくなってしまったのは、私のせいなの」


 七海は、御影に一歩だけ近づく。


七海「レネー、プロポーズしてくれてありがとう。本当に嬉しかった。レネー、あのとき私は、車の中から『あなたのお嫁さんになります!』って、ずっと叫んでいたんだよ」


 病室のときと同じように、ふたりの目線がまっすぐに重なる。


七海「どうか、私をあなたの妻にしてください。私のすべてを奪ってほしい」


 御影の目の青が、わずかに震える。


御影「レネー、この名前には『生まれ変わった人』って意味があるんだ。俺は神戸に移った後、母の姓である『御影』を名乗り、オランダの家名は捨てている」


 七海は丁寧にうなずく。


御影「でも、あの告白だけは嘘にしたくなくて。レネー(René)の名を、『(れん)』として残したいって、母にお願いしたんだ」


 喜びに、七海はまた震え出した。


——このときのために、私は、生まれてきたんだ


御影「七海。俺と結婚してほしい。法的な制約とか、金銭的な準備とか、そういうのはただの形式だ。俺と君は、夫婦であると認識してもいいだろうか?」


七海「はい」


 七海の、いま、まさに幸福の絶頂にある表情が。


 その表情が徐々に曇り、ズーンと暗くなる。左右に首をフリフリしつつ、七海はあたふたし始める。


七海「ちょ、ちょっと待って! 結婚するの、待って! 死んじゃったお父さんの闘病生活に、ものすごくお金かかったの! それで、うちには借金があって、だから私、スマホも持てないほど、バス代をケチるほど、とっ、とにかく借金があるの! 結婚する前に言わなくちゃいけなかった!」


御影「ちょっ!」


七海「うちには、借金があるの! 美香の将来のこととか考えてて、節約も大事だから、お金、使えないの!」


御影「だ、だから……」


七海「御影くんと一緒に、プールとかいけないの! 浴衣を着て一緒に花火とかいけないの! クリスマスプレゼントとか、買えない! ボーリングとか、ゲームセンターとか、カラオケとか、旅行とか、一緒に行けない! それから! それから!」


 御影は腕を七海の腰に回し、七海の身体を強く引き寄せた。


 御影は、七海をつま先立ちにさせ、顔を近づける。


 胸の前で両手を合わせ、顔を真っ赤にさせる七海。


 七海の意識は、御影の薄青く透き通った目に、完全に吸い込まれた。"P3a"が発動する。恥ずかしいのに目線を(そら)せない。


御影「七海。俺と、結婚してほしい」


 七海は、小声で「だって、だって……」と呟き、ボロボロと大粒の涙を流す。


御影「結婚は、いかなる困難も共に乗り越えて行く約束。その約束を俺にさせてほしい」


七海「いいの?」


 御影は、ゆっくり、大切に、七海に顔を近づけていく。七海は、小さくうなずいて、目を閉じた。


 口づけを交わすふたり。


 この瞬間、北高の朝の始業チャイムが鳴った。


 ふたりにとって、この北高4階の空き教室が思い出のチャペル。



第18話まで、お読みいただきました。本当に、ありがとうございます。


少しでも、読めるところがあったなら、是非ともリアクションや☆評価をお願いしたいです。執筆の励みになると同時に、明日もまた頑張っていこうという気持ちになります。


さて。


結婚式にお金を使いすぎるカップルは、有意に、結婚期間が短くなるという論文があります。いっそ、これくらい質素な結婚式の方がいいかもしれないのです。それにしても、10年ものすれ違いです。驚きに対する意味づけの失敗は、この世界に、どれほどたくさんあるのでしょう。切なくなります。


引き続き、よろしくお願い致します。

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