落ちて溢れたのは
肌を焼くような日差しに汗ばむ季節ももう終わりなのだろう。暑さが和らぎ、涼しい風が吹いたかと思うと突然の雨に見舞われたりもする。
人通りもそこそこの街道を進み、見慣れた外壁が見えた頃にはずいぶんと懐かしい光景に思えて、簡単な旅程のはずがとんだ別世界冒険までしてしまったことを実感させる。
雨上がりにしても暗い雲に覆われたある日、アイシャたちは我が家のあるシャハルへと帰還していた。
「皆さんおかえりなさい。上でベイルさんたちが待っていますよ」
馬車での移動はそれでも体力的に楽なものでは無いのだが、アイシャはともかくミドリとマルシャン、それにマケリは自宅に帰るよりも早く報告に向かうほかない。
元々ドロフォノスとして指名されたミドリは、ミドリという名の女性をさっさと帰宅させてしまい、ドロフォノスの格好に着替えて合流している。
「まずは長旅お疲れ様だったな。途中で連絡の途絶えた時には肝を冷やしたものだが、先に受けた韋駄天からの報告でもさっぱりだ。詳しく話してくれるだろうな?」
「もちろんだ」
魔剣の修理は国家治安維持局局長であるバラダーから直々に受けた依頼であり、ドロフォノスもバラダーへと報告する内容として冒険者ギルド長ベイルへと報告する。
「オユンとはな……しかしよくぞ無事に戻って来れたものだな」
「それには韋駄天の尽力があったのだと」
「えあ、私たちは……実際のところみんなを見つけることさえ出来なかったかもしれない。あなたたちを見つけたのは通りすがりの、魔族だったんだから」
「──魔族まで現れていたか」
「あ、でも、何も無かったわよ。リーダーはバチってたみたいだけど、結局何も……ことなきを得たらしいわ」
ハナコを吸い込んだのと同じものに魔力を吸われて魔力欠乏症にダウンしていたマケリ自身はその魔族をまともに目撃してはいない。それでもアイシャたちが掘り起こされた現場には争いの跡も犠牲のひとつもなかったのだからそう補足するしかないのが事実だ。
おそらくは龍人かそれに近しい種族だろうという報告もすでに韋駄天リーダーであるスピードスターがベイルへと伝えている。
アイシャたちの意識が戻るのと同じ時間に魔力欠乏症の負荷から解放されたマケリがあとから話に聞いた程度のその魔族を、どうしても敵対種族とは思えなかったのもまた事実。
そして、アイシャかルミのどちらかでもその魔族を目撃していたのなら、マケリが抱く印象を裏付けることが出来ただろう。
その魔族らしき人物がいまは行方のしれない大事な、大切な『彼女』そのひとであると。
冒険者ギルド長であるベイルへの報告にマケリたちが向かうのとは別れたアイシャたちは、それぞれに所属する部署へと帰還報告をしたのち、この日は仕事を切り上げて翌日と翌々日までの休暇を与えられる。
居心地だけで精霊術士ギルドへの配属を決められたミラもエスプリへ挨拶を済ませると、一緒に帰宅しようと誘うためにお昼寝ギルドへと足を向けたのだが、衝立に囲まれたスペースが目に入ったところで、寝息を立てるアイシャを肩に乱暴に担いだ壮年の男性がお昼寝ギルドの囲いから出てくるところに出くわしてしまった。
「──ん、そうか君が」
「ふっ、不審者っ──“幻術・巨人の鉄鎚”っ」
国が運営する国家治安維持局が人間族領全ての街や村に建設し、人間族領の管理を一手に引き受ける施設であるギルドの建物内で戦闘技能を発揮する事態というのは滅多にない。
明確にそういった被害の出る行動は禁止されているし、過去に度々起こしたアイシャの不祥事も髭の男が後始末をしている。
では咄嗟にミラが発動した技能はどうだろうか。
やはり幻術として繰り出されたその技能には紙切れ一枚すらどうこうするチカラもないが、それでも対人対魔物には有効打となる技能である。
技能としてギルドカードのシステムにより発動されるために自覚のないものだが、他者を惑わせるほどに可視化された魔力を叩きつけることで、相手に強烈な不快感を与える。
例えるなら真夏日にクーラーの冷気を求めて帰り着いた家のドアを開けたらそこは熱気に満ちたスチームサウナでしたというくらいの不快感だ。
つまるところ建物に被害もないし、なんならこの壮年の男性は迫り来る幻術のハンマーを一身にうけながら目を細めてその技能がどんなものかと体感しただけでしかない。
損害がない以上は不祥事として問われるようなことでもない。が、相手が相手であった。
「不審者ってなにごと……きょ、局長⁉︎」
「いつのまにいらして……」
「ついさっきな。ちょうどこいつが入っていくのが見えたからまっすぐに寄らせてもらった」
「局長って」
口と顎の整えられた髭がなければもう少し若く見えそうなこの男は、人間族領のどの街でもダンジョンでさえも顔パスで入ることの出来る人物で、年中あちらこちらへと動き回り多忙な日々を過ごしている。
アイシャに目をつけ、目をかけて、肩入れすらする、いつもの髭だ。
「会うのは初めてだな。私が国家治安維持局局長のバラダーだ。君は王都から移ってきた幻術士ミラ……で、合ってるな?」
「は、はい──」
王都こそバラダーがその職務を全うするために最も通う場所ではあるが、バラダーとは接点のないミラが出会うのはこれが初めてのことだ。
のちに解放されたアイシャが訪ねたところ、ミラは涙ぐみながらその手に遺書を握りしめていたらしい。
いくつかの得難い経験を積んで、何故だか話が進んだもののその経緯があやふやで、しかもそんなことに気づきもしない一行がやっと帰郷した、秋の訪れを感じる日の午後のことだった。




