止まった季節 中・2
恥ずかしい姿を晒してしまった。
ひとしきり泣いて冷静になった私はなんとも言えぬ複雑な顔をしていただろう。しかし祖父母、叔父夫婦、そして修也は何もなかったように優しく接してくれた。
まだ部屋を教えていなかったな、と叔父が修也と私を連れて二階に向かう。普段は使われていないと言う部屋だったが、風通しが良く南向きの窓からは心地よい風が入って来た。
「沙世子ちゃんはこっちな」
家具の配置の違いこそあれど、襖で仕切られた部屋は作りはほぼ同じ。ただ修也にあてがわれた部屋よりも使用感が薄れていて、ほんの少し古惚けた印象を受けた。物置に使っている部屋だろうかとも考えたが、埃っぽさはなく物も綺麗に片付いている。何より畳の焼け方が均等だ。人を泊めるために急いで何かを動かしたという様子はない。
違和感の正体は叔父がすぐに教えてくれた。
「ここは綾子姉ちゃんの部屋だったんだよ。多少掃除して片付けてはあるけど、ほぼ昔のままだ」
「お母さんの」
タンスと文机と小さな鏡台。母の世代の女性の部屋にしてはレトロ過ぎるような部屋だった。祖母が片付けていった結果がこうだったのか、それともこれが母の趣味だったのか。思えば母の好みというのもあまり記憶に残っていない。好きな食べ物も曖昧で、仏前に供える物も最初は悩んでいた。正直、今も答えは出ていない。
昨日まで、いや、さっきまでいけないことなのだと信じていたがもしかしたらと叔父に訊ねてみる。
「お母さんのこと、聞いても良いですか?」
叔父が目を見開く。何を言ってるんだこいつは、って顔だな。これ。
アホな質問だっていうのは自覚してるけど、今を逃すとこの先いつ聞けるか分からないんだ。察して欲しい。しかし思わぬところから返事が飛んできた。
「うちで沙世子ちゃんが聞いちゃいけないことなんて1つもないわよ~強いて挙げるとするからば、うちの子の結婚時期ね。相手がいないから分からないわ」
クスクスと笑って修也がいる部屋と逆の襖を開ける叔母。隣で干していた布団を取り込んでいたようだ。
そういえば叔父夫婦の息子、修也の従兄弟の姿を見ていない。私の疑問も叔母はすぐに察してくれて答えてくれる。今年、他県で就職したは良いもののサービス業のためお盆には帰省できないのだそうだ。寂しいですね、と言えば二人が帰ってきたから全然、と笑われた。嘘だとしても嬉しい言葉だ。
「おばあちゃんが沙世子ちゃんに見せたいものがあるって言ってたから、疲れてなければ下行かない?張り切っちゃって大変なんだから」
そこで色々聞いて頂戴、と言われればNOとは言えない。はいと頷き、修也の方を覗けば畳の上で手足を伸ばして昼寝をしている姿が見えた。狭い部屋での二人暮らしが続いているし、広いところで眠るのは久々だろう。私よりも何倍も疲れていることが感じ取れていたのでそのままにしておくことにした。
一階の仏間では祖母が押し入れから様々な物を引っ張り出して来ていた。片付けの手伝いをすれば良いのかと思ったが、どうもそうではないらしい。
「沙世子ちゃんにあれを見せなきゃ、これも見せなきゃと思ったら、物がいっぱい出て来て大変だったのよ」
「見せる物?」
子供の頃のアルバムか何かだろうか。母親が写っている写真はあったけれど、その多くは法事の後に祖父母たちが回収して行ってしまったので手元に残っているものはこの前実家から分捕って来たものが全てだ。今では記憶も曖昧になってしまったが、写真を見たら思い出すこともあるかも知れない。
覗き込むと、やはり数冊のアルバムと大きめのお菓子の空き缶が出されていた。
「こっちは沙世子ちゃんと修也君が生まれてから撮ったもの。こっちは綾子の子供の頃の写真」
年季の入った空き缶を開けると少し茶色味を帯びたカラー写真が入っていた。そこにはこの家の前で並んで立っている三人の子供たちの姿。真ん中に立っている男の子は叔父で、その両サイドに立つのが伯母と母なのだろう。右にいる小柄な女の子の雰囲気や目鼻立ちが修也に似ていることもあり、記憶の中の母を照らし合わせて眺める。うん、この子だ。
「綾子は写真を撮るっていうと、お気に入りの服を着るって聞かなくて。全部の写真が同じ服ばかりだから、親戚のおじさんから『綾子に服を買ってないのか』って言われたこともあったのよ」
確かに言われてみると幼少期の写真は服が変わっているのに、ある程度の年齢になるとどの写真も同じ服か似たようなデザインの服ばかり着ている。ピンクの生地に白い小花が描かれたワンピース。それ以外もピンクが好きだったようで、非常に女の子らしい服装だ。でもこればっかりというのも笑ってしまう。タンスの中身はピンク一色だったんじゃないかな?なんて考えてしまった。温厚な母だったけれど、好きな物へのこだわりは強かったのかも。
「真ん中の子は我が強い、なんて言われることもあったけど正にその通りだったわね。初めて会う人は大人しくて女の子らしいお嬢さんね~なんて言ってくれたけど、段々と性格が分かってくると綾子ちゃんは芯が強くて頼もしい、なんて言われてたんだから」
子供相手に譲らない、なんてことはなかったけれど叱られたことはしっかり覚えてるし、それが怖かった記憶もある。芯が強いからこそあれだけしっかりと怒ることが出来たのかも知れない。連れ子相手だと嫌われたくなくて上手に叱れない、なんて話も聞いたことあるけれど母に関してはそれはなかったんだろうな。
赤ちゃんの頃、七五三の写真、入学式、卒業式、学校行事のあれこれから誕生日のお祝いまで。母がこの家で過ごした全てを写した写真を祖母の解説付きでじっくり眺めていると、気が付けば外は茜色に染まっていた。随分と長い時間話を聞いていたのだな、とボーッと考えていてハッとした。夕飯の手伝いをしなければ。
祖母の顔を見ると私の言いたいことが分かったのか、ニコニコしながらこちらを制した。タイミングを見計らっていたのか、お勝手から叔母が姿を見せて声をかけてきた。
「沙世子ちゃんが気にすることはないのよ。ここではゆっくり休むことだけ考えて」
「でも……」
お客さんでいるわけにはいかないと膝を立てて申し出ようとするが、祖母が私の腕を引く。
「まだ見せてない物があるの。お願いだから見て頂戴」
お願いと言われてしまえば強く断ることなど出来はしない。叔母と祖母に甘えてその場に再度座る。
「きっと沙世子ちゃんも気にいると思うの」
祖母が後ろに置いていた包みを引っ張ってきて私の前で開ける。それは見覚えのある母の物だった。
「お母さんの、浴衣」
母が着ていたピンクの浴衣だ。やはりあの時に祖母たちが持ち帰っていたのだ。大事に仕舞われていたことがわかり、ホッとすると同時に思い出の代物が目の前に現れて上手く言葉が出ない。
同じ生地で子供用の浴衣を作ってもらったこと、この着物を着た母と一緒に夏祭りに行ったこと、いつか大人になったら母の着物を着せてもらうと約束したこと。
叶わない約束だといつの間にか忘れてしまっていた。
「お母さん、やっぱりピンクが好きだったんだ」
子供の頃からずっと好きだったピンク。あまり身につけている記憶はないのは何故だろう。
「成人過ぎた頃に一度私が言ったのよ。『いい大人なんだからなんでもピンクばかりを着るのはやめなさい』って。本人も自覚があったのか、少しずつ違う色も着るようになってね。でも沙世子ちゃんの母親になって、しばらくした頃かな。突然電話してきたと思ったら『沙世子もピンクが好きなのよ!母娘でお揃いの服を着たら素敵だと思わない?』って興奮気味に話してきたから笑っちゃったわ」
「そんなことが……」
「鬼の首を取ったように電話してきたもんだからね。別に絶対ピンクを着るなとは言ってなかったんだけど、沙世子ちゃんが自分と同じなのがよっぽど嬉しかったんでしょうね。もっとも、その頃の綾子は沙世子ちゃんにピンクを着せたがるばかりで、自分ではあまり着なくなってたけど」
母の服はピンクよりも白や水色だった記憶がある。二人並んでピンクなのは恥ずかしかったのかな。それでも柄はお揃いで、お出かけの時は一緒の服を着せて貰っていたはずだ。
「この浴衣は綾子が自分で縫ったものよ。自分の物が縫えたら沙世子ちゃんに手作りするんだ、って言ってたから練習用だったんでしょうね」
幼稚園の手提げや巾着は全て市販のものだった。手作りが良いなんて文句を言ったことはないし、母も好きなものを買っていいと選ばせてくれた。多分だけど、母はあまり器用な方ではなかったんだろう。
丁寧だけど少し不揃いな縫い目を見ながら考える。それでも私に作りたいと思ってくれるくらいには母は私を思ってくれていたんだろう。幼い頃に着た母お手製の浴衣を思い出す。随分と長く蓋をしてしまった、大切な記憶だ。
「明日、お寺さんで盆踊りがあるからその浴衣を着てくれない?」
長年大切に保管されていた浴衣は今でもちゃんと着ることが出来るんだ。
「私ひとりじゃ着れないから、着付けてもらっても……」
良いのだろうか。
祖母は当たり前よと笑ってくれた。
この地域の花火はお盆の時期、寺の裏山山頂から打ち上げられる。麓のお寺さんの敷地内にやぐらを立てて、地元の人たちが作った野菜やご飯を振舞う昔からのお祭りだ。余所者が行って怒られないか、若干の不安があったけれど叔母さんたちが察してくれたのか笑いながら肩を叩かれた。
「みんな忘れてるかも知れないけど、綾子さんの娘ですって言えばすぐに思い出すわよ」
子供の頃はこの辺で遊んでたんだから、と笑ってくれたのでそうですよねと返事をするしかない。
「それに、この辺も昔からの人ばかりじゃないから。高橋さんの家なんかは跡継ぎが居なかったんだけど、都会に出た弟さんのお孫さんが仕事辞めて農家になるって移住してきたのよ。丹崎さんちは東京に行った孫娘がお婿さん連れて帰って来たもんだから、もう鼻高々。学校の先生だった人なんだけど、今じゃ元気にブルーベリーを作っててね」
開かれている田舎だから安心して欲しいと言外に伝えてくれた。私だっていきなり石投げられるとは思ってないけど、緊張くらいはまあしてる。
浴衣を着ることを緩やかに拒否した修也と、叔母と近所に住む従兄の奥さんとその子供たちと一緒にお寺に向かう。男性陣は準備のために朝から早々に出かけて行った。
従兄の和夫さんの奥さんは朗らかな姉さん女房らしく、元気な三人のお子さんを連れつつ私や修也に話しかけてくれた。凄く良い人。優しい人。こういう人にならなければ、旦那さんをゲット出来ないのか。この状態からの離婚はないであろうと勝手に頷き納得し、男女の恋愛話に飢えている私は二人の出会いや馴れ初めを下品にならない程度に聞き出しながら楽しい道中を過ごした。
夏の夕暮れ、蝉の声。街とは違う風が頬を撫でる。
母の浴衣に袖を通し、祖母に着付けてもらい、叔母が差してくれたかんざしが揺れる。
遠くに聞こえたお囃子の音が大きくなり、提灯の灯りも見えて来た。
懐かしい気配に心が躍る。色々考えるのは止めて、素直に祭りを楽しめそうだ。
なんて、思いました。思いましたよ、私は。
だってさ、母親の故郷よ。懐かしい田舎よ。心優しい祖父母や叔父叔母、親戚たちに囲まれて、ほとんど忘れてしまった昔馴染みの人たちに笑顔でご挨拶して、地元で採れたトウモロコシとか食べて、山から上がる花火を見てから余韻に浸り、星の綺麗な夜空を眺めながら帰路に着く、なんて素敵な田舎体験したいじゃん。
男女の出会いまでは期待しない。贅沢なんて一つも言ってない、現状を見たささやかな願いじゃん。
「もしかして、山岸沙世子か?」
昔馴染みではある。しかし年代が違う。
なんでこの人がここにいるの。絶対に分布地が間違ってるでしょ。
「光司先生……?」
小学校六年生の時の副担任、前田光司。私の記憶の扉に風穴を開けやがった張本人が、炭火でトウモロコシを焼いていた。
思わず天を仰ぐと、最後の予行練習の打ち上げ花火が一発咲いた。




