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止まった季節 前

 燃え尽き症候群とは違う、得体の知れない虚無感が私を襲って来た。家に帰ってもやる気が起きなくてベッドに身を投げ出したまま数時間が経過した。修也が帰ってくる前に洗濯物をしまって、夕食の支度をしなければいけないと頭では理解しているのに体が動かない。これは失恋の後遺症なのか。

 ショックで食事が喉も通らない、なんて可愛らしいことを言う気にはならないけれど、それ以上の問題が生じているじゃないか。日常生活がままならない。

 今日だけかも知れない。朝起きたらいつも通りの自分で、何も変わらない生活を送っているに違いない。自分に言い聞かせて、修也には『ご飯は食べて帰ってきて』とメールした。駄目な義姉でごめんなさい。明日から本気出す。



 と、思い続けて5日ほど経過しました。学校とバイトが休みで本当に良かったと思うと同時に、こういう時に一人暮らしに戻りたいと心底願ってしまう。同居人がいると相手の目を気にしなきゃいけないんだもん。

 初日はなんとも思わなかったであろう修也も、2日3日と日が経つにつれて段々と心配の色を濃くしてきた。何も聞いて来ないところは空気が読める義弟だと褒めたくなるけど、あちらとしても情緒不安定で家事もしない義姉と同じ空間にいるのは苦痛だと思う。修也の部屋は物置きにしてた三畳間を片付けてなんとか確保したけれど、狭い部屋なため仕事に行くにもご飯を食べるにもトイレに行くにも私の顔を見るのだから息が詰まるだろうなと同情している。けどそれをしたところで私の気持ちが浮上するわけでも態度が変えられるわけでもないのだから仕方ない。

 修也からしてみればある日突然訳も分からず何もしなくなった義姉。最初こそ体調の心配をしていたみたいだけれど、私の体はすこぶる健康だから病気ではないとは理解してくれた。日々をダラダラと過ごしてだらしのない姿を晒している義姉に呆れるのはいつ頃かな、なんて思っていた日。帰って来た修也にこう告げられた。

「明日から出かけるから荷物まとめて」

 寝耳に水とはまさにこのこと。明日から出かけるのは良いけれど、なんで私が荷物をまとめるの?出張に行く旦那の荷物を用意する奥さんか何かかな?

「どこ行くの?何泊分用意すれば良い?」

 そう訊ねると教えられたのは地方都市の名前。ここからだったら新幹線やら特急を使って3時間弱で行ける場所だ。そして何よりそこには修也の祖父母たちが住んでいる。

「姉さん、お盆に帰りたいって言ってたでしょ?じいちゃんに電話したらすぐにでも来いって喜んでたよ。叔父さんが新幹線の手配もしてくれて。急だけど明日から5日間、あっちに泊まりに行こう」

 つまり、私が自分の荷物を用意して修也と一緒に田舎に帰るの?

「いつの間に……本当に行っても良いの?修也君の仕事は大丈夫?」

「お祭りの後に連絡した。ばあちゃんも叔母さんも楽しみにしてるみたい。店はお盆で店長たちも田舎に帰るから一週間閉めるって。姉さんも予定は何もないって言ってたし問題ないよね」

 私予定ないって話したかな。ここ数日の記憶が曖昧なんだけど、多分話したんだろう。実際何も用事はないから困ることはないし。だけどあまりに急な話で驚いている。

「最近疲れてるみたいだったからあまり相談しないで決めちゃったんだ。ごめん」

 やっぱり心配をかけていたみたいだ。今回ばかりは修也に感謝して素直にお盆の帰省に便乗させて貰おう。

「大きめの鞄、どこにやったか分からないから探さなきゃ」

 着替えと必要最低限の物だけ詰め込めればそれでいい。財布の中身が心もとないので、あちらに着く前にATMを利用させて貰おう。祖父母たちへのお土産も買わなければいけないし、出発時刻も確認しなければいけない。

 なんだか忙しくなって来たな。気持ちはすっかり田舎での夏休みに向かっている。一時的な物でもしかしたらふとした瞬間に虚無感が再び襲ってくるかもしれないけれど、今は明日のことだけを考えることが出来そうだ。

「修也君、ありがとう」

 思っていた以上に大人になっている義弟に心から感謝し、義弟提案の二人旅の計画を確認することにした。



 最寄り駅から新幹線の停車駅まで向かい、目的の県に着いてからローカル線に乗って目的の駅で降りる。ここまでで約3時間。乗り継ぎで時間を使う上にお土産買ったりお弁当買ったり駅構内で迷ったり、ネットの乗り換え案内のように簡単には行かないのだと体感しつつどうにか無事に辿り着いた。当然ながら駅が最終目的地ではない。その先には祖父母の家に向かうために利用する一日3本の路線バスが待ち受けているのだが、修也が前もって叔父に電話をして迎えをお願いしてくれていた。なんて気の利く義弟だ。そして優しい叔父さんありがとう。

「沙世子ちゃんも修也君も久しぶりだなぁ。最後に会ったのは二人が小学生の頃だったかな?」

 母が亡くなったのは私が小学校2年生の時。四十九日が終わってから母方の親類との付き合いは減っていたものの、一周忌と三回忌には顔を合わせていた。それ以降、私は誰とも会っていなかった。修也は年の近い従兄弟がいるという理由で夏休みの間に遊びに行っていた気がする。思えば父子家庭で平日昼間に子供だけで置いておくのは心配だし、二人も面倒を見るのは辛いだろうという祖父母たちなりの気遣いだったのかも。二人一辺に預かるのは面倒を見る叔母の負担になるという理由で修也だけ預かってくれていたのだろう。確か修也が中学に上がるまでお世話になっていたと思う。

 過ぎたことをどうこうとは言えないけれど、中学以降もこちらに来ていたら少しはあの惨劇を避けられたのかね。何をどう間違えてあの愚父とあんな関係になったのか知らないから言えることなのかと思うけど、もっとまともな大人が周りにいれば修也も冷静に事を運べたのではと考えてしまう。こっちに来ていたからって大きな変化は期待出来なかったかもしれないけれど、人間たまにはIfの話もしてみたくなる。よりよい未来を求めているのだ。


 私が色んな考えを巡らせている間にも叔父さんと修也は会話を続けている。叔父たちが育てている野菜の話から明後日行われる花火大会について。

「花火大会は昔来たことあったろ。うちのガキや姉ちゃんとこの子供と一緒に見たもんな」

「覚えてるよ。伯母さんたちは元気?」

 祖父母には三人の子供がいる。母とその弟である叔父。そして一番上の姉。私たちの伯母に当たる人だ。伯母は祖父母の家の近くに住んでいて、旦那さんと男の子が一人いた気がする。

「おう、相変わらずだぞ。姉ちゃんとこの和夫は結婚して今は立派な父親やってるよ」

「えっ。結婚してるんですか?」

 なんと。確か私より5つ年上だったかず兄ちゃんは既に既婚者になっているとは。しかもお嫁さんを貰ってお子さんまでいるなんて。世間一般ではおかしいことではないのだけれど、どうも男の尻を追いかけているような男ばかりを見ているせいで感覚が麻痺してしまっているようだ。それに私の中でのかず兄ちゃんが中学生で成長が止まっているのも驚きの要因だった。私が大学生なんだから相手も成人していて当たり前なのに、なんともアホな話だ。

 時は流れているんだとしみじみと感じてしまう。車の中から眺める景色は昔見たものとあまり変わらないように思えるのに、この土地も他と同じように変化している。

 母と一緒に来た場所だが、母はもういない。あの頃は大好きだった父親も今は亡き者として扱いたい。

 なんともセンチメンタルな気持ちになってしまった。この旅、第一の目的はお母さんの墓参りと祖父母たちへの挨拶だけど、第二の目的は傷心旅行ってことにしても良いかしら。変わりながらも昔と同じままでいるこの土地だと、少し傷が癒えそうだ。



 車は田んぼの畦道をひたすら走り、その先に見えたのは記憶の奥底にあった母の生家だった。


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