神格化された女神
維澄さんの存在を知ったのは、あの一枚の写真に出会った時だった。
中学卒業を控えた頃の私は、Kスタジオが発行する人気ファッション誌『KonKon』を手に取った。
その号の特集は、専属モデルの中でも「謎の美女」として圧倒的な支持を得ていた「YUKINA」だった。
他のモデルたちがバラエティ番組や女優業へと華々しく進出する中、YUKINAだけは雑誌以外の露出が一切なかった。
それにも関わらず、彼女は若い女性の間でカリスマ的な人気を誇り、ネット上では難関K大学を首席で合格した才女・向坂雪菜ではないかと噂されていた。
その特集の隅に――維澄さん、すなわち伝説のモデル「IZUMI」の写真が掲載されていた。
そして、そこにはたった一文、こう添えられていたのだ。
『YUKINAの凄さは、あのIZUMIに迫るものがある』
その文章は、IZUMIがYUKINAよりもさらに格上の存在であることを暗に示していた。
事実、並べられた写真の中で、今の主役であるはずのYUKINAすら霞んでしまうほどに、IZUMIの放つ輝きは異様で、そして強烈だった。
その記事を読んで以来、私は取り憑かれたように「IZUMI」の名を検索し続けた。
しかし、彼女に関する情報は驚くほど何も出てこなかった。
おそらくKスタジオが意図的に情報を抹消しているのだと、私はすぐに悟った。
理由は分からないけれど、そこにはきっとポジティブではない事情がある――そう思えて仕方がなかった。
情報が遮断されたまま噂だけが一人歩きし、やがて彼女は私の中で「女神」として神格化されていった。
当代随一のモデルさえ凌駕すると評された、伝説の存在――IZUMI。
その彼女が今、私の目の前で、ドラッグストアのレジに立っている。
ありえない。
その事実を噛みしめるたびに心がざわつき、呼吸が苦しくなってくる。
* * *
果たして、こんな状態で維澄さんと同じ空間で働けるのだろうか。
明日から、私のアルバイトが本格的に始まる。
採用された理由は「夕方の忙しい時間帯に維澄さんをサポートするため」という建前だが、それが彼女自身の意向でないことくらいは分かっていた。
けれど、実質的に私は維澄さんの業務を手伝うことになるため、必然的に教育係は彼女が務めることになるようだ。
店内のシフト表を確認すると、午前中に人員が集中しており、午後は維澄さん一人が店を回していたことを後から知った。
だとしたら、彼女が私を嫌って突然辞めてしまうようなことは、現実的にありえない。
昨日の私は冷静さを欠いていて、そんな単純な可能性にさえ気づくことができなかった。
今夜もきっと眠れない。
私は何度も維澄さんとの会話をシミュレーションし続け、夜が明ける直前にようやく浅い眠りへと落ちていった。
* * *
翌日、私は勤務初日を迎えた。
店長から一通りの説明を受けた後、レジへと案内され、改めて維澄さんに紹介された。
彼女は先日とは打って変わって落ち着いた様子で、無表情ながらも小さく頭を下げた。
その姿を見て、私は少しだけ安堵した。
「今日からお世話になります。神沼檸檬です」
緊張に喉が詰まりそうだったけれど、昨夜何度も練習した言葉は澱みなく口にすることができた。
店長は満足げに頷くと、早々にスタッフルームへと消えていった。
レジに残されたのは、私と維澄さんの二人きり。
私はまず最初にけじめをつけなければと、用意していた言葉を切り出した。
「先日は取り乱してしまって、すみませんでした。これからは仕事の後輩として、よろしくお願いします」
彼女はしばらくの間、黙って私を見つめていたが、やがて小さく溜息をついた。
「そんなに怖い顔をしないで」
「え?」
指摘されて気づいた。
私は緊張のあまり、また無意識に彼女を睨みつけてしまっていたようだ。
「あ、すみません……。もともと目つきが悪いので……」
私は慌てて取り繕うように言い訳をした。
「ところで……あなた、どうやって私を探し出したの?」
予想外の問いかけが、維澄さんの口から発せられた。
「えっ……?」
一瞬、言葉に詰まった。
けれど少し考えを巡らせて、ある最悪な結論に辿り着いてしまう。
もしかして彼女は、私が強引に彼女の居場所を突き止め、追いかけてきたのだと思っているのではないか。
つまり――私はストーカーだと思われている。
私は必死に否定した。
「偶然です! まさか同じ町に維澄さんがいるなんて思いもしませんでした。それに私、そんな不気味なこと絶対にしません!」
動揺のあまり、店内を震わせるような大声が出てしまった。
「そう……なのね」
彼女は探るように私の顔をじっと見つめていたが、やがて視線を落とし、小さく謝罪の言葉を口にした。
「だったら……ごめんなさい」
まさか彼女の方から謝られるとは思わず、私は呆然としてしまった。
「維澄さんは悪くありません。そう思わせてしまうような態度をとった私が悪いんです」
「違うわ。私の自意識が強すぎただけ。冷たい態度をとって、本当にごめんなさい」
想像していたリアクションとはあまりに違い、私は激しく狼狽えた。
そして、彼女はようやく自分から本音を語り始めた。
「もう分かっていると思うけれど……私は元モデル。過去を詮索されたくないし、誰にも言わないでほしいの」
これに関しては、私の想像通りだった。
それを、今の維澄さんは丁寧に説明してくれている。
昨日感じた、あの突き放すような冷徹な印象とはまるで違っていた。
目の前にいる彼女は、真面目で、どこにでもいる普通の大人の女性に見えた。
「もちろん、秘密にします。絶対に」
私が真剣な眼差しで返すと、維澄さんは少し安心したように表情を緩めた。
「そうしてくれるなら、私は普通に接するから。会ったばかりのあなたを嫌う理由なんて、一つもないから」
”普通に接する”
その言葉が胸に沁みて、私はまた我慢できずに涙を零してしまった。
「だ、だから、すぐに泣かないでよ」
「すみません……。ほっとしてしまって……」
本当に、情緒不安定すぎて自分自身が嫌になる。
学校ではクールだなんて言われているのに、今の私はただの面倒くさい女だ。
けれど――ここから挽回すればいい。
維澄さんとの関係は、まだ始まったばかりなのだから。




