十七歳の正論
間違っていた。
維澄さんのトラウマは、「上條さん」という存在そのものではないんだ。
維澄さんの心の根っこに深く刺さっているのは、傷ついてしまった自分自身の感情なのだ。
だから、上條さんという存在を恐怖しているわけではない。
自分がまた同じように傷つくかもしれないことを、極端に恐れているだけなんだ。
私に向けられた怒りの感情。
それは、不安の裏返しだった。
”また自分が傷つくかもしれない”という、拭いきれない不安。
だからこそ、維澄さんは過剰なまでに嫉妬する。
今回のことも、美香の時だってそうだ。
少なくとも私は、維澄さんの中で「将来好きになるかもしれない候補」くらいにはなっていると想像してもいいはずだ。
きっと、それは自惚れなんかじゃない。
しかし、これまでの維澄さんは、ずっと”こう”なることを避けて生きてきた。
他者と深く関わることを徹底的に拒み、人を好きになる可能性を自分から潰し続けてきたのだ。
そんな人生、あまりにも辛すぎるじゃないか。
そんな生き方は、もうやめにしましょうよ。
「維澄さん。一つずつ、確認していきましょう」
「な、なんなの?」
絶対に、維澄さんの考えを変えてみせる。
でも、決して急いではいけない。
慎重に、たとえ一歩ずつであっても、前へ。
「私は維澄さん以外の人を好きになったことはないし、上條さんがいくら素敵な女性でも、好きになることは決してありません。それは信じてくれますか?」
「……」
維澄さんは黙り込んでいた。
きっと、まだ完全には信用してくれていないのだろう。
「それから……維澄さんは、自分自身の大きな間違いに気づいていません」
「な、何なのよさっきから。私が間違えてるって……どうして檸檬がそんなことを分かるというの?」
「私じゃなくても気づきますよ。維澄さん……言いにくいことを言いますよ?」
「い、いいわよ、言わなくても」
維澄さんは、いつものように逃げの体勢に入ろうとしている。
けれど、今日だけは逃がすわけにはいかない。
「いいえ、言わせてください。維澄さんが今までその間違いに気づけなかったのは、逃げ続けてきたからですよ」
「ま、またその話……いつも檸檬は私をバカにしてばかり」
維澄さんは悔しそうに、その目に涙を浮かべてしまった。
「バカになんてしていません。大好きな人をバカにするはずがないでしょう?」
「そ、そういう言い方は卑怯よ」
「でも、嬉しいです。私に対しては逃げなかったから、私は維澄さんの間違いに気づくことができました。だから、それをちゃんと教えてあげます」
「……」
維澄さんは不満げな表情を崩さなかったが、それ以上言い返すことはなかった。
「維澄さんが好きだった人は、去ったんじゃない。維澄さんの方から逃げた。そうですよね?」
「どうしてまたそのことを……今はその話はやめてよ」
「やめません。私が言いたいのは、維澄さんが好きになった人が、”維澄さんの元を去ったことなんて一度もない”という事実をちゃんと知ってほしいんです」
「そ、それはあなたが事情をよく知らないからよ」
「じゃあ、私の間違いを具体的に指摘してください」
「だから、去ったのは、かみ……いえ、好きな人が」
「上條さんのことだって分かっていますから、そこは上條さんでいいです」
「……だ、だから、上條さんの気持ちが私に向いていないことに気づいたから、私は自分から……」
「身を引いた、と」
維澄さんは、力なく項垂れてしまった。
確かに、それが事実なのだと思う。
上條さんが維澄さんを可愛がっていたのは確かだ。
けれど、それが恋愛感情に発展する可能性は、おそらくなかった。
それは、先ほど会った上條さんを見て感じた私の直感でもある。
あの人はきっと、同性を好きになるタイプではない。
「維澄さん。言っちゃなんですけど、十七歳の私の周りにも、同じような話はいくらでも転がっているんですよ」
「え?」
「だから……維澄さんが経験したのは本当につらい体験だったとは思うけれど、それ自体は、ごく普通の失恋でしかないってことです」
そう告げると、流石に維澄さんは怒りの表情を露わにした。
それでも、今の私は一歩も引かない。
「たった一回の失恋で、自分は生涯もう人を好きにならないなんて、そんなの間違っています」
「数の問題じゃないのよ! 分かるでしょう? さっきも言ったけれど、私はあなたたち高校生のような遊び感覚で恋愛なんてしてこなかったの!」
「年齢は関係ありません! 私は高校生でも、維澄さんへの想いは真剣です。それだけは譲れません」
「だ、だから、それは……」
私の強い言葉に晒されて、維澄さんは真っ赤になって顔を伏せた。
「私が伝えたいのは、維澄さんの思い込みには何の根拠もないってことなんです」
「思い込み?」
「そうですよ。別に、維澄さんが好きになったから上條さんが去ったわけじゃないでしょう? きついことを言いますけど、上條さんが維澄さんを恋愛対象として見ていなかった、ただそれだけのことです」
「そ、そんな……」
「違いますか? それ以上でも、それ以下でもありません。維澄さんに好かれたこと自体は、きっと嬉しかったはずです。だから、それが原因で維澄さんを捨てるなんて、それこそあり得ない思い込みですよ。いいですか? 維澄さんのその考えこそが、よほど現実味のない妄想なんです」
「そ、そんな分かったようなこと言わないで!」
「言いますよ! 言うに決まってるじゃないですか! だって、維澄さんがそんな間違った妄想のせいで、もう人を好きにならないなんて言ったんですよ。その言葉が、私にとって何を意味するか分かっているんですか? ……分かってよ!!」
ついに自分の感情を抑えきれなくなり、私は最後、絶叫しながら涙を流していた。
維澄さんは驚きの表情で目を見開き、じっと私を見つめた。
伝わった。
きっと、伝わった。
大丈夫だ。間違っていない。
「れ、檸檬……」
「分かって……くれましたよね?」
「れ、檸檬……私、檸檬にひどいこと言ってたの?」
「そうですよ」
話がようやく通じたことに安堵し、頬にはまだ涙が残っていたけれど、私は笑顔で答えることができた。
「ご、ごめんなさい……」
「謝らないでくださいよ。まだ私、振られたわけじゃないんですから……そうですよね?」
「ああ……まあ、どうだろう」
「どうだろう、って何ですか」
「そ、そんな、今はまだ……」
「いいですよ、じっくり行きますから。とりあえず今日のところは、私の首の皮が辛うじて繋がっただけで恩の字です」
「そ、そんな言い方……」
維澄さんは少し困ったような顔をしているが、そこにはもう怒りの色はない。
私と同じ、安堵の表情を浮かべているように見えた。
とりあえず、終わったのだろうか。今日のところは。
今朝から上條さんが訪ねてきて、今度は維澄さんとの綱渡りのような攻防。
あまりに多くのことがありすぎて、安堵とともに、とてつもない疲労感が押し寄せてきた。
けれど、それでいい。
こんな維澄さんの顔が見られたのだから。
きっと、ほんの僅かでも前に進むことができたのだと思う。
ようやく、いつも通りの二人に戻れたのだろうか。
そう思えば、ここからはデートと言ってもいいはずだ。
そうとでも思わなければ、やっていられない。




