嘘つき
私はこの時ほど、維澄さんの視線を恐いと思ったことはなかった。
維澄さんとの関係性は、もう出会った当初とは違う。
私なりに職場の後輩として、友人として、維澄さんからある程度は信頼されているという確固たる自信もあった。
しかし、この瞬間に見せた維澄さんの視線は、そんな関係性を一瞬で壊してしまうほどに危険な香りを孕んでいた。
「檸檬? いまちょっと時間あるの?」
上條さんがさっき私に言ったセリフを、今度は維澄さんが口にした。
「も、もちろん。私もお昼まだだし……一緒に食べませんか?」
私はなんとかこれだけのセリフを返すのが精いっぱいだった。
維澄さんの雰囲気に緊迫感が漂ってはいたが、初めて会った時のような「拒絶」ではなく、私と「話をする」という選択をしてくれたのが救いだった。
私はさっき出たばかりのファミリーレストランに、今度は維澄さんと一緒に入ることになった。
休日で12時を少しばかり回った時間。
上條さんと会話した時よりも家族連れのお客さんの数が増えて、店内はかなり混雑していた。
私と維澄さんは無言のまま待合席で数分待つことになった。
気まずいが、不用意に中途半端な言葉を掛ける雰囲気ではなかったので、私はこの無言のプレッシャーに耐えるしかなかった。
幸いに5分程度で、二人掛けの席に通された。
維澄さんは座るなり、私が見たことがない”怒り”の表情を私に向けた。
この維澄さんの表情は予想だにしないもので、私は完全に面食らっていた。
維澄さんにとっての上條さんは「過去のトラウマ」の元凶であるはずだ。
だから上條さんの姿を見た反応は、「怒り」ではなく「動揺」だろうと勝手に思い込んでいた。
それこそ、前に店内で起こしてしまったパニック発作を再発させてもおかしくないとまで考えていた。
だからこそ、こんな剥き出しの怒りをぶつけられるとは夢にも思わなかったのだ。
「檸檬……」
怒りからだろうか、少し声を震わせ、維澄さんは私の名前を口にした。
「ご、ごめんなさい」
私は咄嗟に謝ってしまった。
「なんで謝るの?」
「いや、なんというか、維澄さんの知らないところで上條さんと会って……」
そこまで言うと、維澄さんの顔は見る見る紅潮し、ついに感情が爆発した。
「嘘つき!」
維澄さんは声を荒らげてそう言った。
ただ、私にはこの「嘘つき」という言葉の意味することが理解できなかった。
「う、嘘つき? 私は別に嘘はなんにも……」
「だって、たったいま上條さんと私に内緒で会ってたじゃない!」
「別に内緒ってわけじゃなくて……さっきたまたま」
「たまたま? そんなことが起こるはずないでしょ? ここは岩手県の田舎町よ?」
それは確かにそうだ。
上條社長がこんな場所に、偶然居合わせるはずがない。
維澄さんの言葉の勢いに押され、私は返す言葉を失ってしまった。
「ほら……何も言い返せないじゃない!」
「ちょっと落ち着いてください。ちゃんと説明しますから」
「私は落ち着いている」
それのどこが落ち着いているというのだ、と突っ込みたかったが、今はそれを言ったら火に油を注ぐようなものだ。
私はただただ、維澄さんの予想外のリアクションにパニック寸前になってしまった。
それでも私は頭をフル回転させて、彼女が憤る意味を必死に考えた。
確かに私と上條さんが一緒にいるところを見られたのはショックだったと思う。
当然、維澄さんにしたら『上條さんの姿を見た』ことによる衝撃が大きいと想像していた。
でも今の維澄さんの態度、言動からは、どうやらそうではないと思えてきた。
つまり維澄さんは『上條さんの存在』そのものよりも、『私と上條さんが一緒にいた』という事実に激しい怒りをぶつけているのだ。
だとすれば……。
私は以前に維澄さんの過去を聞いて、上條さんに謝るべきだと提案したことがあった。
この時は『維澄さんと上條さんの過去のわだかまり』を私が間に入って解消してあげよう、なんて差し出がましいことまで考えていた。
しかしこれは維澄さんにとっても前向きな目標であり、十分実現可能だとも思っていた。
きっと維澄さんも同じ目標を持ってくれた……そう確信していたのだ。
だからこそ、『一緒に実現しよう』と思っていたことを……。
”私の知らないところで、コソコソと先回りして裏工作をしている”
そんなふうに疑われてしまったのだろうか。
いきなり上條さんが私を訪ねてきたなんて、維澄さんだって咄嗟に想像できるはずがない。
だから『ずっと前から私と上條さんが内緒で会っていた』という、最悪の誤解をしてしまったのかもしれない。
私はそこまでの考えにたどりついて、真相を分かってもらうべく口を開いた。
「維澄さんはきっと何か勘違いしてます。上條さんに会ったのはついさっきです」
「だからなんなの?」
なんで伝わらないの?
「だから、上條さんがさっき突然、私の家を訪ねて来たんです。私だってびっくりでしたよ」
「そんな嘘は……」
「嘘じゃないです!!」
さすがに今度は私が声のトーンを上げて、維澄さんの言葉を遮った。
「聞いてくださいよ! 上條さんは私のオーディション写真をどこかで見たらしく、それを頼りに私を訪ねて来たんです」
「なんでよ? どうして檸檬のオーディション写真を見ただけで、上條さんが檸檬のところに?」
「私もそう思いましたよ。でも原因は私である訳がないでしょ? 維澄さんですよ」
「わたし?」
「そうでしょ? あの写真を見て、維澄さんが絡んでいることに上條さんが気付いたんです。そういうの見抜くの得意でしょ? あの人」
維澄さんはようやく状況を呑み込んだようだ。
でも、私はさらに続けた。
「私が勝手に踏み込むことじゃないとは思いますけど……上條さん、維澄さんが生きてるかどうかも分らないって感じでしたよ?」
そう言うと、維澄さんははじめて「苦しい」表情を見せた。
きっと維澄さんは、上條さんが自分の行方を心配していたことを、心のどこかで知っていたのだろう。
だとすると、やっぱり『私が維澄さんと知り合いである』という事実を独断で上條さんに伝えるのは、無神経すぎたかもしれない。
「そうですね。確かに維澄さんが怒る理由はありました。私が維澄さんと知り合いであることを、勝手に上條さんに話してしまいました」
私は一瞬、再び怒りが再燃するのを覚悟したが、返ってきたのは全く違う反応だった。
「そう……ありがとう」
え? ありがとう?
なんで?
いや、そうだ。
これが私が想像した、いや最初に期待していた維澄さんのリアクションだったんだ。
きっと維澄さんも、上條さんに心配を掛けていることをずっと気に病んでいた。
だからこそ、私が間に入って伝えてあげたことに感謝をしてくれた。
だったら、あの最初の”怒り”は一体何だったんだ。
それがますます分からなくなった。
「裕子さん……会ってどう思った?」
「え? ……どうって?」
「会ってみた感想よ」
「ああ……想像以上に怖かったですね」
私は場の雰囲気を少しでも和ませようと、少しおどけてそう言った。
「そうね。そういうところは少しあるよね」
「少し? ……あれは少しじゃないでしょ?」
「そう? ……でもそれを言うなら檸檬もそうじゃない?」
「え? 私? 私があんな怖いって……それ酷くないですか?」
そう言うと、ようやく維澄さんは少しだけ笑って見せてくれた。
私もようやく少しホッとできた。
「ああ、あとやっぱ綺麗でしたね……ほんと見惚れちゃうくらい」
私は和みつつある場に乗じて、軽い気持ちでそう言った。
ただ、この言葉で維澄さんの表情がまた一変してしまった。
「そ、そうよね。綺麗よね。上條さん」
維澄さんの顔色が見る見る悪くなってしまった。
今度はなんだ?
そうか、上條さんが綺麗だと言うことは……。
維澄さんの過去の恋愛感情に触れてしまうワードだ。
しまった。
軽率だった。
「そう、ほんと元モデルって、維澄さんもそうだけど、やっぱ私なんか素人とは違うよね? なんかオーラがあるっていうか……」
私は必死に恋愛感情とは遠いところに話を持っていこうと、言葉を継いだ。
「嘘だ」
「え? 嘘?」
「嘘つかないで」
ま、まただ。
また嘘?
「ご、ごめん。維澄さん、その意味分からない」
すると維澄さんは、この店に入ってきた時と同じ”怒りの目”で私を睨みつけた。
「ごまかさないでよ? 檸檬……あなた上條さんとさっき会ったばかりなんでしょ?」
「そ、そうですよ? そう言ったじゃないですか」
「なのに……なんであんなに仲が良くなってるのよ!?」
「え? 仲良く? ……そんなことないと思うけど?」
「だって携帯番号も教えてた」
え? そこから見てたの?
でも、だからって……。
「檸檬は……綺麗な人見るといつもそうしてるんじゃないの?」
「はあ? 何言ってんですか?」
「私は……私は……もうあんな思いはしたくないのよ」
「ええ? だからどういう意味?」
「檸檬は……私のことが好きだったんじゃないの?」
「な、何を急に……」
「違うの?」
「いや……その、違わないですけど」
「嘘」
「いや、嘘じゃないです」
「嘘」
「だから、なんなんですか? さっきから人を嘘つき呼ばわりして」
「あなたはまだ高校生だから、簡単に人のことを好きって言うけど、私はあなたとは違うの」
「そ、そんな……私が好きになったのは維澄さんが最初ですよ」
「嘘」
「だから嘘じゃないっていってるでしょ!」
私も維澄さんの意味不明な「嘘」の連呼にだんだんと腹が立ってきた。
何が言いたいんだ、この人は。
「さっき上條さんといる檸檬は嬉しそうだった」
「は? 何言ってんですか?」
「檸檬は……私といる時と上條さんといる時と……全く同じだった」
「違うでしょ? 全然違うよ?」
「嘘!」
「だから……嘘じゃない!」
そう言い返したが……ここまできてようやく気づいた。
もしかして?
維澄さん……嫉妬してる?
確かに維澄さんは私に独占欲のようなものを見せたことがあった。
そう、美香が店に来たときだ。
確かに維澄さんが、私に近しい女性の存在に異様に反応するのは美香の時で分かっていたが……。
でも、私のことを好きだという明確な意思表示をしてくれたことは一度もない。
今回もそれと同じこと?
いや、それにしても今回のは度が過ぎる。
「檸檬はきっとこれからも素敵な人にたくさん会う。檸檬のことだから、またすぐに好きになってしまう」
維澄さんは涙をためて話しだしていた。
「でも私は違う。私が好きになっても、相手は簡単に去ってしまう」
そ、そうか……上條さんが去ったことだ。
「だから私は人のことは好きにならないって決めてた」
「えっ……そ、そんな」
なら、私はどうなるのよ?
「でも……檸檬があんまり近しくするものだから」
しまった。
間違った。
そうだったんだ。
私は焦燥感で口が渇くほどに緊張した。
でも、ここで間違える訳にはいかない。
私はゆっくりと、そして慎重に口を開いた。




