窮地から窮地へ
「少し時間あるかしら? ちょっとつきあわない?」
ノーとは答えられない、威圧的なトーン。
行くしかない。
維澄さんにとってトラウマの元凶である、上條裕子社長。
私は『何を』『どこまで』話すべきなのだろう。
いまだに動揺は収まるどころではない。
こんな精神状態で、冷静な判断などできるはずもなかった。
しかし、私が上條社長の提案に乗った理由。
それは、維澄さんの過去をこの人から聞き出したいという欲望に、心を支配されてしまったからでもあった。
「すぐに支度をするので、少し待っていてください」
私は動揺を抱えたまま、けれど心のどこかで小さな期待を抱きながら、一旦、部屋に戻った。
* * *
門の外に出ると、そこにはタクシーが一台待たせてあった。
盛岡駅からここ渋民まではかなりの距離があるはずだが、この社長からしたら、高額な運賃を払ってタクシーを待たせておくことなど造作もないことなのだろう。
私と上條さんはタクシーに乗り込み、家から数分の距離にあるファミリーレストランに入った。
「こんなところで悪いんだけど」
「いえ、庶民にとっては”こんなところ”でもなんでもありませんから。おかまいなく」
「フフ、面白い子ね」
私は正直な感想を言っただけだが、上條さんは嬉しそうに微笑んだ。
目の前に上條裕子が座っている。
とんでもないことが、いま起きている。
テレビや雑誌でしか見たことがない有名人が、私の目の前にいるのだ。
その異常さに、いまさらながら驚かされる。
モデル業界はおろか、日本のあらゆるマスメディアに絶大な影響力を持つカリスマ経営者。
でも、私にとってはそれ以上に心をざわつかせる事実がある。
そう……かつて、維澄さんが愛した女性。
綺麗だ。
ただただ、綺麗。
至近距離で見ると、その美しさに私ですら心を奪われ、目が離せなくなりそうになる。
そうか……維澄さんは、この人をずっと近くで見ていたのだ。
そう思うと、私の心はまた、嫉妬で狂わしいばかりにかき乱されてしまう。
「さてと……どこから話そうかしら」
上條さんは私の動揺など露知らず、前置きもなくすぐに本題へ入るつもりのようだった。
「上條さんは、私のことをどこまで知っているんですか?」
私は一度話を戻して、頭を整理したかった。
「え?……ああ、何も知らないわよ。あなたのオーディションのプロフィール以外はね。まあ、もっと言えばプロフィールだってよくは覚えていないわ。申し訳ないけど」
まあ、そうだろう。
上條さんのような立場の人が、私のような凡人にそれほどの興味を持つはずがない。
上條さんの関心は、あくまで維澄さんなのだから。
「それは分かっています。その……さっきの会話で、どこまで私と維澄さんのことを察したのか、というお話です」
すると上條さんは驚いたように目を見開いてから、すぐに吹き出した。
「ハハハ! やっぱり面白いね、君は」
私は大笑いされるようなことを言った覚えはないので、怪訝な顔をしてしまった。
「ごめんなさい。君も結構鋭いところがあるんだなって、感心したんだよ」
「それはどうも」
上條さんは上機嫌だが、私はそんなふうに褒められたところで、ちっとも笑えない。
「フフフ……じゃあ、逆に聞くけど。私とIZUMIの関係はどこまで知っているの?」
試されている。
きっと、私と維澄さんの関係が薄いと判断すれば、彼女だって踏み込んだ話はしてこないはずだ。
だったら、私の答えは決まっている。
「概ね、維澄さんから聞いたと思います」
「へえ~……”概ね”、ね。その”概ね”ってどの程度なのかしら?」
あえて「どうせ大したことは知らないだろう」という顔。
今にして思えば、それもこの人の作戦だったのかもしれない。
私から情報を引き出すための。
私は彼女の術中にはまり、維澄さんから聞いたことをほぼすべて語ってしまった。
「維澄さんがモデルを始めたきっかけ、上條さんがモデル事務所を立ち上げた話……それから、維澄さんが突然仕事を投げ出して、いなくなった話とか」
私がそこまで話すと……。
今まで余裕の表情を浮かべていた上條さんの顔色が、見る間に変わっていくのが分かった。
「神沼さん?」
上條さんは、まるで私の心臓を鋭い剣で射抜くかのような眼光を向けてきた。
私はその恐怖に、全身が震え上がってしまった。
「は、はい……」
「あなた……IZUMIとは、どういう関係なわけ?」
私はギクリとした。
緊張のあまり、額から冷や汗が流れる。
「ど、どういう……とは?」
「私に対して、うまく誤魔化そうなんて思わないでね。正直に話しなさい」
上條さんは目を細めた。
その奥にある光は、さらに鋭利なものとなって私に突き刺さる。
なんて強引な。
私が話さなければいけない義理なんて、どこにもないのに。
それなのに、なぜこれほどまでに強気でいられるのか。
私は腹立たしさも感じたが、それ以上に恐ろしさが勝ってしまった。
まずい。
怖い。
どうしたらいい?
なんと答えれば正解なの?
わからない。
怖い。
私はついに自分の感情を制御できなくなり、ボロボロと涙をこぼし始めてしまった。
さすがにこれには、上條さんも慌てた。
「な、なによ? 泣くことないじゃない。私、そんなに難しいこと言った?」
「だって……そんな怖い顔して……っ」
「こ、怖いって……失礼ね。……でも、悪かったわよ。私もIZUMIのことになると、ちょっと冷静になれないんだ。勘弁しておくれ」
一度堰を切ってしまった感情を止める術はなく、私はただ、激しい嗚咽とともに泣き続けた。
上條さんはついに観念したようだった。
「今日はごめんなさい。突然訪ねてきて、無理なことを聞いちゃったようね。続きはまた今度聞かせてもらうから……だから、泣きやんでよ。私がいじめているみたいじゃない」
「いじめてますよ……っ」
思わずボソリと突っ込んでしまった。
上條さんもこれには、苦虫を噛み潰したような顔をした。
私がようやく顔を上げて上條さんを凝視すると、彼女が意外にも優しい顔をしていたことに驚いた。
「ねえ。あなた個人の連絡先、聞いてもいいかしら?」
「え? それはオーディションのプロフィールに……」
「だから、それはいちいち控えてないわよ。申し訳ないけど」
それはそうか。
「プロフィールを自分で確認してください」とは、さすがに言えない。
「じゃあ……」
私と上條さんは、電話番号とメールアドレス、そしてLINEの交換をした。
「また連絡させてもらうから。その時、また聞かせて」
「はぁ……」
また今日のような事態になるのかと想像して、私は憂鬱な顔をしてしまったようだ。
「だから、そんな顔しないでよ。次はもっと気楽に。なんなら、IZUMI同席だっていいのよ?」
「そ、それはダメです!」
ここだけは、強い口調で即答した。
そして、うっかり維澄さんの名前に過剰反応したことで、顔が赤くなってしまった。
私の態度と顔色を見て、上條さんは少し首をひねり……。
「ん? 何その顔?」
や、やばい……。
「はは~ん……そういうこと?」
「そ、そういうこととは……っ?」
「フフフ……そうか。そうなんだ」
上條さんは、なぜかすごく嬉しそうに微笑んでいた。
「だ、だから、なんですかっ?」
ますます赤面して、そう応じるのが精一杯だった。
「まあ、そのあたりの話も、次、聞かせてよ」
バレた。
私の維澄さんへの気持ち、絶対バレた。
本当に、怖い、この人。
油断すると、全部見透かされてしまう。
「ごめんね、神沼さん。ちょっと緊急の連絡が入って、このまま駅まで向かわなきゃいけなくなったわ」
さっきから上條さんの携帯が、騒がしくバイブレーションしていたのには私も気づいていた。
「ええ、近いですから、一人で帰れます」
「なんなら、タクシー呼ぶ?」
「いえ。歩いても十五分程度なんで。そんな距離でタクシーを呼んだら、運転手さんに嫌な顔をされます」
「そう。……悪いわね」
結局、話はそこで終わり、上條さんは会計を済ませると、慌ただしく待たせていたタクシーに乗って去っていった。
盛岡駅への長い道のりを、彼女はどんな顔をして戻るのだろうか。
まるで嵐のようだった。
さて、私も帰ろう。
一息ついて、踵を返したその時だった。
「れ、檸檬……?」
「え……? い、維澄さん? どうしてここに?」
「いや、ちょっと昼食を、と思って……。それより、今の……」
しまった。
見られた。
「えっと……」
とっさのことで、私の目が泳いでしまう。
「なんで……なんで、上條さんと檸檬が……」
維澄さんは驚愕の表情を浮かべ、顔を真っ青にしていた。
まずい。
上條さんと別れて安心したのもつかの間。
私はまたもや、絶体絶命の窮地に追い込まれてしまった。




