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上條裕子

「維澄。私、モデルやめようと思ってる」


 上條裕子は、あまりにも簡単に、その言葉を維澄に投げつけた。


「え? な、何を言いだすんですか、裕子さん」


「私ってプライド高いじゃない? だから、一番じゃなければ嫌なの」


 笑いながら上條裕子はそう返したが、冗談を言っている風ではなかった。


 だからこそ維澄は困惑し、苛立ちをぶつけた。


「意味がわかりません! 裕子さんは今だって、間違いなく一番です」


「ハハハ。今はそうかもしれないな。でも、すぐにそうではなくなる」


 裕子は思い出していた。


 渋谷の喧騒の中で、まるでスポットライトを浴びていたかのようにそこに立っていた少女――彼女をスカウトした日のことを。


「維澄。私はあなたをプロデュースしたい。私という『個』のモデルとしての限界より、あなたを磨き上げて『最高傑作』にする方が、今の私にはよっぽど価値があるんだ」


「……は?」


 維澄の口から、間抜けな声が漏れた。


 モデルになって日も浅い自分を指して、裕子は「自分を超えるモデルだ」と言い切ったのだ。


「そ、そんな真面目な顔で冗談言わないでください……っ!」


 維澄は必死に抵抗した。


 尊敬する彼女が、自分のような未熟者のために、その輝かしい座を降りるなどあってはならない。


 だが、裕子の瞳に揺らぎはなかった。


 彼女は少しだけ表情を緩め、諭すように語りだす。


「いい、維澄。実のところモデルをやめる理由は、一番でなくなるとか関係はない。ただ私があなたをプロデュースしたくなったのよ」


 裕子の言葉が、維澄の耳を熱く打つ。


「今の私にとって最大の関心は、自分がカメラの前に立つことじゃない。維澄、あなたを業界一のモデルにすること――嘘じゃない、本気だよ」


 その瞬間、維澄の視界が白く明滅した。


 彼女の語り口は、どこまでも論理的で、冷静な分析に基づいたものだ。


 しかし、人との接点を遮断して生きてきた維澄にとって、その言葉は甘い毒薬のように全身へ巡ってしまった。


 裕子さんが、私を……?


 モデルを引退してまで、自分に人生を懸ける?


「私は事務所を立ち上げる。維澄、あなたが私の事務所のモデル第一号になってほしい」


 裕子が認めたという事実は、業界では絶対の価値を持つ。


 その彼女が、二十二歳の若さでキャリアのすべてを投げ打ち、自分一人のために城を築こうとしている。


 維澄は叫びだしたいほどの歓喜に震えた。


 憧れの上條裕子が、自分をこんなにも頼って、「他人に渡したくない」とまで言った。


「……はい。私、やります。裕子さんのためなら、なんだって」


 維澄は観念したように、しかし熱に浮かされた瞳で頷いた。


 たとえ彼女の目的が愛ではなく、ただのビジネスであったとしても。


 彼女の「最高の一番」として、その手の中で踊らされる人生なら、これ以上の幸福はない。


 憧れ、羨望、そして言葉にできないほど重い執着。


 この日、維澄の人生のハンドルは、本人以外の誰かに、永遠に明け渡されたのだ。

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