嫉妬と狂喜
私は盛岡駅前にいた。
今日、学校が半日だったから、アルバイト前に少し足を延ばした。
地図アプリによれば、目的地までは「徒歩15分」。
思ったより近い。
しばらく歩くと、北上川にかかる橋が見えてくる。
その橋を渡り終えたところで、白い大きな建物が目に入った。
今日の目的地――美術館だ。
維澄さんに「審美眼を鍛えろ」と言われたから早速、という殊勝な目的でではない。
ただ、維澄さんが通っている美術館に、私も行ってみたいと思っただけだ。
彼女が興味のあるものを、私も見てみたいという欲求。
もしかしたら、それをきっかけに話も弾むかもしれないという期待もある。
美術館の自動ドアをくぐったが、はじめてなので、どこをどう見ればいいのかも分からない。
私は、とりあえず奥へ向かった。
受付を終えてから、私は特にルートを決めず、ぼんやりと廊下を進んだ。
やがて、床が木の板に変わったエリアに入る。
そこは、古い時代の肖像画や風景画が並ぶ部屋だった。
通り過ぎようとした瞬間、部屋の隅にある青い壁面に、ふと視線を奪われた。
近づいて、目を凝らした。
それは、女性の肖像画だった。
暗い色調なのに、女性の瞳には鋭い光が差している。
あれ?
この絵。
どこかで見たことある?
いや、違う。
誰かに似てるんだ。
誰だったかな、この顔。
……あ!!
え?
ま、ま、まさか!
私は、ある想像に頭を支配され、この絵に釘付けになり、動けなくなってしまった。
「この絵が気になりますか?」
私があまりに長くそこにいたからだろうか、美術館の職員らしき初老の男性が話しかけてきた。
「は、いえ……あの、知っている人に似ていたので」
私は急に話しかけられたので、しどろもどろになってしまった。
「そうですか。実はね、やっぱりこの絵が知り合いに似ているとかで、よくここを訪れる女性がいるんですよ」
維澄さんだ。
間違いない。
私は、自分の想像が間違っていないことを確信した。
審美眼を鍛えるなんて嘘。
維澄さんは、この絵に、この絵の“人物”に……
“会いに来てる”んだ。
私は“そのこと”に気付いてしまって、言葉を失った。
血の気が引いていくのを感じる。
「ど、どうしました? 大丈夫ですか?」
数歩よろめいてしまった私を心配した美術館の男性が、声を掛けてくれた。
私は、なんとかその動揺を抑え込みながら、口を開いた。
「ええ、ちょっと立ちくらみしただけです。私、ちょっと貧血気味で」
「そう、顔色悪いよ? ちょっと休んでいきなすったら、どうですか?」
「ありがとうございます。でも、大丈夫です。すいません。ご心配かけてしまって」
この肖像画に似た女性。
私は知っている。
維澄さんのことをネットで調べていた時に、いつもヒットしてくるから……。
その顔は、よく覚えている。
そうだ。
この絵の女性──
Kスタジオの……
上條裕子社長に瓜二つだ……。
私は、まるで夢遊病者のように、フラフラと美術館を後にした。
私が一枚の写真を手がかりに、“モデルIZUMI”……つまり維澄さんをネットで調べていた時、「IZUMI」「モデル」という二つのキーワードを使った。
このキーワードで、いつも検索の上位にヒットするのは、「Kスタジオ」の関連ページだった。
モデル業界を牽引する、最大モデル事務所を兼ねるKスタジオ。
Kスタジオのモデルは、今をときめく『YUKINA』にしても『MISAKI』にしても、必ずローマ字表記の名がつく。
それが“ブランド”になって、ローマ字表記のモデルは「Kスタジオのモデル」として、業界のステータスになっていた。
だから「IZUMI」というモデル名から、維澄さんが「Kスタジオ」のモデルであることを、確たるものにしていた。
そして、このKスタジオを芸能界最大の事務所に押し上げたのが……
あの肖像画と瓜二つの顔をした社長、上條裕子だった。
自身も元モデルという経歴を持ち、その美貌は現役モデルで通用するほどだ。
年齢がまだ29歳という、若手敏腕社長。
私は、維澄さんのことをネットで調べていた時、何度もこの上條裕子の写真を見ていたので、よく覚えている。
だから間違いない。
今や、マスメディアに強大な影響力をもつKスタジオなら、IZUMIというモデルの存在を、ネット上から抹殺する情報操作ぐらい、訳はないと思う。
だから、私がどんなに維澄さんの情報を求めて、ネット上を探しまわっても、何も出てこなかったのだ。
そして、維澄さんがモデルを辞めた理由。
つまりそれは、上條社長がいる「Kスタジオ」を去ったということになる。
維澄さんがモデル業界から去ったことに、上條社長は深く関与している。
私は、そんな想像に辿りついていた。
はっきりした根拠があるわけではないが、この予感はきっと当たっている。
でなければ、維澄さんが、毎月“上條裕子”に瓜二つの絵に“会いに来る”理由がない。
そして……
スタジオを突然去って、しかも情報まで消されているという事実だけを見れば、上條社長は、少なくとも維澄さんの存在に、ポジティブな印象を持っていないように感じる。
でも、きっと維澄さんにとっては、そうではないのだ。
だって、会いたくもない人に、会いに行く理由はない。
その事実だけは、はっきりしてる。
だとすれば……ある可能性が、私の心に去来する。
その可能性とは……
維澄さんが、かつて……
この上條裕子という女性を、愛した可能性だ。
私は、そのことへの激しい嫉妬と……
そしてなによりも、もしかすると……もしかすると……
維澄さんが“女性を愛する人かもしれない”という、狂喜のはざまで……
気が狂いそうになった。
もちろん、私の妄想という可能性は残る。
でも私は、維澄さんのことに関しては、間違えないという、根拠のない自信があった。
でも、その自信は、今回に限っては、私にとっては嬉しくないのだ。
維澄さんが、もしかすると“上條裕子”という女性を愛した可能性がある。
だとすれば……ほんの僅かだが、維澄さんが私に向いてくれる希望だって、あるのかもしれない。
でも、私は、そんなに楽観的に考えられないと思っている。
仮に、維澄さんが上條裕子を好きだった過去があったとしても、短絡的に、維澄さんが同性愛者だと決めつけることはできない。
それは、上條裕子という人間を見れば明らかだ。
テレビにも、よく出演する上條社長。
頭の回転は速く、歯に衣を着せぬ鋭い言動、立ち振る舞い。
どれを取っても、並の男性よりも、よっぽど男らしい印象がある。
きっと、上條さんが男性でも、維澄さんは上條さんを好きになっていても、不思議ではない。
維澄さんは、上條社長が女性だから好きになったんじゃない。
上條社長だから、好きになったんだ。
そもそも、私だってそうだ。
私は“女性しか愛せない”という感覚は、全くない。
ただ、維澄さんが好きなのだ。
男とか女とかという次元に、この感情はない。
私は、あまりに動揺が激しく、気分が悪かったことと、冷静に維澄さんに会う自信がなかったので、維澄さんには迷惑をかけるが、今日のアルバイトを休もうと思っていた。
しかし、もたもた連絡しないでいたら、そういうわけにいかなくなってしまった。
私がバスで地元まで戻ってきて、バス停から歩いていると、突然、背後から聞き慣れた声が私を呼んだ。
「檸檬?」
その声の主は、自転車に乗りながら、スポーティーなショートカットを風になびかせ、笑顔で近づいてくる浅沼美香だった。
「み、美香……」
「何やってんのよ? どっか行ってきたの?」
「ええ、ちょっと盛岡駅まで」
私は、また美香に嘘をつき、目を泳がせてしまった。
「そう。帰り道でしょ? 久しぶりに一緒に帰ろうよ?」
美香は、私の曖昧な表情に触れずに、笑顔で答えた。
「う、うん……そうだね」
私は、まだ動揺が醒めきらず、少しぎこちない応対をしてしまったが、美香は気にすることなく上機嫌だった。
美香は、部活帰りなんだろう。
「あ、でも先にドラッグストア寄るから、ちょっと付き合ってよ?」
え?!……
そ、それはまずい。
今日は、今日だけは、店に顔を出せない。
だめだ。
今は、維澄さんに会える状況じゃないし、美香にもバイトのことがバレる。
私は、どうすればいいのか、必死に答えを探したが、すでに、さっきからの乱れ切ってしまった心で、この状況を的確に判断するだけの思考力は、残ってはいなかった。
だから私は、“まずい”と思いつつも、流されるように、美香の後について、維澄さんがいるドラッグストアに入るしかなかった。




