35.遭わせ
“建設中につき、立ち入り禁止”
そう書かれた看板の奥。養生シートがかかったままの建物から、ごそごそと動く音が聞こえてくる。
独特な獣臭さが充満する部屋の中で、その男は目を血走らせ鞄に荷物を放り込んでいた。
「くそ、くそっ! 見られた! ここはもうダメだ! 早くこれを持って逃げないと……!」
男は証拠隠滅を図るためにこのビルへと戻ってきていた。
紡生を追って駅前まで行ったときに逃げてもよかったのだが、もしも警察に通報されてアジトがバレてしまえば指紋が出てしまうかもしれない。
それに――
男は落ちくぼんだ目を台の上へと向けた。
「久しぶりに見つけられた獲物をみすみす逃がすわけにはいかないんだよっ」
男の視線の先には力なく横たわったままの三毛猫がいる。
まだ息はあるものの苦し気な呼吸音を響かせる猫は、それでも男から逃れようと懸命に足を動かした。
「……ふ、ククク」
男は先ほどまでの焦りを忘れ、恍惚とした様子でそれを眺めていた。
猫が自分を恐れ、逃げようとするのが心地いい。
まるで自分が絶対的な強者になれたかのような、そんな気分になるのだ。
「最高だ。何度経験してもこれだからやめられないんだよなぁ。下等生物は人間様に使われてなんぼだからな。有効活用してやっているんだからありがたく思えよ」
歪んだ笑みを浮かべた男は、ここ最近巷を騒がせている毒事件の犯人だった。
猫を捕まえて逃げられないように閉じ込め、弱い毒を打ち込んで徐々に体力を奪っていく。
すべては自分を恐れた目で見てほしいがため。
男はそのためだけに多数の猫を捕まえ、この場所へと運んできた。
男にとってこの放置ビルは天国のような場所だった。
人は近づかないし、カバーで覆われているので人目も気にしなくていい。
音の問題も、猫から鳴く元気を奪ってしまえば気にする必要はなかった。
まさに男の為に用意された様な場所だ。
「それなのに手放さにゃならんなんて……それもこれもあの女のせいだ」
あの女――駅前で青ざめていたあの女の邪魔さえ入らなければ、今頃もっと楽しめていたはずなのに。
「……女一人だったらよかったのにな」
女だけだったらナイフでもちらつかせれば解決できたはずだ。
うまくいけば、他の愉しみ方もできただろうに。残念でならない。
「まあいい。とにかく今はここから離れて別のアジトを作る。こいつで楽しんだ後は……あの女の足でも切ろうか。動けなくしていたぶって……」
男はぶつぶつと独り言を言いながら、三毛猫へと手を伸ばした。
「――それが、あんたのやり口か」
「っ!?」
突然、人の声が聞こえた。
男は青ざめ後ろを振り返る。
「……? 誰も、いない?」
振り返った先には誰もいなかった。
確かに人の声……しかも男の声が聞こえたはずなのに。
「こっちだよ」
「だれだ!? ……っい!」
男の手に鋭い痛みが走った。
掴もうとしていた三毛猫が男の手をひっかいたのだ。
三毛猫は男の魔の手から逃れると、ライトの明かりが届くぎりぎりの場所へ着地した。
毒で弱っていたはずなのにその動きはいやに機敏だ。
「予想通りのくそ野郎だな。まあオレからすればそっちの方がやりやすくていいけどな」
「え……?」
そしてまた声がした。猫から、声がしたのだ。
「ね、猫が……しゃべっ⁉」
男は愕然として後ずさる。
台に腰が当たり、ライトが落ちた。
ガシャンと激しい音を上げたライトはくるくると回り、猫を照らして止まった。
壁に伸びた猫の影は大きく、そして不気味に揺れていた。
「なんだ。猫がしゃべることが不思議か?」
「ど、動物がしゃべるなんてありえない!」
「おいおい、傷つくな。あんたが知らねぇだけで動物は言葉を理解しているんだぜ? ……まあ、知ろうともしなかっただろうがな」
猫はそう言って笑うと飛び上がった。
空中でくるりと円をかいたと思ったら、次の瞬間には猫が着物姿の男へと変わっていた。
琥珀色の目をした派手ななりの男だ。
「なあ? 連続猫殺し犯、柴田強さんよ」
「な、なんでボクの名前……!? いやそれより、猫が人に……!? ば、化け物!!」
自分の目がおかしくなったのだろうか。
猫が人間になるだなんてありえない。それに人の気配なんてなかったはずだ。
それなのに着物の男は悠然とそこにたたずんでいる。
柴田は今見たものを信じられず半狂乱で叫んだ。
「クク。化け物か。あながち間違いでもねえ。オレはあやかしだからな」
「あ、あやかし!?」
「そう。オレは五徳猫のミケ。アンタが生み出した《《悲劇を見せるため》》にやってきた」
ミケと名乗った男の目が怪しく光った。
暗闇の中でも不思議なほどよく光るそれは、すべてを見透かしているようで気味が悪い。
「な、なに言ってんだ! あやかしなんている訳ないだろう!! それに見せるとかなんとか訳の分からないことばかり言いやがってっ!!」
「ふうん? あやかしがいないねぇ……。なら《《背中に乗っている》》そいつらもアンタにとっちゃいないものと同じってわけだ」
ミケは一歩近づいた。
「だが……そうは問屋が卸さねぇ」
言うと同時にミケの瞳が黒い炎を宿す。
すべてを飲み込むような真っ黒な闇、そのものだった。
「ひっ!!」
「アンタみたいなやつはいつの世もそうだ。自分の行動がどれだけの悲劇を生み出すのかすら分かってねぇ」
「や、やめ! 来るなっ、来るなあああ!!」
ミケはゆっくりと柴田へと近づいてくる。
同じように黒い炎も床を伝い、意志を持っているかのように柴田を包もうと近づいてくる。
柴田はしりもちをつきながらも必死に後ずさっていくが、壁にぶつかり止まってしまった。
目の前まで迫っていたミケは柴田の顔の横に手をついて笑った。
「生み出したからには責任を持たないとなぁ?」
「う、うわああ!?」
瞬く間に黒い炎が柴田を包み込んでいく。たまらずに叫ぶけれど―ー
「……?」
不思議なことに全く熱くない。
戸惑いを隠せない柴田の耳に、くつくつと笑う声が届いた。
「安心しろよ。黒炎はアンタを燃やしたりはしない。言っただろう、見せるために来たと。これはそいつらに遭わせてやるためのもんだ。《《見えないやつでも見えるように》》、な――」
ミケの言葉と同時に黒い炎が背中へと集中していく。
そして――ふいに生臭さが鼻をついた。
「………………ぁ」
ズルリ、と音がした。
地を這うような濡れた何かが動く音が。
自分の、すぐ後ろで。
背中は壁についているはずなのに、おぶさっているような、しがみ付かれているような重みを感じる。
腰には爪をたてられているような痛みが、首筋には湿った風が、それぞれ不規則的に体を這っていく。
先ほどまではなかった感覚に肌が粟立ち、体が硬直する。
「そいつらはずっとアンタに憑いていた。恨みにまみれた臭いは遠くからでもよくわかるほどに強烈だったぜ」
ミケは前から怨霊の放つ臭いを感じ取っていた。
それこそ、白動物病院でハチを治療しているときから―ー。
けれどそんなこと、柴田は知る由もない。
そもそもミケの言葉は柴田に届いていなかった。
今、柴田の頭の中ではただひたすら警鐘が響いていた。
見てはいけない。
振り返ってはいけない。
そう分かっているのに、柴田の意志に反して首はゆっくりと後ろへと回っていく。
「ひっ……!」
短い悲鳴がもれた。
黒いドロドロとした何かが、いた。
ぼとぼとと何かを落としながら、それでも背中にへばりついていた。
人間でも、動物でもない、原型のない、何かが。
落ちていく塊が地面にぶつかるぐしゃりという音だけが鮮明に耳に届いた。
心臓が縮み上がり、呼吸が荒くなっていく。
柴田は目を見開き、瞬きすらできなくなった。
見たくないのに、目を閉じることも、首を前に向けることもできない。
黒い何かには、二つの赤い目がついていた。
その二つの怪しい光が、まるで《《喜ぶように》》歪んだ。
――ぞわり
全身の血が逆流するかのような気持ち悪さが、体を支配する。
柴田は力の限り叫んだ。
「う、うわああああぁぁああ!」
ふり払おうともがくも一向に離れる気配がない。
それどころかどんどんと重くなってきているようで、柴田はその場に膝をついた。
「よく見えるだろ。黒炎は罪を具現化する炎。そいつは怨霊。アンタの業そのものだ」
「た、助けて! 取ってくれ!! 頼むっ!!」
「助けてと訴えられてアンタは助けたのか?」
いいや助けていない。だから怨霊がついているんだ。
ミケの目はそう雄弁に語っていた。
「そいつらは待っている。自分たちを殺した、あんたが息絶えるのを」
「嫌だっ! とって! 取ってくれぇ!」
「残念だがオレは手を出さない。こいつらだってなりたくてなったわけじゃない。アンタのせいでそうなったんだ。だから、自分だけ罪から逃れようなんて許されないんだよ」
ミケは凍り付く様な笑みを浮かべた。
「命を粗末に扱う者には相応の罰を与えなきゃな?」
「嫌だあああああああ!!」
ぐしゃり。
怨霊の重みに耐えきれなくなった柴田は地面に潰された。
「ぐ、うぅ……重いいぃぃ!」
「心配すんなよ。すぐには死なねぇさ。あんたがやったように、な」
柴田の顔が絶望に染まった。
自分がやったようにということはすなわち、じわじわとゆっくり苦痛を与えていくということ。
毒が体を蝕んで弱っていくまでの時間を苦しみ抜くということだ。
ぶるぶると体が震える。
おびただしい量の汗が顎から落ちていった。
今でさえ重みで潰れてしまいそうなのに、これがずっと続くなんて耐えられるわけがない。
柴田は顎が震えるのもそのままに、涙を浮かべてミケを仰ぐ。
どうか助けてくれと願いながら。けれど――
「自業自得だな」
最後に見たミケの眼はどこまでも無機質なものだった。




