30.遭遇
ビルの中はとても暗かった。
電気がついていないからか、朝だというのに不気味な雰囲気が漂っている。
足元を見れば埃をかぶった道に、靴の跡がついていた。
恐らくあの男の人のものだろう。
それを辿り三階まで上がると、足跡はとある一室へ入っていった。
少し空いていたドアを押してみると覗ける隙間が空いた。
「……っ」
ドアが開いたのと同時に、生臭さが鼻に届く。
思わず鼻と口を手で覆った。
ひどい悪臭だ。
目の奥がツンとして涙が出そうになる。
(……この臭い)
何度も嗅いだことのある臭いだ。
直近だとハチを探していたときにも。
(怪我をした動物の臭い……?)
なぜそれがここから……?
嫌な予感に心臓が痛くなってくる。
それでも確認しないといけない。
紡生は意を決して奥を見つめた。
部屋の中は暗かったが、先に入った男がつけたのであろう卓上ライトが灯っていた。
おかげで部屋の全貌が一望できた。……できてしまった。
「……!!」
吐き戻された跡のあるケージ。
赤黒いシミのついたハサミ。
不衛生な診察台と注射針。
そしてその上に転がされた黒い袋。
ひどく煩雑とした部屋の中にたたずむ男。
それらはイヤな予感が的中していると悟るには十分すぎるものだった。
(……犯人だ)
今世間を騒がせている毒事件の犯人。
猫を標的に苦しめ殺しているという当事者。
まさかこんな形で当たりを引くとは思わなかった。
(おちついて。大丈夫、まだ気づかれていないはず)
紡生は音を立てないよう細心の注意を払いつつ、鞄からスマホを取り出した。
カメラアプリを開き、ビデオ録画へと切り替える。
その間、男は診察台らしきものの上で袋を漁っていた。
「へへへ。ラッキーだったなぁ」
粘着質な笑い声が響く。
袋から引きずり出されたのは、ぐったりと力なく横たわる《《三毛猫》》だった。
(――っ!)
その猫からは苦し気な息遣いが聞こえてくる。
恐らく毒を盛られたのだろう。
手が震える。
恐怖からではない。激しい怒りによるものだ。
本当はすぐにでも止めたい。
けれど相手は男。真っ向から力勝負になれば紡生に勝ち目はない。
だから証拠を撮り、応援を呼ぶ。
それが紡生にできる一番の道だ。
そう分かっているからこそ、震える手を押さえつけてカメラを向けた。
あとはボタンを押せば証拠が撮れる。
そんなとき、無情にも着信の音が辺りに響いた。
「っ!!」
「誰だっ!?」
男が振り返り、こちらへと走ってくる。
紡生は一目散に逃げ出した。
暗い建物の中、階段を駆け下り外へと飛び出す。
男が追ってくる気配はあったが、陸上で鍛えた脚力には追いつけないようだ。
紡生はそのまま来た道を戻り、駅前の人ごみに紛れ込んだ。
ドクドクと、心臓が痛いほど鳴っているのが分かる。
男も大通りへとたどり着いたのが見えた。
後姿を見られただろうか。認識されただろうか。
人に紛れていても姿を見られていたら逃げ切れるか分からない。
本当はすぐにでも走り出したい。男から距離を取りたい。
でもそうしてしまえばせっかく紛れているのに、居場所をばらしてしまうことになる。
どうするのが正解なのだろう。
このまま紛れているのが正解か。それとも走り去るのが正解か。
(……どうしよう)
本能的な恐怖が湧き上がり、冷や汗が止まらない。
人に紛れていてもこれでは気がつかれてしまうかもしれない。
仮に走ることにしたとしても、足がもつれて転ぶ可能性だってある。
捕まれば終わり――。
そう思うと余計に体が動かなくなってくる。
「――ねえ」
「!!」
ふいに肩を掴まれた。
悲鳴と心臓が口から出そうだったけれど、その前に大きな手で抑えられてしまう。
本能的な恐怖で涙がにじむ。
「まって。僕だよぉ、僕」
(……?)
聞こえてきた声は犯人の粘着質なものではなかった。
どこか間延びした、安心する声色。
視線を背後に向けると、熊のような巨体の――。
「ふぁああうふぁん(神余さん!)」
「はい。僕です」
いたのは穏やかな笑みを浮かべた神余だった。
「もう叫ばないかな?」
頷けば手がどけられる。
「あ、か、神余さん! 実は……」
「しー。今は静かにぃ」
すっと指を向けられた方向を見れば、犯人の男がこちらをジッと見つめていた。
「!」
「大~丈夫。僕にお任せぇ。話はあわせてねぇ」
なぜかは知らないが、神余はどういう状況なのかを理解してるらしい。
犯人の男が近づいてきても焦った様子もなく、いつも通りの笑みを浮かべていた。
「なあ、ちょっと。そこの女、体調悪そうだけど」
犯人と目が合い息が浅くなる。
バレているのかバレていないのか分からないが、手の届く距離に犯人がいるのが怖い。
震えて何も言えない紡生を庇うように神余が前に出た。
「ああ、ちょっと貧血を起こしちゃったみたいでねぇ。さっきまでそこの喫茶店でバイトしてもらっていたんだけど、あまりに体調悪そうにしていたからこれから送るところなんですよぉ」
神余が指さす先には駅前の喫茶店がある。
どうやらその店の従業員という設定らしい。
どうするつもりなのかは分からないけれど、紡生はただ黙って成り行きを見守っていた。
「……ふーん?」
「頑張って働いてくれるのは嬉しいんだけど、無理はしないでほしいなぁ。どう? 歩けそう?」
「え、は、はい。……あっ」
突然だったので少しふらついてしまった。
「うーん。これはちょっと店で休んでからの方が良さそうだねぇ。すみません。僕達は戻りますね。それよりあなたは大丈夫ですか?」
「え?」
「ほら、なにか急いでいるようですし。手伝えることあれば手伝いますけどぉ」
「……いや」
犯人は気まずそうに背を向けて人ごみに消えていった。
「……もういいかな」
しばらくして犯人が見えなくなると、神余は紡生へ手を差し伸べた。
「たぶんまだその辺にいるから、いったん店に入ろうか。ついてきて」
神余に支えられながら喫茶店に入っていくと、店のオーナーが親し気に話しかけてきた。
どうやら知り合いらしい。
事情を話すとすんなりと席へと案内された。
大きな窓からちょうど死角になる席だ。
「しばらくいていいって。少し休もうか。ここのココアは美味しいんだよぉ。紡生ちゃん飲める?」
「え、あ、はい」
「よし、じゃあココア二つお願いします~」
その間にスマホがメールを受信した。
見ると神余からのメールだった。
『あいつまだこっち見てるから、窓の方は見ないように。話は猫社戻ってからしよう』
「!」
それが本当かどうか、紡生には確かめる勇気はなかった。
ただひたすら下を向き、時間が過ぎ去るのを待つ。
いつの間にか降ってきた雨が、窓をうつ音だけが響いていた。




