第80話 駄目隊長の撤退宣言と、幼女中佐の恋愛禁止令
誠が出ていくと、嵯峨は閉まったドアをしばらくぼんやりと眺めてから、静かにため息をついた。
「新米社会人は『勝つ』ことしか考えてないんだねえ……勝つ?そんなの世の中じゃ最高でも二人に一人に与えられた特権だ。ランの奴の好きな将棋とかは一対一で戦うからどっちかは勝つし、どっちかは負ける。でもそんな勝負はまれなの。世の中ほとんどの人間は『負け』ばっかの人生を送る……それが人生の当たり前の話なのに……そんなに『負け』を認めるのが嫌なの?俺は『常敗の将』を自認してるけど、世の中にはどこからどう見ても『負け』てるのにそれを認めなくない人が多すぎるね。まずさあ、神前。お前さんはここに来た時点で人生『負けてる』んだ。というかこの『特殊な部隊』は負け犬の集団だ。誰もが一度は『負け』てそれから立ち直れないでいる。そう言う俺が一番の『負け犬』なんだがね」
くたびれたソファと散らかった書類、冷めた缶コーヒーが置かれている。
「そう、俺はいくら勝っても『負け犬』なんだ。だからこそまだ生きて指揮官をやっているわけだ」
嵯峨は自分自身に向けて薄く笑った。
薄汚れた蛍光灯の白い光の中で、隊長室はいつも通りの『駄目な空気』を漂わせている。
「自分が『勝ってる』という妄想に囚われている連中が世の中多すぎるよ。アンタ等、口ではいいこと言って自分は『勝者』だと言うが、そもそも真の『勝者』はアンタたちみたいに目立つ場所に立ったりする無駄なことをせずに勝利の余韻に浸ってのんびり余生を過ごすもんだ。神前よ、お前さんの好きなアニメの主人公は勝利したら物語が終わるじゃん?つまりね、勝者には『静かな余生』を過ごすか『再びたたかっってもう立ち直りようのない負け犬』になるかしかないんだ。どちらも視聴者なんて期待できない物語りしかできないよね。だから、連中が勝利した時点でその物語が終わるんだ」
嵯峨は静かに去っていったこの負けの決まった『特殊な部隊に』残ることを決めた英雄である誠の事を考えていた。
「自分が『敗者』にならないために、最初から『逃げる』ことを前提に物事を動かす実業界や官界を知らない。夢と破綻する理論だけを振りかざすことが自慢の『アホ』がメディア向けに言いそうな言葉だよ。軍や警察のOBなんていうのは自費出版でそんな自叙伝を恥ずかしげも無く書いたり、コメンテーターとして自分が知ってる狭い世界を世の中の人がそこを知らないからって偉そうに言うけどアンタ等本当に戦争をしたことはあるの?本当に『致命的な負け』を経験したことがあるの?無いよね。俺にはある。だから俺には連中を弾坐する権利と義務がある。いつまでも。だから、負けない国なんかない……そして滅びない国は無い……諸行無常……ランの持ち歌が『人生劇場』なら俺の持ち歌は『平家物語』だからな。アイツの歌はCD出てないけど俺の『平家物語全段』はちゃんとCDになって東和共和国の全国の高校の音楽室にあるんだぜ……まあ、売れた枚数からしてこの国の高校の購買が勝った数以外のリスナーはほぼ0らしいけど」
ぼやきながら、嵯峨はぎしりと音を立てる椅子にもたれ、机の引き出しに手を伸ばした。
ガラガラと乱暴に引き出しを開けると、領収書とメモ紙とガムの包み紙の下から、一枚の写真を指先でつまみ出す。
「『廃帝ハド』……この宇宙の知的生命体すべてから『逃げ場』を奪うことを目的に復活した化け物『法術師』か……俺達が最終的に戦う敵……本当に勝てるのかね?俺達?」
写真に写っているのは、二十歳前後にしか見えない長髪の美男子だった。
鋭く整った目元と、どこか人間離れした整いすぎた顔立ち。冷たく澄んだ瞳の奥に、底なしの虚無が沈んでいる。
嵯峨もまた、そのくらいの年齢にしか見えない。
幼なじみでもない、兄弟でもない。だが『死ねない』という一点だけで、二人は奇妙な『同類』に見えた。
「神前よ、お前は確かにうちに残ると決めた。ただ、お前さんは俺の育った国甲武国の士族達のような『サムライ』じゃない。『サムライ』は武士だから二言は許されないからあれだけの啖呵を切ったら逃げ出す時は腹を切ってあの世に逃げ出す以外ないが、お前さんにはそんな義務はないんだ。いいや、甲武の士族達だってあれだけ『敗走』を『転進』と呼んできっちり逃げてたじゃないの。人間は逃げていいんだよ……そうだよ、嫌なことがあれば逃げればいい。それができない世の中は狂ってる。今の地球や俺の育った甲武……どちらも逃げられない地獄……義兄貴が言う『甲武の身分制の問題』は逃げられないという現実を突き付けられることにある。だから俺は義兄貴の政治に力を貸している……逃げられない境遇……それは地獄だ……そんなことを若いもんに押し付ける人間は正気じゃない」
写真を指先で弾くようにしてから、嵯峨はぽつりとつぶやく。
「まあ、この宇宙から逃げる。地球人には考えもつかないことだし、俺にはできねえけど、ランはいつでもこの宇宙が地球人の歪んだ野心に染め上げられていく様を見限っていつでもこの宇宙から別の宇宙へ逃げられるよ。アイツは『人類最強』で『人外魔法少女』だからそんなことをするなら『地球人を絶滅させる!』とか言いそうだけど」
嵯峨は真顔で『人類滅亡』をやり遂げると語る幼女の姿を想像して苦笑した。
「そんな残酷なことはやめてあげなさいって。アイツだってゴキブリを殺すことさえ無益な殺生だと言って嫌がるんだから、ゴキブリよりは会話が楽しめる分だけマシな地球人にも生きる権利くらいあるんじゃないの?だから、そん時はラン、お前さんが逃げてやればいい。お前さんにはその資格があるんだ。それに永遠に死なねえし、いつでも好きなところに『跳べる』からな。たとえこの遼州が太陽の膨張で駄目になっても、この宇宙の外でさえも『空気』と『水』と『食いもん』さえある場所ならアイツは普通にそこを見つけて跳べる。そんなアイツがこの宇宙を見捨てずに鬼軍曹気取って生きてるんだ」
どこまでも真っすぐなランと自分を思い返すと嵯峨にはあまりにも自分が汚いものに感じられてきてタバコをくゆらせる指が揺れた。
「この130億年かけて育った宇宙の外の、食い物と空気がある『別の世界』に逃げられるんだ……ランはね。アンタはランというそんなトンデモナイ敵を相手に人戦しようとしているんだよ?そのこと分ってアンタはランと敵対しているのかね?それとも何か勝ち筋が……見えてるんだろうな……俺やランには敵が多すぎる。それを利用すれば勝ち筋は有る。そのくらいのことは俺にも分かるよ」
机に肘をつき、頬杖を突いた。
天井の汚れたパネルを見上げながら、その面差しには少し寂しげな表情が浮かんでいる。
「でもな、ランはもう逃げたくないって言うんだ。残念だったな。『ハド』さんよ。アンタを楽には勝たせないランというこの宇宙で最強レベルのカードは俺の手元にあるんだ」
口元だけが自嘲気味に歪む。
「あいつは、もう逃げるのはこりごりだって言うんだ。そのために『体育会系縦社会』のうちの伝統を作って、ぶっ叩いて部下を育てて、『逃げる必要のない』世の中を作りたいっていうんだよ……どう思う?すべてを支配しようとする『不死の王』さんよ……」
静かに手にした写真を見つめる嵯峨の目には涙が潤んでいた。それは『強者』であることに拘り過ぎる敵への憐みの感情が混じっていた。
「たぶん、アンタには理解できないだろうな……力あるものが支配すればすべての問題は解決する……確かに俺としてもそれに矛盾を見出すのは難しいが……いずれ歪みが来るぜ……そんな世界にも……この世は全て『諸行無常』……確かに俺やランはアンタに殺される以外死ぬことは想像がつかないが……そうでなくても終わりが来るかもしれない……ただそれを俺もランも知らないだけ……逆に俺はそれで良いと思ってるんだ……」
嵯峨はそう言うと、ポケットからタバコを取り出した。
安物のライターをカチカチと二度三度鳴らし、ようやくオレンジ色の火がつく。
「アンタの理屈だと俺やランはアンタの理想の世界では力あるものとしてアンタに生きる資格を与えられるらしいね。ただ、俺達はそんな資格は要らねえよ。それを断固拒否する。ただ、ランも俺もお前さんが本気を出して殺しにかからない限り死なないんだ。死にたくても死なないんだ。自分の犯した罪の責任を取って、あの世に逃げ出すっていう、人間本来の逃げ方すらできないんだよ……地球人だったら……俺もランも地球人だったらよかったのに。俺は多くの罪のない人の命を奪った罪で銃殺された段階ですべての責任を取ることができた」
その言葉を吐いた時の嵯峨の表情はこわばってまるで取り返しのつかないことをしてしまった子供のようだとみるものは思ったことだろう。
「それはランだって俺に負けた時俺に殺してくれと言ってきたが俺にはそれが出来なかったし、それゆえにランも多くの人を殺した罪を背負いながら生きている。でもそれが何の解決にもならないことくらいアンタが一番よく分かってるんじゃないかな?殺せば終わる。確かにその通り。ただ、それは次の殺人を準備するだけの話しなのは歴史の教えることだよ。死刑ですべてが解決するのならこの宇宙の……いや、あらゆる次元の知的生命体はいずれ起きる人殺しの責を取って死ななきゃならない……と俺は思うよ……」
タバコに火をつけながら、嵯峨は煙を深く吸い込み、ふうっと長く吐き出した。
紫煙が、書類とコーヒーのシミと共に染みついた隊長室の空気に溶けていく。
「俺もランも……そしてアンタも『不完全な生き物』だな。終わりがあるから生き物は生きているって言うんだ……死ねる人間は死んだ時点でその本人の責任は免除される……ただ、残された人間はいずれ同じような罪を犯す……それが歴史というものだと俺は思うんだが……アンタはそうは考えていないみたいだね……アンタが支配すればすべての罪は免除されるらしいが……アンタの支配は俺にとってはより闇の深い『罪』以外の何物でもない……だから俺とアンタは戦わなきゃならないんだ……悲しいねえ……」
天井に立ちのぼる煙を目で追いながら、嵯峨はゆっくりと言葉を紡いだ。
「この宇宙が始まって130億年。でも俺達遼州人は、どうやらその前に他の世界で生まれて、1億年前に『始まりの鎧』、古代『リャオ語』では『ダグフェロン』に導かれてこの宇宙に来てしまった、哀れな『死ねない』奴が混じってる知的生物みたいなんだわ……死ねる命ばかりのこの宇宙……羨ましいねえ……」俺達は異物なんだよ。排除されるべき異物だ……その異物感……それを正当化するアンタは本当に正しいのかい?」
口調は軽いが、その内容は重い。
「俺も、自分の犯した罪を償うという名目でアメリカ陸軍に『実験動物』にされている間、何回死んでるかわからねえくらい死んでるが……今でも死にきれずに、こうして『特殊な部隊』の隊長をやってるんだわ……アンタもその体験をすれば少しはその思想が少しくらい柔らかくなるんじゃないかな?いや、強化されるかな?『力なきゆえに地球人は科学に頼って無意味に生きてるって』……」
煙が隊長室に充満する。換気扇は回っているはずだが、まるで仕事をしていない。
嵯峨はなんとも困った表情で、写真の若い男を見つめた。
「俺はたった46年しか生きてねえんだ……不死人としてはなりたてだ4億年は生きてるランとは年季が違う……まあ、アイツは3億年前くらいにアイツが言うには『寝てた』ら砂に埋まってて、40年位前に気が付いたら炭鉱の奥で見つかったらしい……なんとも間抜けな話だけど、アイツに嘘を言うようなおつむは無いからたぶん本当なんだろうね……お前さんもそんな奴が最強の切り札の俺のことを嗤うだろ?」
自分の年齢を言うときだけ、ほんの少し照れたような笑みが混じる。
「『廃帝』さん……お前さんは俺が知ってる資料では200年以上生きてるらしいな……でもな、この宇宙のひ弱な生き物はそれ以下の寿命でも満足して死んでいけるんだ。俺やランやあんたみたいな『不完全な生き物』では無くて、ちゃんと死ねる生き物なんだ。確かに地球の『超富裕層』はあらゆる生命科学を利用して150年近い寿命を手に入れたが……」
あまりにも進み過ぎた科学を特権として独占する人々に対する『月小遣い3万円、家賃管理費込みで2万円で生きる男』を自称する男である嵯峨のある種の私情に満ちたその言葉には実感がこもりすぎていた。
「たださあ、そんなに長く生きて何が楽しいの?そんな年になったら地球人の場合はただ生きてるだけの存在だよ。連中は120年も生きればもう俺達遼州人の中に稀にいる不死人のように20代の体力も精神力も精力の持ち合わせも無い。ただ長く生きてるだけの存在。地球圏を支配している『超富裕層』もなんでそんなに無理をしてまで寿命を延ばしたいのかね?『人生50年』これは日本のある独裁者の最後に舞った『敦盛』という能の舞だが、戦国時代とその1000年後の今とで地球人が進化するとでも本気で地球の『超富裕層』の連中は思ってるのかね?」
その声には、ねたみともあこがれともつかない感情が滲んでいた。
「うらやましいな、『死ねる』ってことは。終わって自分のやった失敗だらけの悪事の責任を次の世代に繰り越せるんだ。うらやましいんじゃねえのかな、あんたも。『人生50年』俺は後3年だ。でも十分生き切ったと言えるよ。人間がごく普通に何事かを成して社会生活を営むにあたっては50年以上の寿命なんて必要ないんだよ……ただ、アンタのように永遠の支配を狙うのなら別だがね……」
嵯峨はそう言って、またひとつ、薄くほほ笑んだ。
その微笑みに悲しみが混じっていることは、彼の『不死』の宿命からしてあまりにも当然の話だった。
「死ねてはじめて『人間』なんだ。俺が殺してきた人間の一人がその首に俺が『粟田口国綱』を振り下ろす瞬間に見せた笑みを見たときにおれはその事が分かった。俺が殺した奴等は勝者だ。生き延びた俺が敗者になったのは当然なんだ」
灰皿に指先で灰を落としながら、ふと視線を机の端に移す。そこには、古ぼけた洋書の背表紙が積まれていた。
「昔、ゲーテとか言う詩人が、俺やランみたいに死ねなくなった『ファウスト』博士と言う人物を描いた詩を書いたんだ。俺も9歳の時ドイツ語の勉強のために原語で読んだが……多くの婆さんに読まされた外国語教師が教えた文学作品の中であれほど俺の心を打った作品は無いね。まるで俺の人生を読み切っているような作品だった」
嵯峨は古い記憶を確かめるように目を細める。
「永遠の命を手に入れた博士はその命を与えた悪魔のメフィストフェレスから言われた禁を破って『世界は美しい』と言えれば死ぬことができた。メフィストフェレスも随分と優しい奴だ。この苦界でしかない世の中を『美しい』と思えたら死ねるなんて言う最高の条件を博士に用意してやったんだから。そして、博士は望み通りに心からの言葉として『世界は美しい』と言って……死んだ。恐らく博士には後悔はなかったと思うよ。彼にとっては『世界は美しい』んだから。それ以上の幸せがあるかい?その記憶の中では『美しい世界』だけが固定された絵として残る。だが、俺達不死人には、そんな『固定された一枚絵』を持つことすら許されないんだよ。決して醜く変質することは無い。俺やランや……そしてアンタには信じられない話だ。いずれその『美しい世界』も醜く爛れて見るに堪えないものに変質するのは俺達も経験しているんだから。俺達不死人はそれを知っている……俺はまだ46年しか生きていないからね……でも何人も俺と同じ体質の人間に聞いたが……世の中そんなもんらしいよ」
そう言うと嵯峨は静かに写真を目の前にかざした。
写真には、野望の男『廃帝ハド』が写っていた。
その口元の笑みは、写真であるにもかかわらず、今にも何かを語り出しそうに見える。
「『廃帝ハド』よ」
嵯峨は静かに呼びかける。
「アンタも復活なんかしたくなかったんじゃないかな?自分の起こした災厄で何人の犠牲が出たかを、もし気にする余裕があるなら、俺なら復活なんかしたくないよ。醜く変わったみるに堪えない世界……そんなものをアンタは見たかったのか?アンタが世界を醜く変えるからアンタはこれ以上世界を醜くしないことを願った女性に封じられたんだよ。あの人は言ってたよ……もう二度とアンタの顔は見たくないってね……」
タバコの煙がゆらりと揺れ、写真の顔を一瞬曇らせた。
「俺もランも『不死人』だが、殺されて当然の罪を犯して、それを償うためだけに生かされてる……苦しい人生だぜ……アンタも同罪なのに全く罪悪感を感じてないと見える……救いが無いのは俺達かな?それもアンタか?」
言葉の端々に、疲労とも諦めともつかない重さが滲む。
「本当にアンタは『力ある者の世界』を実現しようとしてるのか?今度は遼帝国一国だけじゃなくて宇宙規模で宇宙を醜く変えたいのか?」
嵯峨は写真の男をまっすぐに見据えた。
「それなら言っておくわ。そんな世界が実現するようなら、真っ先に俺とランの奴を殺してくれ。そんな世界を俺達は見たくねえんだ。そんな壊れた世界に生きている自分を生かせる精神の持ち合わせは俺にもランにも無いんだ。頼むわ、そうしてくれ」
嵯峨は諦めたようにそう言うと、写真を静かに机の上に置いた。
薄い紙が、書類の山の上にぺたりと馴染む。
「俺も言いたいね、『世界は美しい』ってな。そして、静かに終わりたい……最高の人生じゃないのかい?俺は地球人は嫌いだがそんなことを考える地球人がいたことだけで地球には存在価値があったと言えるよ……たぶんそこがアンタと俺の分かり合えないところなのかもしれないね……」
嵯峨は、少しだけ遠くを見る目をした。
「世界が美しくない限り、生き物が逃げられる宇宙を作りたいんだ……そのためには神前の力がどうしても必要なんだ……」
ついさっきまでそこにいた青年の背中が、思い浮かぶ。
「アイツの『光の剣』と同じ力が、かつて400年前にこの星を地球から独立させたように、お前さんや『ビッグブラザー』の野望を阻む……だから俺は言いたいんだ……」
嵯峨は静かに正面を見据えた。
「俺は逃げ場を作り続ける!永遠に誰もが逃げられる場所を作るためにな!」
その声は、いつもの間の抜けた口調ではなく、珍しく指揮官のそれに近かった。
「永遠に撤退戦を戦い抜くつもりだ!そのためにこの部隊を作った!」
書類と灰皿とコーヒー缶に埋もれた、この「駄目人間の巣」が、自分にとっての最後の持ち場だ。
「その血路を開く『光の剣』は手に入った!俺は……永遠に『逃げる!』」
そんな嵯峨の宣言は、しかし次の瞬間、灰皿をひっくり返しかけて慌てて手で押さえる仕草とともに、隊長室の『駄目』な雰囲気に、あっさりと呑まれていった。
「逃げることは臆病じゃない。逃げないことが臆病なんだ」
隊長室を出た誠は、その言葉を反芻していた。
廊下には、安っぽいワックスの匂いと、どこかの部屋から漂ってくるインスタントコーヒーの匂いが混じっている。遠くから、工具のぶつかる音や、誰かの笑い声がかすかに届く。
逃げることは『負け』ではない。
むしろ、逃げる勇気を持つことこそが『強さ』なのかもしれない……。
そんな嵯峨の思想に共感を覚えつつも、その『駄目人間』ぶり……散らかった机、仕事する気ゼロの態度……は、別種の不安を誠に与えていた。
「隊長の言ってることは立派ですけど……やってることは滅茶苦茶ですよ。ほっといて良いんですか?あの人、仕事する気ゼロですよ」
隊長室からパイロットの詰め所に戻り、自分の席にどさりと腰を下ろすと、誠はそう言って前方の机に座るランに目を向けた。
詰め所の窓からは工場の屋根と灰色の空が見える。机の上には、書類と整備マニュアルと、誰かが置きっぱなしにしたスナック菓子の袋が散乱していた。
「いーんだよ……あのおっさんも大人だからな。それよりオメーだ」
ランは椅子の上で小さな脚をぶらぶらさせながら、そう言うと少し照れたように頬を掻いた。
「僕が……なにか?」
戸惑ったような誠の問いに、ランは「仕方ねえな」と言わんばかりにため息をつき、真面目な顔つきに変わる。
「オメーが生まれた時から監視されてたのは口の軽いアメリアから聞いてるよな?そしていずれあのような信じられない現象を起こすことも遼州圏でも地球圏でもそれなりの諜報機関を持ってる国の首脳部には全部わかってたんだ」
ランの言葉は、半分は予想のついた言葉だった。
こんなにパイロットに向かない自分に、わざわざパイロットをやらせる理由。
そこに『何か』があることくらい、誠にも薄々気づいていた。
「母さんから聞いたんですね……僕が普通とは違う力を持ってることを……僕もあの近藤とか言う人の艦を沈めた後で眠っていた間に夢の中で思い出してきました……母さんからも父さんからも忘れるように言われてたのに……」
誠は、一語一語確かめるようにしてランにそう言った。
誠が剣道を辞めたのは、竹刀で物を斬ってしまうという、自分でも信じられない現象を目の当たりにしたからだった。
それは一回だけのことで、単なる偶然……それを目の当たりにした母にそう言われた誠はそれを信じ込み、誠自身もそう自分に言い聞かせ、記憶の奥底に押し込めていた。
「かーちゃんに言われたのか……なるほど、地球圏の連中もあの人が目を光らせていれば手が出せねーからな。だからオメーは今ここにいるわけか……ああ、今の話は聞かなかったことにしろ!また口が滑っただけだ!」
ランの声には、かすかな怒りと諦めが混じっていた。そしてランの言った言葉の意味を理解しようと反芻したが、『人外魔法少女』であるランのその幼女の見た目から放たれる強烈な殺気を感じて誠はその言葉を深く考えないことにした。
「ひでー話だが、オメー、生まれた時からプライバシーゼロの環境に置かれていたんだ。特にオメーはこの東和でも特殊な例だ。あれほどの力を出せる人間が生まれる確率はそう高くはねー。ただ、オメーの場合は最初からそれが高かった。その理由は今は言えねえ……いずれその理由は……いや、これ以上言うとアタシは癖で口を滑らせるから言わねえ!」
少し悲しげなランの言葉と誤魔化すようにふてくされる姿に、誠は驚きを隠せなかった。そして同時にこの人は本当に隠し事ができない人なんだと理解して逆に親近感を感じる自分を誠は感じていた。
「考えてもみろ。たった一撃で戦艦を撃破できる能力や、ほとんどの攻撃を跳ね返して瞬時に移動できてしまう『干渉空間』を展開する能力。どっちも悪用しようとすれば大変なことになる……そんな人間がこの東和にうようよいると思うか?たぶんオメー以外にも見つかってねー人間はいるかもしれねーが、そんな話は……ああ、また余計なことを言っちまった!神前!忘れろ!上官命令だ!」
ランが言葉を濁すたびに誠は不安になった。ただ、この戦いを経て、誠は自分以外にその力を出せる人間がいたとしても、最初にあの力を使ったのは自分なのだと言う思いが生まれた。そしてその不安を責任感へと変えるように考えるように変わっていた。
それが『力』に目覚めたからなのか、それとも何事かを成し遂げたことによる達成感によるものなのかは誠にはわからなかった。
「だから、どの政府もその存在を公にせずに、ひそかにその能力者を監視していた……そして、機会が有ればその力を手に入れようとしていた……そう言う理解で間違いないですよね?」
確かにランの言うとおりだった。
あのような力があちこちに野放しになれば、戦争どころの話ではないことくらい、誠にも考えがついた。
そしてその力が核で一度に何億の人が死のうが平気な地球人が手にすれば誠が何をさせられるかも今の誠には予想がつく。
「オメーのかーちゃんがオメーに剣道を辞めさせたのが8歳。それを進言したのが隊長だ」
「隊長が?竹刀で物を斬ったりできる能力を使えば、余計目立つようになるからですか?」
誠はそう言って難しい顔をした。
「まず第一に危ないだろ?気合で面を入れたら対戦相手が真っ二つになった、なんてのはシャレにならねーだろ?」
ランはあっさりと言い放つ。
「今のオメーは05式乙の法術増幅装置無しではただの無能だが、いずれはそれなしに法術を発動できるようになる……」
静かなランの言葉だが、誠にはその言葉の意味が分かりすぎるくらい分かった。
「実は、誰かが何かを目的として、オメーみたいな『法術師』を集めている……と言う噂がある……確定情報じゃねーけどな」
ランの表情が、さらに厳しい色を帯びてくる。
「法術に関心があるのは軍や警察ばかりじゃねーんだ……いや、固定観念に縛られずに純粋に『力』を求める人間はどこにでもいるんだ」
その瞳には、戦場で見せる『人類最強』の冷酷さが、わずかにのぞいた。
「一つの勢力じゃねーな。実際、それに対抗する目的で、同盟司法局も『潜在的法術師』を集めていたのは事実だし……例えばオメーな」
そう言ってランは腕組みをしながら、誠をじっと見上げた。
「そんな勢力の中で一番ヤベーのが……『廃帝ハド』だ……これはあの戦いのときにアタシも近藤の『味噌頭』に最後の土産に言ってやったぞ。オメーには毎日新聞を読めと言ってあるよな?あの戦いのあった日の翌日の朝刊にあの時のアタシと近藤のやり取りの全文が載ってる。気になるならそれを読め」
ランはそう言うと腕組みをして誠を見つめた。そこにはこれまでにない緊張の色が誠にも見て取れた。
「『廃帝ハド』?」
誠は、その言葉に聞き覚えがあまりなかった。歴史の授業で聞いたような気もするし、ニュースで見たような気もする。だが、具体的なイメージは霧の向こうだった。
「かつて遼帝国建国後二百六十年の鎖国を解かせた暴君……」
ランの声は淡々としているが、その中に強烈な警戒心が混じっていた。
「奴を遼州の大地に封じて国が開いたときは、遼帝国は見る影もなく荒れ果てていたという話だ。『不死人』すら平気で殺す『法術師』の天敵だ……アタシも奴には油断が出来ねーと思ってる……『人類最強』の名を譲るとしたらアイツになるかも知れねーな」
誠の背筋に冷たいものが走る。
「そしてその力は、これまで遼帝国に生まれた帝家の血筋でも、遼帝国を開き、その『廃帝ハド』を大地に封じた遼帝国太宗、女帝遼薫と並ぶものだと言い、そしてアタシの国『遼南共和国』を滅ぼして後に遼帝国を再興した遼献をもしのぐ、アタシが知る限り最強級の『法術師』だ」
さらりと言っているが、それはつまり、『歴史に名を残した怪物たち』に比べられる怪物だということだ。
「アイツがオメエの覚醒を知って黙っているとは、とても思えねー。奴は間違いなく動きだす……近いうちにな」
ランは確信を込めた言葉を誠に向けて吐いた。
「暴君……その野心ゆえに大地に封じられた『最強の法術師』……」
ランの力強い言葉に、誠は息をのんだ。
「奴の理想は、力のあるものが力のないものを支配する帝国を作ること」
ランの声が低くなる。
「当時はそれを遼帝国一国でしようとしてできなかった。しかし、遼州圏や地球圏を巻き込んで、多くの国の利害の隙間を縫うように立ち振る舞えば……できねー話じゃねーんだ……。オメー理系だよな?ベクトルって知ってるよな?力の方向性が一致すればその力は一つの力を上回る力となる……文系のアタシでも分かる理屈だ」
政治地図が頭の中に広がる。遼州圏に野心を持つ地球圏の国々。そして、甲武、東和、遼帝国、西モスレム、ゲルパルト、外惑星共和国連邦、ラップ共和国……それぞれの国の思惑。その隙間に入り込む『廃帝』という悪意の存在。
「そのために奴は法術師を集めてる……間違いねー」
そんなランの恐ろしい言葉に、誠は身震いした。
「隊長はオメーには逃げろって言うかもしれねー。アタシもそれは当然だと思う」
ランは一度、視線を机の上に落とす。
「しかし……アタシ等じゃ対処しきれねーこともある」
その目が、再びまっすぐ誠を射抜く。
「だが、神前!力を貸してくれ!頼む!」
かわいらしいランは、しかしその幼児体形からは想像できない強い眼力で、誠をにらみつけながらそう叫んだ。
「……僕は逃げません」
誠は静かに、しかし確信を持って言った。
逃げることは勇気。
でも、今は『逃げない』と決める強さが必要だ。
その時、ランがにっと笑った。
誠は静かにうなずきながら、自分が持って生まれてしまった力の重さについて考えていた。
「中佐……」
誠は、小さなランの真剣な表情に心打たれながら、思わずそう呼んでいた。
「なーに。オメーを簡単に死なせるようなら、アタシは『人類最強』なんて名乗ってねーよ。確かにオメーはまだまだ弱い。それに機動部隊にはまだアタシとオメーの二人の法術師しか居ねー。ただ、アタシもむざむざ奴の好きにさせておくほど間抜けじゃねーよ。こっちはこっちで奴に準備をする……それが戦いだ」
ランは肩をすくめる。
「それに……オメーじゃどうしようもないほど状況がヤバくなったら隊長がオメーの代わりに05式乙に乗る。あの人も一応『法術師』なんだ。ただ、伸びしろはゼロだけどな」
ランはそう言って、にやりと笑った。
「でも……僕よりは役に立つんじゃないですか?僕はパイロット適性ゼロだし」
そんな誠の言い訳に、ランは静かに首を横に振った。
「パイロット適性?オメーは運動神経はいーじゃねーか!大丈夫だよ!アタシが仕込んでやる!オメーならたぶんすぐに隊長程度なら超えられる!超えて見せろ!根性見せろよな!」
机をぽんぽん叩きながら、ランは楽しそうに続ける。
「胃腸の方も、慣れれば吐かなくなる。気にすんな!それにオメーが自分の持つ力を自在に操れるようになれば、向かう所敵無しだ!」
満面の笑みで、ちっちゃな中佐殿はそう叫んだ。
「だがな、言っとくことがある」
ランはそう言って、すっと真面目な表情を浮かべた。
「アタシは見た通り『8歳女児』だ。そして『魔法少女』だ」
ここで誠は思わず椅子からずり落ちそうになった。
飲酒が趣味の八歳児など聞いたことがない。それ以前に、ランの態度はどう見ても「おっさん」である。
「8歳女児の部下っていえば、当然上司に配慮するべきだな……うん、うん。それに地上波放送を考えると『魔法少女』には『大人の事情』というものが絡むもんだ」
なぜかここでランは大きくうなずいて、一人納得していた。
「どんな配慮をすれば……それと今、認めましたね?自分が『魔法少女』だって。それに地上波放送……中佐は何がしたいんですか?中佐をヒロインにしてドキュメンタリーでも撮るんですか?『魔法少女』モノの」
誠は、どんな無理難題を押し付けられるかを気にしながら、ちっちゃな上官の顔色を窺った。
「そんなの決まってんじゃねーか!」
ランはカッと目を見開いて誠を指さした。
「一人前になるまで『恋愛禁止』!8歳児の『好き』が恋愛感情を伴ってその先のエロに繋がる話を聞いたことがあるか?アメリアの作ってる『登場人物は全員18歳以上です』とどう見てもユーザーを変な方向に導いているエロゲとは話が違うんだ!確かにアタシは34歳だがそんなエロい展開を望んだことは一度もねー!」
詰め所の空気が、一瞬だけ凍りつく。
「ちっちゃい子の前で変なことして教育上よくねーとか思わねーのか?」
『自称34歳』とは思えない発言に、誠は唖然とした。
「今は相手がいないから問題ないですけど……でも結構うちは美人が多いじゃないですか……『モテない宇宙人』である僕でも『力』に目覚めると思いも描けないフラグが立ったりするかもしれないじゃないですか……確かにそれを少しだけ期待しているのは事実ですけど……」
誠の情けない言い訳に、ランは全く耳を貸さなかった。
「すべては一人前の『漢』になってからの話だ。それまではひたすら技術を磨け、心を磨け、学べ、考えろ!『漢』になればすべてが解決する!今のオメーは『漢』じゃねー!『漢』にのみ女を愛する資格がある!軟弱者にはその資格はねー!」
軍隊らしい説教と、8歳児の理屈が混ざった無茶苦茶な要求だった。
『逃げ場を作る隊長と、恋愛を封じる中佐。どうして僕の人生は、極端な人にしか囲まれないんだろう』
誠はその両極端な隊長と副隊長を上司に持つ自分の境遇に改めて自分が『特殊な部隊』と呼ばれる舞台に配属になった事実を再確認した。
「オメーがアタシをも唸らせる真の『漢』となった時……そん時はアタシがオメーにふさわしい妻を紹介してやる!うちの女共はどーかしている!アタシの眼鏡にはかなわねえ!」
もうこうなると、禅寺の修行の境地である。
「クバルカ中佐、無茶苦茶言いますね……でも隊長は一人前なんですか?駄目なとこだらけじゃないですか。あの人だって結婚してたんだから、僕が恋愛したっていいじゃ無いですか!」
誠は腑に落ちないというように、そう口答えをしてみた。
「あの『駄目人間』を見てアタシは悟ったの!」
ランは机をバンと叩いた。
「あーなっちゃダメなの!」
即答である。
「それにあれでも一応アタシの上司だし、娘に管理されて何とか人並みの生活を送れているんだから……とても参考にはならねーだろ?」
ランは鼻を鳴らす。
「『女好き』のお守は一人で十分!これ以上面倒は見られねー」
非情に言い切るランに誠には半泣きの表情を浮かべた。
「それってマジですか?僕はもう24歳ですよ。いい加減彼女くらい欲しいので」
誠は言っても無駄だと思いながらも、目の前の巨大な壁――のように立ちはだかっている、小さな『人類最強』の女傑に視線を向けた。
「おお、マジだ」
ランは即答した。
「24歳?そんなの知るか!アタシがオメーを『漢』と認めた時がその時だ!」
そう言ってランは、勝ち誇るような笑みを誠に向けた後に、すくっと立ち上がった。
彼女は静かに扉の所まで行くと、勢いよく扉を開いた。
そこには当たり前のように、かなめ、カウラ、アメリアの三人が立っていた。
扉のすぐ外で耳をくっつけていたらしく、三人とも、開いた勢いで少しよろめく。
「と言うわけだから」
ランは何事もなかったかのような顔で言った。
「こいつにちょっかい出すのは加減しろよ、オメー等も」
そう言って、すたすたと去っていくランの後ろ姿を見ながら、三人は顔を赤らめた。
「なんであんなこと言うんだ?神前はアタシの下僕なんだぞ?なんで下僕にそんな感情を持つんだよ」
かなめは誠から目を逸らしながら、椅子に腰かけている誠に近づいてくる。頬をふくらませ、いつものようにぶっきらぼうだ。
「私は指導をしてやっているだけだ。神前に気があるとか……そういうことは絶対にない!」
カウラは顔を真っ赤にしてそう断言すると、かなめに続いて部屋に入ってくる。
言っていることと、耳の先まで染まった赤色が、これ以上なくちぐはぐだった。
「私は……面白ければ全部OKなんだけど!」
一方、アメリアはいつもの笑顔を浮かべていた。
「誠ちゃん!改めてよろしく!」
戸惑う誠に握手を求めて来るアメリアの手は、妙に暖かく感じられた。
『逃げ場はある。でも、逃げたくはない。この『ろくでもない女達との日常』から、もう目をそらせない』
誠達はランにその発言を受けて説教を受けている三人を見ながら気がしていた。
その暖かさが、何かよくない予感をはらんでいるような気がしてならない。
「よろしくお願いします……」
誠は、まだ状況を飲み込めないまま、ぎこちなくその手を握り返した。
「つー訳だから……よろしく頼むぞ!神前」
ランは詰め所の入り口から顔だけひょいと出し、そう言いながら、とてもいい顔で笑った。
『特殊な部隊』での、誠の『特殊な戦い』が、今始まろうとしていた。
了




