第79話 ダグフェロンと、逃げ道の話
ゴトリとドアの向こうから音がした。
嵯峨は誠にしゃべらないよう手で合図するとドアを開く。
かなめ、カウラ、アメリア、パーラ、サラ、そして島田がばたばたと部屋の中に倒れこむ。
隊長室のドアのすぐ向こう側、廊下の白い長尺シートの上に、見事な『人間の束』が出来上がっていた。かなめが一番上、その下でカウラの眼鏡がずれ、アメリアの長い脚が島田の脇腹に突き刺さっている。パーラとサラは気まずそうに顔だけこちらを向け、島田は『あだだだ』と情けない声を出した。
中でもかなめのまるで戦場で敵を見るような鋭い視線を嵯峨に送るのが誠の目に焼き付いた。
「盗み聞きとは感心しないねえ……そんなにお前さん達、神前の降格が気に食わないの?でも仕方ないじゃん。それにお前さん達がコイツに階級にモノを言わせて好き勝手して良いって俺が認めたと言う証拠だよ?それに神前の給料も上がる。もっと喜んでやらないと」
六人を見下ろして嵯峨が嘆く。その論点が嵯峨らしい残酷さを含んでいる事には誠は苦笑しかなかった。
全員の顔に誠の降格には納得がいかないという表情がありありと見えた。
かなめは唇を噛みしめ、カウラは難しい顔で眉間に皺を寄せ、アメリアはいつもの微笑みの奥に露骨な不満を隠そうともしない。パーラとサラは『さすがにこれは……』という気まずさと怒りの間で揺れており、島田だけは状況を飲み込めず『とりあえず痛い』ことだけ分かっているようだった。
「叔父貴。そりゃねえだろ?神前の下の世話はかえでを『調教済みの雌犬』扱いしてた時みたいにアタシがやるから!飼い主の責任は果たすから!せめて准尉扱いぐらいにしてくれよ!こいつ!確かに下士官なら大尉のアタシがいつ射殺してもいいことはアタシには気分が良い!でもなあ、下っ端の下士官の頭をぶち抜くより将校の少尉の頭をぶち抜いた方がアタシの気分が良いんだ!少尉でもアタシより階級が下なのは変わりがねえんだから役に立たねえとわかったらいつ射殺しても構いやしねえのは変わりはねえんだ……せめて……准尉くらいに……」
かなめは泣きつくように嵯峨にそう訴えた。ただ、かなめが誠を射殺することは大前提の様だった。
どうやらその涙目で真剣に叔父である嵯峨に縋りつくかなめの姿を見ると、誠はかなめの頭の中ではこれからもかなめに飼育されることは決定しているようだった。
『下の世話』という言葉の選び方のせいで、誠は思わず咳き込む。せめて『面倒を見る』とか、もう少し言い方があったのではないかと思うが、かなめにそこまでのボキャブラリーを期待するのは酷だろう。
そしてどうやらかなめの妹らしいかえでは『女王様』かなめには犬扱いをされていたと公言されていた時点で自分が全裸で首輪をつけられただけの格好でこの豊川の街を散歩する光景を想像して誠はゾっとした。
「ああ、お前さんはかえでを家の前の犬小屋に3歳の時から6歳の時まで『お前は犬だ、犬になれ』と言って全裸に首輪をつけて過ごさせた前科があったな。それ以上にとんでもないことをしていたのは俺も知ってる……というかそのプレイを目撃しちゃって頭を抱えたけどでもそんなこと自慢になんないよ。それにそんなこと神前が望んでいるような顔は……今見る限りしていない。でもまあ、神前を意地でも将校にしたい。お前さん達の総意はそうなんだ。じゃあ今回の降格取り消しの再考を上申するか?上申書の用紙ならあるぞ?たぶん握りつぶされるだろうけどね……俺達上に信用ないからねえ」
嵯峨も自分の足に縋りついてくるかなめに呆れたようにそうつぶやいた。
「そうじゃねえ!それにアタシがかえでを犬扱いしたのは本人がそうしてくれって頼みこんで来たからでアタシの望んだことじゃねえ!あと、あのプレイは『肥後芋茎』ああ、神前は知らねえか……ってそこでニヤニヤするな!アメリア!知ってるオメエは関係ねえって言うかオメエはたぶん持ってるだろ!『肥後芋茎』ってのはな。干したサトイモの茎で作る江戸時代のアレだ。殴るための道具でもあり、ヘンな遊びに使うバカもいたブツだ。その使い方を試したいと5歳のアイツが頼んで来たから試しただけでアタシの意思じゃねえ!それよりアタシが気になるのは今回の事件の一番の功労者が降格処分ってのが納得いかねえんだ!」
かなめの声が隊長室の安っぽい天井材を揺らした。壁際の書類棚の上に置かれた観葉植物まがいの造花が、びくりと震える。
「無駄だ、西園寺。上層部の決定はそう簡単には覆らない。それに給料は少尉より多く貰えるようになる。良いことじゃないか。うちは予算でいつも苦労している。資本主義社会では金銭がすべての価値を規定する。身分がすべての甲武の価値観は捨てろ」
立ち上がって埃をはたきながらカウラはそう言った。
その口調は冷静だが、制服の裾を握る指先にはかすかな力がこもっている。感情を押し殺して合理性を優先する……それが、この人造人間の『生き方』なのだと誠は知っていた。
「カウラちゃん、薄情ねえ。もう少しかばってあげないと……カウラちゃんが望んでる貴方の好きなパチンコでいう所の激熱リーチはかからないわよ……なんやかんや言いながらカウラちゃんが誠ちゃんに気がある事なんてうちじゃあ全隊員のみんなが知ってることなんだから。さも無きゃあの菰田のアホがあんなに年中怒った顔をしている訳がないじゃないの……まあ、私はそんなことは関係なくかなめちゃんにもカウラちゃんにも誠ちゃんを譲るつもりは無いの。三十路女は一度狙った獲物は死んでも逃さないのよ!」
アメリアが立ち上がって糸目でかなめをにらみつけた。
軽口のようでいて、きっちり『初恋』を見抜いているお姉さん目線の一撃だ。さらにそこには婚活負け組の意地が加わっている。部屋の空気が一瞬だけ、からかわれたカウラの耳まで赤くなるのを待つ。
複雑な表情の彼らの中で、島田とサラの顔には『よくわかんねえ』と書いてある。そもそもこのバカップルにとっては二人の『純愛』以外は別にどうでもいいことらしい。
特に島田にとっては『降格』より『05式のアクチュエーター』と『准尉に昇格することで支給されなくなる残業代』のほうがよほど切実な問題なのだ。
そうなればサラへのプレゼントの格を一つ落とさなければならないと言うのが『硬派のヤンキー』を気どる島田にとっては重要問題だった。
「まあいいや、神前軍曹!これからもよろしく」
かなめは能天気な笑顔を浮かべて誠に向けてそう言った。
「西園寺さん、曹長なんですが……」
「バーカ。知ってて言ってるんだ!どっちも下士官だから大尉のアタシから見たら格下だ。それともかえでみたいに『雄犬』として扱ってもらうのが望みか?じゃあ、叶えてやるよ、今日帰りに自分が好きな首輪とリードを買って来い。今日から毎日夜中に散歩に付き合ってやる。当然オメエは全裸な!」
かなめがニヤリと笑った。
『軍曹』より一段階上の『曹長』の誠にかなめの嫌味が飛ぶ。
そのわざとらしい呼び方に、誠は『いじられ枠』としての自分の立ち位置を痛感させられる。
さらに『雄犬』扱いを望んでいるだろとまで言うとはかなめはどこまで『女王様』なのかと誠は言葉を失った。
「それよりアメリア。いいのか?今からここを出ないと艦長研修の講座に間に合わないんじゃないのか?お前さん……研修に出席手続きだけして途中で抜け出してるのは俺も知ってるんだよ。今日もそんな事をしたら本当の今回の昇格取り消すように上に上申するよ?俺の後任として俺がお前さんを推してるのは事実だけど、そんなことが続いたら上の言う通りランにこの椅子を譲ることになるけど……それでも良い?」
嵯峨が頭を掻きながら言った。
隊長室の壁掛け時計は、すでに講座開始予定時刻にかなり近い時刻を指している。灰皿の横には、アメリア宛ての『東和宇宙軍本部』からの封筒が雑に置かれていた。
「大丈夫ですよ、隊長。ちゃんと東和宇宙軍本部からの通達がありました。今日の研修は講師の都合でお休みでーす♪それに、この椅子は『頭の切れる人間じゃないの務まらない』と言ってるのは隊長じゃないですか!ランちゃんのひよこ頭だったら最初の出動でランちゃん以外全滅して終わりますよ。まあ、ランちゃんは『人外魔法少女』だから敵は全滅するでしょうけど」
元気に答えるアメリアに向けてかなめは明らかに敵意むき出しの目でにらみつけた。
「なんだよ。今回の月島屋でやる出動のご苦労さん会に来るのかよ……せっかく一人分部屋が広くなると思ったのによ……あと、神前の隣の席は譲らねえからな!カウラ!オメエもだ!神前はアタシ専用の『下僕』だ!神前!残念だったな!『雄犬』になれば毎日アタシの顔を拝めて全裸での散歩に付き合ってやれるがアタシもそんなに暇じゃねえんだ。だから『下僕』としてこき使うと言う程度の付き合いで我慢しろ」
愚痴るかなめをアメリアは満面の笑みで見つめている。
「ガサツなサイボーグ専用の『下僕』だなんて……誠ちゃんもかわいそうに……いっそのこと私と同棲しない?同じ趣味同士話が合うと思うし!そのまま……東和共和国での『同棲』は100%結婚を前提としたものと世の中の遼州人達は理解するわ!そうすれば私の負け続きの婚活生活にも終息の日が来る!一石二鳥よ!」
アメリアは誠に向けてそんなとんでもない提案をしてきた。
『一石二鳥って、僕の幸せとアメリアさんの婚活の終結ってことか?どっちにしても、鳥にされるのは僕なんだけど……』
誠にはアメリアの自己中心ぶりを見てやはりこの人は『自分の幸せ以外はすべて敵』な人なのだと改めて思った。
「同棲ですか!?そのまま結婚?そんなの早すぎますよ!」
驚く誠に見つめられても相変わらずアメリアはいつものアルカイックスマイルを浮かべている。
その笑みは『冗談半分本気半分』だと分かっていても、耳まで赤くなってしまう自分が情けなかった。
「そんなことが許されると思うか!同棲?結婚?その理由が『趣味が合うから』?そんなことが認められると思うか!神前は私の小隊の部下だ!小隊長の許可なく同棲や結婚など私は認めない!」
初恋相手を奪われることに激怒したカウラがアメリアに向けて殺意を込めた一言を放った。
「アメリア!テメエ何勝手に話を進めてんだ!こいつはアタシの『下僕』なんだ!ああ、神前、やっぱり『雄犬』に格上げしてやる!うまくいけば繁殖行為も許可してやるぞ!どうだ!童貞のオメエにとってはこれ以上ない条件だろ?」
カウラは冷静を装いつつ抗議し、かなめが頬を膨らましていた。
誠はかなめの提案がどう考えても『格下げ』で、要するにかなめはアメリアから誠を奪い取って誠を退屈しのぎのおもちゃにしたいだけだと悟ってため息をついた。
ただ、その表情があまりに真剣に見えるのが誠には彼等が相変わらず『特殊な部隊』の愛すべき馬鹿であることを再認識して少し優しい気分になった。
さっきまで『降格』の二文字で胃が冷たくなっていたのに、いつの間にかいつものドタバタに巻き込まれている……この空間が、自分の『日常』になりつつあることを実感する。
「でだ、話を変えると実は05式特戦の愛称が決まったんだわ。必要あんのか知らないけど上が愛称をつけろってうるさくてね……そんなんだったら甲武みたいに通常の呼称を『火龍』とか『飛燕』とか『雷電』とかにすると法律を変えればいいのにね……まあ、別に東和陸軍の呼称を準用しているうちの責任だと言われたらぐうの音も出ないけど」
突然話題を変えた嵯峨に全員が丸い目を向けた。
隊長室の空気が、政治と人事の話から、一気に『お役所的広報センス』の話へと切り替わる。
「なんだ?愛称って」
かなめは明らかにやる気が無いようにそう尋ねた。
「あってもいいだろうな。現東和陸軍や宇宙軍で使用されている主力シュツルム・パンツァー02式にも『ストロングファイター』と言う愛称がある。その方が親しみが持てる。軍も民間人に好感を持たれようと必死なんだ。察しろ」
カウラはうなずきつつ嵯峨の言葉に耳を貸した。
400年の平和に慣れて軍という物にあまりいい印象を持たない東和共和国の人間にとって、『正式名称』と『愛称』が二重に存在する兵器は珍しくない。
だが、現場の兵士たちが実際に口にするのは、結局『短く呼びやすい名前』だけなのもまた事実だった。
「02式の『ストロングファイター』はなんだかつまらない名前だけど、05式のは……面白い奴だといいわよね……でも多分みんなすぐ忘れるわよ……私だって東和陸軍の89式の愛称なんて覚えてないし」
アメリアと言えば、とりあえずギャグになるかと言うことばかり考えているようだった。
「僕のせいで法術使用を前提とした名前とかつきそうですね。呼びにくい名前や長い名前は嫌ですけど」
誠はおずおずとそう言った。
誠が遼州人にしかない能力である『法術』を使用してしまったために遼州同盟の『特殊な部隊』の使用シュツルム・パンツァーに変な名前がついてしまうことに少し気後れしているのは事実だった。
「まあな。あんな化け物みたいな力を出したってんで、前々から決まってた名称の正式決定が出たのは事実だから」
嵯峨はそう言うといかがわしい雑誌の下から長めの和紙を取り出す。
隊長室の机の上……書類や空き缶や灰皿に埋もれたそこから、やけに品の良い和紙だけが浮いて見えた。墨痕の乾いた匂いが、かすかに鼻をくすぐる。
「じゃーん」
相変わらず『駄目人間』らしいやる気のない言葉の後に嵯峨はその和紙に書かれたカタカナを見せびらかした。
『ダグフェロン?』
全員が合わせたようにそう叫んだ。
「ダサい名前だな、どこの馬鹿がつけたか知らねえけど」
かなめの反応は誠の予想通りだった。
「ギャグにはならないね。つまんない」
そう言う問題では無いのではないかと思いながら誠はアメリアの言葉を聞いていた。
「戦場で呼びやすいかどうかが重要だな」
カウラにとっては機体の愛称などその程度のものなのだろうと誠も思った。
「『ダグ』は古代リャオ語で『始まり』の意味。『フェ』は……ようするに日本語の『の』って感じの意味。そして『ロン』は『鎧』って意味なんだ。この遼州星系にやってきたと言う神が乗ってた『始まりの鎧』って意味。わかる?今は失われた遼州語で付けたんだ。遼州ならではの力を使った神前の影響が無かったとは言えないな」
嵯峨の出来の悪い子供に教え諭すような言葉に誠達は大きく首を横に振った。
古代リャオ語……地球人が来る前、遼州人が話していたというウラル・アルタイ系の言語と似たような文法を持つ『古代リャオ語』だった。
今では、東和共和国も遼帝国では『古代リャオ語』の話者はいない。どちらの公用語も日本語で、第二公用語すら存在しなかった。それどころか遼州圏で日本語が通用しない場所は無いと言えるほど普通に日本語が通用するのが遼州圏だった。
そんな中であえて『失われた母語』を持ち出してくるあたり、いかにもお役所のネーミングセンスだった。
『『始まりの鎧』……英雄なんて大げさな言葉を、曹長の自分が着ている』
そう思うと、誠は笑えるような、泣きたくなるような、妙な気分だった。
「嫌いか?まあいいや、お前さん達の好き嫌いなんてどうでもいい話なんだから。どうせこんなお上が決めた名前なんて浸透するわけないし……これまで通り05式でいいじゃん」
身もふたもない嵯峨の言葉を聞いてかなめ達は飽きたというように嵯峨に背を向けた。
「『ダグフェロン』ねえ……良いんだか悪いんだか分かんねえ名前だな。まあいいや、アタシたち、戻るわ」
かなめが肩をすくめ、アメリアは『ネタとしても弱い』と小声でぼやき、カウラは黙って頷いて踵を返す。
パーラとサラは、まだ誠の降格が納得いかないという顔でこちらを振り返ったが、結局何も言わずに嵯峨に軽く会釈して出て行った。島田も『じゃ、自分仕事戻ります』と頭を掻きながら続いた。
『脳ピンク』な嵯峨と取り残された誠はただ茫然と嵯峨の持っている和紙に書かれた『ダグフェロン』を眺めていた。
さっきまで人いきれでむんむんしていた隊長室が、急に広く静かに感じられる。埃っぽい空気の中で、和紙の白さと墨の黒だけがやけにくっきりしていた。
「『ダグフェロン』……」
誠は嵯峨の書いた文字を見つめて感慨深げにそうつぶやいた。
「いよいようちに染まることが決定してきたね……神前、今が逃げる最後のチャンスだぞ」
嵯峨は誠がかなめ達と出て行かない様子を見てそう言った。
隊長の声は冗談めいているのに、その目だけは妙に真剣だった。
「でも……僕は逃げ場なんて……」
誠はそう言って静かにうつむいた。
自分の人生の選択肢は、『ここに残る』か『ここで朽ちる』か、その二つだけだと思い込んでいた。逃げる、という発想そのものが、最初から頭の中の選択肢に存在していなかったのだ。
「じゃあ俺も何度も言うけど逃げるってのはね。逃げないよりも長生きする可能性が上がるんだ。そうすると少しは『頭を使う』必要が出てくる。だから辛いことも多い。俺は逃げる人間の方が勇気がある人間だと思うわけ。俺もね、馬鹿みたいに甲武陸軍のエリートコースなんて歩まないで一回ぐらい逃げときゃよかったって今でも思うもん。そうしてたら『不死身の駄目人間』なんて肩書き、背負わずに済んだかもしれないのにな。まあ、エリートコースからは自爆演説で見事逃げ出して見せた訳なんだけど、その事は自慢にならないからお前さんは知らなくていいよ」
嵯峨はそう言いながら出した和紙を静かにたたんだ。
和紙の端がぱさりと音を立てて折り畳まれるたびに、「正式名称」というものが、ただの紙切れに戻っていく。
「逃げる方が勇敢だとでもいうんですか?」
誠の問いに『駄目人間』嵯峨は素直にうなずいた。
だが、嵯峨の言葉は誠の胸に棘のように突き刺さっていた。
逃げることが臆病なのか。それとも、逃げないことが臆病なのか。
迷いと戸惑いが心を支配していた。
東和の大学で叩き込まれた『責任感』や『根性論』が、頭の片隅で『逃げちゃだめだ』とささやく。
「そうだね。逃げたら死なないからね。あの世に逃げ出す機会を失うわけだ。あの世に逃げれば恥はかかないわ、それから先の苦労は考えずに済むはいいことずくめだわな。だからこそ、臆病な人間ほど『逃げない』んだ。『逃げちゃだめだ』なんて考えているなら、迷わず逃げなって。その方がよっぽど勇敢だよ」
嵯峨の意見は何度聞いてもかなり『特殊』であることは誠にも想像ができた。
「それでも、僕は逃げ場なんて見ようとしなかったんです……」
誠はそう言って静かにうつむいた。
そう言う誠を嵯峨は腕組みをして見上げた。
「そりゃあ、お前さんが『高偏差値』の薄ら馬鹿だからわからないんだな。見えてないねえ……リアルが。まず、『偉大なる中佐殿』の教育方針がかなり『パワハラ』を帯びている段階で、なんでお袋とか大学の就職課に連絡しなかったの?」
「あ……そう言う方法って……アリなんですか?」
嵯峨に指摘されて初めて誠はこの『特殊な部隊』からごく普通に逃げ出す方策に気づいた。
「そんなことしたら大学の就職課から東和宇宙軍が目を付けられますよね?そんなことしてもよかったんですか?」
「アリも何も……普通の社会人ならそのくらいの常識はあるだろ……自分の置かれている環境が異常だったら人に言う。そのくらいの発想ができないとこの世にうんざりして来世に救いを求めちゃうようになるよ?……新興宗教にでも入っとけよお前さんは……あれはいい金になるみたいだね、俺は興味ないけど」
あっさりと嵯峨はそう言って誠を同情を込めた瞳で見上げた。
「確かに今言われてみるとそう言う逃げ道も有ったのかもしれませんけど……一応、東和宇宙軍は公務員なんで。安定してるんで」
誠はそう言って嵯峨に食い下がろうとした。
東和共和国で育った遼州人にとって、『公務員』は親が安心できる数少ない進路の一つだ。その中でもキャリア官僚は別格としても、政治家と直接顔を合わせてそのお気に入りにでもなれば『モテない宇宙人』である遼州人にはほぼ不可能な『彼女が出来る』という現象が起き、場合によっては結婚に至ることは誠も知っていた。そんな事を考えると母親の顔が脳裏に浮かび、『せっかく公務員になれたのに』と嘆く姿まで鮮明に再生される。
「そうなんだ……それもね、実のところ俺やランに『ここは特殊すぎるんで』と言えば何とか逃げられたんだ……」
あっさりと嵯峨はそう言ってにやりと笑った。
「逃げるって……どこに?」
誠は嵯峨の言葉が理解できずに戸惑ってそう言った。
「だって……うち、『お役所』だもん。いろんな取引先とか、隣の菱川重工業みたいな取引先は、『危険物取扱Ⅰ種』みたいな資格持ちを喉から手が出るほど欲しがる。だから『出向』って形で、うちから外に逃す選択肢はいくらでもある。だから、『出向』と言う形で、とりあえずこの『特殊な部隊』から外れて、他の生きる道を探せる人生があるの」
驚愕の事実を嵯峨はさらりとさも当然のように言い放った。
隣の工場で見かけるヘルメット姿の作業員達……彼らの中に、かつて『ここ』にいた誰かが紛れ込んでいても、誠には見分けがつかないだろう。
自分もそこに紛れ込む未来が『あり得た』のだと想像して、背筋がざわりとした。
「そんな……僕の友達もそんな話はしてませんでしたよ!僕の大学は理系では私大屈指の難易度の大学ですけど!そんな方法もアリなんですか?」
反論する誠に嵯峨は明らかに見下したような視線を浴びせた。
「だから、どうしても逃げたきゃネットを調べりゃいくらでも方法は見つかるの。それに大学の難易度と就職先のレベルは比例しないもんだよ。『ベンチャー』の小さな会社や経営者が『独裁者』しているような会社は別だけど、普通に株式を上場している会社ならそんな『出向』なんて話は普通だよ。当然うちは『お役所』だもん。うちの水が合わなけりゃ他にいくらでも生きるすべはあるんだ。自分の置かれた環境がすべてだなんて考えるのは『おバカ』の思い込みだね。お前さんにもランがお前に脅すために言った進路の『倉庫作業員』や『体力馬鹿営業』以外にも、『技術の分かる経営顧問のサブ』なんかの引き合いは今でもあるんだ……どうする?今からでもそっちに『逃げ出す』ことはできるけど……。その人達、結構しつこいんだ。あのしつこさが経営者として成功する手段の一つなんだろうね。週に一度はお前さんの動静を聞いてくる……いいよ、そこに行っても。そこならたぶん少しその業界の勉強ができてきた段階で共同経営者として経営者としての生き方を学ぶことも必要になるが……お前さんは勉強は嫌いじゃないでしょ?」
嵯峨はあっさりと誠の社会経験不足の裏を突く大人の事情を誠に告げた。
誠は嵯峨の言葉に衝撃を受けていた。
『逃げられる』……そんなことを考えたこともなかった。
でも、もし本当に逃げたら、自分は何になるのだろう。
ここに残ることも、逃げることも……どちらも誠には大きな決断だった。
05式の操縦桿の感触、かなめの怒鳴り声、カウラの冷静な叱責、アメリアの馬鹿話、島田の罵声……それらすべてを手放して、見知らぬ職場でスーツを着ている自分を想像してみる。
どうしても、その姿は『自分』には見えなかった。
「でも……西園寺さんは僕を認めてくれていますし……カウラさんはなんか僕を成長させることに生きがいを見出したみたいですし……アメリアさんはツッコミとして僕が必要みたいですし……島田先輩は舎弟の僕を見逃してくれるはずもなさそうですし……もうこうなったらとことん『特殊な部隊』に染まるしかないですね、僕は」
誠は思った。
もうすでに自分はこの『特殊な部隊』の一員なのだと。
ここで逃げたら、今まで自分に向けられてきた信頼も、期待も、ツッコミも、全部放り出すことになる……そんな気がした。
「そうなんだ……お前さんの奴隷根性はよくわかった。まあ、お前と心中するつもりのパーラの名前が出てこなかったのは本人に直接伝えておくわ」
またもや嵯峨はとんでもない発言をした。
パーラがそれほど自分を思ってくれているはずは無いと思っていた。
行きつく先が『心中』だということは、遼州星系では愛する男女が『心中』するのがごく普通なことだという地球人には理解不能な事実を認めたとしても、それはそれで自分は死にたくないので嫌だった。やはりパーラは常識人に見えてやはり『特殊な部隊』の隊員らしい思考の持ち主だった。
「僕は逃げません!」
誠の宣言に嵯峨は本当にめんどくさそうな顔をした。
「逃げてもいいのに……本当に逃げないの?今からでも遅くないよ……東都警察はお前さんを交番勤務の剣道部の部員として欲しがってるんだから。ああ、東都警察のパワハラはよくニュースになるな。あそこはやめておいた方が良い」
相変わらずなんとか誠をこの『特殊な部隊』から逃げ出すように仕向けたい『駄目人間』の意図に反したい誠は首を横に振った。
「あっそうなんだ。まあ、逃げたくなったら言ってよ。俺や『偉大なる中佐殿』は出入りの業者なんかにいつも『使える人材はいないか』って聞かれてばっかで疲れてるんだ。そん時はよろしく」
そう言って嵯峨は誠に出ていくように手を振った。
「僕は逃げません!ぼくはこの『特殊な部隊』の一員です!」
誠はそう宣言すると嵯峨の馬鹿話に疲れたので敬礼をしてその場を立ち去った。
ドアノブに手をかける指が、わずかに震えていた。
それでも、その震えは恐怖ではなく、覚悟のせいだと信じたかった。
廊下に出ると、さっきまで人垣を作っていた隊員達が、何事もなかったようにそれぞれの持ち場へ散っていくところだった。遠くでかなめの怒鳴り声と、アメリアの笑い声が重なる。
「ああ、このうるさい日常に戻ってきたんだな……やっぱりここが僕の本当の『居場所なんだ』」
誠の口からそんな言葉が自然にこぼれていた。
……降格されても、愛称がダサくても、逃げ道がいくらでもあっても。
自分はやっぱり、ここに戻ってきてしまうのだろう。
誠はそう思いながら、薄暗い隊舎の廊下を、いつもの詰め所へと歩き出した。




