第75話 戦場の支配者、恋に酔う夜――クエ鍋とラムと神前誠
ランの『空気を読んだ』その声に、ハンガー中のざわめきが少しだけ収まり、周りの者たちが一斉に嵯峨のテーブルへ視線を向けた。
クエ鍋の湯気とアルコールの匂いが入り混じる中、その視線の中心にいる嵯峨本人はマイペースを崩さなかった。
既に嵯峨は、甲種焼酎のお湯割りにカボスの汁を垂らしたものを、当然のようにちびちびやっているところだった。
湯気に混じって、柑橘の香りがふわりと漂う。
「すまん。いつも言ってるけど、俺そう言うの苦手なんだわ。ラン頼むわ……お前さん『偉大』だし。それにいつものお前さんの『我儘』……それもお前さんに言わせると『上司としての当然の役目』らしいけど、今日は一曲に絞ってくれないかな?今日のヒーローの神前はお前さんの『リサイタル』を見るのは初めてじゃん?それをいきなり……だからいつもの三曲から一曲だけ選んでね」
やる気がなさそうに、嵯峨はランに丸投げした。その会話の後半は、誠にはよくわからない内容だった。
どうやらこの『特殊な部隊』には、ランによって課せられる『特殊な行事』があるらしい……そう理解した瞬間、誠の背中に嫌な予感が走った。
テーブル越しに見える嵯峨のその横顔には、『これ以上は働かない』という確固たる意思しかない。時々ちらちらと誠に目をやるのは『ランの珍行動に驚くな』と安心させるような意味が籠っているように誠には見えた。
「そーか。一曲か……となるとアレになるな……おい、そこの三人、準備をしろ。それじゃあ失礼して」
ランが、いつもの調子で湯飲みを置き、すっと座椅子から立ち上がる。彼女に声をかけられた白つなぎの隣のテーブルでクエ鍋が煮えるのを待っていた整備班員はあからさまに嫌な顔をするとすぐさま立ち上がって仮設の演題の方へと消えていった。
その仕草とランの言葉を聞いての整備班員達の反応は、あまりにも手慣れていて、初めて見る誠にも『いつもの儀式なんだ』と直感させる自然さだった。
「総員注目!」
ランがかわいらしい座椅子からちょこんと立ち上がるのを見るや、島田がタイミングよく大声で叫んだ。
土鍋を前にしてじゃれついていた『特殊な部隊』の隊員たちは、条件反射のように居住まいを正し、ランに向き直る。
さっきまで『クエ寄越せ!』と怒鳴っていた顔が、そのまま畏まった軍人の顔になるのが、この部隊らしい。
「実働部隊隊員諸君!今回の作戦の終了を成功として迎える事ができたのは、貴君等の奮闘努力の賜物であると感じ入っている!決して安易とは言えない状況下にあって、常に最善を尽くした諸君等の働きは特筆に価するものである!私は諸君等の奮闘に敬意を、そして驚愕の念を禁じえない!」
ランは、いつものガラの悪いお子様口調からは全く想像のつかない、立派な「上官」の声でそう言い放った。
鼓膜に響く声は、艦内スピーカーから出ているかのように通りがいい。
「いつもの事ながら上手いねえ。手慣れたもんだわ」
はきはきとした口調で隊員に訓示するランを、かなめは感心した調子で眺める。
その手元のラムのグラスは、すでに半分ほど空いていた。
「西園寺さん。普通これは隊長の台詞じゃないんですか?それと隊長が言ってた『リサイタル』ってなんです?三曲を一曲ってカラオケでも歌うんですか?別に僕はそんな結構歌の上手そうなクバルカ中佐の歌なら何曲でも聞きたいですよ。僕の好きな『魔法少女』アニメの声優さんって大体キャラソンが有ってどれも素敵ですし、だいたいそのサブヒロインキャラの一人が主題歌を歌ってたりすることはよくある事ですから。いかにも『魔法少女アニメ』の最初は敵だけど最終決戦では強大な『噛ませ犬』的役割をしそうなクバルカ中佐のキャラ的には別に歌を歌うぐらいおかしくないんじゃないですか?」
ニヤつきながらビールをあおるかなめに、誠は小声でささやいた。ただ、誠がランの歌を聞きたいと言い出した辺りからその表情は曇り、誠を可哀そうな生き物を見るような目に変わったのが誠には気になった。
演壇ではランの隊員の活躍を称える演説は続いていたが、その視線は時々背後と自分に面倒ごとを押し付けた張本人に向いていた。そのランの向ける視線の先では、当の『隊長』がクエ鍋から水菜を拾いながら、完全に他人事の顔をしている。
慣れた島田の段取りから見ても、この部隊の『実質的な』最高実力者がランであることは明らかで、こういった席でも仕切るのは彼女なんだと誠にも分かった。
「……以上のように、戦闘とは呼べるモノとはいえ、任務に易しいものは存在しないと言うことは明らかであることは諸君もよく知ったことだろう。今回の作戦では『那珂』内部の制圧作戦時に三名の負傷者が出たのが残念であったが、三人ともひよこの力を使うほどでもない軽傷であったことは幸いであると言える。今後、予想されるさまざまな状況の変化に対応すべく諸君等は十分に……」
いつまでも続けることができると言うようにランの演説は続いた。それが5分を過ぎたあたりで隊員達の緊張が切れ始めたのがあちこちであくびをする整備班員や小声で笑いあう運航部の女子隊員の姿が誠の目にも分かるようになったころだった。
「長えな」
鍋の水菜を食べながらぼそりと嵯峨が呟く。この場にいる誰もの思いがその一言にこもっていた。その聞えよがしの嵯峨の言葉を聞くと、ランはようやく挨拶を切り上げる決意をした。
その一言で、あくまで『名目上』の上司が誰なのかが、いやでも思い出される。
「……各人持っている実力を発揮して部隊の発展に寄与する事を期待する!では杯を掲げろ!」
誠、かなめ、カウラ、アメリア、サラ、島田が杯を掲げる。
他のテーブルの面々も、紙コップから徳利まで各種酒器を掲げている。
嵯峨も、めんどくさそうにグラスを持ち上げた。
「乾杯!」
『乾杯!』
全員がどっと沸いて酒をあおる。
整備班の誰かが「わーっ!」と意味のない歓声をあげ、それに釣られて笑いが広がる。
サラがテーブル全員のコップと乾杯をすると、さらに隣のテーブルに出かけていく。
島田はタバコを吸いながら、その後に続いた。
「乾杯!」
サラは一人一人そばに寄って乾杯をせがんだ。
その細い腕でグラスを掲げながら、いつもの人懐っこい笑顔を振りまいている。
「元気だねえ……」
いちいち乾杯して回るサラを横目に、鍋を見つめながら焼酎をちびちびやる嵯峨は、彼女を感心したように見つめていた。
口では文句を言うくせに、視線はどこか柔らかい。
「隊長も!」
グラス酒を軽く上げる嵯峨に、サラは自分のグラスを差し出して乾杯した。グラスが軽く触れ合う甲高い音が、騒がしいハンガーの中にもきれいに響く。
場は完全に宴会モード一色に染まった時だった。
「それでは、勝利を祝してアタシが一曲歌ってそれに花を添えよー!『人生劇場』!準備は出来てるな!」
まだ壇上でマイクを手放さずに立ち続けていたランはそう叫ぶと背後に目をやった。そこにはいつの間にかカラオケセットが用意されていた。
「あのー、アメリアさん。こういう時は必ずクバルカ中佐は歌を歌うんですか?」
誠の何気ない一言にアメリアはにやにや笑いながらうなずいた。
「え?この前、寿司屋に行った時に中佐にカラオケに連れて行ってもらわなかったの?変ねえ……私が連れて行ってもらった時はその後二次会だって言ってランちゃんのなじみのスナックに連れていかれたものよ。しかもひたすら歌うのはランちゃん……まあ、ランちゃんの『文化統制』をそれで知ることができたから。その後の『ランちゃんカラオケチキンレース』の度に私だけ勝ちっぱなしで毎回お小遣いをくれるから……かなめちゃんや島田君みたいにいつも『ダウト』を引くような間抜けなことは私は一度もないし」
得意げにそう言ってビールを煽るアメリアの言葉の中にランに関する誠の理解不能な単語が混じっていることが誠には気になった。
「クバルカ中佐のなじみのスナック……というかスナックに出入りする8歳女児がすでにシュールすぎるんですけど。それと『文化統制』とか『ランちゃんカラオケチキンレース』って何です?確かにクバルカ中佐は隊長と違って気前がいいのは分かるんですけど……カラオケで小遣いがもらえるんですか?」
誠にはアメリアの言葉の意味が分からず隣でラムを飲むその『ランちゃんカラオケチキンレース』では必ず『ダウト』を引くと言うラムを手に水菜を口に運ぶかなめに目を向けた。
「あの『罰ゲームカラオケ』のことか?神前は姐御のお気に入りだからそのうちあのスナックには連れていかれることになるだろうが……あの『文化統制』の基準はどうかしてる。劇場やコンサートには必ず警官がいて政府批判や風紀を乱すと判断すると即中止の国の甲武の生まれのアタシでもあの基準は理解できねえよ」
これまでさんざん『ダウト』を引いて酷い目に遭ってきたらしいかなめは吐き捨てるようにそう言うと鍋に箸をツッコんで大きめのクエの身を小鉢に移した。
「甲武ってそんな国なんですか……でもそんな国より厳しい基準って何なんです?」
『ダウト』を引いたトラウマからもう話したくないと言うよなかなめを置いて誠は今度はそもそも連れていかれても歌自体を歌いそうにないカウラに声をかけた。
「ああ、中佐の文化の好みは常人には理解不能なんだ。ただ、カラオケは比較的わかりやすい。中佐にとって地球の音楽という物は一人の天才だと中佐が言う『古賀政男』を生み出すために生まれ、そして彼の死をもって無価値なものへと落ちぶれたと言うのが中佐の主張だ」
カウラは平然とさもそれが当然と言うようにランのあまりに歪んだ音楽観を口にした。そんなあまりにも常識とはかけ離れた文化観を振りかざす生きた戦略兵器が、よりにもよって自分の上官なのだと考えると、誠は少しだけ頭が痛くなった。
「なんです?その奇妙な音楽観は!そんな歪んだ音楽観なんて聞いたことが無いですよ!それと『古賀政男』って誰です?」
そう言った瞬間だった。カラオケでギターの渋すぎる旋律が大音量でハンガー一杯に響き渡った。
あからさまに『昭和』なリズムとそれを全く無視する気満々でそれぞれに鍋をつつく隊員達。そのあまりにシュールな光景を目の当たりにした誠は壇上に目をやった。
そこでは完全にノリノリでどう考えても見た目の幼女姿と声から想像もつかないような男の生きざまを拳を利かせて全身をくねらせながら歌いあげているランの姿があった。
「今、クバルカ中佐が歌っている歌が『古賀政男』の代表曲である『人生劇場』だ。元は中佐の好きな任侠映画の主題歌だ。元々『人生劇場』というのは昭和初期のある青年の成長を描いた青春小説なのだが、登場人物のほとんどがやくざ者で映画も完全に任侠映画と認識されている。何度もリメイクされているが中佐は全シリーズ、番外編、そしてリマスター版もすべてレーザーディスクで保有して愛蔵している。しかも、この前聞いたところ、自分の原案で男女の配役が逆転した『美少女魔法少女アニメ』風に改変したものを自費で製作していると言う話だ」
カウラは平然とそう語るが、響くどう考えても幼女が歌ったら『アウト』な歌詞の演歌を歌うランの声とカウラの語るランの珍行動の数々に誠は言葉を失った。
「まあ、『ランちゃんカラオケチキンレース』では作曲古賀政男の曲を選ぶなんてチキンとしか言えないわね。昭和の任侠映画の主題歌も、村田英雄や高倉健や鶴田浩二の歌を歌うのも私にはチキンにしか見えないし、その辺はランちゃんも分かってるから自分にこびてるんだなあって悟って目をつぶって黙って聞き入るだけ。だから、そう言う曲か美空ひばりしか歌わないカウラちゃんは『ダウト』は引かないけどお小遣いにはあずかれないのよ」
アメリアは山と小皿にクエの身を置いて旨そうに食べながらそう言った。
「そう言えば、西園寺さんや島田先輩がよく『ダウト』を引くって言ってますけど……何なんです『ダウト』って。それと『ダウト』を引くと何が起きるんですか?』
クエの身を上手そうに頬張ってはビールを飲むアメリアに誠は自分が『ダウト』を引くかもしれないと心配になって尋ねた。
「だから、ランちゃんの『文化統制』は基準が意味不明なの。そのギリギリの線を攻めるからこその『ランちゃんカラオケチキンレース』なわけ。私はかなめちゃんの持ち歌の森田童子はイケるなあ……と踏んで『僕達の失敗』を歌って見事に2万円ゲットしました!」
アメリアは得意げにそう言って右手を高々と掲げた。
「馬鹿野郎。森田童子はアタシのだぞ!『僕達の失敗』もよく歌う!人の歌を歌って恥ずかしくねえのか?でも、アタシも『ファイト』を歌った時は1万円もらった。でも『悪女』は『ダウト』でその後アタシの身体だと生体部品が消耗するっていうのにうさぎ跳び5キロを強制された……同じみゆきの代表曲だぞ?まったく姐御の脳内は理解不能だ」
苦々し気にかなめはそう言いながら入れたばかりの堅そうな春菊を頬張る。同じ歌手でも『ダウト』とお小遣いをくれるものがある。確かにそれは『チキンレース』と呼ぶべきものなのかもしれないと誠は思ったが、罰ゲームが要するにいつも自分がさせられていることをするだけだと聞いて少し安心した。
「しかし、島田君もチャレンジャーよね……浜田省吾や甲本ヒロトが大丈夫と分かると今度は挑戦だとばかりに横浜銀蝿を歌って見事に『ダウト』だったり……まあ、島田君はお小遣いをもらったことは無いわよね。その点ではただ罰ゲームを楽しんでいるみたい……うちの男子は全員マゾなのかしら?良かったわね、かなめちゃん『女王様』としてはM男が一杯いる環境は楽しいでしょ?」
「別に……あんなの虐めても虐め甲斐がねえ。アタシは神前なら縛って、吊るして、鞭うってやってもいいぞ……どうだ?今から?」
かなめが突然妖艶な笑みを自分に向けてきたので誠は激しく首を横に振ってそれをこばんだ。
結論として誠が分かったことはランは脳内まですべての人類の理解を超えた『人外魔法少女』だけだった。
ランの歌が終わり静かになるどころかハンガーには隊員達の笑い声が満ち余計に騒がしいチェーン系居酒屋の店内のような雰囲気になって来た。ただ、供される料理は高級料亭ですら滅多に出すことが無い最高級のクエ鍋である。
クエとだしの香り、アルコールの匂い、人いきれ。格納庫の冷たい鋼鉄の床の上に、まるで場末の居酒屋の空気が再現されている。
「大丈夫か?ってカウラさん!何してるんですか!」
コップを空にした誠が、かなめの声に気づいて、その視線の先を見た。
カウラが、一息でコップの中のビールを空けていた。
喉を鳴らして飲み干すその姿は、静かな緻密な戦場制圧者というより完全に『イケイケ新卒社員』である。
誠、かなめ、アメリアはじっとその様子を観察している。
「慣れないビールなんて飲んだらすぐ潰れると思っていたが……大丈夫みたいだな」
かなめは、カウラの初めてとは思えない飲みっぷりに息をのみながらそうつぶやいた。
「舐めるな西園寺、別にどうと言う事はない。なるほど。これがビールか」
カウラには特に変化は見られなかった。
ごく普通に座り、いつものように背筋は伸び、目もすっきりしている。グラスを指先でくるりと回す仕草すら、妙に様になっていた。
「こっち、酒足りねえぞー!」
「誰だ、クエの身を全部取ったやつは!」
そんな怒号が、あちこちのテーブルから飛び交っていた。
クエの白身をめぐる争奪戦も、既に局地戦の様相を呈している。
「さっき追加したのももうそろそろ煮えたんじゃないの?鍋、沸騰してきてるじゃない。火を小さくしなきゃ」
アメリアはそう言うと、土鍋の中を箸でかき回してクエの身を捜した。
湯気の向こうで、その糸目がきらりと光る。
「お前は野菜を食え!クエなんて高級品は新兵には向かねえ!」
かなめはそう言ってアメリアをにらみつけた。
「今回のヒーローにそれは無いんじゃないの?それこそかなめちゃんが食べれば良いじゃない。いつも野菜不足のかなめちゃんにはちょうどいいかもよ?」
アメリアは嫌味のつもりでかなめに向って冷ややかな目つきを向けた。
「クエを入れたのはアタシだ。だからアタシが食う。新兵にはそんな資格はねえ」
「釣ってきたのは『釣り部』じゃない!」
「うるせえ!バーカ!」
かなめとアメリアはいろいろ言い合いながらも、土鍋をつつきまわしていた。
箸の先はしっかりクエの身を狙っているあたり、利害はきっちり一致している。
「じゃあ水菜を足しますね」
誠はクエの身を諦めてとりあえず二人の対立を何とかしようと、皿に乗った水菜の残りを足そうとする。
鍋から立ち上る湯気が、誠の前髪をしっとりと濡らした。
「神前、気が利くじゃないか?それと豆腐も入れろ!」
「かなめちゃん、豆腐苦手じゃなかったの?」
「馬鹿言うな!鍋の豆腐は絶品なんだ!っておい!」
かなめはカウラを指差して叫んだ。
かなめが目を離したすきに、かなめの自分用に注いでいたラム酒を、カウラが一息で空にしていた。
エメラルドグリーンの髪の下……カウラは明らかに理性が吹き飛んだ顔をしていた。
白い肌が、みるみる赤くなっていく。
そして彼女を中心として、しばらく奇妙な沈黙が流れた。
さっきまでの喧噪が、音量だけほんの少し下がる。
誠には、しばらく時が止まったように感じられた。
あたりを沈黙が占める。
「なるほど。これがラム酒というものなのか?」
そこには、ろれつが回っていないカウラが出来上がっていた。
アルコール度数40度のラム酒をグラス一杯……鉄の肝臓を持つかなめなら耐えられる文字通り『ストレート』であおったカウラが、ふらふらし始める。
「神前!支えろ!」
かなめが、ふらふらとし始めたカウラを見て、すぐに叫んだ。
誠は慌てて立ち上がり、カウラの背中に手を当てて支えた。
制服越しに伝わる体温と、わずかに早くなった呼吸が、酔い方の危うさを教えてくる。
カウラは緩んだ顔を、とろんとした緑の瞳で誠を見つめた。
「神前。貴様……気持ち良いのれ、ふらふらしちゃってますれす」
完全に出来上がっている。
頬を赤く染めて、ぐるぐると頭を動かすカウラを見て、誠は確信していた。
「大丈夫ですか、カウラさん」
誠はカウラを支えると同時に周りを見回した。
かなめもアメリアも、明らかに『全責任は誠にある』とでもいうような冷めた目付きで誠を見つめていた。
整備班の誰かは、さっきからこっそり携帯端末で動画を撮ろうとして、後ろから島田に小突かれている。
「大丈夫れすよ!大丈夫!おい!そこの悪のサイボーグめ!れに何を入れたのだ!」
「それはアタシのグラスだ!テメエが勝手に飲んだんだろうが!」
自分の酒を飲まれたことを思い出して、かなめはそうカウラを怒鳴りつけた。
「ダメよ、かなめちゃん。酔っ払いをいじめたら」
かなめは睨みつけ、アメリアはそれをなだめる。
初めての状況だというのに、二人は完全に立ち位置を決めていた。
そして当然、誠は『介抱役』のポジションに押し込まれている。
二人とも明らかに、カウラの面倒を誠に押し付けて逃げようという雰囲気を漂わせていた。
「カウラさん! しっかりしてくださいよ!」
自分しかこの場をどうにかできる存在はいない……かなめは自分の酒を盗まれたことで頭がいっぱいだし、アメリアは完全に傍観者を気どって一切関わり合いになる様子は見えない。
そんな義務感が、誠にそんな叫び声を上げさせていた。
「貴様!何を言うのら!ベルガー大尉と呼ぶのれす!貴様の小隊長に対する態度はみるに値しないものれした!今こそ小隊長である私に敬意を払うべき時なのれす!」
そう言うとカウラは、今度は急にしっかりとした足取りで立ち上がる。
しかし、誠の手を離すと、ほんの少しよろめき、またすぐ誠の肩に寄りかかった。
「何!どうした……って!カウラ!なんでこうなった……って西園寺!オメーだろ!なんでこいつにオメーしか耐えられねー飲ませたの!ひよこ!ひよこはどこだ!」
騒ぎを聞きつけたランがやって来た。
小さな軍靴の足音が、ゴザの上をぺたぺたと鳴らす。
そして呼ばれたひよこが、空いた皿を手に、ランの後ろを急ぎ足で歩いてくる。
「姐御!アタシじゃねえよ!あの馬鹿が勝手に飲んだんです!それにひよこの力が必要なほどじゃないですよ!」
ランのまん丸の鋭い眼光は、まるでかなめをまったく信じていないと言う色に染まっていた。
「こりゃーかなり出来上がってんな。まー確かにこれくらいならひよこの力が必要なほどじゃねーな。神前、介抱しろ! これも新入りの仕事だ」
ランはそう言うと、そのまま軍医を探しに、クエ鍋の列の向こうへと消えて行った。
残された誠は、完全に『酔っ払い担当』として確定した。
騒ぎを聞きつけた嵯峨がお湯割りの焼酎の入ったグラスを手に近づいてきて、誠達を眺めた。
「どんだけ飲んだんだ?ベルガーは」
呆れた調子で嵯峨が、かなめにめんどくさそうに尋ねた。
「ラム酒をコップ一杯」
かなめも、策士で叔父である嵯峨に聞かれたら正直に答えるしかなかった。
「アルコールに強いかと思ったが、さすがに40度のラム酒は無理だったか……」
嵯峨がグラスを手にしながらため息をついた。
「まあ同じ量でアメリアが潰れたこともあったしな。それにしても情けねえ話だな」
嵯峨はそう言うと、手にしていた焼酎の入ったグラスをあおいだ。
こちらはまったく顔色が変わっていないのに、誠は驚かされた。
やっぱり、この人たちはどこかおかしい。この場に置いて誠はそう確信する。
……普通の人間基準で物事を考えるのが、もう間違いなんだ。
これで、自分が先輩達のおもちゃにされることは回避されたことだけが、誠にとっての『救い』だった。
「しょうがねえな……」
嵯峨はため息をつきながらも、倒れそうなカウラに目を向けた。
「隊長にお願いしたい事がありますれす!」
カウラはそう言うと、急に背筋を伸ばし敬礼した。
その動きだけは、いつもの『ベルガー大尉』そのものだ。
かなめとアメリアはいかにも嫌そうな顔でカウラの動向を見る。
「何?聞きたくねえけど、仕方ねえから聞いてやるよ」
完全にどうでもいいという表情の嵯峨がそう尋ねた。
「わたくし!カウラ・ベルガー大尉は悩んでいるのであります!」
嵯峨の表情が、さらにうんざりしたものに変わり、そのまま右手の端で鍋からクエの身を取り出して酒をあおった。
「悩んでるんだ……へー……」
薄情な嵯峨の言葉が、カウラの言葉を見事に翻訳する。
「何言い出すんだ! 馬鹿!」
かなめが思わずカウラを止めようとするが、『駄目人間』とは言え人生の先輩の嵯峨は、すばやくその機先を制する。
「そう。じゃあ隊長として聞かなければならねえな。続けていいよ」
話半分にシイタケをつまみに焼酎を飲みながら、嵯峨は話の先を促した。
周りのテーブルからは、すでに『何か始まったぞ』という好奇の視線が集まり始めている。
「はいれす!わたひは!その!」
またカウラの足元がおぼつかなくなる。
仕方なく支える誠。
エメラルドグリーンの切れ長の目が、とろんと誠を見つめている。
「何言いだすつもりだ?この酔っ払い!」
カウラから奪い取ったグラスにラム酒を注ぎながら、かなめはやけになって叫んだ。
しかし、誠から離れたカウラの瞳がじっと自分を見つめている……。
いや、自分の胸のあたりを見つめている——ことに気づくと、かなめはわざとその視線から逃れるように天井を見て、黙って酒を口に含む。
「このドSサイボーグが神前をたぶらかそうとしてるのれあります!」
かなめはカウラの突然の言葉に、思わず酒を噴出す。
周囲の数名も、同時に咳き込んだ。
そんなかなめを見ながら、アメリアはカウラの言葉に同調してうなずいた。
そして誠は、自分がこれまでかなめにひたすら虐められてきたのは、かなめが天性のサディストだからという事実を、ようやく言葉として突きつけられた。
「たぶらかすだと!んでアタシがそんな事しなきゃならねえんだ?まあ、こいつが勝手に、その、なんだ、あのだな、ええと……」
「たぶらかしてるわね……支配して調教しているわね……銃で」
いつの間にかこのテーブルにやってきていた、ライトブルーのショートカットのパーラ・ラビロフ中尉がそう言った。
「確かに俺達には命令口調ばかりの西園寺中尉が、神前が相手となると口調が少し柔らかくなるからな……うらやましいというかなんと言うか」
パーラの発言を聞いて、鍋を見回ってきていた島田がそう言った。
島田と一緒にやってきたサラも、同意するようにこくこくと頷いている。
「テメエ等!なにふざけたこと抜かしてるんだ!無事に遼州の地面を踏めると思うなよ!この糞野郎!」
顔を真っ赤にして、かなめは激高して反論した。
「正人の言う通りよ」
サラは酔いの勢いを借りていつもならその銃で男女を問わず隊員を恐怖で支配している『女王様』かなめに向けてそう叫んだ。一方の島田にはまだ理性が残っているようでかなめの一言とその脇にある銃を見て顔色が一瞬で青ざめる。
「やっぱりさっきの発言、取り消せませんか?西園寺中尉」
島田は野生の勘でかなめの殺気を察して逃げ腰でそう言った。
「しずかにするのら!外野はしずかにするのら!」
嵯峨の目の前で、目の座ったカウラが叫んだ。
「そう言うわけだ。静かにしなさいね……」
一方的に絡まれている嵯峨は、恨みがましい目で誠を見つめた。
全員の目は頬を真っ赤に染めたカウラに向ってた。誰のせいでこうなったと思ってんだ、とでも言いたげに。その声は、不自然なほどまっすぐで、誠の胸に突き刺さる。
誠は自分の鼓動の音だけが、クエ鍋の沸騰音よりも大きく聞こえた。
「神前……お前、わらくしを好きれすか……?」
頬を真っ赤にして、カウラが潤んだ瞳で誠を見つめていた。
その声は、不自然なほどまっすぐで、誠の胸に突き刺さる。
突然のカウラの言葉に、誠は何も言えずに、ひたすら照れ笑いを浮かべていた。
周囲の視線が、一斉に自分の頬の温度を上げてくるのを感じながら……。




