第74話 英雄とクエ鍋と、揺れる小隊長
ソファーに座ってのんびりしていた誠の左腕を強引につかんだ女性の手を感じて誠はそちらに目を向けた。その人物は他でもないアメリアだった。その糸目は明らかに言い争うかなめとカウラを意識して勝利を確信した下心溢れた瞳がその見えない瞼の下にあるのだろうと誠に感じさせるようないやらしさを湛えているように感じられた。
「はいはーい!どいてくださいよ!お二方邪魔以外の何物でもないですよー!喧嘩をするならもっと広い場所でしてくださいな!誠ちゃん!お席のほうが出来ましたのでご案内しまーす!」
喧噪渦巻くハンガー前の通路に、やたらと明るいアメリアの声が響いた。
そこにいつの間にか現れて、誠の腕をするりとさらっていこうとする。そのちゃっかりしたところがいかにもアメリアらしいと誠には苦笑いしかなかった。
「おい! いつの間に湧いたんだ!」
「卑怯者! 誠の世話の担当は私だ!」
かなめとカウラが、同時にアメリアへ噛みつく。
さっきまで階段の踊り場で犬と狼みたいに唸り合っていた二人の視線が、今度は共通の『敵』に向いた。
「だって二人ともこれから決闘でもするんでしょ?だから私なりに気を使ってあげようと言う話なの。今は二人で戦うんだからじゃあ誠ちゃんはお邪魔じゃない?だから邪魔になりそうな誠ちゃんをこうして連れ出してこれから誠ちゃんの活躍を称える宴会の為に迎えに来てあげたってわけ。私なりに気を使ってあげてるのよ……感謝してちょうだいな♪」
アメリアはまったく二人の様子など気にする様子もなく誠の手を引いて通路を進んでいこうとする。
『そんな理屈が通用するか!』
二人はステレオで、エレベータに向かおうとするアメリアを怒鳴りつけた。
通路にいた技術部員とブリッジクルーが『また始まった』という顔で振り返る。
「クラウゼ大尉!三人で連れてってやったらどうです?」
「西園寺さん!良いじゃないですか!」
「酷いよねえ。神前君って三人の心を弄んで……そんなことモテないことにアイデンテティがある東和で許されると思っているのかしら」
「そう言うなよ。戻ったら三人をストーキングしている技術部の馬鹿につけ狙われるんだから。それまで楽しんでろよ……まあ神前が生きて大地を踏めればの話だがな」
「新入りの分際で!」
周りのブリッジクルーの女性陣、技術部の男性部員が、待ってましたとばかりに茶々を入れてくる。視線は完全に『見世物』を楽しむ観客という物だった。
「黙れー!」
感情瞬間湯沸かし器であるかなめが大声で怒鳴りつけると、その場の空気が一瞬だけ震えた。
「じゃあ、行くとするか。西園寺、アメリア。ついて来い。大丈夫か誠。一人で立てるか?それとも吐くか?」
カウラはそう言うと、アメリアの手から誠の右手を奪い取るとその手を引いてさっさとハンガーに向けて歩き出した。だが、そんなカウラの行動をアメリアが許す訳も無く今度は表情に怒りを浮かべて再びカウラから誠の手を奪い取り歩き出す。そんな二人の誠の奪い合いをかなめは憎しみの目でにらみつけるだけだった。
誠はすさまじく居辛い雰囲気と、明らかに面白がっているギャラリーの視線に耐えながら、大柄なアメリアの『ラスト・バタリオン』の普通の女性をはるかに上回る怪力でエレベータへと引きずられていく。
エレベータの中は、外よりも狭いぶんだけ、女性三人と誠一人の距離が近い。金属壁に反射した照明の光が、彼女たちの表情をくっきりと浮かび上がらせていた。
「それにしても初出撃で巡洋艦撃破ってすごいわよねえ。これじゃあさっきのニュースも当然よねー……」
アメリアが、ポケットから端末を取り出してひらひらと振る。そこには、THKニュースチャンネルのロゴがまだ残っていた。
「何があった?」
相変わらず機嫌の悪いかなめが、腕を組んだままアメリアを睨む。
「同盟会議なんだけど。そこで誠ちゃんみたいな法術師を極秘で配置してた加盟国各軍の情報が一斉に発表されて、加盟国すべての軍の前線任務からの引き上げが決まったのよ。遼州圏全域では東和が主導して甲武、ゲルパルト、外惑星が連名で提出した『法術師の戦闘利用制限条約案』が今臨時の同盟安全保障会議が招集されて審議入りしたみたいね。地球の主要国なんかは遼州圏に同調する動きを見せているわ。まあ、誠ちゃんの『光の剣』。実績も無い覚醒したばかりの『法術師』が一撃で巡洋艦をあっさり撃沈して見せる光景。あんなの見せられたら、さもありなんというところかしら」
誠は、自分のしたことの大きさを、アメリアの何でもないような口調で初めて突きつけられた気がして、喉がひゅっと鳴った。
「地球圏の情報戦に力を入れている有力国は、既にこの状況を予想していた。言ってみれば当事者みたいなものだからな。その動きは当然だ。しかし他の勢力が黙っていないだろうな」
カウラは、淡々と政治的な結末を口にする。
エレベータの振動が、船体から微かに伝わってくる。狭い箱の中で、誠だけがじわりと汗ばみ始めていた。
「一番頭にきてるのは同盟会議の法術師の数が少ない反主流派の国ね……特に西モスレムは完全に虚を突かれたと言う感じでかなり頭に来てるみたい。あそこは国王が独裁者している国で、遼流同盟でも地球圏のアラブ連盟と綿密に連絡を取ってる国として同盟内部では常々『地球の手先』と陰口叩かれている国だから中小の加盟国にいくら声を掛けても無視されるのが毎度のお決まりのパターンでしょうけど。同盟会議の声明文に連名で名を連ねているものの、声明文が準備されている段階ではこんな大変なことになるとは思ってなかったでしょうから。同盟機構に文句はあるけど、なんとか金は出してその維持に努めてきてやったのに、何でこんなおいしい情報をこれまでよこさなかったのか……ってね。でもあそこの経済を支えている原油の最大のお得意先の東和に原油価格の引き下げを通告されたら黙り込むのも毎度の話しよ」
アメリアの声は明るいが、内容は決して軽くない。
「それと地球圏ではフランスやドイツなどのヨーロッパ諸国が声明文の黙殺を宣言したし、インド、アメリカ合衆国自治国ブラジル、南アフリカ、イスラエルもヨーロッパ諸国の動きに同調するみたいよ。アメリカに至っては自分達は『法術師』を多数抱えていて戦力化しているからこのような動きで国の方針が絶対に揺らぐことは無いと大統領が演説して悦に入ってるくらいだもの。どの国も維持に金ばかりかかる『核の代わり』の新戦略兵器として『法術師』を使う気満々ってわけ。『法術』の存在が誰が口にしてもいい普通の存在になった今、なんと言っても維持費は普通の軍人と同じ金額の給料を払うだけ良いと言う最高のコストパフォーマンスを誇り、その威力は核兵器よりもはるかに強力という便利極まりない大量破壊兵器を保持できるって言うんだから飛びつかない方がどうかしてるわよ」
社会常識に疎い誠は、次々と出て来る知らない国の名前を聞きながら、自分の力の大きさを、やっと別の角度から思い知らされる。
……自分が剣を振っただけで、知らない国々が机の上の地図を引っ掻き回している。その地図の上に、自分の名前が小さく書き込まれている気がして、背中が冷たくなった。
「まるで核兵器が普通に使用されるようになった21世紀に起きた地球のパワーゲームみたいだな。いや、むしろ『法術』は核よりもっと質が悪い。下手な核兵器よりも製造が簡単で、本人に一言いえば持ち運ぶも何も足が生えてて自分に攻撃対象まで向かってくれるんだからな。それに維持にかかるコストはその肝心の『法術師』に不満を持たせないだけの普通の将校クラスの給料で済むと来てるんだから。核の維持のコストで国家財政が破綻寸前の地球圏の国々にとっては良いことずくめってわけだ」
アメリアの解説を聞いて、かなめはようやく冷静に現状分析を始めた。
かなめの表情が険しくなる。
同じくカウラも、難しい表情を浮かべていた。
そして誠も、もう『普通の人間』ではなく『戦略兵器』として認識されているという、逃げ場のない事実を理解する。
「さっき名前が出てきた国はすでにある程度の数の神前クラスの『法術師』を軍に在籍させていると考えるべきなのだろうな。『法術師』が配属されたとなれば、『法術師』が軍に居ない対立する国も対抗手段を考える。核を使うことにためらいの無い地球圏の連中も核の意味がなくなる可能性だってある。遼州圏から遼州圏独立以前に奴隷同然で連れてこられた遼州人の子孫や見た目が似ているから地球圏は豊かだと騙されて東アジアに移民した遼州人が利用される可能性があるが……おそらくアメリカの強気の理由はあの国が領有する東アジア地域に多数東アジア系住民に混じって遼州人が居住しているからだ。『法術』の存在と、どんなに見た目が良くても自分を『モテない』と強く信じ込んでいるという独特のコンプレックス。その二つ以外には、東アジア人と遼州人の区別をつけることはできない」
カウラの言葉に、誠は背筋に冷たい汗を感じた。
……どこかの国の見えない会議室で、自分たちと同じような『自分では望んでもいない力を持った兵士』が、己の意志とは関係なく数字として並べられている。
「でも……こいつがか?そんな国家間の大問題を引き起こした英雄だなんて……信じられないな。この前まではただ乗り物酔いがひどいだけの使えないパイロットだぞ……コイツは。ああ、コイツは遼州人らしい『モテない』コンプレックスの塊の典型的な遼州人だったな。確かにこの面と公務員という安定した職業でこれほど自分が『モテない』と思い込んでいるのは地球人にはありえない現象だわ」
そう言うとかなめはまじまじと誠の顔を眺める。
距離が近い。かなり近い。
『かなめさんのタレ目が近い……』
不謹慎にも、誠はそう思った。
さらに『特殊な部隊』一番の胸のボリュームに、視線が自然と流れてしまう自分を、自覚した瞬間に慌てて目線をそらす。
「アタシもさあ。コイツの『干渉空間』のおかげで命を拾ってその活躍を実際、間近で見てて凄いなあと驚いたんだけど……やっぱり普通のゲロを吐く生き物じゃん。それにこいつ面は良いけど『モテない』じゃん。その事実はどうしても消せねえよな」
かなめの言葉が、誠の心をきれいに砕いた。
口からよく何かを吐くのは事実なので、誠にその言葉を否定することはできない。
「誠ちゃんが口から『重力に逆らえないエクトプラズム』を吐くことがあるのは知ってるからでしょ?知らなきゃただの英雄よ。まあ本人が『モテない』のは自分を『モテない』と信じ込んでいて異性を見ると避けて通る遼州人しかいない東和共和国から出たことが無いからだけだけど。それに地球圏が純粋に兵器として扱う『法術師』が誠ちゃんみたいに使えないパイロットで同じように乗り物を見て吐く存在だと思う?たぶん彼等も公にはしてないけど『法術』が存在することは知ってたんだから、それ相応の訓練はその『法術師』に施すわよ……そして自分が明らかに有利になる東和や遼帝国がわざと自分の手を縛るような『法術師の軍事利用の停止』なんて提案をしてきているのにそれに無視を決め込むってことはそれなりにそれらの国々の『法術師』は即戦力状態にあると言って良い……まあ、その『法術師』をどうやって確保したのかまでは私も分からないけどね。隊長なら多分知ってると思うけど」
アメリアの、酷いようでいて妙に的を射た論評も、事実だけに、誠は何も言い返せなかった。
「まあそうなんだけど。こいつが叔父貴と同類の法術師?あのネバダ州を誰も入れない虚数空間に変えた化け物?信じられねえよなあ」
かなめはさらにじろじろと誠の全身を観察し始めた。
誠は、これまで人にここまで注目されたことが無かったので、ただひたすら戸惑うしかなかった。
「西園寺!イヤラシイ目で神前を見るな!」
「誰がイヤラシイ目で見てるって?アタシは軍人として神前の戦力を評価していただけだ!オメエがそう見てるからアタシも同じ目で見てると妄想するんだろ?」
苛立つカウラを、かなめはいつもの調子で受け流す。
エレベータが停止し、扉が開くと、三人+誠の言い合いはそのまま通路へと流れ出ていった。
そして、そのままハンガーへ向かう通路を歩き続ける。
「誠ちゃん、着いたわよ!」
アメリアはそう言って笑った。
ハンガーの出入り口には、宴会場の設営の為に動き回る各部隊員が出入りしていた。格納庫の天井クレーンには、さっきまで05式がぶら下がっていたチェーンの残骸が見える。その下に、今は長机とゴザがずらりと並んでいる。
「ヒーローが来たぞ!」
椅子を並べる指示を出していた司法局実働部隊の制服を着た男性将校の一言に、会場であるハンガーが一斉に沸いた。
口笛、歓声、なぜか拍手。整備班の誰かがどこからかタンバリンまで持ち込んでいる。
『英雄……僕が?あの期待されてマウンドに上がってもキャッチャーを殴ってすべてを台無しにした僕が?吐き癖のある僕が?そんな……冗談が過ぎますよ……』
誠が戸惑うその視界の端で、一升瓶を抱えたランが誠達に歩み寄ってきた。
ちんまりとした背丈に不釣り合いな大きさの一升瓶。それを片腕で軽々と持ち上げている姿は、やっぱりどう見ても『中身がおかしい人外魔法少女』以外の何物でも無かった。
満足げなランの表情を見て、誠はようやく、自分が一人の幼女……おそらく地球圏のどんな国家が誇る『法術師』すら駆逐する永遠の8歳児である中佐……の期待に応えたという事実を、ほんの少しだけ実感できた。
「いいタイミングだな。酒を選ぶのに悩んだが……『クエ鍋』だかんな。やはりここは日本酒の伏見の『辛口』で行こーと思うんだわ。アタシは今日はめでてー日だから控えめに一升で済ませるつもりだ……西園寺!ラム一ケースあるがどうする?オメーの好きな『レモンハート』は切れてたらしくて二番目に指定していた銘柄の『ハバナクラブ』だ!アタシが今日は一升しか飲まねーんだら、オメーも自重しろよ!」
いくら『不老不死』とは言え、どう見ても8歳女児が『日本酒伏見の辛口』などと言っている姿に、誠は本能的な違和感を覚えずにはいられなかった。そして日本酒一升を一晩で飲むことを『控えめ』と言った事実に言葉が無かった。
「別に気にしねえよ。勝利の後はラム!これがアタシの美学だ。それと糞餓鬼!アタシのラムは誰にもやらねえよ!まあ宇宙のパワーバランスを変えたほどのヒーローになら『御褒美』としてなら神前にならあげても良いかも知れねえがな!」
かなめはそう言うと、ランが指さした木箱に向けてそそくさと走り去った。
ラムのラベルを食い入るように見つめるその背中には、『女王様』というより、ちょっといい酒に弱い庶民の匂いも混じっている。
「誠ちゃんはそこに座って!」
りん、とした調子でアメリアが誠達に声をかける。
そこはどう見ても上座らしい。
誠は、そのまま手を差し出すアメリアに導かれて、そのテーブルへと引かれていった。
ちっちゃなラン用の座椅子と、その横に誠用のクッションが置いてある。その前に一人分の箸と小鉢が置かれているのはこの鍋がラン専用の鍋だと言うことを示していた。
「あのー、アメリアさん。クバルカ中佐は一人で鍋を食べるんですか?鍋はみんなで食べた方が楽しいと思うんですけど……それとあっちに座ってる隊長の鍋にも誰も居ないですよね?隊長はうちで一番偉いと言うことで専用鍋なんですか?」
誠の言葉にアメリアは大きなため息をついた。
「ああ、ランちゃんは一人で全部食べるから一人で鍋一個なの」
まるで当たり前のようにアメリアの口から出た言葉に誠は言葉が無かった。
「でも、あれって他の鍋とほとんど同じ大きさですよね?あの量を一人で食べるんですか?あの人の大きさから考えてどうやったらそんな量があの小さな体に入るんですか?あの人の胃にはブラックホールでも入っているんですか……いや、入っているんでしょうね。なんと言っても『人外魔法少女』ですから。それは分かりましたけどなんで隊長も一人なんですか?」
誠はランは戦闘中の彼女の演説の通りこの宇宙の物理法則が通用しない存在であることは理解していたのでそちらは納得したが、まるで慣れていると言うように一人だけの鍋の前でタバコをくゆらせている嵯峨を見て少し可哀そうに思ってそうつぶやいた。
「そりゃあ、叔父貴が『真正の駄目人間』だからに決まってるからだろうが!アイツのよだれの付いた箸が鍋に入るんだぞ?オメエはまだ体験してねえから分からねえかもしれねえが、インフルエンザやベルルカン風邪。その他伝染病が流行るとアイツはオートレースで買った金で行ってる安風俗で間違いなくそんな菌を貰ってくる。風俗店は嬢には性病の検査はしているがインフルエンザの検査まではしてねえからな。だから、叔父貴が今どんな菌を抱えているかは誰にもわからねえ。しかも、叔父貴は不死人だから発病せずに近づいた人間だけが次々と発病していく。大体、世間で伝染病の流行がニュースになっている時は叔父貴を感染源とした大流行がうちでも起きるんだ。アタシはサイボーグで大概の伝染病のウィルスや菌には耐性があるし、カウラやアメリアなんかの『ラスト・バタリオン』の女子も同様だ。ただ、技術部の野郎共は流行が始まるとバタバタと倒れる……まあ、そんなのを目の当たりにしたらいくら発病しねえとは言えアタシだって叔父貴と同じ鍋を食うなんて御免だね!」
一人タバコをくゆらせて一人鍋が当然と言う顔をしている嵯峨に、かなめが語るそんな危険な秘密があることを知って誠は唖然とした。ただ、自業自得としか言いようが無かったしタバコを吸う嵯峨の顔を見るとそのことをまるで気にしていないようなのでその事は忘れることにした。
「それより、アメリア。アタシ等の席はどうするんだよ!叔父貴の席からは離せよ!菌はともかく貧乏人が伝染ると面倒だ!叔父貴の貧乏は伝染病だ!絶対に大感染するぞ!」
木箱から一本のラムの瓶を取り出してきたかなめが、口をとがらして抗議した。
「私とカウラちゃんは誠ちゃんと一緒。そしてかなめちゃんはどこか隅っこにでもゴザを敷いて座れば良いじゃない?少しは『平民宰相』の娘として庶民の気持ちがわかるかもよ♪」
アメリアはそう言って遠く離れたハンガーの片隅をかなめに見えるように指さして見せた。
「殺すぞテメエ」
かなめは誠の予想通り銃に手をやる。
その手を、すかさずひよこが後ろからそっと押さえた。
「ただの暴力馬鹿が……」
「カウラ……てめえ、また誠をたぶらかそうってのか?」
「誠にたぶらかされるほど、私は愚かではない。……貴様みたいに」
「言ったなぁ!!」
何気なくつぶやくカウラの一言に、さすがのかなめも銃から手を離さなかった。代わりにラムの瓶を握りしめる握力だけが上がる。
「これがメインの『クエ』三匹分です! サイズは40キロ、38キロ、36キロと食べごろサイズですよ!それとクバルカ中佐はたくさん食べるので25キロのものを専用に用意しました!たくさん食べてくださいね!」
先ほどの軍医が、部下に大皿を持たせて堂々と現れた。そしていくら骨や見るからに頭が大きくて食べるところの少なそうな肴に見えるクエを見た誠でもその25キロの小ぶりのそれをランが一人で完食する様を想像すると別の意味で胃に違和感を感じてきた。
白衣の上から割烹着、頭には手拭い。どう見ても今日は軍医ではなく『板前』である。
その隣には同じく割烹着姿の、医務室の天使と呼ばれる神前ひよこが大皿を手に立っていた。
皿の上には、光を受けて透き通るように白いクエの切り身が整然と並んでいる。脂の乗った部分が、わずかにきらりと光った。
その他、次々と……どう見ても日本料理屋の店員にしか見えない司法局実働部隊艦船管理部、通称『釣り部』の隊員が、鍋の具材を配って回った。野菜、豆腐、しいたけ、春菊、大根。スーパーの鮮魚売り場とは明らかに『本気度』が違う。誠の行ったことが無いテレビに出てくる料亭のそれだった。
「技術部の兵隊!全員食材及び酒類の配置にかかれ!」
くわえタバコの島田の一言で、つなぎ姿の整備員が一斉に動きだす。
テーブルの間を縫うようにしてビールケースや一升瓶が運ばれ、土鍋がガスコンロの上に並べられていく。
「ここは多めの奴くれよ!」
箸で小皿を叩いて待ち構えているサラを横目に、かなめは叫んでいた。
「はい!これが一番多いですよ!クバルカ中佐のアレは別格ですが」
そう言ってひよこが、大皿をかなめに手渡した。
誠がひよこの言葉に釣られてランの鍋の方を見ると、その隣に置かれた巨大な皿がシュールを通り越してもはや現実とは思えない状況にしか見えなかった。満足そうにうなずくランは完全に『人外魔法少女』であることがこの時点で誠の中で確定した。
ひよこの表情は、今のところはまだ穏やかだ。
「さあ……入れるぞ!」
かなめはさっそく、クエの身のほとんどを土鍋の中に放り込む。
ドボドボ、と豪快な音を立てて白い身が熱湯に沈む。その瞬間、ひよこの表情が曇るのが、誠にもはっきり見えた。
「普通だしが先じゃないのか?鍋という物は普通の水炊きでも最初に昆布を入れる。クエ鍋でも違いは無いと思うのだが……違うのか?」
カウラは、鍋の隣に置いてあった小鉢に入った、いかにも『だし』だとわかる黄金色の液体を指さした。
クエの骨から取った濃厚な香りが、小鉢からふわりと立ち上る。
「なんだこれ?」
自分のした間違いを認めたくないかなめは、白々しくそう言った。
「それはクエのアラで取っただしです!それを入れないとおいしくないですよ!」
ひよこはそう叫んで、急いでクエのアラで取っただしを鍋に投入した。
じゅわっ、と音が立ち、さきほどまでただの『熱湯』だった鍋から、一気に上品な香りが立ち昇る。
誠が隣の鍋をのぞき見ると、いつの間にか現れた嵯峨が、鍋の隣に置いてあった『クエのだし』を、ごく自然な手つきで先に入れているところだった。
手慣れすぎていて、もはや料理人である。
「貴様は家事の苦手な私よりも料理という物が分かっていないとはお姫様もここまで行くと致命的だな。そのうえ勢いばかりで正確な判断力に欠けて、感情に流される。西園寺の悪いところだな」
同じように嵯峨の行為を見ていたカウラは、かなめに向けてそう言い放った。
「うるせえ!腹に入ればなんでも同じだ!カウラだって皿をアタシに差し出しながら箸を持ってクエの身を入れようと準備してたじゃねえか!テメエも同罪だ!」
かなめが怒りに任せてそう怒鳴る。
確かに、カウラの箸の先にも、クエの切り身が一切れ乗っている。
カウラは呆れたような表情で黙り込んだ。
そしてアメリアは早速、かなめの鍋を見限って、他の鍋への襲撃計画を練り始めているようだった。視線が、より具沢山の鍋を物色している。
島田とサラは馬鹿なので、あまりカウラの辛辣な言葉が分かっていないような笑みを浮かべていた。
ひよこは少し呆れたような笑みを浮かべると、そのまま他のテーブルへと小走りに向かっていった。
「まあ良いじゃないですか。お二人とも仲良くしましょうよ。お二人が居なければ今の僕は無いんですから。それより、ビール回ってますか」
誠が、なだめるように顔を出した。
英雄と持ち上げられた本人は、相変わらず空気を読む側に回っている。
「割に気が利くじゃねえか……」
誠の気遣いで少しばかり怒りを沈めたかなめが、缶ビールを受け取った。プルタブを引く音が、妙に大きく聞こえる。
「私ももらおうか?」
カウラのその言葉。周りの空気が、今度こそはっきりと凍りついた。
誠から見ても、誰もが酒を手にするカウラを見るのが初めてだということは、空気で理解できた。
「おい、大丈夫なのか?」
さすがのかなめも尋ねる。ラムの瓶を握ったまま、真顔だ。
「正人……カウラちゃんがビールを飲むんだって」
具の乱切り大根とシイタケ、水菜を鍋に投入しているサラは、そう言って隣の島田の肩を叩いた。
「まさかー。そんなわけないじゃないですか!ねえ。いつもの烏龍茶を運ばせますから」
烏龍茶は会場に用意が無かったので、気を利かせて島田が部下に声をかけようとする。
「いや、ビールをもらおう」
カウラのその言葉に、島田の動きも止まった。
周囲の視線が、ビールグラスを待つカウラの横顔へと集中する。
……少し酔えば、言えるだろうか。
……自分でもよく分からないこの感情を、言葉にするための『燃料』として。
カウラは、自分でも驚くほど素直にそう考えていた。
戦場では、迷いなく引き金を引けるのに。
目の前の青年一人に対してだけは、どうしても一歩が踏み出せない。
「カウラが酒を飲む?大丈夫か?お前。なんか悪いものでも喰ったのか?それとも……神前と何かあったのか?」
にらむ先、かなめの視線の先には誠がいた。誠は何もできずに、ただ愛想笑いを浮かべていた。
「僕は何もしてないですよ!」
そう言い返すほかに、誠にできることは無かった。
「だろうな。オメエにそんな度胸は無いだろうし。なんと言ってもオメエは『モテない宇宙人』の遼州人だからな」
かなめはそう言って缶ビールを空にして、次の缶へと手を伸ばした。
あっさりそう言われるのも誠は癪だったが、事実なので仕方がない。
カウラはと言えば、別に気にする様子もなく、ビールを待っている。
「飲み過ぎるんじゃねえぞ」
かなめからビールを手にしたカウラは迷うことなくプルタブを開け、一気にそれを口から流し込んだ。
喉を通る苦味が、さっきまでの緊張を少しだけほどいていく気がした。
そして静かに缶を置くとカウラの指先だけが、ほんのわずかに落ち着きなくテーブルをなぞっていた。
「まあ飲めるんじゃない?基礎代謝とかは私たち『ラスト・バタリオン』はほぼ同じスペックで造られているから……まあかなめちゃんみたいにサイボーグの鉄の肝臓を頼りにラムを水でも飲むみたいにガバガバストレートで飲むんなら別だけど」
乾杯の音頭も聞かずに飲み始めているアメリアが、空になったグラスを振りながらそう言った。
人造人間の規格がほぼ同じであろうことは誠も想像がついていたので、いつも月島屋でビールを飲んでいるアメリア程度の量なら、カウラも飲めるだろうと思えた。
「じゃあいいんですね」
誠はそう言うと、運ばれてくるビールのグラスに目を向けた。泡立つ黄金色の液体が、宴会の始まりを告げる鐘のように見える。
「はい、そこどいた! 熱い鍋持ってるんだから!」
「こっちの酒、早く持ってきてくれー!」
会場は既に、別の意味での『戦場』のような騒ぎだった。
クエの香りと酒の匂い、笑い声と怒鳴り声が入り混じるその中心に自分がいる。
世界の軍事バランスを揺るがした青年と、彼をめぐって静かに、そして騒がしく火花を散らす女たちがいた。




