第72話 不死人は、勝利を待つ
混濁した誠の意識に最初に入って来たのは鼻の奥に消毒用アルコールの匂いだった。
天井の白は、艦内標準色のくすんだ白ではなく、磨きたての陶器みたいな白だ。薄青の照明が縁に淡く乗り、規則正しくピッと鳴るバイタルの音が静けさに目盛りを刻んでいる。
「ここは?」
頭の芯で小槌が打たれているみたいな鈍痛と、船酔いの名残がゆっくり波打つ。誠が瞬きを二度、三度と重ねると、視界に入ったのは痩せた眼鏡の軍医の、陽に焼けた顔だった。鼻筋にかかったサングラス跡がくっきり。白衣の裾から覗くTシャツは、『FUSA釣り部』のシルクスクリーン。壁にも、やたら本気の磯図と潮見表、ジグの自作ポスター。
……やっぱりこの人も『釣り部』だ。
ぼんやりした頭で誠がそんなことを思っていると、軍医の隣には日焼けのトーンが三段階ほど違う看護師たちがサビキ釣りのコツについて話し合っていた。みんな袖口に小さな釣り針ピンバッジが目立つ。ベッド柵の向こうには、心配で目を丸くしているひよこの姿もある。
「起きましたよ、隊長。神前君、しばらくは安静にしていたほうがよさそうですね」
磯好きの確信に満ちた声で軍医が振り返る。その視線の先、ついたての隙間から入口側を見張っている嵯峨の横顔があった。皺だらけのネクタイは相変わらず、結び目がちょっと斜めだ。
『起きたってよ!』
パーテーションの向こう側で布がばさっと揺れ、かなめの我慢できてない声がはねた。
『騒ぐな西園寺。一応ここは病室だ』
カウラは冷静を装っているが、語尾の硬さに必死が混じる。
『残念ねえ……せっかく私が『桐の棺桶』を用意してあげるところだったのに……『しんらん』聖人サイン入りプロマイドも……』
糸目のアメリアが、わざと小声にしている『つもり』でわざと誠に聞こえる音量を選ぶのがいかにも彼女らしかった。アメリアの言うことだからたぶんどこかの深夜ラジオのパーソナリティーがそんなギャグを言っていたのだろうと誠は含み笑いを浮かべていた。
『また作ったの?あのプロマイド。あれはただ単にアメリアが高校の日本史の教科書から『親鸞聖人』の絵を拡大コピーして、ペンで『しんらん』って書いてるだけじゃないの。そんなの貰って誰が喜ぶのよ……ああ、アメリアは喜ぶわね。『自分がもらって喜ぶものが最高のプレゼント』って言うけど……本当にアメリアは自分のことしか考えてないのね。だからお見合いでもいつも一発で断られるのよ』
サラの的確すぎるツッコミが響いた。
『そう言えば最初にそれを作った時の教科書の代金……もらってないわね。いつだって雑用は私達に押し付けてアメリアは遊んでばかりだもの。これ以上損するのはごめんよ』
パーラは、メモ帳を親指でパタンと閉じて肩をすくめる。
『へー。今度『ザビエル』でやりません? 高校時代授業中昼寝の間によく落書きしたんすけど、中でも最高傑作は『ザビエル』なんで。……『ザビエル』って……縄文時代の人でしたっけ?ザビエルとか言うのはカタカナだから古い人間だからきっと縄文とか『弥生時代』の人間に決まってますよ!『聖徳太子』だって漢字じゃないですか……じゃあ、その前の時代……は『室町時代』でしたっけ?』
島田の声が、悪びれもなく真っ直ぐ病室に投げ込まれてきて、誠の頭痛が一瞬だけ別の種類の痛みに変わる。『縄文時代』に聖職者の油絵はない。そして『聖徳太子』の生きていた時代の前は『室町時代』では無い。いくら歴史が苦手でも、それくらいは分かる。
嵯峨はドアに目だけ向けたきり、特に止めもせず、誠の方へ戻る。
「まあ、初めてってのは何でも大変なものだ。ドクター。なんか問題点とかありました?」
外の騒がしさを背中でおもしろがりながら、嵯峨が釣り仲間でもある軍医に声をかける。
「特にないですね。多少の緊張から来る神経衰弱は見られますが、健康そのもの。うちの技術部のだらけた連中よりよっぽど健康的ですよ。……まあ、乗り物酔いと、緊張で胃の内容物が逆流する症状は、慣れるしかないみたいですけどね」
軍医は朗らかに言って、バイタルの線を一本抜きながらウィンクする。
「それと、やはりもう自室に戻るべきかもしれないね。あの連中がなだれ込んでくる前に」
軍医が言い終わるより早く、ドンとドアが開いた。
「なんだ、元気そうじゃないか」
『釣り部』の看護師たちの釣り談議について行けずに一人取り残されていたひよこが『西園寺さん、安静!』と手を広げるのを器用に押しのけ、かなめたちが絵面としては見事な乱入を決める。皆、笑顔。誠が半身を起こすと、視線が一斉に集まった。
「とりあえず差し入れ」
かなめが、ほぼ中身の残っていないラムの瓶をぐいと差し出してくる。ラベルの角が剥がれ、栓は行方不明だった。
「間接キッス狙いね!油断も隙も無いんだから」
「馬鹿野郎!そんな訳ねえだろ!たまたま他にやるもんがねえからだな!その……なんだ……」
アメリアにひやかされ、かなめは珍しく語彙を失って視線を落とす。耳がほんの少し赤い。
「馬鹿は良いとして、本当に大丈夫か?初めての実戦だ……体調が万全でも精神的には堪えたんじゃないのか?」
カウラは短く言い、ベッド柵を外して誠の背に手を添える。体重の乗せ方がプロだ。誠が起き上がろうとしてバランスを崩すと、二人の顔が数センチまで近づいた。カウラの髪から、シャワーあがりの石鹸の清潔な匂いがした。いつも無味無臭の雰囲気のあるカウラからこのような香りがすることに、誠は少し違和感を覚えていた。
そんな『モテない宇宙人』の誠が至福の瞬間を感じていると、視界の端でアメリアの『ニヤつきセンサー』が反応しているのを認め、誠は慌てて咳払いを返す。カウラの手を借りてベッドから降りる。
「大丈夫ですよ……それより目覚めちゃったんですよね……僕……『法術師』とかに……クバルカ中佐が言ってた遼州人にしかいない超能力者……別にそんなものになりたくなんて無かったのに……」
俯いた誠に、アメリアは満面の笑みを投げる。
「そう産まれちゃったんだからしょうがないじゃないの!私も『戦う使い捨ての繁殖人形』に過ぎない『ラスト・バタリオン』として生を受けたけど、今ではそれなりに人生楽しんでるわよ!誠ちゃんも『法術師』だからって人生楽しんじゃいけないなんて法律は無いんだもの。何事も前向きに考えないと!それにあの『干渉空間』を使った移動なんて便利じゃない?推しの声優のイベントがあっても長蛇の列に並ばずに一番後ろから前まで一瞬で行けるんだから!それに文句を言って来るもやしのオタクが居たらあの『光の剣』で刻んじゃえばいいじゃないの!」
バンバンと背中を叩かれ、誠は「骨は一本」と心の中で数える。
「そうですよね……人はどんな生まれ方をしてどんな力を持ってても自由に生きて良いんですから。でもあんな力を使えたのはたぶん『法術増幅システム』のおかげであんなことが出来たんですよ……それ以前に『干渉空間』を使っての横入りはただの力の無駄遣いですし、『光の剣』で客を切り刻むのは殺人です。アメリアさんはそんなに僕を犯罪者に仕立て上げたいんですか?そんな使い方をしたら、宇宙の平和がどうとか言う前に、まず僕が逮捕されるじゃないですか!……じゃあ……って、すいません!」
靴を履こうと腰を折った拍子に、めまいがまたひと波。すかさずカウラの腕が支える。視線が重なり、時間が半拍止まる。
「ごほん」
かなめが、病室の静けさのルールを思い出したみたいなタイミングでわざとらしく咳払いをする。誠はカウラからそっと手を離す。
「それにしても行きは急ぎだってのにちんたらパルス・エンジン移動しか出来なくて一週間もかかったのに、帰りは亜空間転移で三日で帰任かよ……まったく遼州同盟法はどうなってるのかねえ……。まあ出動時は『ふさ』は軍艦扱いで遼州星系内での亜空間転移が条約で禁止、帰りは元の警察扱いってのは分かるけど……融通が利かねえな」
カウラと誠の距離に露骨に『牽制』を入れつつ、かなめがわざとらしく嵯峨へふる。
「俺に言っても無駄だよ。同盟法は同盟機構が立案して同盟議会が可決した法案だ。そんな一司法執行機関の部隊長がおいそれといじれるもんか」
「同盟機構を提唱して各法案をねじ込んだ人がそれを言います?」
「同機構を提唱?各法案をねじ込んだ?」
アメリアの『特殊』なひと言を、誠は頭の中で反芻してみるが、答えは出ない。
「いいの!病人は気にしなくても!それより祝勝会をするから!誠ちゃんの『偉大なパワー』で全宇宙を平和にする可能性が生まれた!そのお祝いよ!」
糸目キラキラ宣言に、誠は苦笑いで負けを認める。ここにいる限り、自分の人生が決定的に変わってしまったのは、もう確定だ。
ベッド脇で心配そうにこちらを見るひよこの視線が、胸に小さくあたたかい。
「人を殺しておいてお祝いか……僕にはそんな気には……」
脳裏には、消し飛んだ『那珂』のブリッジが焼き付いたままだ。
「それが軍人ってものよ!楽しむ時には楽しむ!さあ!楽しみましょう!」
ひよこの『安静にしてくださいっ!』の声を全員スルーで、アメリアを先頭に、かなめ・カウラ・サラ・パーラ・島田の5人の手で誠はずるずると拉致されていく。ドアの脇で軍医と看護師たちが親指を立て、『釣ってきます』と口パクしていた。どうやら医療スタッフも全員『釣り部』で、祝いの席の魚料理の仕込みへと走るらしい。最後に残ったひよこも取り残されまいとアメリア達の後を追った。
こうして病室は、急に静かになった。
誠たちの喧噪が遠ざかり、嵯峨はベッドの端に腰を下ろした。
白いシーツの皺は、誰かがさっきまで生きていた証拠みたいに温度を残している。胸ポケットからタバコの箱を出して、指でとん、とんと二回叩いた。しかし蓋は開けない。さすがに医務室で煙はつけない……『駄目人間』の自覚がある嵯峨にでもそのくらいの常識はあった。
唯一の病人だった誠が去ると、『釣り部』の面々も『魚を捌かねば人にあらず』とでも言わんばかりに姿を消し、部屋は奇妙なほど清潔な無人の空間になった。消毒液と潮の香りだけが薄く残った。
「静かだねえ……戦いは終わった……だが、カーンの爺さん。アメリア達は『特殊な部隊』は勝ったと思ってる。そして、俺達を監視していた地球圏や遼州圏の国々も同じように思ってる。ただ、アンタだけは違うよな……そうだよ、俺の負けだよ。真の勝者はアンタと『ビッグブラザー』だ。俺は勝たせたくない俺の宿敵の二人に大笑いさせるほどの料理をプレゼントしたわけだ……人が良いにもほどがあるとアンタも思ってるんだろ?違うかな?」
独り言は、白い壁に吸い込まれていく。
「俺は『非情』になり切れなかった。近藤さん達を『犯罪者』にはできたが、『社会的に消す』ことはできなかった。近藤さんも、その意味では勝利者なのかもしれないな。近藤さんは確かに死んだ。そして軍人としての名誉の戦死ではなく『反乱分子』の処刑と言う望まない結果を迎えた。でも、近藤さんはそれで良いと思って死んでいったんだろうな。近藤さんを見殺しにした『官派』の連中の中には、俺に戦争犯罪になるような命令を平然と出しておきながら、それを無かったことだと今でも無視し続けている人間もいるな。たぶんそいつが死んだら俺は独断で戦争犯罪を犯した極悪人になるわけだ……死ねない俺だけがその事実を知っている。でも世の人は俺の言うことなんか聞かないだろうな。俺みたいな元からアウトサイダーだった軍人の言葉より立派な将軍様の手記にある英雄譚を信じる……それが歴史だな。そんな歴史を知り尽くしているアンタの事だ。俺のした行為を……俺が狙った次の状況を……『宇宙に自分達が再び自らの理想を掲げる為の機会が出来た』そう考えて笑ってるんだろ?アンタと俺との戦い……これからも続くだろうがこのレベルの戦いではこの負けは大きいな……痛い負けだ……今後確実にボディーブローのようにアンタの拳は俺の脾臓に響くことになるだろうね」
嵯峨は力なく笑って、天井の角を眺める。
「アンタなら今回はそもそも近藤の旦那に決起自体をさせないことが俺の勝利条件だった。でも近藤の旦那は衆人環視の下で決起した。今回の事件は記録として残る。それだけは止められなかった。そして、その記録を見た同じような思想の『貴族主義者』は、俺達の前に、もっと強くなって立ちはだかるのももう確定事項だ。カーンの爺さんはそう言う俺との戦いの際に使える手駒をこうして手に入れたわけだ。俺はそんな強力な味方は何一つ手に入れちゃいない。負けたよ……俺の負けだよ。とりあえず俺はカーンの爺さんには負けた。その事実は消せないね」
言葉をひとつ落としてから、視線だけ薬品棚へ。鍵を胸ポケットから取り出し、カチャと慣れた手つきで開ける。透明な小瓶が横並びに、無言で冷たい。ラベルには劇薬の赤字が読めた。『テトロドトキシン』。嵯峨はなぜふぐ毒がこんなところにあるのかと思うが、どうせ『釣り部』の軍医が趣味で釣ったフグから抽出したのだろうと笑った。
指が、一本ずつ、小瓶を持ち上げては戻す。持ち上げては戻す。そこに怒りも期待もない、真水の作業。カーンとの『見えない戦い』に負けたこと。
プライドゼロで敗北を何とも思わないと自負してきた自分にも『屈辱』という感情が、まだ自分の中に残っている。
この動作がそれを示しているのだと思うと、嵯峨は少しだけ、自分が哀れに思えて笑っていた。
「カーンの爺さんに意地でも勝とうとすれば、俺には近藤のおっさんは、もっとあんた好みの『非道』な殺し方をする必要があったんだ……近藤の旦那には、記録にさえ残らないような無様な最期を用意してやることもできたはずだ……そして俺はその様々な近藤の旦那をこの世から消す方法を選ぶことができた……でも俺はその消す方法の非道さに耐えかねてその道を選ぶことができなかった。どうにもまだ俺は不十分な『駄目人間』みてえだわ……『駄目人間』失格の駄目な男を表す言葉って日本語にあるのかね?俺は語彙力には自信があるが思いつかないな」
棚のガラスに自分の顔がうっすら映る。夜更けと徹夜と後悔の顔がそこにあった。
「その結果がこの様だ。戦争に勝った?こんだけ死人が出てそれを喜べるのはまともな軍人の特権だが、俺はまともな軍人だったことはほとんどないからな。俺みたいな裏の仕事をしてきた軍人には輝かしい表の軍人の大勝利は次なる大敗の準備に過ぎないことをうんざりするほど知ってるんだ。そんな経験がありながら、俺はその事実を神前達に語ることができない……語る言葉を持たない……俺は隊長失格だな。それに今回、何人死んだ?近藤さんの部下。しかも連中は『名誉の戦死』ではなく『処刑』という形で死んだ。近藤さんとその家族に、つまらない情けをかけたばっかりに、近藤さんの自殺の道連れ百人越えか。……一人を殺して二人を生かすのが正しい、そう思ってきてこのざまか?カーンの爺さん……俺を笑っていいんだぜ?アンタにはその資格がある……人をいくらでも使い捨ての駒として使いつぶしても眉一つ動かさない俺には理解不能な精神の強さを持ってるアンタにはな」
喉の奥に、苦い鉄の味が上がる。
「カーンの爺さん流のやり方、そして俺が前の戦争で何度か上に言われてやったやり方。そんな戦争の流儀で近藤さんの妻子をどうにかすれば……こんな無駄な戦いは起きなかった。そしてそうすればカーンの爺さんに勝てた。でも……俺にはできないな。人の道に反するやり方だと思ってる時点で俺は負けてたんだ。俺の手は汚れてるが、『鬼』になりきることができてない。そんな『甘ちゃん』の俺を、カーンの爺さんは笑ってんだろうな。『だからお前は負けるんだ』ってな」
脳裏に、皺の深い白人の横顔がよぎる。
『第二次遼州大戦』は終わってはいないと、彼は本気で言う。白人至上主義の信念に骨と血を注ぎ込んだ老人。その自分では指一つ動かさずに手に入れた勝利に酔う姿が嵯峨の脳裏をよぎった。
あの老人のような真似はできない。する気もない。嵯峨はそう認める。その時点で自分が負けていることを嵯峨は知っている。
「爺さんよ、アンタの言う通り気高い死を望む奴ほど心が脆いもんだ。肉親や仲間にちょっとひどい目を見せてやれば簡単に壊れる。『第二次遼州大戦』で上から言われて散々使ってた、俺の得意の手じゃない。カーンの爺さんは俺もそんな手を再び使うかどうか見ていて、それを使えない俺を哀れに思って笑ってただけなんだろうな。爺さんは神前に『力』があること、遼州人にはそんな存在がありふれていることが宇宙の常識になり再び時代が動き出したこと、そしてただ俺が再び前の戦争の時の『人非人』に戻ったかどうかの確認もできた訳だ。近藤の旦那に一声かけただけで三つの勝利を手に入れた……俺もかつて似たようなことをやってた……でも、俺はあの頃の俺には戻りたくない……俺は戻れないよ。あの時代の俺にはもう戻れないんだ。それがカーンの爺さんにバレたのが心残りだな」
薬品棚を閉め、キーを指で回してカチンと音を確かめる。
「別に改心したわけじゃない。改心したところで今更、この手が汚れてる事実は消せないんだから。それよりラン……『偉大なる中佐殿』……おめえさんの『不殺不傷』の誓いを破らせちまったな。神前に『殺し』までやらせちまった。俺が一人で、その汚れた手でやれば済むことだったんだ……カーンの爺さんと互角に戦う……同じ人の顔をした悪魔の立場に戻る。それだけですべてが解決するってカーンの爺さんは言いたいんだろうな。そうしてすべてが済んだ後、うちの馬鹿達を連れて俺が逃げ出せば済む話だったんだ。カーンの爺さん……それが俺の唯一の勝ち筋だったんだろ?今頃はそんなカードを切れなかった俺をこの遼州系のどこかで見ていて笑ってるんだろうな……」
吊り戸棚の取っ手に額をコツンと当て、息を吐く。しばしの沈黙が包む。
「そう考えてみるとなんだか俺の人生『負け』ばっかりだな。生まれるともう、俺の産まれた国『遼帝国』は負けが決まった国だった。育った『甲武国』は『第二次遼州大戦』で負けた。今では娘からは小遣い3万円の暮らしだよ……負けばかり。一度は爽快な勝ち方をしたいもんだが……俺には『勝ち運』が無いのかな?」
笑い声は出ない。代わりに、肩が一回だけ小さく揺れる。
「でも俺は戦い続ける。地球人は『不死人』の俺を羨ましがるかもしれないが、そうして戦い続けて、いつ来るかもしれない勝利を待ち続けるのが『不死人』の人生なんだぜ?……そんなの、アンタ等、本当に耐えられるのか?カーンの爺さんには負けられる制限がある。アンタも死ぬからな。でも俺は何度でも負けられる。なぜなら永遠に死なないから。ただその度に屈辱を味わうわけだ……あんまり気分のいいもんじゃないな。爺さん、死ねるアンタは幸せもんだ……羨ましい限りだよ」
独りの問は、白い壁に跳ね返り、足元で消える。
「ただ、究極の『剣士』が見つかった。神前は『法術師』として『覚醒』したんだ。それだけはカーンの爺さん。アンタも認めろよ。そこまでアンタは望んでいた訳じゃないだろ?アンタが宇宙の平和を目的とした慈善事業を始めたなんて話は聞いたことが無いからな……」
言葉の温度が、わずかに上がる。
「爺さんとの勝負には負けたが、これから俺は『廃帝』や『ビッグブラザー』と戦争をする予定だ。そして、爺さんにもきっちり今回の負けは倍にして返してもらうつもりだよ。そっちの勝利は譲れねえよ。……今回は、哀れな近藤の旦那のおかげで、俺にも勝ち運が向いてきたのが分かった。だから最終的に俺は勝ってるんだ。悪かったな、じ・い・さ・ん」
口元に、自嘲が半分、反抗が半分の線が引かれる。
「ただ、今回の神前の『覚醒』で、俺やランの見た目が年齢と合わない理由が『全宇宙』にバレちまった。俺達、遼州人『リャオ』が文明を必要としない超能力者集団だってことが、バレた。宇宙は『第二次遼州大戦』の時とは別の意味で不安定化する。爺さんの願いがかなったぞ……良かったな……と言いたいところだが、それはこっちも同じだ。俺もそれを望んでた。こちらの勝負はイーブンだな」
天井の蛍光灯が、ほんのわずかにジと鳴る。
「『地球圏』で知ってるのは、進駐している軍隊だけだからいい。だが、遼州同盟の偉いさんは大変だな……とんでもない『パンドラの函』が開いた。開けたのは俺とランだ。自業自得とはいえ……辛いぞ、これからの『戦い』は……ただ、俺は覚悟をして神前を『特殊な部隊』に引き込んだ。すべては俺の予定からは少しもズレちゃいないね……ただ……」
嵯峨はネクタイを握り、だらしなく緩んでいた結び目を、いつもより半回転きつく締め直す。制服の裾を払い、背筋を伸ばす。
医務室のドアへ一歩。ドアノブの冷たさが指先に乗る。
「とりあえずこの宇宙の多数決が決めたところによると俺は『勝った』らしいから……盗聴中の『ビッグブラザー』関係者のみなさん……俺、とりあえず勝ったんで。アンタも祝福してくれるだろ?俺達の勝利を。それもアンタが望んでることなんだから」
ゆっくりと、しかし確かな足取りで、嵯峨は医務室を出ていった。
廊下の向こうには、祝勝会の準備音。金属トレイが重ねられる音、包丁のトントン、遠くで笑う声。
『駄目人間』の勝利宣言は、白い扉の向こうで、誰にも聞こえない小ささで完了した。




