第71話 葉巻の煙と奇跡の縁
……金属の殻に、ひゅう、と空気が触れる微かな鳴きが響いた。
コックピットの乾いた匂いに、火薬と潤滑油の残り香が混じっている。
「連中、『ビッグブラザーの加護』って代物の特性に気付きやがったな。連中も貴族最高位のアタシには迷惑以外の何物でもない貴族趣味で頭がいっぱいの馬鹿じゃねえってことか。やっぱり東和国民じゃねえアタシを狙って来た……やっと、このふざけた体ともおさらばだな……思えば長かった……色々あったが……それもまた終わりが見えた今となっちゃあどうでもいいことだな。アンタ等がこんな身体にしたアタシを最後はその狙い通りに血祭りにあげる……さぞ気持ちが良いんだろうねえ。ただその先は行き止まりだぜ……付き合ってやるよ、地獄の底までな」
西園寺かなめは、全天周囲モニターの中央に据えられた小窓で、ミサイル発射管を開き、主砲塔をこちらに向ける巡洋艦『那珂』を静かに見据えた。
230mmロングレンジ狙撃用レールガンの十字線は、すでに『那珂』のブリッジを完全に捉えている。今は、十分に有効射程距離内。いつでもかなめは近藤の処刑を実行できる状態にあった。だが彼女は、引けるトリガーを引かない。そんなつもりは無かった。むしろ今の彼女には処刑の運命の決まった相いれない思想の持主である近藤に親近感すら感じていた。
近藤もかなめも今の甲武で望まぬ生を生きている。近藤は、特権を失い傾いていく宿命を背負った貴族や士族だ。その運命は、本来あらがいようのないものだ。
それでも彼は、その中であらがい続けていた。
かなめもまた、3歳の時から続くメンテナンスと『自分を本当に人間と呼んでよいのか?』という問いを突き付けられ続けるサイボーグの身体への憎しみと共に生きてきた。
お互い願うのは抗いがたい時代の流れがすべて終わってしまうこと以外にはない。
そんな事を考えているとかなめの口元には自然と笑みが浮かんでくる。
「3歳の時、爺さんを狙ったテロでこの体になって……いつかこういう日が来るのを、たぶん待ってたんだ……アタシは。今敵のミサイルの標的になってはじめてそのことが気のせいなんかじゃなくて本当に望んでいたことだってわかったよ。随分とまあ時間がかかったもんだな。この身体になってからはひたすら世間を恨み続け、人からつまはじきにされて……それでもあがいて、今をただひたすら認めたく無くて……親父の世話になりたくなくって親父の手の届かない陸軍に入ったんだがね。そこでは……限りなく続く西園寺家の嫡子に生まれたと言う理由だけでの『サムライ』共の嫌がらせが続く日々……今となってはどうでもいいこった。連中も士族に生まれたのがそんなに自慢なら……いっそアタシみたいに、公家貴族に生まれてみりゃよかったんだ。それがどれだけ面倒な立場か、骨身に染みるぜ?そんな事も分からねえ馬鹿相手にツッパッてたアタシ……なんだか馬鹿みてえな話だな……まあ、それも終わる……それで良い……もう十分だ」
その独白は、共有回線に乗って、ランや誠、カウラ、そして『ふさ』のブリッジへもにじむ。骨伝導のスピーカーが、かすかに震える。
「『サムライ』の仕事は人を斬る事。そう自分じゃそう言って威張ってる割りには連中も人を殺すのは怖いんだ。『切腹』が名誉の死?アタシの上司の士族や武家貴族に切腹した奴は一人もいねえぞ?そんな『サムライ』どもに『士族の特権を奪う憎むべき家』の西園寺家の生まれのお姫様ということで無茶を命じられて……『サイボーグなら出来るだろ?』と言われ続けて……そんな人に命じられて人を殺すのはもう飽きたんだ」
かなめの目はただじっと狙いをつけたままの近藤の乗艦『那珂』のブリッジを見つめていた。
「……『特殊な部隊』に入って、ランの姐御と言う今まで会ったことのねえ『サムライ』じゃねえ上司に出会って、その『任務はこなせ、人は殺すな』という教えを受けて……そして神前の野郎と出会った。……せっかく面白くなってきた人生だが……仕方がねえや。それもまたアタシの人生なんだろ?これまでアタシが殺してきた連中もそれを受け入れて死んでいったわけだからな。それが今回アタシにその順番が来た……それだけの話だ」
かなめはヘルメットのロックを外し、顎紐を指先で弾いた。腰のポーチから葉巻缶を抜き、『COHIBA ROBUSTO』の金箔文字が照明で一瞬だけ光る。無造作に一本取り出す。
かなめは無造作に吸い口を葉巻にあける。慣れた手つきで太めの短い葉巻を手にするとガスライターのノズルがチッと鳴り、火皿に青い舌が立った。
ゆっくりと葉巻の先を青く長く伸びたガスライターの柔らかい火であぶり煙が出てくる様をのんびりと眺める。まるでここが戦場などでは無いような光景にかなめは苦笑いを浮かべつつ葉巻に火が移ったことを確認してから静かに口にくわえた。
かなめにはもうすでに戦うつもりはなかった。彼女の中での戦いは終わった。その結末としての死を彼女は既に完全に受け入れていた。
別に悲劇のヒロインを気どるつもりなどかなめには無かった。
幾多の『自分との戦い』の中で死んでいった敵たちも、死は突然訪れて、何もわからないままかなめの銃弾の前に倒れていった。
今回は、ただその順番がかなめに回ってきただけだ。
ただ一つ違うのは……かなめには、これまでの過去を思い出すだけの、十分な時間があるということ。それだけだ。
それが幸福なことなのかどうなのかの判断は誰にもできない。そんな事を思いながらかなめは自分の人生最後の葉巻……死ぬときはこれを吸うと決めた銘柄を楽しんでいた。……本当なら、もっとマシな場所で吸いたかったな、とふと頭をよぎる。すぐに、その考えを笑い飛ばした。
『待ってください!』
そんな死に救いを見出したかなめに新米の神前誠の叫びが、全員の鼓膜を叩いた。
気弱な声のはずが、そこにあったのは、決意で角が立った知らない音だった。
かなめの指が一瞬止まる。口の中に広がる葉巻の味が本来の葉巻の味に変わったタイミングだったのが彼女にはいかにも興味深いと言うように自然に口元に笑みが浮かんでくる。
モニター越し、彼女は気づく。今の誠の目は、これまでのかなめが誠を見ていた『上司が喜ぶようないい子』のそれではない。覚悟を結ばせた、漢の目がそこにはあった。
神前誠の05式特戦乙型。最新ロットの大出力パルス・エンジンが、HUD右上の推力計をぐんと押し上げた。
誠の機体は『紅兎』弱×54を斜め下から抜き、噴射炎が金属粉の海を白い筋で裂く。
『僕が盾になります!西園寺さん!今のうちに後退を!』
これから敵の砲撃の的になるであろうかなめの耳奥に、その直球の声が突き刺さる。
肩から余計な力がほどけた。皮肉にも、安堵は死の少し手前でいちばんよく香る。
「おいおい、誰に話してるつもりだ?オムツをつけた新入りに指図されるほど落ちぶれちゃいねえよ。敵さんのミサイルはアタシを狙ってる。巻き添えを食いたきゃすぐ逃げな。まあ、どうしてもアタシがあの世に行くのに付き合いてえ酔狂な精神の持主ならそれも良いわな。良い部下を持った……アタシはうれしいね。今、オメエに出来ることはアタシの盾になることじゃねえな。その前にオメエにはすることがある。ランの姐御の仕事を楽にするためにアタシの『屠殺』を免れた家畜が二匹ほど伏せてる、そいつはオメエが食え。アタシの読みじゃ、オメエが人柱を気どるには少し早すぎたみたいだわ……そのくらいのことはできるんだろ?だからそこにいるんだろ?」
かなめはロングレンジ・ライフルを投げ捨て、ダガーのホルスターに軽く触れてから身を倒した。重力波の想定位置へ固定武装の150mm速射砲を短連射し牽制した。
視界の端で、駆逐シュツルム・パンツァー『火龍』の艦首ライトがきゅっと収束する。
「馬鹿が!役に立たねえ数合わせの旧式がいい気になるんじゃねえ!」
距離が、目視に変わる。
近接戦闘を想定していない火力に特化した駆逐タイプである『火龍』は、ナイフの間合いに入られた瞬間、ただの獲物だ。
かなめのダガーがカンと一度きれいに鳴り、先頭のコックピットへ滑り込む。
煙。沈黙。残骸を投げつける勢いで二機目へ。エンジンブロックをえぐる。
「これで終わりだ!くたばりな!……悪く思うなよ!恨むなら馬鹿な大将を恨みな!」
機能停止のサインがHUDで灰色に転じる。その一瞬だけ、かなめの視線がふたたび『那珂』へ跳ねる。
ミサイル発射の光花が開いていた。主砲6門と数多くの副砲の砲身は、息をひそめたままこちらを狙う。
「神前!近藤の野郎は本気だ!来るな!巻き添えを食らうぞ!テメエが死ぬことはねえ!アタシが死ねば近藤の野郎も成仏できるんだ!アタシの死をオメエの死で汚すんじゃねえ!オメエは邪魔だ!消えろ!」
遼州星系のアステロイド・ベルト。岩の影が、静かな観客席のように戦場を囲む。
『邪魔と言われても引きませんよ!僕は!西園寺さん……死なないでください!西園寺さん……西園寺さんは僕が殺させません!』
誠は、酸の味を喉で抱えたまま、迷いを焼き捨てて推力を叩き込む。
『神前……死ぬ気か?貴様まで死ぬ必要は無い!これは今死ぬ西園寺とまもなく死ぬ近藤の間の話しだけでいいんだ!神前まで死ぬ必要は無い!私に二通も戦死報告書を書かせるな!』
カウラの声は冷たい。だが、その冷たさは震えを押さえるための氷でもある。
「西園寺さん……カウラさん……でも、僕は死なないんでしょ?さっきのクバルカ中佐の話じゃ僕は東和共和国民で遼州人ですから死なないんじゃないですか?僕は東和国民です。『ビッグブラザー』は東和国民の死を望んでいないんでしょ?どうにかなりますよ……それに僕には『力』が有るんです!そうでしょ!クバルカ中佐!」
HUDの右下。『那珂』から射出されたミサイル群の予測軌跡が蜘蛛の巣を描く。
チャフの雪をかき分けて、何本かは確かに……かなめへ。
『敵のミサイルは照準を正確につけずに発射されてる。それに主砲の狙いも西園寺の馬鹿に向いてる。恐らく敵艦の主砲の弾頭の炸裂地点は西園寺の位置周辺でこちらもアバウトに設定されているはずだ。そんな状況下で西園寺の機体付近で爆発が起きればそれに巻き込まれてオメーは死ぬな。オメーも確かに『法術師』だが、『法術師』のすべてが『不死人』ってわけじゃねーんだ。だからオメーはいずれ死ぬ。……だけど、今回は死なねーんだ。そう言う仕組みになってるんだな。その為に隊長はオメーの乗ってる『05式特戦乙型』を用意したんだから。そしてオメーは今その機体に乗ってるかんな……まー気の済むようにしな。オメーの『力』はちゃんと目覚めつつあるよ……出撃前に言ったはずだぞ?今回は一方的に殺すだけだって……西園寺が窮地に陥るのも、それをオメーがお人好しぶりを発揮して死ぬ気で助けようとするのも『駄目人間』の読み通りか……あの『策士』。アタシを倒した時以来のすべての読みがハマったと『ふさ』の隊長執務室のモニターを見ながらニヤけてんだろーな……それがアイツに負けたことがあるアタシには腹が立つ』
ランの声は乾いた木片みたいに軽い。なのに、そこに確信がある。
誠は、光学迷彩が解けかけ、熱ゆらぎの縁で見えるかなめ機の前に、身体で飛び出した。
ミサイルの出す水素燃料独特の燃焼の光が確実に近づいているのが誠のモニターの中でも分かる。それでも誠は迷うことなくかなめ機と『那珂』の間に機体を置いて盾になるように立ちはだかった。
「僕が居れば大丈夫です!今のうちに後退を!」
必死に叫ぶ誠に覚悟を決めているかなめは穏やかな笑みを浮かべてコックピット内で葉巻をくゆらせていた。
『間に合うかよ……まあ、オメエと一緒であの世で結ばれるっても……なんだかよくある恋愛小説みたいで楽しいかもな……オメエももう助からねえぞ……最後のタバコの味はこんなものか……少しがっかりだな……もっと旨いもんだと思ってたのに』
かなめの低い呟き。近づくミサイルはもはや誠機の目の前にあった。
「西園寺さん!」
誠のそんな叫びと同時に、ミサイルが白い花を咲かせた。
さらに、主砲の不確実な斉射が始まった。視界が爆炎で塗りつぶされ、センサーが一瞬、盲目になる。
……終わった、はずだった。
だが、鼓膜に来るのは轟音だけ。痛みも、衝撃も、ない。
誠は目を見開いて周りを見回した。コックピットは生きている。圧力も酸素も正常だった。何一つ被害はない。
モニターの隅、小窓に映るかなめも、髪がふわり乱れただけで、まだそこにいる。
センサー類は生きていたがすべてのミサイルが誠の直前の空間で爆発して消え、敵の主砲の砲弾の爆発によるサーモ系センサーが高温の白い壁面のような奇妙な存在を表示している以外の異常は見られなかった。機体の自己診断プログラムは何一つ問題を起こしていない。ミサイルの雨も敵砲火の雨も誠の機体にもかなめの機体にも何一つの損害も与えていないと言う事実に誠は驚愕した。
「僕……死ぬはずだったのに……なんで?」
奇跡と呼ぶにはあまりにあっけなさ過ぎた。誠の目は自然と全天周囲モニターの中で余裕の笑みを浮かべているちっちゃい隊長のランの画像に目を向けた。
『それが死なねーんだな。オメーが『モテる』地球人ならここで直撃を受けて死んで泣く女がうんざりするほど出て悲劇のヒーローとしてモテモテになれるが、オメーは『モテない宇宙人』である遼州人なんだ。現実を受け入れろ、現実を。目で見た物だけがリアルなんだ。オメーはどう転んでも、どう頑張っても『モテねー宇宙人』なんだ。そんなかっこいい死に方は出来ねーように出来てるんだ。それにオメーは『法術師』だ。完全な『法術師』のアタシに比べるとまだまだだけどな。目の前見てみ?それがオメーが『法術師』である証だ』
ランに顎で示され、誠は前方の黒に焦点を合わせる。
……それは、銀色の鏡のような存在だった。宇宙を裂いて立つ、板が見える。サーモセンサーはミサイルや砲弾の直撃を防いだそれは熱で真っ赤に染まっていた。屋上で感じたあの『空間のずれ』が、形を持って目の前に現れたみたいだった。
二機をぴたりと覆って、爆炎と破片の奔流を、無言で押し返していた。
「これ……、何ですか?これを僕が……これが僕の『力』なんですか?だから僕は『法術師』なんですか?まるで『魔法』じゃないですか!」
誠はランがたった二機の敵艦のシュツルム・パンツァー相手に撃つには多すぎるミサイルや砲火を防いだその板に目を向けた。
『それがオメーの、東和共和国や遼帝国に住む遼州人だけが持つ『地球科学では理解できない』力だ。アタシ等は『干渉空間』と呼んでる。ほとんどの攻撃を無力化する便利な壁以外にもこいつには使い道があってな、アタシの使える『空間転移』とは違う、『距離』を無効化することもできるんだ。まあ、使い道としては『異能力が作り出した最強の盾』だな。便利だろ?まー、そんなもんが使えるから遼州人は『悲劇のヒーロー』にはなれねえからモテないのかもしれねーがな……アタシが出撃直後に言ったオメーが『そんなことできるわけねーだろ!』って顔で聞いてた命令もこの証拠が有れば、『出来る』って分かるだろ?アタシは出来ねー奴に出来ねー要求はしねーんだ。オメーにはそれが出来るからそう命令した……それだけの話だ』
ランの言葉がまるで遠くで響くテレビの雑音のように誠の耳には感じられた。喉の奥で、誠は自分の鼓動を数える。数が合わない。
もう戻れない。何かが、確実に目覚めた。目の前の明らかに存在する正体不明の銀色の壁がその事実を嫌でも誠に思い知らせる。
「そんな僕が『モテない』のは今はどうでもいいんです!それより僕は……どうすればいいんですか!教えてください!クバルカ中佐!さっきの指示!あまりに抽象的すぎてどうすれば良いのかなんて分からないですよ!それも『察しろ』とかいつもみたいに言うんですか!」
近藤の攻撃が効かないのは分かった。だが、守るだけでは終わらない。まだ、近藤の『処刑』は行われていない。つまり戦いは続いている。
『神前。準備はできたぞ、さっきアタシが言ったように『跳べ』……簡単な話だろ?理解できるだろ?『跳ぶ』なんて小学生でも知ってる言葉だぞ?』
ランは当たり前のようにそう言って笑う。
「言葉を知ってるかどうかの問題じゃないんです!『跳ぶ』って……?……どうやって?教えてください!僕はやります!指示は具体的に!今の僕は何をすればいいんですか!」
ランは小さな姿で大きく頭を掻き、いつもの調子で乱暴にまとめる。
『まったく察しの悪い奴だな。じゃー教えてやる。目の前の『干渉空間』に飛び込め!次に飛び出る場所は、西園寺を狙った近藤の旦那のいる『那珂』のブリッジの前だ!アタシがそう調整した!そこをイメージしろ!見る前に『跳べ』!』
誠は思わず振り返る。モニターの片隅、カウラの顔が真正面からこちらを見る。
整った顔が、めずらしく熱を帯びている。
『神前。アタシを助けて終わるような軽い男で終わる訳ねえよな?オメエには人にない『力』があるみたいだわ。ならそれを使ってみるのもいいんじゃねえのか?アタシはさっき自棄になって230mmロングレンジレールガンを捨てちまったんだ。今のアタシには近藤の野郎の『処刑』は出来ねえ。頼む、神前、『跳んで』みせてくれ!オメエはアタシを助けたんだ!助けた女を殺そうとした奴を生かしておくほどオメエは甘い男じゃねえよな?』
そして、葉巻を咥え直したかなめが、笑わずに言った。
『今動けるのは中佐とテメエだけだ。中佐は最後の切り札だ。そいつを出したら次の出動に差し支えるんだ。テメエが決めろ……それがオメエに与えられた『武装警察』の隊員としての義務だ』
はっきりとそう言い切るかなめの声を聞いて。誠は前を向く。銀の板が、水面のように、呼吸している。
喉が渇く。だが、選ぶ時間はもうない。
「本当に飛び込めば『那珂』のブリッジ前まで行けるんですね!」
『そうだ、アタシが座標を設定しといた。安心して『跳べ』。それと『ダンビラ』を引き抜いて、『那珂』のブリッジ前で『剣よ!』と念じながら叫ぶといーことあんぞ!もしかしたら『モテる』かも知んねーぞ!『モテない宇宙人』遼州人の夢が実現する!それがオメエの望みだって母ちゃんが言ってたぞ!』
ランが、少年みたいな悪戯顔で笑う。
「うわー!」
誠は叫び、躊躇の残りかすごと『干渉空間』とランが呼んだ銀色の壁に突っ込んだ。
『干渉空間』の膜が、機体の皮膚を一瞬きしませ、背骨を一度だけ押し下げる。
一瞬のブラックアウト。
そしてすぐに、目が戻る。視界が開く。
眼を開いた誠の目の前には、もう『那珂』のブリッジがあった。
観測窓の向こう、突然そこに現れた05式特戦乙型を前に、士官たちが目と口を同時に開ける。警報灯が怒鳴り、誰かが椅子を倒す音が聞こえるように感じた。
「『ダンビラ』を引き抜いて!」
誠は反射で左腰へ。高温式大型軍刀『ダンビラ』の柄が掌に吸いつく。抜刀した。ここから先は誠の慣れた得意の格闘戦だった。
刀身がブリッジの照明をまとめて飲み込む。
目標はただ一つ。
「『剣よ!』」
言葉と同時に、『ダンビラ』が燃えた。
青白い、重力の炎。精神を集中していくたび、刃は伸びる。
瞬く間に、戦艦の全長を凌駕する……光の反り返り。
誠は、息を止めて、右から左へ一閃した。
青白い閃光がブリッジを飲み込み、内部の空気が爆縮を繰り返す。
音はない。けれど、骨に手応えが残る。
光が途切れ、誠は呼吸を思い出す。
誠が見たブリッジのあったはずの場所には、炎を噴く甲板と、崩れ落ちるフレームだけが見えた。
『那珂』そのものの船体は、まだ生きている。だが、この多数の死を生み出した意志を生み出した頭脳は……そこにはない。
「嘘だろ……これは僕がやったのか?これが僕の『力』。これが僕の『法術』」
喉の奥から、温かいものがこみ上げる。視界がぶれる。
誠はヘルメットのシールを確認し、慌てて外す。シート横の小型コンテナを探り、エチケット袋をとりだした。
胃が反転する。酸の匂い。手が小刻みに震える。
背後の空間で、ランとかなめが、外に出てきた残存『飛燕』を、一機ずつ秩序立てて落としていく。
誠の耳に、金属が遠くで崩れる乾いた音が、何度か届く。
吐き切って、息を整え、もう一度モニターへ目を向けた。
『那珂』の船体は、艦首から艦尾へまだ脈打っている。だが、ブリッジは完全に消えた。
『……ハハハっハ。僕、やっちゃいました……なんだか勝っちゃったみたいです……本当にこんなので良いんでしょうか……』
一通り吐き終えてエチケット袋を手に持った誠は力なく笑い、言葉の最後を吐息に溶かす。
信号弾が、艦首から上がる。
それは、投降の合図である。
『ふさ』からのランチが、捕縛班を乗せて滑るように近づいてくる。ワイヤーの影が、宇宙に細い線を引く。
『よくやった……アタシの部下としては、まーいー出来だ……『モテた』かどーかは知らねーけどな』
小さな『偉大なる中佐殿』の声。ふざけた調子の奥に、柔らかい芯がある。
「褒められても……僕は人殺しですから……それに一応僕は『モテたくて』人を殺したわけじゃないですよ……そこでだけは理解してくださいね?」
誠は顔を伏せた。最後に余計なことを付け加えて見せたのはそんな事でも言わなければやっていられないような罪悪感が誠を襲っていたからだった。
犯罪者であれ、相手は人間だ。そして先ほど誠はその多くの命を一瞬で奪った。胸の真ん中に、冷たい石が置かれる。
『だからいーんだよ。オメーは。それにオメーの面はアタシの読んだ人相学の本によると『ろくな女にモテない』相だから、もし『モテる』ようになったら逆に気を付けろ。それがオメーの人生の終わりの始まりだ』
ランは短くうなずきながら誠が気にしていることを平気で口にする。その仕草は、妙に大人びている。
『それとあらかじめ言っとくけど、アタシも今回は一機も落としてねーかんな……オメーも6機落としてエースの称号と勲章がもらえると期待しているみたいだかけど、アタシは今回アタシの隊の撃墜数はゼロだと記録すっから』
唐突にランはそんな誠には理解できない言葉を口にした。
「そんな…15機は落としてるように見えましたけど」
誠が反射で返すと、ランは唇の片端だけ上げた。
『アイツ等は未熟だから事故で死んだ。出撃報告の作成はアタシの仕事だからそう記録を残す。アタシは機動部隊長だから、撃墜スコアーのカウントも仕事のうちだ。アタシは一機も落としたなんて記録しねーかんな。西園寺も誰も殺してねーんだ。死んだ奴は全部、『操縦未熟による事故死』って扱いになる……連中は勝手に自爆して勝手に死んだ。アタシ等は何にもしてねーんだ……アタシの書き残した記録の上ではな……それぐらいの嘘もつけねーようじゃ、この仕事は続けられねーからな』
誠は言葉を失う。
ランの声色には、残酷さも、救いも、同じ温度で混ざっている。
『神前。分かんねーかな?その力で近藤の旦那や地球圏の連中がしょっちゅうやってる『絶滅戦争』を本当にやれば……人がやたら死ぬ。だから、お前は『武装警察官』なんだ。『警察官』に撃墜スコアーは必要ねー。必要なのは、職務を執行する技量、だけだ』
理屈は分かる。心が追いつかない。
誠は、視線をかなめに向ける。さっきの覚悟の顔は影を潜め、彼女は葉巻をゆっくりとふかしていた。
すうと吸い、ふと吐く。太く短いコイーバ・ロブストの強くかぐわしい匂いが、コックピットの内壁からこの宙域全体を覆い尽くすように漂った気がした。
『なんだ? 神前』
「西園寺さん……」
『今回は死んだな……何人も……アタシも、オメエも人をたくさん殺した。ああ、安心しろ、オメエは相変わらず『モテて』ねえ』
かなめは、太い葉巻を指先で回し、灰を軽く落とす。
言葉の端は荒いが、目はどこか遠い。
『近藤さんの部下の連中は、たまたま死ぬべきだったから死んだだけ……そう思おうや』
「僕は……そう簡単には、人の死を割り切ることはできません」
誠の声は、ささやきになった。
かなめは、たれ目の輪郭そのままに、口角だけ少し上げる。
『オメエは相変わらず『モテない宇宙人』のままだけど……すまねえな。もし、アタシにもっと上等な力があれば……人殺しにゃ向かねえオメエに、殺しはさせなかったんだが……アタシに殺させるか、オメエが殺すか、それはオメエの心次第だな。無茶言った、すまねえ、聞かなかったことにしてくれ』
誠は視線を逃がし、HUDの端にあるカウラの小窓を見る。
彼女は、いつもの冷ややかさを少しだけ緩めて、微笑んだ。
『神前、貴様は私の用意した『戦場』を見事に消した。立派な『処刑』を執行した。その時点で、お前は本当の意味で私の小隊の一員になった。私は貴様を誇りに思う』
『処刑』という言葉が、胸板に重く乗る。けれど、その重みが、なぜか体を立たせもする。
矛盾は、戦場ではよくある。
……視界の端が、少しずつ、黒の縁取りを濃くしていく。
吐き気は引いた。代わりに、身体の芯が空洞になったみたいな疲労が、全身をやさしく沈める。
『先ほどの通信位置測定から『那珂』ブリッジにいた近藤中佐の死亡が推測されます……任務は終了です』
サラの報告が、布団の上から聞くラジオみたいに遠い。
誠は、ランの最後の声を拾う。
『今回の死者は全員、事故死。誰も、なーんもしてねえ。……現場責任者のアタシがそう記録すんだ。安心しろ』
薄く笑う声が、ゆっくりゆっくり遠ざかる。
誠は、最後に小さくうなずいたつもりだった。
そして、静かに、落ちた。
無音の、やさしい闇へ。




