第60話 ランに託す——誠の決意
運用艦『ふさ』が出港してから一週間が過ぎようとしていた。
船体のどこかで、重力制御の補正がコトと鳴り、薄い人工重力の膜が床を撫でていく。誠は、その膜の揺れだけで吐き気の第一波を予感できるくらいには、宇宙に対して『敏感』になってしまっていた。
予想通りカウラに見送られて部屋を出てからというもの、誠はひたすら『吐き気』と格闘して医務室に寝たきりだった。
点滴スタンドの車輪は四つのうち一つが微妙に軋み、ベッド柵には先客の忘れ物らしい酔い止めパッチの紙台紙。医務室の空調は少し低めに設定され、消毒用アルコールの匂いが、彼の胃袋の反乱をぎりぎりで押し返している。
「誠さん。もう出かけても大丈夫ですよ。ドクターもそう言っていました」
かわいらしいカーリーヘアーを揺らしながら、艦所属の見慣れない看護師たちと一緒に誠の介抱に当たっていた、神前ひよこ。
そのひよこが、狭苦しい病室に閉じ込められて退屈していた誠に、そんな優しい声をかけてきた。
ひよこの指は細く、包帯の巻き終わりがいつも真っ直ぐで、その几帳面さに誠は密かに救われていた。
「そうだね。胃もだいぶ軽くなったし……ちょっと出かけてくるよ」
誠は心から優しいひよこの言葉に感動すら覚えながらベッドから起き上がった。
足を下ろすと、人工重力の『面』が足裏を受け止める。一週間縛り付けられていたベッドを、誠は一度だけ振り返り、二度と戻りたくないと心の中でぼやいた。
ベッドに縛り付けられ、慣れない低重力の中で吐き続ける毎日。
そんな一週間を過ごした誠は、何とか自分にとっての天敵である低重力状態に慣れ、医務室から出た。
そして気分を変えて得意の絵でも描こうと思った誠はとりあえず東和宇宙軍の訓練ではひたすら『吐く』か仲間からの陰口に唇を噛みしめながら見つめていた宇宙のイメージを変えようと『展望ルーム』にたどり着いた。
案内表示の青い矢印に沿って曲がるごとに、艦の音階が変わっていく。倉庫区画では低い唸り、居住区では柔らかな白色雑音、展望区画は静が妙に誠の身に染みた。
巨大な窓の外には果てしなく続く『宇宙』があった。星々は瞬かず、漆黒の布に穴が空いたように鋭い。視界の端では、遼州第二惑星『甲武』の光が薄片のように艦窓を掠める。
ただ、暗い空間。それがなんの先入観もコンプレックスにも囚われていない今の誠の前にある『宇宙』だった。地球人がなんでこんな水も空気も食べ物も無いところに出て行こうと考えたのかは遼州人である誠には想像することができない。嵯峨が言った過酷な宇宙環境。そんな環境に身を置かなくてもごく普通に生きていて別に困った経験のない誠にはただ目の前にあるのは『何もない暗い空間』以外の何物でもない存在だった。アニメの主人公たちがこの何もない空間になぜロマンを感じるのか分からないのは誠が見てきたアニメの制作者が地球人が宇宙に感じているロマンとやらを真似しただけだったという事実を知って、誠は宇宙のデブリや小惑星を描こうと思っていた気分を変えた。
いっそのこと、たぶん艦内の小さな射撃レンジで銃の練習と称してストレス発散をしているかなめや、パチンコに夢中になるカウラの横顔でも描いた方がマシな気がしてくる。
そう思いながら、ただ外の暗い何もない空間から目を離して広い展望室を見回した。
宇宙を見ることだけを考えて展望室に来た誠はここでようやく先客の存在に気付いた。そこに置かれた長いベンチに、この『特殊な部隊』の隊長の『やけに若く見える駄目中年、四十六歳、バツイチ』、嵯峨惟基特務大佐だった。
脚を組み、片手のタバコ、膝には読みかけの報告ファイル。窓際の非常灯が彼の頬骨だけを薄く縁取り、煙は換気スリットへと吸い込まれていく。
「おう!神前!大丈夫か……って大丈夫じゃなさそうだな。お前さん、結構うちでは気が利く方なのにこうして時間が経たないと俺の存在に気が付かないなんて……俺ってヘビースモーカーだからタバコを吸わない人間には10メートル離れていても存在がバレることが多いんだけど……吐きすぎて嗅覚まで死んだのか?」
嵯峨は手を振って広い展望ルームの端から誠に声をかけた。
誠は食事ができないので受けていた右腕の点滴の跡を気にしながら、タバコをふかしている嵯峨のところに歩いて行った。
「何とか慣れてきました。でも、隊長。ここはタバコを吸っていい場所なんですか?」
そんなひねくれた調子の誠の問いを嵯峨は完全に無視した。
代わりに、灰皿にコツと灰を落とす。
「いいじゃん。俺の『特殊な部隊』なんだから。この艦の設備は俺の甲武四大公家末席であることで得られる荘園収入で改修して快適な環境を用意してあげてるんだもん。それくらいのわがままは許してよ。それより、神前。結局逃げずに乗ったんだ……この艦に」
嵯峨の呆れたような口調の意味を理解し、誠はそれ以上に呆れた。
「自分の部下に『乗ったんだ』って……逃げればよかったんですか?まるで逃げて欲しかったみたいな言い方じゃないですか、その言い方」
完全に自分が『逃げる』ことが前提で話している嵯峨にそう言って抗議した。
「そうだね、もしその『境地』にお前さんが達することができる人間だったら逃げて欲しかった。逃げるってのは勇気がいるんだよ、実際。意気地なしは逃げられないの。すべての人生をリセットする覚悟の無い『子供』は逃げることができないわけだが……神前は自分の行動に責任が持てる『大人』だから逃げればいいじゃん。宇宙酔いに弱い上に元々パイロット向きじゃないことは分かってるんだから俺達の戦いに付き従う義理はお前さんには無いよ……うちの給料はそれに見合うほど高くないことは俺も知ってるから」
嵯峨はタバコをくわえてそう言って誠を見つめた。その目は完全に誠を馬鹿にしていた。
だが誠は知っている……この男の『馬鹿にしている』視線の奥に、ときどき心配の影が差すことを。
「僕の逃げ道は全力で潰す……って言ってませんでしたっけ?そんな話クバルカ中佐がしてましたよ」
自棄になった誠はそう言って嵯峨をにらみつけた。
「そんなこと俺は神様じゃないからな。できることとできないことがある。お前さんが本気で逃げたらどうにもならないよ。今からでも『逃げたい』なら、東和共和国のアステロイドベルトにある基地にでも送ろうか?手配してやるよ?どうする?ん?」
そんなふざけたことを誠に言う、嵯峨の目は完全に死んでいた。
『死んだ目』のときの嵯峨は、本当に冗談を言っているのかどうか分からない。誠の喉は乾き、展望ルームの壁際にある自販機の水ボタンに視線が吸われる。
「逃げません!僕は社会人です!そして武装警察官です!それに東和宇宙軍から軍に入った軍人です!ちゃんと与えられた仕事はします!給料がどうのという問題じゃないんです!」
『脳ピンク』の『駄目な喫煙者』である嵯峨から目を逸らした誠は、その視線を外に向けた。
窓の縁に小さく刻まれた製造銘板。ガラス越しの宇宙は、触れられないのに近い。
誠は大きな窓の隣の表示板に目をやった。
そこは、この外の景色が遼州第二惑星『甲武』付近だと表示されていた。
「お前さんが真っすぐにそう言うのは若いってことの証明だね。黙っていれば街で俺とお前が並んで歩いていてどっちが年上か当てられる確率はたぶん二人だから50%ぐらいだと思うけど、一言話すと誰にだってすぐに俺の方が社会人経験の長い人間だってすぐにわかる。お前さんの言葉には苦労の色が無い。俺はしたくも無い苦労を散々してきた。だからお前さんみたいに純粋な言葉なんて恥ずかしくて口にできないよ。その点は羨ましいとは言えるが、社会人でも逃げるときは逃げていいんだよ。俺だって逃げるべき時はきっちり逃げる。ランとの戦いではまさに俺は逃げてばかりでアイツを徹底的に疲れさせることに徹したから勝てたんだ。そう言う戦い方はお前さんにはたぶんできないだろうな?そんな逃げることを卑怯としか考えないイノシシ武者同然のお前さんが逃げた結果、俺達『特殊な部隊』の面々が死のうがどうしようが関係ねえじゃん。所詮、俺達は他人だったという事実が残るだけ。お前さんを仲間にできなかった俺の心の中に後悔が残るだけだ。お前さんの知ったことじゃないよ……俺達が向かう先は『戦場』だ。卑怯とか勇敢とか関係なく『戦場』では最後まで生きて立ってた方が勝ち。そんなもんなんだよ、『戦争』って奴は」
嵯峨はそんな独り言を言って静かにタバコをくゆらせていた。
煙はゆっくり、天井の吸気へ尾を引き、消える。
「まるで僕に逃げてほしいみたいなこと言うんですね……逃げまくった末にクバルカ中佐に勝ったって自慢しましたけど、それってあんまり自慢にならないと思いますよ」
誠は嵯峨とは目を合わせずに外の小惑星を眺めていた。
「お前さあ、リアルを見なさいよ。目が付いてるんでしょ?ちゃんとそのそれなりの顔に二つ。アイツは俺の部下で俺はアイツの上司。これは俺がアイツに勝ったから起きた現状だ。俺がランに負けてたらこうはならなかった。そんな目の前の現実も認められないの?子供を通り越して人間の知能を持ってるかどうかさえ疑われてくるよ。目で見て、今の状況がなぜ生まれたのかを推測する。そんなことができないと生きていけないよ……これは戦場とか関係なくね」
冷たいようでどこか温かみのある言葉。嵯峨の口調に誠はそんな響きを感じながら黙って嵯峨の前に立っていた。
「人間はね、生きていればなんとかなるの。命がある限り何回でも『生きなおせる』の。ただ、すべてを捨てて逃げ出すときにはこれまでの貯金をすべて『チャラ』にしなきゃならないんだ。それはかなり勇気のいる話だよ。そんなことをできる人間を俺は尊敬するね。『お釈迦様』なんかじゃなきゃできねえ大した偉業なんだよ、本気で逃げるってことは。『お釈迦様』はね、自分が王様を務める国を捨てて自分の道を究めようと本気で逃げた。結果、『お釈迦様』の国『釈迦国』は有能な君主を失って多くの国々が覇を競って争った古代インドの歴史の中に消えていった。それでも『お釈迦様』は焼け落ちていく自分の国を人々を救うための仕方のない行為と受け入れてただ見つめていた。『お釈迦様』には自分の親や兄弟や家臣たちの滅びすら『些細な出来事』だったんだ。俺にはそこまでの悟りきった境地に達することはできなかった。自分の責任を放棄すれば人はより大きな責任を背負うことになる。『お釈迦様』は弱小国『釈迦国』の民は救えなかったがより多くの人々の心の支えとなった。結果的に目の前のわずかな死よりも大きな人を死から救った。そんな深慮遠謀は俺にも無理だ」
『お釈迦様』は誠も家の宗旨が『真言宗智山派』なので知っていた。ただ、『お釈迦様』が一国の王でその地位を捨てた結果その国が滅びたという話は聞いたことがあるような気がしたが詳しくは知らなかった。
窓外の黒は静かだ。だが、嵯峨の語る『逃げる』は嵯峨自身の戦史の熱で、静けさを少しだけ温めていく。
「そこで『お釈迦様』とかの極端な話題を出すなんて狡いですよ!隊長の論法はいつもそうなんです!極端な例外をあげてそれがまるで当たり前みたいに……そんな例外の話に僕があてはまるような人間に隊長には見えるんですか?見えないでしょ?そんなありふれた人間にとっても『お釈迦様』みたいに逃げることが『偉業』なんですか?」
戸惑いながら誠は喫煙中の嵯峨の顔を覗き込んだ。
「厳しい指摘だねえ……でもお前さんより俺の方が見た目は似たような年に見えるけど長く生きているってさっき言ったじゃん。だから身にしみてわかるんだ。逃げることは『偉業』だ。そしてお前さんもそんなに自分を卑下しなさんなよ。お前さんが新たな『お釈迦様』になれないなんて誰が言いきれるよ。お前には予知能力でもあるの?無いでしょ?だったらそうならないなんてお前さんが言うのは間違っている訳だ。確かにお前さんの言うとおり無茶な戦いに立ち向かって逃げずに戦えば、誰も見た目上は『アイツは逃げた』とは言わないね。でも結果的に『あの世』に逃げることができることになるんだ。まあ、俺から言わせればそれは最低の責任放棄の最低の『逃げ』だ」
嵯峨の最後の口調が敵意と軽蔑に満ちていたので誠は驚いて少し背筋を伸ばした。そんな誠を一瞥すると嵯峨は大きなため息をついて話を続けた。
「でも、お前さんが言うようにいくら決戦を避けて負けそうな戦いを避け続けて逃げ続けても、いずれは本当の『戦い』がそこに訪れるものなんだ」
色々ことは操ってもやはり逃げられないんじゃないか誠は微笑みながら語る嵯峨を見つめていた。
「これは軍人なら誰でも読むべきナポレオン戦争時代のプロセインの参謀の著書である『戦争論』という著書にも書いてある。ああ、お前さんは古典の名著と呼ばれる本は読まないんだったな。ランは持ってるから、今度貸してもらえ。お前さんに理解できるかどうかは分からないけど」
ここでもまた自分へのからかうような口調が出てくるのがいかにも嵯峨らしかった。
「結局、人間、どんなに逃げようとしても逃げきれないもんなんだな。その参謀も軍が『決戦』と決めたときを逃せばその軍待っているのは哀れな敗北だけだと言ってるからね。あの無敵の将軍ナポレオンを打倒した軍の参謀でもそう言うくらいだから本気で逃げるってのは本当に難しい。それを成し遂げた人間はお前さんの知ってる人物で言うと地球人の歴史では『お釈迦様』だけだ。だからお前さんも俺達が危ないようなら迷わず逃げな。俺達はお前さんを責めないよ」
誠の視界の中で、嵯峨はそう言ってほほ笑んだ。
その笑みは、時々だけ顔を出す“隊長”のものだった。
「隊長達を見殺しにしても怒らないってことですか?そうすると僕は『お釈迦様』並みに偉いみたいな口ぶりですけど」
自分を卑怯者に仕立てようとする『特殊』な部隊長に向かって誠は自分の疑問をぶつけた。
「うん、怒らない。そうすれば、お前さんは俺達みたいな『特殊な馬鹿』のことを覚えていてくれる。死んだあとにそう言う人間がいてくれるなら、俺達みたいな馬鹿は安心して死ねる……まあ、今回の俺達は死ぬのは無しみたいだな。それより一方的に人を殺しそうだ。そしてお前さんがこのまま逃げなければその殺す人間の数ではお前さんがこの『特殊な部隊』の中では一番多くの人を殺すことになる……それが今回の俺の脳内での戦闘プランなんだ……そんな『駄目人間』の本気の悪だくみの中身を聞いても……それでも逃げないの?」
誠の顔を真正面に見てそう言った嵯峨の目は少しうるんでいた。
誠は、胸の奥で何かが鳴るのを感じる。自分の手が冷え、拳が自然に固まる。
「すまんな、ちょっと昔のことを思い出してな……逃げて意味のある奴は逃げるべきだ。お前さんも逃げることに意味がある。俺は千倍の敵と戦うことを強制された事が有る。もうすでに国としての敗戦が決まってて、停戦交渉の最中でただ時間を稼げと言われていた状況下でだ。俺は戦いながら停戦協定締結まで時間を稼いで、もしそれが発行した場合には戦争犯罪人として訴追されることになるのが確実な部下達をいかに終戦後に逃がすかということだけを考えて戦っていた。奴等は命令でそこに居るだけの犠牲者だ。望んで戦争犯罪者になった奴は一人もいなかった。それを命令してやらせる……それが軍と言う無慈悲な勝利だけを目的とするシステムの本質だ。もし俺が将校ということで一人で戦って済むなら連中に死ぬ理由はない。まあ、俺の読み通りその戦いの決着がつく前に終戦を迎えたから俺は余裕をもって前もって準備してあった逃走ルートを使って連中を逃がして俺だけが将校として責任を取った。もしあの時、俺が戦って勝つことを考えたら俺の部下は逃げるも何も千倍の敵相手に全滅していた。俺は今でもその戦い方を誇りに思っている……そんな俺が言うんだ。それでも逃げないのか?」
語尾は軽いのに、言葉の中身は重い。
展望窓のガラスに、誠と嵯峨の影が二重に重なる。
珍しく慌てた様子の嵯峨を見て、誠はどこか親近感を感じていた。『駄目な喫煙者』の向こう側に、部下を逃がすためにだけ戦った将校の影がちらりと見えた。
「隊長。僕は逃げません!僕は武装警察の隊員です!その誇りだけはあるつもりです!」
誠はそう言ってこぶしを嵯峨に突き付けた。
拳は小さく震え、しかし真っ直ぐだった。
「誇り?そんなもん世の中じゃ何の役にも立たないよ。臆病者の言い訳にしか俺には聞こえないけど……これって俺の感覚がおかしいのかな?」
意表を突いた嵯峨の言葉に誠は再び言葉を失った。
「逃げる方が臆病者です!隊長の感覚がおかしいのはいつものことです!」
当たり前の自分の言葉を聞きながら、嵯峨は目を逸らしてタバコを床に押し付けて火を消した。
じゅっと短い音。焦げ跡は残らない。艦は、そういうところだけはやたら高性能だ。
「まあ、俺の感覚なんてこの際どうでもいいんだ。ただ、お前さんの言ってることは世の中を知らない『赤ん坊』の言うセリフだ。『撤退』、『縮小』、『撤収』、『敗走』。どれも勇気がないとその目的を達成できない立派な仕事なんだよ。いつの時代でも戦場ではその『撤退戦』の最後尾を最強の部隊が担うってことになってるんだ。お前さんの同級生の一般企業に就職した奴もいずれ『拡大しすぎた事業からの撤退』とかいう『逃げ』の仕事を押し付けられるの。ほとんどは『討ち死に』して会社をクビになる。世の中つれえんだわ……軍や警察もおんなじ。逃げることには勇気と決断がいるんだよ。最強の戦士にしか任せられない仕事なんだ。そんな重要な任務を無能に任せたら戦線崩壊で死ななくてもいい犠牲者が出て予想されていた最悪の事態になるからね」
誠も企業の『事業縮小』や『リストラ』の話はテレビで見て知っていた。『策士』である嵯峨がそれを『戦場』としてとらえているのも理解できた。
理解はできる。納得までは、もう一歩だった。
しかし、誠には嵯峨のように『逃げる』ことへの嫌悪感がぬぐい切れずにいた。
「じゃあ……僕は……」
迷う誠に嵯峨は冷たい視線を投げながら、胸ポケットから取り出したタバコに火をつける。火の点きは一度目で決まる。動作が無駄なく静かだ。
「じゃあ、言うわ。さっき『遼州同盟』の偉いさん達から、俺達『特殊な部隊』に正式な命令が届いた。『甲武国』の『近藤貴久中佐』の乗艦『那珂』を奴さんごと沈めろ……って無茶なこと言うな……ちゃんと『殺人許可』は出てるそうだ。死んだ『甲武国』の軍人は全員国家の武装を私的に利用しその身勝手な思想を実現しようとした『犯罪者』として『処刑』されたという扱いになるそうだ。意地でも同盟司法局は近藤中佐を犯罪者に仕立て上げたいんだろうな。これは司法局と言う同盟機構の一職員に過ぎない俺から見ても本来ならこれは甲武国の国内問題として処理するべき事案だ。それを俺達が動く……司法局のスポンサーである『東和共和国』の偉いさんはどうやっても遼州同盟一の軍事大国である甲武国を蹴落としたいらしい……お前さんは正義の味方として戦うつもりらしいけど、戦いは常に『政治の暴力的一面』なんだ。これもさっき出てきたプロセインの参謀の書いた本の中の言葉だ」
誠を見つめたまま嵯峨はそう言った。その目はいつも通り死んでいた。
展望窓の外、甲武の反射光が一段強くなり、室内の床に薄い銀色の縞が落ちる。
「『近藤貴久中佐』を……乗艦『那珂』ごと沈める……それによって東和が甲武を蹴落とす……」
この『特殊な部隊』に配属になったばかりの誠にも、それがあまりに過酷なミッションであることは余裕で想像ができるものだった。そして自分の行為がどこまでも政治家の権力争いの手段でしかないという事実に心が冷えていくのを感じていた。
「そう、今回の演習はただの口実だ。東和と甲武の同盟内部での主導権争いは別として、同盟司法局の目的は甲武国不安定化を企む『ある男』の意図を挫くこと。その為に『那珂』には沈んでもらう……世の中そんなもんさ」
嵯峨はそう言って苦笑いを浮かべた。誠はその言葉のあまりの残酷さと軽さについて行けなかった。
『軽く』言わなければ、誰かの心が折れるから。この男はいつも、そういう配分で喋る。
「なんだい、ビビったかい?今なら逃げてもいいぜ。俺は気にしねえよ……『偉大なる中佐殿』……クバルカ・ラン中佐はどうだか知らねえがな」
あまりのことの重大性におびえる誠の目の前ににやけた若い男がいた。自称四十六歳、バツイチ、コブツキ。そして脳内はピンク色の『駄目人間』。それだというのに、その言葉には実に計り知れない『重み』があった。
「クバルカ中佐が……僕を……『斬る』んですか?」
恐る恐る誠は尋ねた。嵯峨は静かに首を横に振った。
「遼南共和国時代は知らないが、今のアイツはそんなに『ひどい上官』じゃねえよ。アイツは見たまんま、『永遠の8歳児』なんだ。かわいい女の子なんだよ。『不傷不殺』。それがアイツの信条なんだ。アイツは以前、アイツが参加した戦いに負けて敗者になった。その戦いでアイツを倒したパイロットはあえてアイツを殺さずに『友達になりたい』とか抜かしたんだ。その様子をその場で見ていたそのパイロットの上官だった俺も度肝を抜かれたね……『友達になりたい』からってコックピットにダンビラ突き立ててそのパイロットであるアイツの心臓をぶち抜くか?まあ、アイツが今でも生きてるのは……そのうちアイツの口から言うことになるから今は言わない。アイツはそのライバルである俺の部下のパイロットの背中をいつも追いかけている……あの宇宙最強の『女神』……アイツの手の届く所までランがたどり着けばこの宇宙から戦争は消える……ただ……そんな日は来ないだろうね、永遠に」
誠は嵯峨の言葉でランが先の『遼南内戦』の敗戦国の英雄だったことを思い出した。
展望窓のガラスに映る自分の輪郭が、わずかに強くなる。憧れと恐れが一度に胸にくる。
「その時からアイツの戦い方は決まってるんだ。部下を危ない目に逢わせたくない。人を傷つけるのが大嫌い。そんな優しい奴なんだよ、あいつは。アイツの超えるべきパイロットは常にそう言う風に戦ってきたのは、そいつの上司だった俺が一番よく知ってるからね。お前さんも優しいな。お前さんとラン。どちらも似た者同士だ。さっき逃げろと言った口で言うのもなんだが、そんな優しいお前さんに『偉大なる中佐殿』の期待を裏切ることができるかな?」
タバコをくゆらせながら言う嵯峨を見て誠は困惑した。
嵯峨の『娘』という冗談が、いつの間にか艦内の通説になっていることも思い出す。
「裏切れないです……僕は……期待にこたえたいです……『特殊な部隊』のみんなの……」
無理やりの笑みを浮かべながら誠はそう言い切った。
『僕が逃げたせいで、もしみんなが死んだら? 僕はその責任を背負えない。隊長が言うように僕は逃げられない『臆病者』なんだ。だったら、やるしかない』
誠の心にはそんな決意が去来していた。
拳を開くと、掌に汗の冷たさ。だが、視線はもう揺れていない。
「……そうか。じゃあ、『偉大なる中佐殿』……クバルカ・ラン中佐から作戦の詳細を聞いてこい。アイツもこの命令については知ってる。アイツなりに考えて、お前さんの『素質』を生かせるようにしてくれるはずだ。俺が知る限り間違いなく『人類最強』の上司だよ、アイツは。かなめ坊やアメリアが陰口叩いてるように『人外魔法少女』だよアレは。ああ、その言葉を発明したのは俺だったわ。そのことはランには言うなよ。俺が殺されるから。アイツは俺を殺せる珍しい存在だから」
嵯峨の言葉に誠は静かに敬礼した後、この展望ルームを後にした。
自販機の前で立ち止まり、水を一本買って、一息に飲み干す。喉を落ちていく冷たさが、決意の熱をほどよく整えてくれる。
通路に出ると、遠くで工具の金属音。誰かが機体の腹を叩いている。
艦は進む。甲武の光は窓の外で薄く伸び、やがて切れる。
逃げることも、戦うことも、簡単じゃない。
ただ、いまは……ランに会いに行く。それが、誠の答えだった。




