第58話 中佐、金目鯛にて一献——『ふさ』の食卓
「いつまで遊んでるの!こっちよ!」
かなめとカウラが誠が聞いててその神経を疑いたくなるような間抜けな会話をしている間に、一人、アメリアは『ふさ』の係留されている岸壁のタラップの近くにまで誠達を置いて歩いて行っていた。岸壁に反響するアメリアの声は、真夏の金属みたいに張りがあり、風に削られても輪郭を保っていた。誠は思わず足を止め、タラップへ続く白線のかすれを見下ろす。
「自分が最初に誠の素直な疑問に火をつけたくせに、自分だけ先に……アメリアさんは本当に勝手だな」
こぼれた独り言は、油と潮の匂いに溶けた。
肩口を軽くコンと叩かれる。かなめとカウラだ。視線だけで促される。
『だから、奴は『少佐』なんだ』
二人の声が、左右から『同時に』同じ高さで落ちる。そのシンクロが妙に可笑しくて、誠は苦笑のまま岸壁を見上げた。
そこには、『壁』としか言いようのない白い艦影……あくまでも軍用ではない『武装警察』運用艦『ふさ』はその塗装も白と赤を基調としたまるでアニメに出て来る主人公が母艦とする艦の『目立ってますけどどこから撃ってもいいですよ』というような色彩を放って誠の目の前に立っている。水面は鈍い青、船腹は鈍い灰、二十階建てのビルが海に根を張ったようだ。……ここが、これから自分の『戦場への玄関』になる。そう思うと、喉がひとつ鳴った。
舷側に走るナンバーと、タラップの真鍮の手すりが陽光にチカと瞬いた。
「この艦は本来、ゲルパルト連邦共和国、高速巡洋艦『ローレライ級』二番艦なんだ。全長三百六十五メートル。そして水面から聳え立つその高さは、大体二十階建てのビル程度だ。まあ、『ローレライ級』は一番艦『ローレライ』が『足が早いだけの使えない艦』として、就航二年で『その船速の早さが必要になる戦場は遼州同盟成立によりあり得ない』という理由で退役した為に建造途中で余っていた二番艦に、隊長が目を付けたわけだがな……確かにそんなに船速に拘るくらいなら主砲のインパルスカノンの強化や艦載機の数を増やした方が艦の戦場における価値は高くなる。同盟機構の成立時に国防費の国民総生産当たりの上限が決められた現在では無駄な金で戦艦の数をそろえても何の意味も無い。『ローレライ』が真っ先に退役したのも当たり前の話だ」
カウラの説明は相変わらず抑揚ゼロなのに、内容は熱い。ポニーテールの先だけが、港風にぴとと揺れた。
「この艦も……『特殊な部隊』しか使ってくれない『珍兵器』なんですか?足だけは速い艦……逃げ足だけは保証してくれるって訳ですね……つまり、今回も負けそうになったら……あの『人外魔法少女』を戦場に放置して逃げ出せば何とか僕達も助かるでしょうからね。あの人……そもそもシュツルム・パンツァーなんか人型兵器に乗る必要があるんですか?あの人の言ってることを総合すると『どんな兵器に乗るもあの人が素手で戦った方が強い』という結論にしか僕にはたどり着けないんですけど……」
誠が立ち止まると、背後からかなめが煙草の火のような声で刺す。
「ああ、あの『人外魔法少女』の遼州圏と地球圏の『公然の秘密』を公にして良いって言うんならオメエの言うことはあってる。あのちんちくりんには05式は自分を弱くするために乗ってるようなもんだ。あのちんちくりんに言わせると『アタシは強すぎるから当然のハンデ』なんだそうな。まあ、うちの装備がすべて『あまりもの』なのはいつものことだ?そんなのあたりめえじゃん。うちは『人材』から『兵器』まで全部『あまりもの』なんだよ。まあ、あのちんちくりんは存在自体が『最終兵器』だけどそのことはこの宇宙の国家群はみんな知ってるがそれを知るとそれを口にした奴の背後にいつの間にかあのちんちくりんが自慢の白鞘『関の孫六』を抜いて立ってるからそんなことを口にする馬鹿はこの宇宙ではいないがな。なんでも『有効利用』する400年前の独立戦争を主要装備が鍛冶屋で作ったAK47とRPG7だけの状態で独立を成し遂げた『遼州人気質』を表してるんだ。なんでも新型が出来れば置き換えようとするのは地球人の悪い癖だ。その点遼州人は使えるとなれば使い道を意地でも考えて使い尽くす。今だって遼帝国軍の制式小銃はAK47の改良版であるAKMだからな。そんな何もかも無駄にしない精神を持った遼州人に産まれた自分を誇りに思えよ。まあこの艦の場合海上に停泊したらすぐに釣りが出来るようにハンガーに余計な船が何隻か『戦闘工作艦』の名目で配備されてるが……それはこの艦の管理を任されている連中の病気だ。出撃の邪魔にはならねえから無視してやれ」
『病気』と、彼女は平然と言った。言外に『治す気はない』と続く。誠は内心で肩をすくめる。
「『ふさ』では、『釣り部』の面々が命を懸けて釣り上げた新鮮な海産物を使用している。その船上で神経締めしたものを瞬時に冷凍するという『釣り部』自慢の技術によりどんな長期間の任務であろうが釣りたての最上級の高級魚を食べるような日々が続くことになる。一度、一か月ラップ共和国に親善訪問をしたことがあったが、連中の魚を処理する技術と魚介類の正しい味わい方を知り尽くした知識であの職にうるさいクバルカ中佐も食に関しては何一つ文句は言わなかった。つまり毎日、新鮮な『海産物』ばかりの食事になるが……神前。貴様は嫌いな『海産物』はあるか?」
カウラは一歩も表情を動かさない。だが、声の乾き方で『本気』が分かる。
「特に無いです。どちらかと言えば肉より魚が好きなくらいです」
言ってから、誠は『命拾いしたかもしれない』と思った。ここで『貝が苦手で』とか言っていたら、釣り部の誰かに海へ落とされていた気がする。
「どーだ、『特殊な部隊』の自慢の運用艦は。とても『あまりもの』とは思えない見栄えだろ?自慢して良ーんだぞ」
タラップの根元に、クバルカ・ラン中佐がいた。
陽射しに輪郭を縁取られた小柄な影。海風にほっぺたを膨らませ、ニィと笑う。『自慢したいことがある子供』の笑顔だが、その目の芯は冷えている。見た目は幼いが、視線の重さは海の底みたいだ。
「じゃあ、私達はこれで」
アメリアとかなめは、半身を引いて風のように去る。『人外魔法少女』扱いしている鬼教官であるランの説教半径に入らないコツを二人は熟知している。カウラも、たぶん心はもうコレクションルームに居のだろう。その瞳は歓喜に満ち、右手はパチンコのハンドルを握る動作を続けていた。
誠はランの肩越しに、改めて船腹を仰いだ。
「大きいですね……さすが巡洋艦……僕が東和宇宙軍で乗った艦の二倍はありますよ。これが大気圏脱出が可能なクラスとは驚かされます」
ランの眉尻が、ほんのわずか下がる。期待した反応ではなかったらしい。
「でかいって言うなら東和宇宙軍の戦艦にはもっとでけーのがあるぞ。それに戦場ではデカいってことはただ目立つ的以外の意味はねーんだ。確かにこいつは重巡洋艦にランクされる大きさの艦だから大きさはそれなりにあるのは事実だがな。まーこいつの凄さは外から見てわかるもんじゃねーかんな。コイツの本質は戦う人間……アタシ達シュツルム・パンツァーパイロットにその能力のすべてを引き出すことにのみあるんだ……特に食通として知られるアタシの舌を満足させない艦なんざアタシは乗りたくねー!なんで空気も水も食い物も無い宇宙空間にアタシが行かなきゃならねーんだ?任務だからってことは理解できるが、不味いレーションばかりを食わされてもアタシが言うことを聞くと考える軍を持ってる政府?そいつはアタシがそのレーションを目撃した時点でその間違いを知ることになる。その国の最高指導者から一市民に至るまで……3年以内のこの宇宙から消え去ることになるんだ……だから隊長もアタシには気を使ってるんだ。アタシが食通の道を究めるのに100億の命が消えるのもまた仕方のねーことなんだ」
ランが誠の理解を超えた発想の発言を続けてちっちゃな胸を張ると、不思議とタラップが近く見えた。誠は自分がこの宇宙から消え去る第一号にならない様に静かにうなずいて後に続く。誠が目にしたランの声には冗談めいた軽さが混じっていたが、目の奥は一ミリも笑っていなかった。
積み込みを終えたばかりのトレーラーがごうと唸り、鉄の桁が微かにビリと震える。タラップの鉄板には、何度も塗り重ねられたグレー。歴代の靴底が切った薄い円弧が、幾筋も走っていた。
連絡橋を渡り、艦内。
金属の匂いに、柑橘系のワックスが重ねられている。倉庫区画は広く、天井の梁が蜂の巣のように組まれ、オレンジのラインが安全地帯を囲む。フォークリフトのライトが行き交い、遠くでシューと圧搾空気の音が耳に届いた。
ランの靴音は軽い。しかし、踏む場所は正確無比だ。誠は歩幅を合わせる。
「ここまでは普通なんだ。建造された時からの改装は施されちゃいねー。でもこれからがうちの運用艦にするにあたり徹底的に改装した部分なんだ……隊長も、アタシには気を使ってるのがよく分かる……」
エレベーターへ。箱は軍艦標準より広い。壁面のプレートに整然と並ぶ禁止ピクトの隅に、手書きで貼られた『鮮魚優先』の紙片……見慣れない文字なので釣り部の誰かの文字なのだろう。
ガタン。上昇。静けさの中、生体のように艦が呼吸する。
扉が開く。誠は、目の前の空気の密度が変わるのを感じた。
生活区画の通路……ひらけた。天井高も、幅も、軍用の常識を外れている。壁は落ち着いたオフホワイト、床は艶のある濃紺。壁面ニッチには観葉植物、照明は間接主体で眩しさを抑えている。
軍艦のくせに、歩く速度を落としたくなる。
「巡洋艦って凄いんですね……こんなに豪華なんですか?テレビで見た遼州一周クルーズをする豪華客船みたいじゃないですか!」
ランが振り返り、口角を上げる。
「この艦の内装は特別製だ。もっとも、アタシはこんな艦じゃ無きゃ宇宙で作戦行動をするなんざ死んでも嫌だがな。遼州星系の艦はこの星系ならではの艦隊戦の主力戦法である艦をぶつけて敵艦に乗り込んでの白兵戦を想定して他の星系の戦闘艦より兵隊を多く載せるんだが、うちは『特殊な部隊』で『武装警察』の側面もあるから、そんな白兵戦等は任務の範囲に入ってねーから人員は他の戦闘艦に比べてすくねーんだ。だからこんなに広い……『人類最強』であるアタシへの配慮としてはあの『駄目人間』隊長の当然の配慮と言えるな」
なるほど、と誠は思う。贅沢ではなく合理の結果——でも、結果はちゃんと贅沢だ。
エレベーターが中央の大きなホールで止まる。周囲には談話コーナー、簡易図書棚、そして壁一面の魚拓。銀粉の鱗が光を吸っては返す。
「吐きすぎて腹が空いたろ。飯にしよーや。ここの飯はすっげーうめーぞ。食通であることにすべてを賭けているアタシでさえあの『釣り部』の配慮の行き届いた料理には言葉もねえんだ。オメーも間違いなく気に入る」
ランが、ちょこんと降りる。誠はその背中の小ささに一瞬たじろぎ、慌てて追う。
「なんで……壁中に『魚拓』が貼ってあるんですか?まあ『釣り部』だからとうぜんですよね……というか、この艦の存在はただ単に中佐のご機嫌を取るために存在しているんですか?」
先ほどのかなめの『釣りのために人生が壊れた人間失格の存在の収容所』よりも『宇宙最強の人外魔法少女』のご機嫌を取るためにあんな珍妙な『釣り師の為の観光地』が生まれたという方が誠としては望ましい結論だった。
「『魚拓』だけじゃねーぞ。写真もいっぱいある。すべて釣りに関する物だ。アイツ等の根性の座りぐわいがここからも良く分かる。これだけ気合が入ってる……人生とは何かを常に考えて生きているアタシでも納得できる生き方がそこにあるとアタシは思うな」
ランが指す写真。巨大なカジキと勝者の笑顔、背後に横断幕が写っている。
誠は目を凝らし、ふいに肩が揺れた。神前ひよこ軍曹だ。あの小柄な看護師が、怪魚の前で親指を立てている。
「『艦船管理部』って……『ふさ』の他にも船があるんですか?ハンガーに余計な船があるって西園寺さんが言ってましたけどそれ以外にも有るんですか?もしかして釣り船とか?このカジキマグロを釣り上げるのに使ったクルーザーも『艦船管理部』の備品なんですか?」
どう見てもそのクルーザーは釣り好きで知られる芸能人のお金持ちがトローリングをする為に自分用に持っていると自慢しているそれに酷似していた。
「ああ、その船は西園寺の船。あの馬鹿。金はあるから甲武の金持ちらしく御用の業者のおすすめのクルーザーを買ったはいいがアイツに釣りなんて忍耐力の必要なことができるわけがねえ。それに他の釣り船か?あるぞ、近場の浅瀬を狙う船、深海魚狙いの沖まで出られるよな大きな船、専用のイカ釣り船、カツオの一本釣り用の専用の船。そしてアタシはマグロのトロが好きだということで延縄専用の大型船もきっちりある!他にも遼州同盟加盟国の海軍部隊が呆れるほどの種類の艦を持ってんぞ!奴等は『世間から後ろ指をさされる』ぐれーの根性の入った『釣り人』だ。遼州星系から『漁業業界』や『海運業界』から続々と『猛者』達が集結した!それこそ連中に釣れない魚があるならアタシが知りて―くらいだ!」
壁面一杯の巨大ルアーのディスプレイが、まるで甲冑のように並ぶ。誠の喉が鳴る。
『軍艦の『艦』に、砕氷船や捕鯨船が含まれていませんように……いや、クバルカ中佐の事だから間違いなくあるだろうな……そこまでして一体何がしたいんだ?『特殊な部隊』の別名もここまで来ると一種の『芸』だぞ?』
祈るように黙っておく。命は惜しい。
「それだけじゃねーぞ。その『釣り師』もタダの無能じゃねーんだ!釣りが好きならうちに入れる?そんなに世の中甘くねーよ。『釣り』とその『趣味ゆえに誰も手を出さないが最高の技術を持つ人材』というのが隊長がこの艦の管理を任せる人間に求めたコンセプトだ。特に『医療関係者』。意外とこの業界には『釣りの為なら患者も殺す』ような、根性の座った奴が多い。あと、『元傭兵』もいる。軍艦を奪おうなんて考える不届き者は何処にでもいるもんだからな。そいつ等の戦績を見て非正規部隊上がりの西園寺も明らかに『負けた』というような顔をしていたまさに『傭兵の中の傭兵』と呼べるような手練ればかりだ!奴等は銃撃戦の最中も『釣り』のために『仲間の死』すら恐れなかった『プロフェッショナル』だ!腕が立てばどんなに『釣り』で人生が壊れた人間でも受け入れる!それがここのモットーだ!」
誠は、ツッコミを海に投げた。戻ってこない。
「そんな医者や傭兵は嫌ですよ、そんな人達と一緒にいるのは。僕は死にたくないんで」
ランは聞こえないふりで食堂のドアを押す。香りが溢れた。
そこは『軍艦食堂』の常識を完全に踏み越えていた。
まず音……包丁のトトト、鱗取りのシャッ、骨抜きのコチ。
そして匂い……昆布と鰹のだしが湯気の鈴を揺らし、醤油が熱で照りを帯び、甘い酒の香りが奥で微笑む。
壁際のショーケースには本日の握り。奥の大皿には船盛。氷の白と、身の硝子質の艶。タコの吸盤、アジの銀皮、サヨリの縞。
隊員たちの前には寿司桶、向こうでは誰かが煮付けをつついている。笑い声が、腹の中心に温度を作る。
「おい!アレだ!アレを見ればオメーでもうちに入って良かったって心底思えるぞ。あんなものがこれから毎日食べられるんだ。食通で知られるアタシをうならせる真の魚食がここに終結している!良かったなあ、神前!貴様もこの出動を終えた時には魚屋で魚を一目見ただけでその値段が正しいかどうか瞬時に見抜ける目が見に付く!そんな『武装警察』が他にあるか!思いつくなら言ってみろ!」
ランの声が厨房へ飛ぶ。
誠は思ったのは『魚屋の店先の鮮度を見抜くのは武装警察の仕事ではない』という当たり前のことだった。
そのタイミングで配膳口から湯気ごと現れたのは……。
テレビでも見たこともない大きさの金目鯛の煮つけだった。
皿の中心で、分厚い身がぽってりと腰を落ち着けている。皮は朱に透け、箸先でぷると震える。煮汁の表面には、照り油が丸い光をいくつも浮かべ、際に走らせた針生姜が白い。付け合せの牛蒡と小松菜が色を添え、奥には薄く切った木の芽まである気遣いにこだわりを感じた。
そしてランの前に、二合は入りそうな徳利と、煤けた縁が渋いお猪口が置かれる。
「やっぱりここに来たら『キンメの煮つけ』と当然……これだ!この酒はアタシが自前で用意した丹波の良い酒だ。魚にうるさい『釣り部』の連中にも『キンメの煮つけ』を食う時があるだろうからって言うんでこの酒を分けてやったがアイツ等もこの組み合わせを超えるものはねーと認めた極めつけの一品だ。これは貴重品だからオメーにはやれねえぞ。でもアタシは自分のだから飲む。注げ、神前!」
小さな手が徳利を差し出す。形だけ見れば八歳児のそれなのに、酒器の扱いは老舗の女将みたいに迷いがない。角度、距離、注ぎ始めの静、切り際の間どこまでも究極の酒のみのそれだった。
誠が注ぐと、ランは香りを一拍だけ楽しみ、唇をちょんと湿らせてから、すっと一口。喉の動きが小さく、それでいて確かだ。
「アタシは見た目はこんなだけど戸籍上の年齢は34歳だからな!合法だ!オメーは上寿司がいーか?それとも前みたいにちらしから行くか?寿司に合う酒もちゃんと別に用意してある。そっちの方は東和産だから安いからオメーも飲んでいい。何なら用意させようか?」
差し出されるお猪口は冷えている。表面張力で縁が丸く盛り上がる。ランの目元がほどけ、しかし瞳孔の奥は寸分も酔わない。
この矛盾が、彼女の年齢の足し算を物語る。戸籍が三十四で、見た目が八歳にしか見えない。
食べ物と酒の記憶が、彼女のなかで地層になっているのだろう。
金目鯛に箸を入れる手つきは、刀の出と同じくらい正確だ。皮目を壊さず、身だけをふわりと。煮汁を一度、身に戻す。口に運び、目を閉じ、左の指で徳利の鼻先を軽くトントン……次の一口の合図のようだった。
誠は圧倒されて、お猪口をそっと置いた。
「僕は……普通の寿司でいいです。あと、今は酒を飲む気分にはなれそうに無いんで……あまりの驚きで飲むどころか何か食べるのが精いっぱいなんで」
カウンターから寿司桶が滑ってくる。
中は正統派だ。しっとり炊かれた赤酢のしゃり、わずかに温かい。握りは、小さめ……江戸前の理屈がここにも貫かれている。
アジの銀は筋目が美しく、ヒラメにはほんのり昆布の香。赤身は艶が落ちないギリギリで漬けられ、玉子は出汁の層が千枚のように重なる。
ランは、煮汁で湿った木の芽を指で転がし、酒をまた一口味わう。
彼女の隣卓では釣り部が『今日の潮』の話をし、向こうの長机では機動の面々が『デブリ帯の入り』の話をしている。会話が交錯するのに、邪魔し合わない。潮目がきれいに分かれている。
誠は最初の一貫を口に運び、噛む。歯が抜けるように身がほぐれ、舌の上でしばらく泳ぐ。
『……毎日、これ?本当に?予算は……ああ、ここの人達が釣ってきた奴だからタダ……でも船の燃油代はかかってるだろ?』
目の前の『豪奢』が、士気と兵站の最短距離で結び付いていくのを、誠はやっと理解し始めた。
食えるから戦える。旨いから続く。
この艦も、この部隊も、その理屈で組まれている。
ランが煮付けの最後の中落ちを上手に取り、ほとんど音を立てずに口へ運ぶ。小さな喉がまた、一度だけ動く。
そして、何気なく置いたお猪口の影がぴたりと魚の目の位置に重なっているのを、誠は見逃さなかった。
狙ってやっているのか、身体が覚えてしまっているのか。
『この人は、食べることでも戦っているんだな』
そう思ったら、少しだけ怖くなり、同時に安心もした。
きっと演習のあいだ、彼女は毎晩、この金目鯛の煮つけで一杯やるだろう。
酔わないために飲み、飲んでも冴えるために食べる。
誠は寿司の最後の一貫を、ゆっくりと噛んだ。母の作る味噌汁の味が、遠い記憶の底から浮かぶ。
魚で育った舌は、今日からもっとうるさくなる。
……魚料理の日々の予感は、もう逃げようがなかった。そしてそれが、少しだけ楽しみになっている自分にも、気づいてしまった。




