第52話 囮は笑う──近藤貴久中佐
甲武国海軍・加古級重巡洋艦『那珂』。
艦は第六艦隊本隊から距離を取り、第二惑星「甲武」軌道上……二十年前の『第二次遼州大戦』が撒き散らした金属片と破壊されたフレームの残骸、剥離した装甲と凍りついた油膜が、稲妻のような軌跡でばらまかれたデブリ帯の中に身を潜めていた。
ここは第三演習宙域。揚陸戦用コロニー群の黒い影が、星明かりの間隙でわずかに輪郭を覗かせる。外板に触れる細粒片が、遠い雨音のようにチ…チ…と鳴り、艦内の隔壁を伝って、幹部私室の薄い空気にも微振動を運ぶ。20年前の甲武本土決戦に砕けた金属片が、いまだに彼らの頭の上を回り続けている。
私室の照明は落とし気味にしていた。旧式の艦内時計が正時を回り、深く低い鐘音が一度だけ鳴った。
近藤貴久中佐は、壁面モニターに並ぶ多分割の端末モニターの分割画面を憂鬱な表情を浮かべて眺めている。そこには彼と同じと呼ばれる『伝統』を何より重んずる元日本人であることを何よりの誇りとする同志達『官派』……その中には陸軍、海軍では名の知れた将・提督・参謀たちの姿が映っていた。だが、彼らの口から出る音は、いまも『逡巡』と『自重』と『警戒』の三語を螺旋のように回遊するだけだった。
そんな言葉が彼等の口から出る理由は近藤には嫌になるほどわかっていた。彼等の第二次遼州大戦で行ったことと言えば『転進』という名の撤退戦で、しかも近藤達司令部の予想した損害をはるかに上回る回復不能な敗戦を繰り返すだけの無能な将。近藤もこんなあてにならない味方しかいないのかと敗戦ばかりの先の大戦に遭って勝利の栄冠を得て新聞にその名をとどろかせた猛将や元エースたちがすべて自分の意図する『伝統を重んずる甲武』という理想にあからさまな敵意を見せる現状を近藤も認めざるを得なかった。
……弱い。あまりに弱い。近藤には将たちの心の奥底に眠る『弱さ』に思わず目をそむけたくなる想いだった。彼等の残した敗戦の記録ばかりではない、その後も彼等は敗戦を続けてきた。平時においても、8年前のその状況を覆す機会である内戦においても彼等は敗戦を続けてその心まで負け犬の根性が染みついているのはモニター画面を通しても近藤でも嫌というほどわかった。
8年前、遼州星系内部のかつての戦勝国への賠償金の財源をめぐり貴族への課税強化と士族が多くを占める軍の縮小を主張する時の政府の方針をめぐりそれを支持する平民の支持を集める西園寺義基が率いる『民派』と、あくまで貴族と士族の特権を維持し平等な負担によりその危機を切り抜けようと主張する『官派』の戦い。あのとき本気で現在の骨抜きにされた身分制度の現状への道を見抜くことができず、まとまりを欠いた『官派』の敗北を招いた背を預けられなかった弱さは、まだ彼らの骨から抜けていない。
彼等は身分ゆえにその地位に就けただけの無能の将でしかない。ただ、この国がこの国たり得ると近藤が考える『伝統』を尊重すれば彼等が将である事実を否定することはできない。それを否定すれば近藤が何より許せない平民出身の第六艦隊提督の本間のような『悪しき前例』を繰り返すことになる。甲武の伝統は『絶対的身分制度』と『平民の政府への絶対的忠誠心』にこそあると考える近藤には目の前の頼るに値しない将軍を頼るしかない自分の境遇は嗤うべきものかもしれないと考えていた。
早速、その一人の中将が近藤に向けて顔をあげた。彼が地球降下作戦時にはそもそも降下作戦の意味自体を理解せずに、南米アマゾン砂漠への効果のタイミングを誤った故に降下部隊を地上にたどり着く前に全滅させたことを思い出していた。
『近藤君。君が言っていることは分かる。私としても今の西園寺内閣の『同盟協調主義』という姿勢には義憤を感じるものの一人だ。その為にこの国の『伝統』であり、『国家の本質』である身分制度を平然と破壊して見せる今の政府のやり方は言語道断だ。身分が低いのはそのような生まれを持った運命を呪うべきだ。生まれが違えば環境が違う。そんな事も理解できない今の政府はどこかおかしいのは当たり前だ。我々は平民共に比べれば豊かかも知れないがそれに見合う責務をこの国に負っている。無責任に風に吹かれる葦のように開戦に流れれば開戦を支持し、それが負ける噂が流れればそれを支持した責任も取らずに被害者面をしている平民共にこれ以上大きな顔をされるいわれはないのは君の言う通りだ。だからこうして君の非公然組織にも助力してきた。しかし……今は……少し分が悪く無いかね……相手はあの『東和共和国』にある『特殊な部隊』の連中だ。その中心にはあの『悪内府』、嵯峨惟基が居る。今からでも遅くはない。考え直すことは出来ないだろうか?』
モニターの片隅、白鬚の陸軍大将が眼鏡の縁を指で押し上げ、髯を撫でる。
応接椅子の革が彼の体重移動に合わせてミシと鳴った。
『そうだとも!我々はここまで同志達の活動で静かに支持を広げて来たのだ!悪いことは言わん、これはあの『悪内府』の罠だ。宰相、西園寺義基と、あの義弟、嵯峨惟基陸軍少将や、その手先の政治家や幕僚達の罠なんだ!特に嵯峨は今は『東和共和国』にその本拠を置いている。これは何かあると考えるのが私の考えだがいかがだろうか?一国平和主義をこの400年間守って来た国に本拠を置いた理由は何かあるはずだ!そこからわざわざたった一隻の巡洋艦で君達と戦おうというのには理由があると考えるのが自然だ。今は自重した方が良い!今は雌伏の時!半年後には庶民院の総選挙がある!今の経済がどうしようもない状況下では我々に協力的な企業経営をする平民達の協力を得られることは確実だ!平民は所詮平民。金がすべての連中だ。経済が上手くいかなければ我々にい従うことに何の疑問も持たない。愚かな平民の自滅を待つ。それが今の我々の取るべき道では無いのかな?』
別の窓で、政戦両略に通じた老参謀が、言葉の最後だけわずかに上ずらせる。『嵯峨惟基』という音の列に触れるたび、視線が泳ぐ。
近藤は、膝上で組んだ両手の親指を一度だけ擦り合わせ、表情筋をゆっくりと持ち上げた。薄笑い……だが、怒りが笑みに紛れないよう、喉の奥で一度噛み殺す。
「生きるに足りない平民の自滅を待つ?ならばあなたの達の特権で彼等の資産を没収すれば済むことです。でも、あなた達はそれをしない……貴族や士族には平民の資材を没収する権限があるというのにそれを行使しない……その時点であなた達は自分がいかにあの兄弟をいかに恐れているかを自白しているようなものですよ。皆さんはご自分がこれまでなさってきたことが、『何のため』かお忘れのようですね。西園寺義基首相の明らかに貴族の国家支配の象徴である枢密院を無視した強引なやり口を続けてきたのはご存じですよね?特に海軍ではあの憎らしい兄弟のシンパが大きな顔で歩き回っている。陸軍は『官派決起』のトラウマから西園寺政権の軍縮政策に抵抗すら示せないでいる。あの兄弟への恨み……お忘れになったわけではないでしょう?陸軍大臣に嵯峨家の支柱である醍醐の起用を許した……あの男が戦闘指揮官としては優秀なのは事実ですが、その染まっている思想に問題があると私は言いたいんですよ」
近藤の醍醐中将の陸軍大臣就任を許したという言葉に将軍たちはようやく反応を示した。西園寺内閣成立後4年。その間、ひたすら自分達『官派』の牙城の自覚を持つ甲武陸軍は宰相西園寺義基の陸軍大臣への自分への理解者である猛将醍醐中将をその20年前の実績を引っ提げて陸軍に迫ってきた。陸軍はひたすら抵抗を続けたが、近藤の目の前に映る『官派』の将軍たちの中には醍醐の代わりと称して陸軍が政府に任命を依頼した陸軍大臣もいた。彼等はあまりの無能さゆえにすぐにスキャンダルを西園寺義基に指摘されて大臣の地位を追われた。そんな頼りにするに値しない人間しかもはや『官派』には残っていないのかという絶望感が近藤の心を重くした。それでも自分だけは『伝統』を重んじ『身分』を絶対と考えることでのみ甲武の甲武たるゆえんであると考える人間でありたい。その一心が近藤をより雄弁にした。
「あなた達武家貴族出身の最高指導者の方々には分からない話かもしれませんが、司令部を追われ、特殊作戦局を追われてこの辺境にたどり着いた私はよりその『官派』の気高い意志の正しさを身にしみて感じました。私はこの艦の乗組員の士族達にその窮状を聞いている……あるものは娘を売り、あるものは家名そのものを売り払って、息子は平民として名字を失うことになるという……貴族は臣を支える禄を得て責を担ってこそ貴族。士族は死しても名を守り主君と国を守ってこそ士族。その二つのこの国がこの国たり得ている要素を押しつぶそうとするあの兄弟を許せとあなた方はおっしゃりたいわけですか?あなた達もこんな辺境での勤務を経験すれば嫌でも分かる!この国の『伝統』は今や崩壊の危機に瀕している!絶対的身分制と政府に対する平民達の絶対的忠誠!これなくしてこの国は成り立たない!その事実を私はこの5か月の勤務で目の当たりにしました」
近藤の語尾には実体験に基づいた強勢があった。狭い艦内の通路をすれ違うたびに、士族の若者たちは『伝統』を信じた眼をしている。それを裏切るのは、自分にはできない。
所詮は将軍の椅子で『民派』の勢力拡大の影響をまるで受けていない上流武家貴族の士官達との会話しかしたことが無い同志達の返事は、沈黙と、うなずきだけだった。
……そうだ、思い出せ。8年前の『民派』の戦い慣れた軍との戦いで絶対的な勝利が確信された状況が瞬時に覆る恐怖に軛を付けたまま、今を選ぶのか?今なら間に合うのだ……今なら。
近藤は、机端に置いた白磁の湯飲みを、あえて取らない。喉は乾いている。だが、唇を湿らす弱さを、今は見せられない。
「国家の根幹を揺るがし、混迷を招いた卑しい平民共に選挙権を与えるなどと言うたわごとを叫ぶ愚行を見てください。軍の士気低下を招いた士族の恩位による将校、官僚への登用制度の廃止を思い出してください。枢密院の権限を奪い取って、身の程を知らず喜んでいる平民達の人気取りに躍起になる庶民院の決議権の優先を選んだ哀れな連中ですよ。どれも甲武国の誇りある体制と姿勢をなし崩しにして一弱小国家に貶めた許しがたい所業ばかりです!甲武の『伝統』に基づく平安はその身分制度にこそある。この400年間それに何度となく口出ししようとしてきた地球圏や遼州圏内の敵対国家に対して我が国が独立を守り続けた理由を連中はあっさり捨てて見せろと言っている。その事実を認めようとしないあの兄弟に憤りを感じないのですか?あなた方は」
拳が上がる。
コン……机面に中指の第二関節が触れ、乾いた音が鳴った。
将・提督たちは言葉を飲み込み、画面の中で視線を落とす。
近藤は見下ろす。
『そうだ、俯け。覚えていろ。お前たちの逡巡が、何を失わせてきたか……貴様たちを見ていると西園寺兄弟がなぜ身分制度をあれほど憎むかよくわかる……だが、俺にはそれを殿上貴族に生まれてただ気に入らないという理由だけで消し去って見せるアイツ等のように否定することはできない……俺は下級士族に過ぎない……ただその『士族』であること以外に俺の頼るべき寄る辺はないんだ……そしてこの艦の多くの軍人は同じ境遇にある……あなた達貴族の位を失っても、将軍の地位を失っても食べるに困らない人間とは根本的に違うんだ……我々には『士族』という地位以外に何一つあてにするところは無いのだから……』
目の前でまるで近藤の演説を三文芝居を鑑賞する余裕のあるお大尽のような視線しか向けない同志達への憤りの言葉をなんとか飲み込んだ。
「これまで我々は、あまりにも卑屈でした。思えば『官派の乱』と連中が呼んでいる、陸軍の同志達の倒閣運動。あなた達はこの出来事を『過激派の暴挙』と呼んで、この戦いに敗れた同志達を見殺しにした。そんなに手持ちの軍を失うのが惜しいのですか?それとも西園寺兄弟とそのシンパの将軍たちの勇名が気になるのですか?身分制度維持の為にはあの戦いで『官派』志士たちの勝利が必要だった。ですが彼等の予言した、我々貴族や士族の没落は、そのときには始まっていたことくらい、今になればあなた達にもお分かりになるんじゃないですか?甲武国の貴族、士族、平民の身分制度の維持を望むあなた達にとってあの時点で我々の大きな敗北は予想されていた事実ですよ……それを覆すには多少の無理をしなくてはならない……違いますか?それが今なんですよ……そんなこともお分かりにならないと?」
8年前……『官派の乱』。
街路に散った肩章、破られた軍旗、拘束車に押し込まれる士族の若者。
近藤は、当時東和への搾取ルート構築の任にあり、正面に立てなかった己をも腹の底で噛み砕いた。
『あのとき俺も間に合わなかった……だから、今回は俺が前へ出る。確かに西園寺が国会に提出する噂のある貴族に特権的に与えられている国家に代行して徴税を行う権利の剥奪の案……あれが国会を通ればこの国は終わる。この国の『伝統美』は消え、ただの貧しい元地球人が住む遼州人の国である経済大国東和共和国の劣化コピーに成り下がる……この無能な武家貴族達はそれを許せというのか?』
角刈りの将官が渋く言い、唇の両端を引き結ぶ。彼等にはそれでいいのかもしれないが近藤にはそれでは甲武は甲武である意味がなくなる。少なくとも近藤の目には、そうとしか映らなかった。
近藤は素早く一度うなずき、相手の言葉に自分の速度を重ねた。
「そうですよ……あの兄弟はじりじりと貴族と士族の生きる道を閉ざしつつある。それに気付かなかった我々は西園寺兄弟の罠にまんまとはまり込んだ。その結果が平民が我々と同じ顔をして歩き回る今の貴族や士族の没落ですよ。どんなに卑しい平民でも金さえあれば枢密院議員の職が買える。それがこの国の現実なんです。だが、今なら取り返すことができる。ここで私が同盟の無能を証明して見せ、その事で同盟融和主義の無意味さを平民共に思い知らせれば、考えるということをしない無責任な平民達はその怒りの矛先を今の内閣に向けることは間違いない。所詮、生まれの卑しい大衆なんて言うものはそう言うもの。大衆とはすなわち平民。彼等に権利が無いのはその為なんですから。幸い、嵯峨惟基少将はもはや中途半端な司法局実働部隊で隊長ごっこの最中です。その実力などたかが知れている……」
机を叩いた。
指先が痺れる。血が指節に集まる鼓動が、小さく、しかしはっきりと跳ねる。
憎悪は熱だ。熱は判断を曇らせる。
『抑えろ。熱は言葉に乗せ、刃は冷やして抜け』
近藤は自分自身にそう言い聞かせた。
『中途半端と言うが君!嵯峨君にはそれだけの実績がある!『遼南内戦』ではあの男がいなければ『遼南共和国』は滅びなかった!遼州内戦での『人類最強』と呼ばれたクバルカ・ラン率いる『遼南共和国』軍をいともたやすく破ったあの指揮能力。舐めるわけにはいかん!』
恐らく嵯峨の近藤の評価に関して意見の一つも行って来るだろうと予想していた参謀部長の言葉は近藤の予想の域を出るものでは無かった。
近藤は背もたれにいったん深く預け、呼気を一つ長く吐く。心拍を二拍落としてから、音の調子を平坦に戻した。
「それは相手が状況を生かしきれていない有象無象だったからですよ。クバルカ・ランが『人類最強』?所詮は一パイロットですよ。指揮能力などたかが知れています。私だって先の大戦では総司令部に奉職し、その後も作戦本部に長年勤めて、嵯峨惟基少将と言う男の得意とする戦術は理解しているつもりです。彼は直接大部隊を指揮して実戦で勝利した経験が、『ほとんど』無い。当然、彼を入れる為の『檻』として作られた部隊はその規模を超えるはずが無い。今の司法局実働部隊が巡洋艦級の一隻の運用艦と一個小隊のシュツルム・パンツァー部隊しか持たなかったことでも分かる。だがそこに付け入る隙はある……戦争は数だ……あなた達が我々総司令部に何度となく連絡してきた内容はそう言うものでは無かったのですか?もしそれが事実でないのなら第二次遼州大戦で甲武は戦勝国になっていた……違いますか?」
近藤の説明は『戦術図』のように。余白を恐れず、焦点は一点に集中していた。
画面の向こうで、眉が一つ、また一つとほどけていく。
『……乗ってこい。俺の速度に合わせろ。合わせたやつから同志だ』
将軍たちの心は近藤には手に取るようにわかった。要するに自分は勝てばいい。そうすればすべては思う方向に進む。その確信が近藤の口元に笑みを作った。
「強力な敵には迂回し、その力が最小となった時点での奇襲による一撃。これで勝負をつけるのが嵯峨少将のやり方だ。それならばそれを逆手にとって最初からこちらも戦力を拡散し、相手が懐に飛び込むのを待つ……私がその囮を務めようという話です。ただ囮にしては私の戦力は嵯峨のそれに比べて圧倒的すぎる戦力を持っていると言う自負は有りますがね……もしかしたら我々だけで嵯峨の首を落としてしまうかもしれないか心配なくらいだ……」
囮。
言葉に自嘲は混ぜない。混ぜれば、すぐに匂いで伝わる。
『あの男の背後には遼帝国がある……そして甲武でも『民派』の牙城である甲武海軍がある……そうなればどうなるかなんてことは俺も十分計算済みなんだ……俺は囮で構わん。勝つ囮であればいい。戦争は勝ったものが正義……敗者であるここにいる全員がその事実を身にしみて感じているはずだ』
近藤のその確たる意思は同志達を動かしつつあった。
『そうは言うが……君は囮になって嵯峨君を引き付けた上で長期戦に持ち込んで勝利を収めたとして、そこには我々の決起を期待していると考えるべきなのかね?』
これまで沈黙を守っていた艦隊司令の海軍少将がそうつぶやいた。その男が近藤が有象無象しか集まらないと思っていたこの秘密裏の会合に出てくるのが不思議な人物だっただけに近藤は歓喜して言葉を速めた。
「――あの兄弟の事を許せないのはあなたも私と同じ気持ちだと思うのですが……状況は我々の絶対的有利……あなた方はこの状況を見逃せますか?」
挑発するような近藤の言葉に将軍たちは一様に笑みを浮かべていた。
『確かにあの二人は許すわけにはいかん!出来るだけ時間を稼いでくれ。そうすれば我々も動くことが出来るようになる』
別の老提督の声に、遠い金属疲労のきしみが混じった。
近藤は、笑みを薄めずに、奥歯で噛む。
『今更、時間を稼げ、だと?8年前からずっと稼ぎ続けてきた『時間』の末に、何が残った?あなた方は絶対に勝てると理解できない限り動かない。俺もそのことはこの8年で十分学んだ……もうたくさんだ』
心の奥で近藤の脳裏にはそんな言葉を吐きたい欲求が生まれるがその言葉がすべてを台無しにすることは分かり切っていたので断腸の思いでその言葉を飲み込んだ。
『こうしてみると弱気が過ぎますよ、貴方方は。この戦力差……負ける要素が無い。あなた達の決起の決断を誘う時間は十分にある……時間を稼げ?そんなことを考える必要も無い。瞬時に嵯峨の部隊など蹴散らして見せる!』
自らの言葉で、自らの血を温める。
『いい、恐怖は理解する。だが、恐怖を錘にすれば前には進めない。俺は恐怖を柄にして刃を握る。その刃が斬るものは……西園寺兄弟の首だ』
決意込めた強い意志が近藤の目にたぎった。
「つまり、嵯峨惟基少将には、私の描いたシナリオに完全に乗ってもらうわけですよ。分かりますか?とりあえず私の艦隊が独自に決起する。私の少ない手持ちの艦隊が嵯峨の弱小に過ぎる部隊と互角にやりあえるとなれば状況は変わる。冷めやすい平民達に見放された『民派』の枷が外れて皆さんも自由に動けるようになる……違いますか?それこそがあなたたちの望んだ状況ですよね?そうでなければ私と連絡を取ろうなどと考えるわけがない」
画面の向こうの顔……当惑、計算、打算。
『同じ理想を掲げていながら、心のどこかで『8年前の敗北』の影を撫でている。見えるぞ。その影の形が!こいつ等が同志とは……あなた達の決起を待っていては……俺はもう待てない!この艦の士官の士族達の娘が岡場所の女郎屋に売られていく様をあなた達は見た事が有るんですか?士族の株を平民に売って生活を維持している下級士族の哀しみがあなた達武家貴族には分かるのですか?そんな下級士族の置かれた切羽詰まった状況をあなた達は見逃せというのですか?私にはそんなことは出来ない!断じて許すことは出来ないんだ!』
心の中で、言葉は灰皿のように熱を持ち、火のついたままの端紙をいくつも受け止める。近藤の覚悟は決まっていた。例え同志が何を言おうがすでにその心は決まっていた。
『分かった。好きにしたまえ。しかし我々のこうした接触は……』
日和る声。
近藤は、声に笑みをかぶせる。
「こんな会合は無かった。それでよろしいんですね?勝利は決まっていると言うのに……ずいぶんと弱気な方だ」
……何度この文句を言って、相手の顔色を変えさせてきたか。
何度、喉に刺さる棘を、笑みで包んで飲み込んできたか。
『そうだ!健闘を祈る!』
通信窓が一つ、また一つと消えていく。
室内は静かになり、艦の心臓が遠くでとく、とくと脈打つ音だけが残る。
近藤は、暴発しかける怒りを、椅子の背に深く沈めて押しとどめた。
掌を開き、親指で感情の皺を丁寧に伸ばす。
呼吸を整え、視線を窓へ。……外。
デブリ帯の遠景に、演習地帯の標識灯が微かな等明滅で『そこに居る』ことだけを知らせている。
「いよいよですか?」
背後から、旗艦『那珂』艦長の低い声が響いた。
気遣いで湿らせた声帯。軍人の声に、人の温度。心許せる同志の声は近藤にはいつも暖かく聞こえる。
近藤は、立ち上がる。軍靴の踵が床に触れ、コと短い音が響いた。
窓越しの虚空に向け、言葉が自然と強くなる。
「今だ……今しかないんだ。国を憂える誰かが立たねばならんのだ。生きていくための士族や貴族の特権を奪われて、誇りを捨てて死を待つのか!『伝統』を失った国家に何の価値がある!あなた方は!なぜその決まりきった結果が理解できない!しかも、今なら、こちらには100機以上のシュツルム・パンツァーがある! 相手はたった4機だ。負けるはずがない!」
声は、私室の壁で跳ね返り、近藤自身の胸板にも返ってくる。
『負けない。負けさせない。数字だけじゃない。8年前の『借り』を返すのだ』
戦場に立てなかった悔い、その想いだけが今の近藤を突き動かしていた。
「心中お察しします」
艦長の丁寧な一礼。
近藤は首だけで応じ、視線を外へ戻す。
『ここで我々は勝たねばならない。そうしなければ……甲武は『終わる』』
内心で呟くと、艦長が差し出した司法局実働部隊・演習要綱の写しを片手で受け取り、もう片手でページを繰る。
紙の端が指腹にサリと触れる。軍用紙のざらりとした感触。
『嵯峨……お前は『檻』の中で遊ぶがいい。今回は、こちらが檻の形を決める。楽しみだろ?』
近藤は自分がこの戦いの主役であるという自負と優越感に浸っていた。
「私が甲武国海軍に奉職して以来、最大の賭けだ。これだけは勝たねばならない」
独白は、誰に聞かせるでもない。
ただ、言葉にすることで、決意の形を固定する。
そして近藤は、知らない。
この通話の始まりから終わりまでが、西園寺義基の妻……『甲武の鬼姫』西園寺康子に、綺麗に、端から端まで傍受されていたことを。
『また一人、『恐怖で臆病な『サムライ』に戦国の血を思い起こさせることを訴える者』が現れたわね……そんなの今では流行らないって言うのにね』
ここは西園寺御所の『甲武の鬼姫』と恐れられる女性にしてかなめの母、西園寺康子は静かにモニターを見ながら静かな笑みを浮かべていた。
夫と同じ70を過ぎる年齢だというのにその豪華絢爛な刺繍の施された和服に身を包んだその姿は、どう見ても彼女にとっての『どうしよも無い娘』のかなめと同じぐらいにしか見えない。
「そうですね……近藤中佐も……この程度の簡単な枝に気付かないとは相当に焦っているのかと……」
端末を操作していた地味な江戸小紋を着たお付きの女官はそう言うとキーボードを叩いて画面を閉じた。
「さあて、この中の将軍の誰が最初に私に告げ口をしてくるか……そこが興味深いわね……近藤さん……道連れは少ない方が心が痛まないものよ……私もよく分かってるから……恐怖は人の心の錘になる……この国の男達は何度同じことをすればその頃が理解できるのかしら?」
そう言って笑う康子の残忍な勝利の確信を持った笑みを見たならば、近藤も決起を断念したかもしれない。
そして8年前、彼女が『恐怖を錘にする者』の甘さをどう扱ってきたかを思い出してカーンが根城としているアステロイドベルトへの亡命の準備を始めていただろう。
……そのことが、自身の運命の針をどちらへ倒すのか、今の近藤には知る由もなかった。
外で、微細破片が艦腹をチリ…と撫でた。
戦い前の夜は、異様に静かだ。




