第51話 『汗血馬の騎手』、カウンターに座す
「じゃあ、行くか。ああ、アンタか。じゃあアタシがタクシーに乗るってことは……豊川稲荷前までってことも分かるわけだな。いつもの店だ。やってくれ」
本部棟の庇の下。夕方の湿った風が、制服の袖口にすうっと入り込んでくる。横付けされたタクシーのドアが軽く鳴り、誠は助手席、ランは後部座席へ乗り込んだ。
小雨に濡れたアスファルトの匂いと、車内のバニラ系芳香剤が混じり合い、運転手がルームミラー越しに目尻を下げた。
ランは馴染みの運転手に行き先を告げる。アクセルが柔らかく踏まれ、工場のゲートが後方に流れていく。
乗り物に乗ると『もんじゃ焼き製造マシン』と呼ばれる乗り物酔い体質を発揮する上に元々母親には『タクシーはお金持ちの乗り物』と躾けられた誠はテレビタレントがタクシー運転手の文句を言う場面をテレビのバラエティー番組で見るくらいしかタクシー運転手という人達についての知識は無かったが、少なくともこのランとは知り合いらしいタクシー運転手は極めて紳士的で笑顔を浮かべるばかりで特に何かを言うわけではなく、運転しながら時折誠達をバックミラー越しに見つめているだけで特に何かを話しかけるという様子はなかった。
「回らない寿司って……僕は初めてなんですよ。うちは高校に受かった時と父が剣道の六段に上った時にお祝いで出前を取ったことがあるくらいなので。……チェーン店の回転寿司は大学の友達とかも時間が無い時に行きましたけど……本当にいいんですか?」
誠は振り返り、後部座席で腕組みするランに笑顔を向ける。誠の着ているTシャツの肩に残った雨粒が一つ、二つ、誠の自慢の熱い胸板へと滑り落ちた。
「まー食い物に拘らない一般家庭ならそんなもんじゃねーのか?ただ、アタシは一人もんだし、住まいも金がかからない境遇でね。食うもんには好きなだけ金をかけられるから。趣味の将棋は金のかからねえ趣味だし、もう一つの趣味のカラオケはアタシの歌う歌は古くて聞いてらんねーとか西園寺の馬鹿が抜かすから月に一度一人で出かけるんだが……最近の通信カラオケはアタシへの嫌味のつもりかアタシの歌える歌を全部消しやがるんだ。なんでも歌う人がいないとかカウラまでひでーことを言いやがる。アレは昭和の名曲だぞ!古賀メロディーこそが真の歌だ!それ以外はアタシは認めねー!まあ、そんなだから食い物に金はいくらでもかけられる境遇なんだわ。それにあそこにネタを卸すルートを教えてやった恩もあるって大将が言うもんだから良いもんを出してくれるからアタシとしてもあそこに行かねーわけにはいかねーんだ。神前よ、人間は『義理』と『人情』の間で悩んでこその人生だ。それ以外の事は全部お釈迦様が否定する煩悩だ。そんなものを考えている人間は今すぐ死んで全員地獄に落ちればいいんだ……まあ、そんなアタシの個人的人生論はどうでもいいか……こうして時々あの店に行く……それがアタシの日常……オメーがアタシが与えた終業後4時間の筋トレをしていた後にアタシがしていたことだ」
ちっちゃい上司の口調は軽い。けれど『卸すルート』という語に誠は少し違和感を感じた。
車は産業道路を突き当たり、駅前ロータリーの灯りがフロントガラスいっぱいに滲む。ワイパーが一往復するたび、街の輪郭がくっきり戻った。
「クバルカ中佐の発想がぶっ飛んでることはもうすでに僕も理解しているからどうでもいいんですけど、その最上級の寿司屋にネタを卸すルートって……普通は市場で仕入れるんじゃないんですか?いくら食通のクバルカ中佐でも市場に行く時間までは……そこまでやったらもう軍人やめて料理評論家にでも転職した方がいいですよ」
誠は『特殊な部隊』の女性にまともな神経の持主は一人もいないことは理解していたので苦笑い交じりにそう言った。機動部隊の詰め所の面々でも、かなめは銃器評論家として本を出せるくらいの銃に関する知識の持ち合わせはあるし、カウラは最近ラジオで誠も聞いた『パチンコアイドル』として十分やって行けるだけのルックスとパチンコ知識の持ち合わせもある。これでランも『34歳にして見た目が8歳女児にしか見えない料理評論家』として十分やっていけるとなれば彼女達にはただ機動部隊で時間繋ぎの『暇つぶし』にしか見えない事務仕事しかしていない現状よりもよっぽど生産的だと誠には思えるようになっていた。
「オメーは分かってねーな。食の道はもっと高く険しいもんなんだ。テレビの食通タレントは大概、デビューした時はお笑いとかアイドルとかである程度知名度があったから今は食を極めて差別化して長年テレビの露出度を維持してるんだ。オメーは本当に何にも考えねーでただテレビを見てたってことだな。もっと勉強しな!そーすりゃ世の中の仕組みがよく見えるようになる。その『世の中の仕組み』の隙をついて大暴れする連中をどうにかするのもアタシ等『武装警察』のお仕事なんだ。頼むから勉強してくれ。まあ、オメーの気にしている仕入れルートの件だが、アタシの知り合い……というか部下に新鮮なネタを安く仕入れる『漁協みたいな連中』が居てな。そいつ等はそいつ等で釣った魚の販売ルートに困ってたから。いわゆる『ウィン・ウィン』の関係って奴だ……連中もたまには魚以外のものを食べたいとか言いやがるんだ。あんなに魚が好きなんだろ?魚だけ食って生きてりゃいーのに……贅沢な奴だ」
ランは、窓に映る自分の小さな横顔を一瞬だけ横目に見て、にっと笑う。
「魚しか食べない人間って……米とか野菜とかも食べないと人は死にますよ。それと今『アタシの部下』とか言いましたね?うちには別動隊とかあってそこでは魚しか食べられない環境で戦い続けなければいけないような環境に置かれているんですか?それもう、パワハラと言うか犯罪ですよね?強制労働ですよね?国際機関である同盟機構の直属機関の司法局の一部局がそんなことをして誰も何も言わないんですか?」
そんな誠の妄言とは関係ないとでもいうようにやがて車は、磨き込まれた木製の引き戸と、控えめな行灯が出迎える店先へ滑り込んだ。
「着いたぞ。それと連中は好きでそんな境遇を志願したんだ。止めてもアイツ等はそんな生活を続けるだろーよ」
ランがポシェットから財布を出し、カードで素早く精算。誠は頭を下げ、助手席から降りる。暖簾の端が、わずかな夜風にかすかに揺れた。
「どーした。行くぞ」
尻を軽く叩かれ、誠は頷いて後に続く。引き戸の向こうには、檜のカウンターと、濡れ布巾で拭きたての香り。
板場の向こうで、白衣の男が包丁の峰で砧板を一度、軽く叩いた。
「いらっしゃい!ああ、これは中佐。お世話になってます」
年輪の刻まれた笑顔。大将の声は、湯気のように柔らかい。誠はランの隣、カウンター中央に腰を落ち着けた。背後で椅子の脚が畳を擦る音。場が整う。
「大将、こいつが今度来た期待の新人だ。これからも世話になるかも知れねーから連れてきた……コイツは寿司という物が分かってねーみたいなんだ。大将、なんとかしてやってくれよ」
若い板前からおしぼりを受け取りつつ、ランが紹介する。誠は丁寧に手を拭い、指先の水気を一拍置いてから膝へ。所作の教科書は目の前の中佐だ。
「中佐はまあ、自分も一工夫なしじゃあ納得してくれない粋を極めたお方だからねえ……そんな人から見たらこの東和に食い物の分かる人間なんて一人もいないことになるし、そうなったらこの店も潰れてしまいますよ。それより、お兄さんは大柄だからねえ……食うんでしょ?結構」
真っ直ぐな視線に射抜かれて、誠は苦笑いで返すしかない。
ランの声が、すぐ横から、いつもの調子で落ちてくる。
「まーこいつはまだまだ半人前だからな。まず、ちらしを作ってやってくれ。まずはそこからだ」
「え?」
誠の想像の中の『回らない寿司』は、艶やかな握りが一貫ずつ置かれていく光景だった。
それが母が良く実家でも作ってくれたちらし寿司……がっかり、とまでは言わない。けれど、胸の中に小石が一つ、ころんと落ちる。
「分かりやした!で、中佐は?」
大将はまるでボクシングの挑戦者のような試されるものの視線で鋭い視線で店内を見回すランにそう声をかけた。
「アタシは……まずは刺身で行こーか。今日は何が入ってるんだ?」
ランの言葉は気楽だが、大将には明らかに試されているものがそれに応えられる確信を持っている時の笑みが浮かんでいる。ちらし寿司でがっかりしている誠の前では食の真剣勝負が繰り広げられていると誠は理解した。
「スズキが良いのが入ってますよ。それに今日は特別に良いハガツオも……ハガツオは足が速いですから。今が一番でしょう。中佐、今日来てよかったと今度こそ言わせて見せますよ」
勝ち誇ったように言う大将の笑顔にランもまた何もかも知り尽くしたような笑みが浮かべていた。ただ、それが8歳幼女の顔に浮かんでいることが誠にはあまりにもシュールに見えた。
「じゃあ、それを頼むわ。それといつもの辛口を冷で。スズキは白身、ハガツオは赤身。だったらどっちにも合うとなるとあれしかねーのは大将の言うとーりだ。あと、こいつにはビールを頼むわ。コイツは日本酒の良さが分かるほど味の分かる人間じゃねーことは分かってるから」
酒器の白磁が、カン、と小さく鳴る。
誠は、ランのためらいのない発注に、少し背筋が伸びるのを覚えた。上級者は、まず『今日いちばん』から始めるのだ。
「そう言えば、お兄さん……いい体格してるけど……何かスポーツとかやってたのかな?」
大将は隣客の甘えびをさばきながら、会話の包丁も軽く走らせる。
「ええ、まあ……野球は高校までやってました。剣道は……小学校の低学年くらいまでですけど」
自信無げにつぶやく誠は刺身を並べている大将に向けてそう言った。
「え?大学とかでもやってたように見えるけど……辞めちゃったの?もったいないなあ」
そこで、誠の喉が少し詰まる。
ランが、盃を軽く持ち上げながら助け舟を出す。
「まー、肩をやっちゃったんだと。それからは遊びでやる程度ってところなんだろ?」
「そうか……残念だね……でも、あの西園寺のお嬢様は野球好きだからね。お兄さんもやるんだろ?」
「ええ、まあ。硬式は無理ですけど軟球なら大丈夫みたいですし……」
「軟式と硬式ってそんなに違うんだ」
包丁の切っ先が、まな板の目を丁寧になぞる。
そこへ、銅の盆に乗った中ジョッキがやってくる。ガラスの外側に細かな水滴。喉ぼとけが自然に動く。
「こいつはサウスポーだからな。西園寺の馬鹿も相当気に入ってるみてーだな。名誉監督としてはうれしい限りだ」
どう見ても8歳児の体躯で、冷酒をちびちびやるラン……そのシュールさに、誠の頬が緩む。
ちょうどその時、気になっていたことを口にした。
「でも……なんで今日は寿司なんです?」
「あれだ……気が向いた……ってのは半分は本当。でもそれ以上にうちに残るって言うオメーの気が変わったんじゃねーかと思ってな……今回の演習の件もある」
「はい、ちらしお待ち!」
木の香りとともに、大盛ちらしがふわりと置かれた。
艶やかな赤身、光りのある白身、ほぐした身の影、錦糸卵の黄色、刻み海苔の黒……彩りの粒が、碗の中で静かな地図を描く。
「おっきいですね……」
誠にはまずそのことが気になった。確かに大食漢の誠なら楽に食べられるほどの大きさだが、それにしても回転ずしのメニュー表のちらし寿司とはかけ離れた大きさの丼がそこに置かれていた。
「問題は量じゃねーんだよ。食ってみろよ」
誠は箸先で赤身とシャリをそっと掬い、口へ運んだ。
米粒が、体温でほどける。酢が立ちすぎず、甘みが舌の奥で追いかけてくる。ネタの温度が常温に近いから、香りが立つ。……頭の後ろがびりっとした。
「え?……旨い」
母のちらし寿司の面影は、いい意味で『別物』になった。誠は思わず、次の一口までの間隔をほんの少しだけ伸ばした。噛むたびに『もったいない』が強くなる。
魚の生臭さは影もなく、シャリの一粒一粒がたしかな意思をもって舌にほどける。
「そりゃーそーだ。寿司屋なんだから……アタシの部下に手を抜くような大将じゃねーよ。安心しな。これがこの店の本気だ」
ランは白身をひと切れ、酒を一口。盃を置く角度が無駄なく美しい。
「でも……本当に美味しいです!ありがとうございます!」
誠は、ガツガツ……ではなく、一口一口リズムよく食べ進める。食べ盛りの速度で、上級者の所作を真似しながら。
「そのー、なんだ。喜んでいるところなんだけどよ」
盃がカウンターに、静かに戻る。板場のざわめきが、半歩だけ遠のいた気がした。
「なんです?」
「オメーには詫びなきゃなんねーことがあるんだ」
ランの言葉は急にこれまでの楽しそうな雰囲気から急にどこか陰を帯びたものに変わった。誠もその口調の変化に気付いてランの小さなお猪口で酒を飲む背中を見つめる。
「僕を『特殊な部隊』に引き込んだことですか?その事ならもういいですよ……諦めは付いてます」
誠はどんぶりを置き、ランの瞳を見た。小さな顔の奥に、硬い重石が一つ、沈んでいる。
「それもある……ていうかそれが原因でお前はひでーことをさせられることになる……これは半分はあの『駄目人間』の責任だが、それを直接しろと命じるのはアタシだ……許してくれ」
苦悩の果てに吐かれた悲しみに満ちた口調がランの言葉の上に乗っていた。
「ひどいこと?今回の演習で……どんなことをさせられるんです……『戦争』をさせられるってことですか?」
誠は半分以上食べ終えていたちらしずしの最後の鯛の切り身を口に運びながらそう言った。
「そーだ。オメーはその力で人を殺す……アタシが殺させる……すまねー」
板場の空気が、薄く張る。酒の香りの奥で、金属の匂いが一瞬、した気がした。
誠は茫然と、ランの小さな体を見つめる。胸の内側で、ビールの泡がぱちんと弾けて消えた。
「やっぱり、今回の演習は実戦になるんですね……『戦争』なんですね……」
声の端がわずかに震えた。
ランは、逃げずに続ける。
「そー言うこった。間違いなく実戦になる……そうなることをアタシも隊長も望んでいる……いけねーことだと分かってる。そうあっちゃ困ることも、オメーに人殺しをさせることになるのも分かる……でも、アタシ達の本当の目的のためには仕方ねーことなんだ。許してくれ……これは必要なこと……本来無けりゃあいーことなんだが、そーは行かねーのが世の中だ。そのくらいのこと……分かってんだろ?」
小さな頭が、深く下がる。盃の中の酒面がわずかに揺れ、光が崩れた。
「僕は……軍人です。軍人は戦争で人を殺すかもしれない職業です。その覚悟くらい……」
誠はどんぶりの底に残ったイクラのかけらと混じった酢飯を掻きこみながらそう言った。
「いや、出来てねーな。オメーの言うのは言葉だけの上っ面だ。アタシはさんざん人を殺してきた。おそらくアタシより多くの人を直接殺した人間はいねーくらい殺した……あんときのアタシはどーかしてた……そん時それを命じた『外道』も地球人だ……だからアタシは地球人は好きにはなれねー……未来永劫アタシは地球人を恨み続けて生きることになるんだろーな」
その瞳は、鉛色に鈍い。
初めて出会ったときの『殺気』……誠の背筋に薄い寒気が走る。
「地球人は人殺しが大好きだからな。気に食わない人間は殺して当然という地球人以外にアタシはお目にかかったことがねー。地球人は一人残らず今この瞬間にすぐ死んでも当然の悪党しか居ねーのはアタシも身にしみてわかってる。地球人の歴史を見ると確かにスイッチ1つや指示書を出してアタシより多くの人間を殺した奴はいるだろうな。でも、アタシは直接この手で殺した。それこそうんざりするほどな。それを命じた男も地球人だった。殺したのは地球人も遼州人もいた。その数、50万人。そう聞いてもオメーはピンとこねーだろ?どうやらアタシはこの手で直接そのくらいの数の人間を殺していたらしい……だから人はアタシを『汗血馬の騎手』と呼ぶんだ。中国の三国志の時代に、自分の主君すら平気で殺したことで有名な大粛清の武将『呂布奉先』にあやかってのことだ。アタシもアタシを目覚めさせたあの地球人の『外道』を殺してこの国に来たんだから呂布の事を悪くは言えねーがな。地球人には1人殺せば犯罪者だが100人殺せば英雄だという言葉があるらしい。確かに……そうなるとアタシも英雄ってことか?いつアタシはそんなもんになりてーって言ったんだ?アタシは遼州人だ。そんな事一言も言った覚えはねーぞ」
包丁の音が止む。湯気の音だけが、静かに続く。
ランは盃に手を伸ばし、視線をほんのわずか横へ逸らす。
「そん時のアタシはどうかしてた……目を覚まさせてくれた恩を感じて、その地球人の『外道』の野心に利用されてることに気づかなかったんだ……馬鹿だった……地球人は利用できる人間はとことん利用してそれが『社会正義』と言って開き直れる人種なんだ!思い出すだけで虫唾が走る!でも、隊長のおかげで……そして隊長の部下の後にアタシの友達になったアタシを堕としたアイツに出会い……アタシは正気に戻り、その『外道』を始末して国を捨てた……遼州系には元地球人が沢山住んでる……うちのアメリアの部下の『ラスト・バタリオン』のねーちゃん達やカウラは地球人の遺伝子を使って作られた存在だ。そして西園寺の親父も元地球人……地球人の血を引いていてもまともな人間がいる……そー思わなきゃいけねーことは分かっているんだが……アタシには正直難しいらしーや」
誠は、黙ってうなずく代わりに、ちらしの端を一口、口に運んだ。
酢のやさしさが、胃の辺りで小さく広がって落ち着く。
「結果、アタシの国、『遼南共和国』はこの世から消えた。消えて当然の国だったんだ。地球生まれの『外道』の野心を実現するための機械にされたアタシが言うんだ。間違いない」
ランは笑って見せる。けれど、その笑みは刃の背で擦ったみたいに薄い。
「アタシが敵を落とした数……殺した民間人の数……厄介なことに記録が残ってんだ……でもアタシは認めねー!アタシは一機も落としてねーんだ!民間人を殺した!それは戦闘に巻き込まれただけだ!」
悲しげに叫ぶランを見つめる誠はランが殺したという50万という数字に押しつぶされる寸前だった。
「でも、記録が残ってるんですよね?」
自分の言う言葉がランにとっては残酷すぎるものなのは分かっていた。それでもその数字が誠にそんな言葉を吐かせていた。
「それは事故だ! 相手の腕がひどすぎただけ! アタシは『撃墜数ゼロ、被撃墜回数1回』だって、いつも言ってる!それにあの民間人もあんな所にいるから悪いんだ!アタシのせ―じゃねー!」
板場の若い衆が思わずこちらを見る。大将は目だけで『大丈夫だ』と返し、湯呑を少し手前に寄せた。ランは時々自分の犯した罪について語りだすとそうなるのだろう。大将の静かな笑顔を見て誠はそんなことを思っていた。
「そーだな。オメーは何一つ間違っちゃいねーよ。悪いのはアタシ……自分勝手な言いぐさなのは分かってんだ……でも、アタシは誰も殺したくねーし、殺させたくねー。傷つけたくねーし、傷つけさせたくねー……でも……」
小さな肩が、わずかに震える。誠は視線を落とし、箸を置いて、言葉を選ぶ。誠の口の中にはまだ酢飯の余韻が残っていたが、その味をちゃんと感じている自信はなかった。
「それは……任務なんですよね」
誠の顔は自然と引き締まっていた。ランは本音を晒してくれた。その想いに応えないことは人の道に外れていると誠には思えた。
「そーだ。任務って話になる」
顔を上げたランの目が、薄く潤んで光る。
誠は、まっすぐ受け止める。
「それなら……遂行します。それが軍人や警察官と言う仕事だと分かってますから」
嘘はなかった。恐怖も同居しているのは、誠自身が一番よく知っている。それでも、言葉にして前へ押し出す。
「そーか。オメーにはそんな試練を与えたアタシやあの『駄目人間』を恨む権利があるんだぞ。オメーの顔を見ればアタシにも分かるがオメーはまだ迷ってる……その迷ってるオメーを戦場に送り込むのはアタシには辛い……が仕方がねーことなんだ」
誠は大きく首を横に振る。
胸の奥から、押し上げるように言葉が出た。
「恨みません……アメリアさんの話じゃ、僕はずっと監視されてきたって話じゃないですか。そんな僕の知らないところで僕の運命が決められるなんて僕はごめんです……僕の運命は僕が決めます!たとえ命がけのことでも」
言い切って、残りのちらしを一息に掬い上げる。米の温度、海苔の香り、酢の余韻……腹に落ちる覚悟は、こういう味をしているのかもしれない。
米の温度、海苔の香り、酢の余韻……腹に落ちる覚悟は、こういう味をしているのかもしれない。
「そっか。なら、いいや」
ランは、ふっと少年みたいに笑った。先ほどの硬さがほどけ、いつもの中佐に戻っていく。
「大将、アタシも小腹が空いたから握ってくれ。まずはコハダとイカで」
「はい!中佐!」
銀皮のコハダが台に置かれ、酢の香りがほんのり立つ。イカは包丁目が細かく入り、白い身が花のように柔らかい。
ランは盃をあおり、こくりと喉を鳴らしてから、わずかに顎を上げる。
誠は、自分の迷いがまだ完全には消えていないことを自覚しながら、それでも箸を進める。迷いは、前へ進みながら薄くしていくしかない。
大将がランの前に寿司を置き、誠に一瞥だけ柔らかな笑みを向ける。
檜のカウンターには、夜の色と人の温度がゆっくりと染みていく。
……こうして、寿司屋での会食の夜は、静かに、確実に、暮れていった。




