第49話 力を嗅ぎつける者たち
午前中のシミュレータから午後のランニングと言ういつもの日課をこなす誠。
真夏の午後のグラウンドの空気は、基地の舗装ごと熱していた。
訓練場のトラックは白線が少し滲み、砂埃の匂いが汗に混じる。ランが『手加減してやる!』とこの言葉を一昨日口にしたことで400メートルトラック30周で済む程度に減らされたランニング課題を終えた誠は、心拍の鼓動を耳の内側に聞きながら、倉庫棟の影に腰を落とした。スチール壁のひんやりが背中越しに伝わるが、息はまだ熱い。
演習の話が出てからというもの、ランに加えてかなめまでコース脇で腕組みをする日々が続いている。かなめの視線には誠の出撃は無理だと訴えた彼女ならあり得ると思っていたような誠への同情の色は無い。そこには誠が『戦力になるかどうか』という純粋に軍人の厳しい視線だけがある。
『平然と実力行使に出る』ことで有名な彼女が視界の端にいるだけで、普段は歩きがちな隊員たちも彼女のたれ目を前にしているだけだというのに形だけでも速度を上げる。詰め所の噂では『監督:西園寺 の回は自己ベストが出る』らしい。
誠は誠のせいで自分達まで面倒なランニングをさせられていると不満げな整備班の男子隊員や運航部の様々な色の髪の女性隊員の苦々し気な視線を浴びながら日影を求めて本部棟の脇をさまよった。そんな誠に何度か誠と同じく真面目にランニングをしていたパーラが声をかけようとするが、その様子をいち早く見つけたアメリアがパーラを呼びつけて何か一言二言話した後、パーラはそのまま何か悲しそうな視線を誠に投げた後、本部棟の中へと消えていった。
誠は本部棟とハンガーのある作業棟の合間にあるひさしの下に少し涼し気な場所を見つけて、あまり熱を含んでいないコンクリートブロックの上に腰を下ろした。
「誠さん、どうぞ」
「あはははは……どうも」
そんな誠に差し出された缶ジュースが誠の視野に突然入ってきたので見上げると、カーリーヘアの笑顔が飛び込んできた。受け取った冷たく冷やされたジュースの缶のプルタブを起こすと、アルミの冷たさが指先に乗る。誠の好きな100%の濃縮トマトジュースの一口が誠にはこれ以上なく幸せを感じさせる味に感じられた。
実働部隊医務班の唯一の看護師……神前ひよこ軍曹の笑顔がそんな笑顔の誠の前で輝いている。カールの入った髪が揺れて、頬にかかる。彼女の気遣いに、誠は照れ笑いしか返せない。
「西園寺中尉は夢中になるといつもこうなんです。きつかったですよね」
ひよこらしい気遣いが誠には嬉しかった。そしてこのところ何度か医務室を尋ねたことがあったが大概が不在だったことを思い出した。
「まあ見た通りの人なんですね……まっすぐと言うか……一途と言うか……」
息を整えつつ、誠は素直にうなずく。脳裏には、あの夜の銃声がまだ金属の残響として残っている。
「でも……悪い人では無いと思います……思いたいです」
ひよこは誠の脇に並んで座る。日陰に二人並ぶと、倉庫の壁に肩の影が重なった。
「一生懸命な人だと思います……戦うときは人が変わったようになりますけど……でも、あの時も僕を助けたかっただけなんですよね」
拉致の夜……引き金の軽さと、救う意志の重さ。相反するものが一人に同居していた。
「命がけの仕事なんですね……ここは……今度の演習も……」
誠が言い淀むと、ひよこは真面目な瞳で見上げてきた。
「そうです……今まで死者は出てはいませんが……怪我人は出ています。今度の演習もどうなるか……でもだいじょうぶですよ!今回の演習の件で司法局本局で『乙型』の特殊機能に関する研修を受けていたんですが……間違いなく誠さんは大活躍できます!怪我なんかするわけがありません!」
笑顔のひよこの言葉で彼女が誠の専用機の05式乙型について自分よりも多くの知識を持っていることは分かったが、誠の興味を引いたのはそんな自分の専用機の機能にひよこがどれくらいの知識を持っているかよりもむしろひよこの言葉の初めの部分だった。
「怪我ってどれくらいなんですかね……機動兵器同士の戦い……ライフルや拳銃での戦いとは怪我の種類が違いすぎますよ……ライフルのそれはせいぜい7.62㎜のライフル弾でしょ?それに対して相手が飛行戦車やシュツルム・パンツァーなら飛び交うのは230mmの劣化ウランの弾丸です。しかも、機体の爆発なんかに巻き込まれたら……怪我と呼べるレベルじゃないですよ……死なない方が不思議ですから。まあ、これまでシュツルム・パンツァーでの出動は無かったからそんな怪我はなかったかもしれませんけど……そう言えば、その重傷を負った人ってどんな怪我だったんです?死者とか言う言葉ってことはそれなりに重傷だったんでしょ?」
誠はこれまでも同盟加盟国の国内紛争などでの停戦監視任務に整備班の人間が駆り出された話や、それに2度ほどひよこがどうこうした話は島田から聞いていたのでそこで隊員が銃撃戦に巻き込まれた可能性は十分にあると思っていた。
「それは……言えません」
まるで誠の質問には一切答えられないというようにひよこは口をつぐんだ。それは誠が自分の『力』について尋ねる時にかなめ達が見せる拒絶の言葉にあまりに似ていた。
「言えません……ってそんなにひどい怪我だったんですか?でも、隊の記録を暇な時に端末で見ましたけど……怪我をした隊員の記録ってほとんど残ってないですよね?整備中の些細な火傷とかねん挫とかの記録はきっちり出て来るのに……ちょっとおかしくありませんか?ひよこちゃん……何か隠してるでしょ?それとさっきの『乙型』の研修って……何なんですか?」
ひよこの表情に一瞬、影。医務室で見たものは、口外できない。
それでも、彼女はまっすぐに言い切った。
「大丈夫ですよ……どんな大怪我でも大丈夫なんです……その整備班の隊員の方も今は復帰されてますし……私が……私の『力』で何とかしますから……どんな怪我でも治せる『力』があるから私はここに選ばれたんです……そんな意味でも似たもの同士ですね!誠さんと私って……だから誠さんは『乙型』に乗れるんですけど」
風鈴みたいに軽い笑み。けれど、言葉の芯は硬い。自分だけが珍しい動物園のパンダだと思っていた檻の中に、もう一匹いた……そんな変な安心感が胸のどこかに生まれた。
誠は、胸のどこかが少し軽くなるのを感じた。ひよこにも『監視されるほどの力』がある……その事実だけで、孤独の輪郭が和らぐ。
「じゃあ、ひよこちゃんもプライバシーゼロの環境で生きて……」
「いえ!何でもないです!じゃあ!」
話題が『監視』に触れた瞬間、ひよこは慌てて立ち上がり、白い運動靴のきびすを返して駆け去った。振り返る瞬間にひよこが見せた笑顔の端だけ、引きつったのが分かった。
残ったのは、微かなシャンプーの香りと、砂利を蹴る乾いた音だけだった。
「振られてやんの」
「今の会話のどこに『振る』と言う意味が入るんだ?」
顔を上げると、日陰の入口にかなめとカウラ。片やニヤリ、片や平熱の無表情の二人の好対照の表情に誠は苦笑いを浮かべていた。
「今の聞いてました?」
なぜか罪悪感が顔を出し、誠は二人の機嫌を探った。
確かに、かわいい年下に気を遣われて悪い気はしなかった。
「まったく、うちの野郎どもは『若くて素直』ってことだけでひよこにばっか色目を使いやがる……アタシみたいないろんなことを知り尽くしていい酒が飲めるいい女がいるってのによ」
かなめは肩越しに銃器を載せた台車へ手をかける。金属のきしみが手元の癖のように馴染む。
「いい女は常に銃を持ち歩くものなのか?それと男女関係なく素直な人間の方がひねくれた人間よりも人気があるのは自然の話だ」
カウラは涼しく返し、立ち上がろうとした誠の肘を引いて助け起こした。掌が乾いていて、軍手の布がキュッと鳴る。
「西園寺さん!それ管理室まで運んでおきます!」
誠はかなめが押している銃と弾薬の乗った台車を見ると飛び上がるように起き上がってかなめの手から台車のハンドルを奪った。
「おう、気が利くようになったじゃねえか。それじゃあ頼むわ」
かなめは軽く顎を引き、倉庫の奥に消えた。背中のホルスターがドアの縁でちらりと光る。
カウラは残り、しばし誠の横に立ったまま黙する。
「カウラさん?」
取り残されてかなめの背中を見送っていた誠がちらりと横を見るとじっと自分を見つめて来るいつもの無表情なカウラが居た。
「ひよこは……不思議なことを言っていただろ?」
カウラはまるで彼女が誠とひよこの会話のすべてを聞いていたかのようにそう言った。
「ええ……『どんな大怪我でも死なない』って……でも銃で頭とか撃たれたら死んじゃいますよね……ひよこさんの『力』ってどんなものなんですか?死んだ人間を生き返らせさせるとか……ひよこさんは看護師ですよね?ネクロマンサーじゃないですよね?」
確かにカウラの言うようにたった数分の会話だというのにひよこの言葉には誠の理解を超えた言葉があまりに多すぎた。
「ネクロマンサー?なんだそれは?それよりひよこの『力』についてだが……今は言えない……だが、ひよこに任せれば……ひよこが大丈夫と言う限りどんな怪我でも大丈夫なんだ……ひよこの『力』に任せれば……そして貴様の想像通りひよこも神前と同じ環境に有った。ただ、貴様の『力』よりありふれたものだから監視は貴様のそれより緩かったがな……そもそも私も『力』については貴様が思っているほど知識があるわけではないんだ。ただ、ひよこのそれはそんな私でも見てすぐ分かるような『力』だ。貴様がそれを見る機会が無かったのは良かったことなのか……悪かったことなのかは私にも分からない。ただ、いずれ貴様もその『力』のありがたさを知ることになるだろう」
それだけ告げると、カウラも倉庫の影に消えていった。カウラの『見ないで済んだ方がいいもの』という言葉に、薄く冷や汗がにじんだ。
残されたのは、台車と、誠の胸に沈む『言えない』という言葉の重さ。
「ひよこさん……任せれば大丈夫……何が?『ありがたさを知る』?そんな便利な力って……なんなんだ?だってひよこさんはナースでしょ?天才外科医って訳じゃないでしょ?致命傷を負った人を助けるなんて看護師でもできない話でしょ。でも、ひよこちゃんも僕と同じように監視されてた……地球人はなんでそんなに遼州人を監視したがるんだろう……僕やひよこちゃんが持つ『力』ってそんなに地球圏にとって脅威なのかな……」
独り言の相手は、錆びた台車の車輪。午後の西日が鋭くなり、砂利はじりじりと熱を返す。
「やっぱ……引き受けなきゃよかったかな……」
汗の塩が唇に白く残る。台車のグリップは熱い。
誠は歯を食いしばって押しながら、倉庫の裏手から銃器管理棟へ向かった。
二十分後。隊長室では、いつもの雑然とした秩序が広がっていた。
積み上がる決裁箱。卓上扇風機は首を振り、ブラインドの隙間から陽が縞模様に机を染める。観葉植物の葉先は乾き気味だが、それでも元気そうに見えるのが不思議だ。
「……とりあえず、神前の野郎に関心を持っている国家、武装勢力は以上になります」
技術部・情報課の若い男性大尉が、大型タブレットを閉じて報告を締めた。
ランは隣で腕を組み、じっと聞く。
「ふうん、そう。俺のリークに食いついた面子で今のところ判明しているのはこれだけか……俺の予想通りかな……いや、ちょっと少ないかな?」
嵯峨は湯呑の表面を撫でながら、わざとらしく視線を落とす。
茶碗の口縁の欠けは、いつからのものだろう。本人は気にしないが、茶はちゃんと淹れたいタイプだ。
「つまりアレだろ?結論は、『どこが神前の素性に最初に気づいたかわかんねえ』と言うことなんだろ?回りくどいのはやめてよ。俺は回りくどい説明は嫌いなの。俺は弁護士だから相手を困惑させるためにそう言う言い方は良くするけど。自分がするのは好きだけどされるのは嫌いなんだ。だから性格が悪いってみんなが言うのは十分承知しているけど」
顔を上げ、苦笑を添える。
「地球圏の政府には、遼州同盟の偉いさんからお手紙を出したそうだが……『最強の営利企業』のマフィアの親分さん達のことだ。神前の身柄の確保を地球圏で一番最初に頼んだ連中の名前は絶対出てこないだろうな……そっちの線からたどるのは時間の無駄だね。あの『皆殺しのカルヴィーノ』の線からそれを割り出そうなんて……同盟機構も無駄なことをするもんだね」
ポットから急須へ、湯を注ぐ。香りは立つが、温度が少し高すぎる。
「地球連邦を支える各国家の諜報組織や各惑星系国家の治安関係組織はネット上ではかなりの規模で休暇の諜報部員まで動員して東和での情報収集活動を強化しています。遼州同盟加盟国でも『ゲルパルト連邦共和国』や『甲武国』は当然として『外惑星連邦』をはじめとする前の戦争の『連合国』も東都での非公式の情報収集事務所はてんてこ舞いで頻繁に本国と連絡を取ってかなりの動きを見せていますが……隊長が神前の野郎のあること無いことネットに乗せろと自分達に命令して以降、どこが最初にそんなことを始めたかになるとこれが……」
大尉は指でこめかみを掻いた。ログの時系列は『準備の良さ』で簡単に攪乱される。
「どれも動くタイミングとかがばらばらで、何処が主導権を握っているのやら見当がつかない有様で……たぶん連中も『自分が最初に動いた』というかもしれませんけどほとんど入れ食い状態だったんじゃないかと推測が出来る程度しかわかりません」
そんな情報将校の言葉に嵯峨は苦笑いを浮かべていた。
「まあ生きたままで、『特殊な部隊』の部隊員を拉致するなんて、元々失敗する可能性は大きかったからねえ。成功不成功に関わらず、依頼元がばれないように細工をする準備ができていたんだろ?失敗しても神前に興味を持っている勢力がうじゃうじゃいるからね。そっちを言い出しっぺに仕立てて、自分は知らん顔……大人なんてそんなもんでしょ」
嵯峨は茶を湯呑に注ぎ切ってから、やっと二人に視線を投げる。
ランの横顔は微動だにせず、ただ眉尻だけがわずかに下がっている。
「連中は神前の『素質』に『関心がある』と俺に示して見せるだけで十分だと考えているんじゃない?今のところは連中も俺が何を始めるかまだ分からない。そもそもこの部隊が何のためにあるのか理解できない。そんなところじゃないかなあ……俺としては結構バレバレだと思ってるんだけど……ちょっと考えれば分かるじゃないの?俺、ラン、そして今度は神前だ。この三人の共通点とそれが司法局と言う同盟機構には所属しているけれどもほとんど俺の自由にできる状態の『特殊な部隊』の存在……これをつなぎ合わせれば俺が何をしようとしているかなんか俺はすぐにわかるよ」
いつもの人を見下すような笑みを浮かべて嵯峨は虚空を見つめていた。
「隊長は、この『馬鹿騒ぎ』を始めた馬鹿の目星がついてんじゃねーか?そいつは国家に今は所属してねー。かつては所属してたな。ただ、その爺さんは隊長が何を狙っているかもわかっているし、それが起きても何の損も無いと考えている。そして静観を続けている『ビッグブラザー』。奴も隊長の目論見なんてお見通しだと思うぞ」
ランが口端を上げる。
嵯峨は答えず、湯呑を一口含んで顔をしかめた。
「ああ、苦すぎ。煎茶だからって舐めてんじゃねえの?『裏千家』家元の俺を舐めてるんじゃないの?ちゃんと心を入れて入れたお茶は旨いもんだ。そんくらいのことは分かってくれないかねえ……」
冗談か本気か、声の温度は相変わらずだ。
「俺は各方面に神前の『素質』を、あることないこと織り交ぜてバラまいているのに、それを信じて動く『馬鹿』が結構いる。しかも、そいつらは日常的にはオカルトとかとは無縁な連中だ。なんだってそんなこと信じて動くのかわからんなあ……」
引き出しから現れたのは、エロ本と『甲武・京八つ橋』の箱。間違っても混ぜてはいけない取り合わせを、平然と並べるのがこの隊長の流儀だ。
「『地球人』はマジで俺達『遼州人』は『魔法使い』とか『超能力者』だと信じてるのかな?『中佐殿』。お得意の何とかいう『魔法のステッキ』で宇宙の平和のためにも地球の連中を滅ぼしちゃってよ。できそうじゃん、お前さんなら。この前だって『3年で地球なんて滅ぼせる』って豪語してたじゃん?いいよ、やっても。ただ俺は責任は取りたくないけど」
箱を開ける音に、ランは吹き出しそうになるのを堪えた。
「まあお前さんの戸籍上の年齢は34歳だけど、どう見ても8歳女児だし。『地球人』からしたら、理解不能じゃん、俺もお前さんも見た目が若すぎて」
八つ橋を口へ運びながら、真顔で言うから余計に質が悪い。
「アタシの『魔法のステッキ』、白鞘『関の孫六』は地球製だ。作者の子孫を滅ぼしたら祟られるだろ?」
ランは素早く切り返す。
「『地球人』は『遼州星系』と関わって、遼州人の『特殊なゲリラ戦法』で『痛い目を見た』結果、遼州が独立したのは歴史的事実なんだけどさ。そん時、俺達、遼州人が使った『法術』と言う名の『魔界ルール』は地球人と遼州人はお互いそんなことは『無かった』ってことで手打ちになってるんだからねえ……今更蒸し返されても迷惑なだけの話だよ……ああ、蒸し返してるのは俺か……その時点で俺が何をしようとしているのかを分からないようじゃあ……今のどの国の偉い人達も頭が固すぎるよ。もっと自由な発想で世の中を見なきゃ。軍人とか政治家とか役人とか一つの仕事しかしたことが無い人間にはそう言う『視線を変えて物事を見る』ってことは出来ないのかね?俺は軍人やめてフリーの弁護士だった時代にそれまでの思い込みは捨てたから。連中もそう言う経験をした方がいいよ」
八つ橋→渋茶。甘苦の往復で、舌だけが忙しい。
「その点、遼州同盟の加盟国は『元地球人』の国も『遼州人』の国も『効率的』に俺の痛いところを突いてくるわ。困ったもんだ。『法術師』の軍事利用を禁止する法案の素案が俺の手元に届いちゃってね。遅かれ早かれオカルトが現実にすり替わるのを見越してるんだ……なかなかやってくれるよ」
嵯峨は机から一冊の冊子を掲げる。簡素な表紙に、乾いた活字が並んでいる。
『極秘』の二文字は、現場の人間を一番ぎこちなくさせる。
「……まあこっちも『法術の軍事利用』なんてするつもりはねえんだけどさ……でも動きにくくなるね……軍人としては。俺、一応、甲武国の陸軍に籍あるし」
ランは肩をすくめた。
目の前の『自称46歳バツイチ』は、若く見えすぎる『駄目人間』。だが、そこに乗る判断はいつも重い。
「まあ踊った一部の地球の馬鹿の中に意外と神前の『素性』について正確に把握してる奴もいるみたいなんだよね。特にアメリカとか……あそこの軍は『法術師』の研究が進んでるからな……当然だよね。俺が戦争犯罪者として自由に研究の対象としておもちゃにできる実験動物として『身をもって』教えてやったんだから。知らない方がどうかしてる」
言葉の端だけが鋭くなる瞬間。八つ橋の甘さが、かえって空しく口に残る。
「結局、今回の隊長の狙いであるアタシ等の『法術』は、いつオープンにするんだ?もうどこの国も緘口令がもうこれ以上効かないことくらい分かってきてると思うぞ。マスコミだってそんなに馬鹿じゃない。『法術』の公開の方法……一つ間違えればとてつもない混乱と戦乱の時代がやってくる。それを見越してのこれまでの隊長の動きなんだろ?」
ランは嵯峨の様子をうかがうような口調でそう言った。
「神前の誘拐を企てた連中が出てくるぐらいだから……遠くはねえだろうな。まあ、それ以前に俺と『偉大なる中佐殿』の年齢と見た目のギャップを見れば誰でも気づくわな、何かおかしいって」
『……そんなのあんた等の免許証を見たら、誰でも気づくわ!』
情報課の大尉は喉まで出かかった本音を飲み込む。目の前には『駄目中年を演じる大学生』と『警官コスプレの小二』の図がある。
「じゃあ、報告ありがとうね。俺も言いたいこと言ってすっきりしたから。これから決裁書のシャチハタ押すお仕事に入るんで」
嵯峨が立ち上がる。面倒なことは後にする主義の嵯峨の書類箱は『登山』の比喩が似合う高さだ。
「神前は今回の件で無茶をやらされてうちに愛想をつかしてうちを出ていくことになったとしても、立派な『営業成績第一主義の会社の体育会系営業マン』が務まるように鍛え上げてやんよ。アイツは危険物取扱免許のⅠ種も持ってるからな。化学品メーカーの営業くらいならすぐに務まるようにしてやる」
完全に教育方針を勘違いした慰めを残して、ランは大尉を連れて退室する。
ドアが閉まる直前、廊下の蛍光灯が一瞬チカッと瞬いた。
「なんだかなあ……まあ、食い扶持には困らねえみたいだから、それはそれで神前にとってはいいことかもしんないけどさ……危険物のⅠ種って……あれ理系の専門課程取らなきゃ取れないらしいから結構大変だって聞くよ……よく就職先決まらなかったもんだな。まあそれを邪魔した俺が言うことじゃないか……」
独り言が誰もいない隊長室に響いた。通俗雑誌へ伸びかけた手を止め、嵯峨は積み上がる決裁書類をぐっと引き寄せた。
『……本当に全部、俺の手のひらの上で転がせているのかどうかは、正直なところ自信はないがね。少なくとも俺より上の経験豊富なプレイヤーがこのゲーム場には居るんだから……あの爺さんと『ビッグブラザー』。この二人の次の手が俺の読み通りだなんて保証はどこにもないんだからさ』
嵯峨は書類を引き寄せてなんとも言えない力ない笑みを浮かべながらそんなことを考えていた。
窓の外、午後の陽射しはまだ強い。……『法術』という言葉は、活字の上から現実へ、ゆっくりと重心を移し始めている。




