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遼州戦記 司法局実働部隊の戦い 別名『特殊な部隊』の初陣  作者: 橋本 直
第十四章 『特殊な部隊』を見つめる目

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第40話 五人目という悪夢

 貴賓室の空気は低めに冷やされ、革張りの椅子に沈む体温をゆっくり吸っていく。艦内時計の針は静かに進み、壁面の防振材が機関の微振動を柔らかな呼吸に変えていた。窓の外……古戦域のデブリ帯では、砲塔の抜け殻や歪んだ外殻が緩やかに自転し、航法灯の点滅が銀の反射を室内に散らす。スピーカーからは交響曲の終盤、金管が天蓋を押し上げる。


 ルドルフ・カーンは、ブランデーの(すてむ)を二本指で軽く転がし、琥珀色の液面に揺れる微小な輪を見ていた。香りにほんの少しの樹脂と煙草の残り香。青い瞳は、長い年月で研磨された鉱物の光をしている。


 対面で身じろぎもせず反論の機会をうかがっていた近藤に、カーンは一度だけ微笑を投げた。その笑みは情けではなく、分類の印だった。

挿絵(By みてみん)

「我々と命がけのカードゲームをしているのは『嵯峨惟基』と呼ばれる存在だ。どうやら君はあの男を『軟弱な四大公家末席当主の公家』としてしか見ていない上にその男がどういう男でどんな男かを『サムライ』の役にも立たないプライドがもたらす先入観で見ようともしなかったようだね」


 そこまで言うとカーンは静かに近藤から視線を離しブランデーグラスに目を向けた。まるで、近藤が『みるに堪えない醜い調度品』にしか過ぎないと言っているようなカーンの態度が近藤の心にいら立ちを沸き上がらせる。


「それは君達……私から見て『使い物にならない』サムライよりもマシな人種だという意味なのだが……今の君には言っても無駄なようだね。少しでも陸軍に奉職する友人にあの男の噂を聞いてみたことがあるのかね?その顔はそのようなことはしたことが無いみたいだね。陸軍の人間ならあの男が何者か雄弁に語るか、それともあの男の本当の恐ろしさを知っていて黙り込むか。そんな二つの愉快な経験をする事が出来るのだが、そんな知的好奇心は君達『サムライ』には無縁なようだ」


 カーンはそう言うと柔和な微笑みを浮かべてグラスを波打つブランデーの表面を見つめていた。


「そんな陸軍では『人斬り新三』と呼ばれるあの男のカードは私には『だいたい』分かっている。なかなか強力な手札をそろえているよ……こちらとしてもそれくらいのカードをそろえてもらわないと面白くない。まあ、あの男ならそれは全部ブラフで実はまるっきり役ができていないことも考えられるがね。もしあの男の手持ちのカードがあの男が私に暗示して見せた通りの物ならばこちらも手持ちの札を数えなおして、次に切るカードを選択する。カードゲームの基本だよ……そして情報収集もまた然りだ」


 笑みが消える。眉間の皺が細く深く寄る。


「君のような『典型的な侍出身のまともな海軍軍人』は知らないだろうし、興味もない話かもしれないが、あの男はかつて『軍治安機関』にいたと言う『噂』がある。ああ、まあ陸軍に身を置くことならば第二次遼州大戦で自分達がどんな蛮行を行ったかと責任問題になりかねない事ばかりだから伏せておきたいから、あの男を君のような『サムライ』が『軟弱な公家』と決めつけていてくれると都合が良いんだ。そんな危険な男なんだが、敵とみなす相手の素性に興味を持たない君のような『サムライ』であること以外に何のとりえもない戦場を知らない海軍軍人に話してくれるとは思えないがね。あの男は甲武陸軍が行った悪夢に近い任務を平然とこなして眉一つ動かさないような男だ。そもそもあの大戦時の記録が『まるっきり残っていない』時点でなぜ君があの男に興味を無くすのかな?おかしなことだと思わないのかな?『記録が無い』ということは『誰かが隠す必要があるから消した』と考えるのはごく普通の知能の持主なら当然の指向だと思うのだが……『サムライ』にはそんな知能の持ち合わせは無いと私に判断してほしいわけだ……そんな秘密の任務と言えば『治安機関指揮官』や『諜報機関での国際法に違反する行為』などであるという結論も自明の理だと思うのだがね……」

挿絵(By みてみん)

 近藤の喉が小さく鳴る。嵯峨は『甲武国四大公家当主』の『殿上貴族』だからこそ最前線を避けてきた……所詮、自分のように国を守る強固な意志を持つような強固な意志を植え付けるための教育を受けた『サムライ』から軍人となったのではなく、『軟弱な公家』が決められた高級官僚や政治家になるというお決まりのコースが気に入らなくて気まぐれで軍に入ってみたという程度の変わり者。そう信じたがっていた自分の前提が音もなく崩れていく。そして目の前の徹底的に自分達『サムライ』を使えないクズと斬って捨てる強固な『ナチズム』の思想に裏打ちされた理論家を前にして近藤は言葉を失っていった。艦内循環の乾いた風が詰襟の内側で冷え、襟足に汗の線だけが残る。


「あの男が『諜報機関勤務』の経験があるのなら、当然、手の届く範囲内の諜報機関とは協力関係を築こうとする……それも当然の話に見えるが……君にはそう思えないという顔をしているね?ただ、それはあまりに自然で当たり前の話のように私には見えるよ。むしろそうしないと考えるのは楽観主義に汚染された無能の考えだ。あの男が東和共和国の公安当局の電子戦のプロと手を結んでいるのなら、君も多少の出費を惜しまずに直接『足』で情報を稼ぐようなことも考えたらどうかね?確かに電子戦によるネットワークの掌握はコストパフォーマンスが高いのが特徴だが、実際に『足』で確たる証拠を掴んで事実をその目で見て報告書を仕上げた方が信頼性に樽報告書が出来上がる。私が君に期待していたのはそんな報告書なんだよ。君の独自に集めた資金はそれには十分耐えうると思うんだが……政治工作だけが資金の使い道では無いよ」


 カーンはグラスを軽く傾け、氷の当たる微かな音を楽しむ。ブランデーの縁を唇に触れさせる長さは正確で、習慣の寸分の狂いもない。


 近藤の胸裏には、いつもの苛立ちが戻る。彼は現在の甲武軍主流から外れている自覚がある。貧しい下級士族の家系に生まれた彼には、昨今の『軍の民主化』の空気はどうしても飲み込めないでいた。西園寺義基内閣の宥和と軍縮、そしてその自ら武器を置いて見せるというパフォーマンスを示すことでの同盟内での発言力拡大を狙うと軍備拡張こそが国際発言権の取得の唯一の手段と考える近藤には理解不能な暴挙と言えた。そうして誇るべき甲武の軍が先細りになっていく様を『第二次遼州大戦』での敗戦に次ぐ二度目の敗戦と断じる同志たちと共に、彼は危機感で身を固くしてきた。


 そして、彼らが頼ったのが『危険人物』ルドルフ・カーンだった。ゲルパルトの亡命者にして、『アーリア人の人種的優越』の名のもとに民族秩序再興を掲げる闘士。カーンが近藤に投げた最初の宿題は……『売国』の民派の首魁、西園寺義基の義弟、嵯峨惟基が率いる『特殊な部隊』の新入隊員『神前誠』の能力調査だった。


 若い名に興味はない。近藤にとって重要なのは国家であり組織であり、名もなきピースは数字だ。なぜカーンがそこに固執するのか……近藤にはその意味が読み切れていなかった。


 彼はその近藤には何の関心も持てない報告書の作成業務が自分の能力を値踏みする『テスト』であったのだと理解してようやく胸の奥の泡立つ怒りを整え、言葉を選んで吐き出す。


「やはり、この報告書に不手際があったとは到底思えません!私の同志達は十分直接その『足』で対象の青年の行動を追い、その生い立ちまで調べ上げてこの報告書を作り上げたのです!同志達の目を節穴だと言いたいのですか!確かに我々の電子戦能力が嵯峨のそれより劣るのは事実だとしても金で魂を売る『ハッカー共』が情報改ざんを行っていないことの裏を取るくらいのことはまさに閣下のおっしゃった『足』で確証が取れています。ですので……」


「ちがう!ちがう!」


 初めて、カーンの声がわずかに跳ねた。青い瞳に侮蔑が薄く差す。交響曲はちょうど切り上がり、余韻の静寂が室内の輪郭をくっきり浮かべる。


「君は本当に海軍兵学校を卒業したのかね?あの青年は地球の堕落した連中が注目する存在なんだ。それだけは間違いないんだ。無視できるかね?この不愉快極まりない事実を!なのに君はなぜこのような『見るに堪えない報告書』を私に提出したのか聞いているんだよ!私は!私が『足』で情報を稼げと言ったのは、しっかりとした『目』を持った『足』があることが前提の話なんだ。この報告書を見る限り……君の信頼している同志達の目は『節穴以下』のただの『穴』だよ。彼等には何も見えていなかったということだけはよくわかる……」


 カーンの言葉は何処までも冷たく、そして軽蔑に満ちていた。


「閣下とはいえその言葉には異論があります!閣下の望む結論と私の報告書の内容が違うから気に入らないということならば素直にそうおっしゃっていただければ再度調査するまでのことですが……その必要はありません!閣下が望む遼州人に地球人にない力がある確たる証拠を得ろという話ですが……そんなものはそもそも存在しないのです!存在しないものを報告書にかけというのですか?私にはそんなことができません!遼州人が持つ独自の力の存在など単なるおとぎ話です!」


 短い反駁。だが声は硬く、汗がこめかみを伝う。


「君がそういうことにしたいのならそうだとしておこう。私から言わせると君の報告書の内容が真実ならばこの未開野蛮な遼州人が中心となって行われた遼州独立戦争で遼州圏が地球から独立できたのもおとぎ話だったという話になる。確かにそのような『力』など我々の科学力では解明出来ないのは事実だからね。しかし、その力が意図的に……多くの『敵』達によって隠されていると考えたら……どうだね?分かりやすく言えば『公然の秘密』としてアメリカに代表される地球圏の国々や東和共和国、遼帝国の二つの遼州人の国。そして第二次遼州大戦で我々の敵だった遼州圏の国々。彼等にとっては『法術師』の存在は『公然の秘密』なんだと私は思っている……君がどう考えようとこの際関係はない。『公然の秘密』を共有できる立場に私は居て、君はその立場にいなかったし今でもその立場にない。それだけの話だ」


 グラスがコースターに音もなく戻る。カーンは背筋を起こし、氷のような視線の刃先を近藤に合わせた。


「それでは『公然の秘密』の存在を耳にした君にも少しはこの秘密についてのヒントをあげよう。今度あの『特殊な部隊』に入った神前誠少尉候補生。彼の出自に不自然なことは書類上無い。あえて言えばとてつもなく『乗り物酔い』がひどいことぐらいだ。だが、そもそもこんなに不自然なことが無い人物をなぜ嵯峨君が選んだのか?そう考えてみたことは無いのかね?先ほど嵯峨という男がどういう男なのかは私は説明した。そしてその男がその経歴から考えると不自然極まりない奇妙な人物をその部下としてかなりの無茶をして手に入れた……これは紛れもない事実なんだよ。そこにもし君が疑問を今でも感じていないとしたら……君には死ぬまで『公然の秘密』を共有できる人物になる資格はないということだ」


 指先がテーブルの縁を一度だけ叩く。そこで言葉の刃が切り替わる。


「嵯峨惟基……甲武国陸軍大学校で卒業証書を破り捨てて、『全権督戦隊長』以外の任官を拒否する!と大演説をぶった男だ。正規の軍人なら一生口にしないような任官希望だ。だからこそ、陸軍はその演説をなかったことにしようとした。そもそもそんなことを張れの部隊で平然と口にできる男。私なら最前線において活躍する彼の背中を想像して感動に打ち震えるだろうが、当時の甲武の陸軍の高官にはそのような人を見る目を持つ人間は居なかったようだ。そんな男がなぜこの青年を選んだのか?なぜこの青年でなければならなかったのか?そう言う素朴な疑問からすべての大きな疑問は解きほどくべきだと私は考えるがどうかろうか?」


 近藤は眉をひそめる。海軍にいた彼の耳にも、そんな破天荒な卒業式は届いていない……陸軍の体面主義なら隠しもするだろう、と同時に、カーンの口ぶりがそれを『伝説』で終わらせない重みを与える。


「……その話、本当なんですか?あの伝統を重んずる陸軍でそんな暴挙を……嘘に決まっていますね。そのようなことを許す陸軍ではない」


 問いは空気に吸われ、カーンは答えず、ブランデーを飲み干す。氷の音だけが肯定とも否定ともつかない。


「また自分に都合の悪い事実は否定して見せるんだね。話を戻そう。君は認めたくないだろうが、私の知っていることを話そう。あの男には『運』がある。そして、別の名前で同じ顔をした男が、崩壊寸前の遼大陸戦線で指揮した貧弱な装備の大隊が遼北人民解放軍の千倍の戦力相手に『負けなかった』と私は聞いている。……私はそんな『不敗の男』に興味があるね。君は自分に都合の悪い事実をフィクションと見る癖のある人間のようだから興味は無いだろうが、現実を現実として見ることができなければいつでも死が待っている境遇に身を置いて来た私には『興味』がある」


 近藤は口を閉ざした。敵を褒め、事実を指で弄び、結論を急がずに人の内臓を露わにする老人……その手つきに、彼はようやく悟る。自分の報告書に最も欠けていたのは、測定項目でも統計処理でもない。未知に対する敬意だった。


『この老人は色々理屈を立てて私を挑発しているようだが……要するに我々『官派』を利用したいらしい。嵯峨惟基も同じ盤上の駒にしている……ならば、こちらも利用されるふりをして動いて、出方を見よう……『死中に活がある』今の私にはふさわしい言葉だ』


 近藤は姿勢を正し、闘士に敬礼する。カーンは満足げにうなずき、追撃を置く。


「敵であれ尊敬すべき人物だよ、嵯峨君は。地球圏や他のどの確認された軍事勢力にも彼ほどの人材はいない。敵として当たるに対して彼ほど愉快な人物を私は知らないね。そんな彼が選んだ人材なんだ。敵に値する嵯峨君が選んだ人材なんだ。彼が選んだ青年が私達を失望させるような『語るに足りない凡人』では無いと考えるのが当然の帰結だろ?」


 口元に刻まれた笑みは、踏み越えてきた死体の数と比例して冷たく、確信に満ちている。


「恐らく君には分かるまい、近藤君。尊敬に値する敵と対峙することが、どれほど楽しいものか……前の大戦では開戦から終戦まで『参謀本部』勤務か……それでは仕方がないね」


 笑い声は小さい。だが、室内ではよく響く。死を娯楽にした者の笑いではない。死と秩序を同じ尺度で測る者の乾いた愉悦だ。


「『愉快な気持ち』……ですか……」


 近藤は口をつぐむ。参謀部の数字の海。その向こう側にある悲鳴を、彼は知っている。だが、現場の泥の匂いと血の温度は知らない。知らぬことの負い目が、舌の裏に鉄の味を滲ませる。


「それならばこの件も含めて少しは前線の地獄と言うものを味わった方がいいのかもしれないな……君は。戦場を遠く離れた首都の安全地帯にある司令部立派な建物の中に蔓延しがちな『楽観主義的』な空気は、人間の闘争本能をすり減らすものだ。そしてその闘争本能無しには、既存の秩序を変えることは難しい。一方、君は認めたくないようだが、嵯峨君はもし私の情報が確かなら、戦争の『裏側』で常に最前線に身を置いていた人物だ……彼なら私の高揚する気分を説明できるだろう」


 近藤には、理解してはいけない呪いの言葉に聞こえる。戦争に表も裏もない。強いものが勝つ——彼の硬い信仰が、カーンの眼差しで静かに解体される。


「戦争はね、政治なんだよ。中でも嵯峨君は特に『見えない敵』と常に渡り合う必要のある困難な仕事をしていたようだ。君にはそれを知る機会は十分にあったんだ。君は前の大戦でも、そして今でも知ろうとしなかった。……それだけだ。所詮君はそこまでの人物……と私に行ってもらえば満足するのかな?」


 からかうようなカーンの口調に近藤の耳は紅潮した。


「自分達、『戦争指導者』は決して『楽観主義者』などではありません!」


 ようやく絞り出した声に、カーンは首を緩やかに横へ振る。


「そうかな?私から見れば君達はあまりに『楽観的』だ。その『楽観主義』が前の大戦の敗戦を我々に味あわせた。私はそう思っているよ。嵯峨君も、きっと同じことを言うだろう。間違いなく」


 嵯峨の名が出るたび、カーンの瞳孔がわずかに開き、楽しげに細まる。外のデブリ帯で、一枚の装甲板が光を返す。


 近藤は沈黙を選ぶ。意思と経験と洞察……三拍子で自分が劣ることが、数分で痛いほど分かった。


「それでは例の計画を早める必要があるのでは?表面的にはわからないことでもこちらから動いて見せれば馬脚を現すこともありますから。少なくとも読書ばかりで頭の回転の良くない『中佐殿』あたりが暴走してくれれば……いくらでも手は打てますが?それでおとぎ話に言う『法術師』とやらの実力の程がわかれば……」


 カーンは視線を窓外へ滑らせ、短く息を吐いた。落胆の息だ。


「いや、それについて君が口を挟む必要は無い。下がりたまえ」


 声色が一段冷える。命令だ。近藤は踵を返し、扉へ向かう。ドアのシールが低く鳴り、開き、カーンは近藤に退出するように指示した。


「ですが……」


 振り返る彼に、カーンは抑揚を戻して釘を一本。


「だが……君の提案は一考に値するのも事実だね。私達の組織とこの艦隊の行動は無関係であると言うことを証明できるのであれば、君達は独自に君がおとぎ話だという『法術師』の実力調査に動いてくれてもかまわない……すでにこちらは『下準備』ができているんだ。あとは君の決断次第……まあ自由にしたまえ」


 近藤の顔に、子どもが新しい玩具を与えられた時のような光が宿る。


「わかりました!それでは我々は独自に行動を開始します!」


 軽快な敬礼。はじかれたように退室する背中。自動ドアが静かな音で閉まる。


 沈黙が戻る。カーンはグラスの底を覗き込み、満足げにうなずいた。


「君は君にしてはよくやったよ、近藤君。あくまで『君にしては』だがね。昔の中国のことわざに『狡兎死して走狗煮らる』と言うものがある。兎を狩って使い終わった『猟犬』は煮て食われる運命なんだよ、どこでもね。……さて、君達『猟犬』の『肉』にありつくのは私かな?『嵯峨君』かな?……いやいや、第三勢力の『ビッグブラザー』の線もあるな……所詮、『サムライ』は『サムライ』。私も『サムライ』のバイブルともいえる『葉隠』くらいは読んでいるよ。『武士道とは死ぬことに見つけたり』。君達にふさわしい言葉だね。ならば望み通り役に立つ死に方をしてもらいたいものだね……」

挿絵(By みてみん)

 微笑とともに、グラスの底の光が揺れる。楽章が変わり、低弦が新しい床を敷く。近藤は、自分がすでに自分が誰かの狩猟計画の一部になっていることには、まだ気づいていない。そんな『何も知らない馬鹿なサムライ』の自分が何も知らなかったことを悔いた瞬間に迎えるであろうあまりに哀れで無力に過ぎる絶望に満ちた最期を想像すると自然とカーンの口元に穏やかな笑みが浮かんできた。


 卓上のボタンが押され、窓は反射を増してモニタへ切り替わる。古戦域の景色が消え、画面には冴えない表情の新兵——神前誠の身分証写真。機械的な光源が彼の頬の未熟さを強調し、横には無機質なプロフィールが並ぶ。

挿絵(By みてみん)

「『神前誠』……君は何者なんだね? 私は君がすでに四人の『覚醒した法術師』を抱える、あの『特殊な部隊』の五人目の覚醒した『法術師』であるという結論にはたどり着きたくない。『秩序の守護者』を自任する私にも望まない結論くらいあるものだ。彼の行動理論から私が考える嵯峨君が『無秩序を望む』という現実をみるにつけて君の存在を私は許すことができないんだ。その理想を実現する組織である『特殊な部隊』の存在を私は認めることができない」


 写真の若者は、どこにでもいるように冴えない。だが、目の奥に曇りきらない光点がひとつ、確かにある。カーンはその点を逃さない。


「だが、彼の目に浮かぶものは何だ?かつて、私が目にしたことのある者たちと、同じ『光』を宿しているような気がする。……君は、嵯峨君が仕掛ける最後の『切り札』なのか?」


 指先がボタンを叩く。誠の日常のスナップが数枚、連続で映る。食堂、廊下、訓練、視線の泳ぎ、手の癖……どれも凡庸だが、凡庸さはよく嘘をつく。


「まあいい。近藤君も新たな『法術師』かもしれない神前誠と言う新兵を『英雄』にする戦いの『噛ませ犬』を志願してくれたことだ。じっくりと見させてもらおう。ちゃんと『法術師対策』の糸口を見つけるための『囮』ぐらいは勤め上げてくれよ。近藤君」


 視線は閉じたドアへ。青い瞳に、愉悦が細い線で走る。


「嵯峨君とのこのゲーム……私は心の底から楽しんでいるよ。君たち『猟犬』がどんな結末を迎えるのか、じっくりと見させてもらおう。そうして……その結末によっては私との協力を申し出てきている『廃帝ハド』との関係についても考えてみる必要があるかも知れない……楽しみが増えて私はうれしいよ」

挿絵(By みてみん)

 それは、敗戦国の亡霊に残された数少ない『贅沢』でもあった。グラスの残りを喉に落とす。琥珀の香りが肺の奥に満ち、やがて薄くなる。室内は再び、音楽と機関の呼吸だけになる。古戦域の亡霊は画面の外で回り続け、旗艦『那珂』はびくともしない。

 

 ……死者は、今日もよく聴いている。

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