第39話 潜在の証明──測られなかった力
遼州星系第二惑星。
太陽系で言えば金星にあたる星は、この星系では『甲武星』と呼ばれてきた。遼州系で起きた地球からの移民たちの連続した独立国家建設競争のきっかけを作った当時の地球圏国家同盟宇宙軍司令・田安高家は、徳川期の『幕藩体制』を理想としていた。
彼は、遼帝国からの使者として訪れた西園寺基を三女の婿に迎え、建国の構想を託した。
だが、高家が志半ばで世を去ると全権を握った西園寺基は高家の意に反して手にした甲武の権力と軍事力で自らの理想を別の形で実現しようとした。その結果、甲武は高家の理想とした徳川家を頂点とした『幕藩体制』ではなく、西園寺基が理想とする藤原一族が栄華を極める『平安荘園制』の国になった……。
関白家、西園寺家を中心としてそれに従う旧摂関家の九条家を左大臣家、そして基の慈悲でなんとか『サムライ』の象徴である『征夷大将軍』を名乗ることを許されたものの右大臣と言う軍の人事を取り仕切る以外の発言権を封殺された田安家、そして西園寺基の次男が名乗った内大臣家嵯峨家が支配するコロニーを開発した『サムライ』である武家貴族から寄進される『荘園』を国家の基盤とする公家支配の貴族体制が甲武国に成立した。
その町並みも『徳川幕府』という『サムライ』の政治を否定した明治維新を象徴するように再現され、その明治政府が絶頂期を迎えた『大正時代』を再現するように街路灯にはガス灯がともり、駅舎は鎖国を貫き後に同盟国となった遼帝国から取り寄せた甲武星では取れない木造建築の物が使われ、その軍装も、どこか大正期以前の『日本』を模していた。
甲武国では軍部の大半を占める士族出身の『サムライ』達は政治の実権を握る西園寺家を頂点とした公家のまさにその語源通りにとなりに控える召使としての自覚を強要された。
その歪んだ秩序を『正しき伝統』と信じる者たちが、『官派』を名乗った。
近藤忠久もまた、その末端に連なる一人である。
その不満が時に『サムライ』が活躍できる戦争によって発散させると理解した公家たちは遼州圏内での公家たちもあまり快く思わない社会主義国との絶え間ない紛争に彼等が積極的に参加して『サムライ』の率いる軍部が自ら疲弊する様を嗤っていた。
ただ、それが国家の命運をかけるような地球圏との全面対決へと進む中で公家や公家たちを見捨てて勇敢なセリフで人口の大半を占める名字を名乗ることの許されない『平民』を味方につけるに至り甲武はゲルパルトとの同盟を理由に第二次遼州大戦へと突入した。
高位の官位を盾に武家貴族や軍部を支配できると信じていた公家貴族の頂点である西園寺家は戦争に反対の姿勢を取り続けたが、軍事力と警察権力を握った『サムライ』達やそれに扇動された『平民』の暴走を公家たちは止めることができず、甲武は第二次遼州大戦へと突入した。
結果、誰の目から見ても分かっていた圧倒的な国力差で甲武国は敗北し、その公家の新星として現れた外務省の切れ者として知られた西園寺義基による敵対国家への効果的な停戦交渉により第二次遼州大戦は『サムライ』の指導する軍部の暴走による敗戦という形で終戦を迎える形になった。
そんな敗戦で困窮した甲武を支えたのは、東和共和国からの観光収入だった。
東和は、住民の見た目がほぼ全員『日本人にしか見えない』遼州人の国であり、遼州人である東和国民にとっては『異文化気分が味わえる割りに見た目で差別されることのない元地球人の国』として甲武は人気の観光国となった。
核戦争に明け暮れる地球圏を食い物にして経済大国にのし上がった東和共和国は、甲武を『今に続く大正ロマンの国』として売り出した——。
東和の旅行会社の観光パンフレットでは決まり文句のように『今に続く大正ロマンの国』を謳ってコンクリートに覆われた近代的町並みやどこまでも効率を求める会社員生活に疲れた東和の観光客の関心を集めていた。だがその、浪漫の帳は薄い。星全体に張り巡らされた軍港と乾いた規律が、しばしば下地の鉄を覗かせた。
現宰相である四大公家筆頭の公家でありながらあくまで『公家』、『士族』『平民』『貴族』という物の完全否定をその政治の中心課題と据える西園寺義基が貴族の特権である『関白太政大臣』としての権威主義的独裁ではなく、下級士族の男子にまで認められた民主的選挙により政権を握り、甲武の全権を握る『宰相』の地位に就いたことは国家や主家の『公家』に忠誠を尽くすことを甲武の人間にだけ許された『伝統美』と認める貴族主義者の公家や士族によって組織された『官派』にとっては屈辱でしかなかった。
その甲武国軍第六艦隊分岐艦隊旗艦『那珂』は、いま古戦域の外縁に静止していた。
貴賓室の厚い窓越しに、色褪せた星屑の帯が流れた。
船体骨格を残して崩れた巡洋艦、砲塔だけの残骸、反応炉の外殻……20年前に終結した『第二次遼州大戦』地球圏と反『祖国同盟』の国々にとって最後の敵と言えた甲武国本星攻略を目指す遼北人民共和国の艦隊の猛攻の前に甲武本星防衛戦で散った艦の骨が、無音の墓標となって漂う。照明を抑えた室内に、外の残骸が反射するわずかな光がさざ波のように揺れて、黒檀色の床に銀の斑点を落とした。
そんな古戦場が見える貴賓室の窓が見える深く沈むアームチェアがそこにあった。そこには老人が一人くつろいでいた。
彼はブランデーグラスを指の腹でゆっくりと回し、琥珀の液面に灯る微かな環を眺めていた。
部屋には格調高い交響曲が流れていた。スピーカーから流れる金管の合奏にむけて遠い地平を描き始める。低いティンパニーが床板を撫でるたび、グラスの中の世界がわずかに震え、香りが立つ。
その青い瞳は、硬い意志の色を宿す。幾たびも崩壊の瞬間に立ち会い、なおもそこから秩序を捻り出してきた者の目。頬の皺は多いが、口元は奇妙に満足げだ。残骸と廃墟のなかにこそ未来を見出す生き方を、とうに自分の血に染み込ませている。
「……閣下。近藤です」
勇ましいファンファーレへ一段ギアが上がる、その丁度の手前の時間だった。
ドア上部のインターホンが、音楽を割る。
老人はほんのわずか眉をひそめ、吐息ほどの声で吐き捨てるように言った。
「……入りたまえ」
彼にとって、いまは死者との語らいの時間だった。窓の外、甲武海軍の駆逐艦廃材に眠る若者たちに杯を掲げる……そんな儀式を中断された苛立ちは、確かにあった。だが、それを相手にぶつけるほど彼は狭量でも幼稚でもない。苛立ちの処理の仕方を身につけて生き延びてきた人間の、温度の低い礼節がそこにある。
貴賓室の自動ドアが左右に滑り、甲武国海軍中佐の制服に身を包んだ男が入ってきた。丸刈り。頬はこけ、仕立てのよい詰襟がやや大きく見える。神経質な視線が、部屋の気圧と光量を一度測る。
……その男こそ嵯峨がランに『消してくれ』と頼んだ写真の男、近藤忠久中佐だった。
彼は老いた近藤が尊敬すべき存在と考えている賓客の機嫌の陰りを、見てはいる。だが、軽口でごまかすような真似はしない。沈黙がやわらぐ地点を測る。実務の前に、場があることを弁えている。そうでなければ、この場に立てる男ではない。
「近藤君。君は貴族制国家の甲武に遭ってそれほど高い身分の出身ではないと聞いているが……確かに甲武の下級貴族の生活が貧しいものだとは知ってはいるが、その頭脳で出世の階段を駆け上り、甲武の『蓄音機』が買える中佐と言う民分にまで上り詰めたんだ……当然、この曲が何か分かると思うが……どうだろうか?」
金管が遠景から手前へと迫り、旋律が天井を押し上げる。
老人は指先をわずかに揺らし、グラスの脚を回す。苦味を含んだ香りが、革張りの室内に漂う。
「クラシックですね……私はクラシックは『ワーグナー』ぐらいしか。所詮は下級士族の出の自分の聞く音楽と言えば芸者の都都逸が関の山で……閣下に比べると不勉強で……申し訳ございません」
老人は一度、瞼を下ろし、音だけを聴いた。
正直であること……それは彼が七十年の間に学び、なおも手放さなかった稀少な徳目だ。
理論を語る者、軍参謀を気取る者ほど、希望的観測で上官の機嫌をとる。彼はそれで、どれほどの敗北を舐めさせられてきたか。列挙しようとすれば、ブランデー一杯では足りない。
近藤は老人の口から次にどのような言葉が吐かれることになるか怯えているように喉を鳴らした。
老人は何も言わない。ただ、グラスの縁を光が走るのを眺める。
それだけで、胸の奥を細い冷指でつままれたような感覚が生まれる。
『……見透かされている……我々の実力の限界を……俺の生まれゆえか?いや違う……俺の今の立場をこの老人は計っている……』
そうは思いながらもこの老人には自分のすべてが自分とかわしたこれまでの少ない会話ですべて見抜かれているのだと近藤は思う。沈黙こそ、彼の『尋問』だ。『第二次遼州大戦』では甲武の同盟国だったゲルパルト第四帝国が誇った秘密警察の『最良の手段』……相手の言葉を待つこと。
「……あの、閣下?」
老人の尋問に負けた近藤は反応は短く、正確を心掛けてそうつぶやいた。
「リヒャルト・シュトラウスだよ。『ツァラトゥストラはかく語りき』。覚えておきたまえ。教養は人の大小を左右する。君も、少しは勉強が必要のようだね……甲武の庶民文化に下級士族の出の君がどれほど毒されようが私の関知するところではないが、そこで終わる人間ならば君はそこまでの人間……というところかな?」
叱責ではない。仕分けだ。
老人……ルドルフ・カーンは、グラスに口をつけ、音の輪郭が変わる点を待つ。
近藤は、軽く頭を垂れ、しばし旋律に耳を澄ませた。ドイツの哲学者、そしてその思想を音に仕立てた作曲家に、遅ればせながらの敬意を示して見せた。
やがて、カーンが紫檀の組子細工を施した執務机に、グラスを音もなく置いた。
これはカーンなりの近藤に対する言葉を発することを許可するという合図だ。近藤は息を整え、切り出した。
「閣下、それよりも例の報告書は……読んでいただけましたでしょうか?」
近藤の言葉はどこまでも丁寧だがその表情は硬い。
カーンの瞳に、かすかな光が立った。獲物を観察する時の光だ。
遼州第四惑星系の大国、ゲルパルト連邦共和国。かつては『ゲルパルト第四帝国』と名乗り、地球圏と東和を除く主要遼州圏の国家群に反旗を翻した甲武国・ゲルパルト・遼帝国で構成された『祖国同盟』という同盟国である甲武国と並ぶ軍事大国であった。その秘密警察の頂点に在った男。地球圏各国と外惑星共和国連邦、遼北人民共和国の特務機関が今なお血眼で追う第一級戦犯である。
敗戦から20年を経てもなお、散り散りの同志をまとめ、資金と思想と暴力を回し続ける推進軸。それが、目の前の老人だった。
「ああ。読ませてもらったよ……一応目は通した」
短い肯定のあとに、長い沈黙。
彼は知っている……沈黙は相手を喋らせる。
近藤の額に汗が浮く。室温は一定だが、背筋に冷たさが降りる。
カーンはグラスを指で押して回し、琥珀の輪に視線を落とす。
「ところで、君は敵に対する敬意を持っているかね?それがその報告書の冒頭を見たときから私に浮かんだ最初の疑問なんだ……実際どうなのかね?」
声色は穏やか、言葉は刃だ。
「あの報告書の『体裁』は良い。だが、冒頭から踊る先入観による敵に対する思い込みに塗れた文章はもし敬意の一滴でも君にあったなら、あの身勝手な推測で塗った紙束を、私の目に触れさせはしなかった。現在でも地球圏と遼州圏の公然の秘密である『法術師』の存在を、少し見くびりすぎだ……君の能力を私は冒頭を呼んだ時点から過大評価していた自分を恥じることになった。そんな気分に私をする為にあの報告書とやらを作成したのかね?」
氷片が落ちるように、近藤の胸中に音がした。
「……しかし閣下。わが国には『法術師』のデータが不足しています!甲武国にも、数少ない遼州移民のなかに稀に『法術師』がいるのは確かです!しかし我が軍の上層部もわずかなデータから『法術師』の何たるかを調査・研究しておりますが、現政府内の……」
冷たいカーンの言葉に近藤は必死の言い訳をした。
「身分制度がある?地球の日本の『高貴な血筋』が統治すべしという国是が君を縛っているからあのような形の報告書になったと?確かに……それが甲武の『法術師』研究を進めるにあたり悪く働いているのは事実だ。私が知る限りその『法術師』には遼帝国でも身分のあった人物が多い。血筋を重視する甲武では彼等を人体実験の材料に使うなどと言うことは自らの身分制度と言う『伝統』に泥を塗るような行為だからね……まあ、その事で君を責めても仕方のないことなのかもしれないが」
カーンは指を一本立て、講義の口調に移る。
「そして偶然で遼帝国と経済的には大差の無い遼帝国の遼州人が甲武に移民することなどありえない話だ。ましてや同じ遼州人の国であの我々にとっては屈辱でしかない『第二次遼州大戦』と呼ばれる戦争で肥え太った東和共和国は甲武に観光収入を落とすだけで『法術師』について教える必要性すら考えていない。地球人は遼州人より優れていなければ、遼州出の平民を支配できない。だから『不可思議』は制度の外へ追いやられる。たまたま甲武の国民となった遼州人の血を引く人間が起こす『人体発火事故』は統計上『事故』として処理され、パイロキネシストの存在は『無かったこと』になる……そうすることでしか甲武の秩序は守れないとは……君達の尊重する『甲武の伝統』のそこが知れるという物だ」
ブランデーが、舌の背を滑る。
「その点、身分よりも宗教という固定概念にとらわれている西モスレムのイスラム教徒たちの方がよっぽどこの報告書の作成者にはふさわしかったということだね。『パイロキネシスト』の運用は西モスレム諜報部の対遼帝国工作班のほうが君達よりよっぽど熟練しているよ。人体の水分を瞬時に水素と酸素に分解し化学反応により爆発させる……。つまり、彼らは『法術師による自爆テロ』という戦術を、宗教戦争の道具として実用レベルまで洗練させている。君たち甲武海軍の『護国の軍神』が敗戦がもはや避けられない状況になった時点で始めた特攻を、西モスレムのイスラム教徒たちは素手でやれるわけだ。彼らは遼帝国西部のイスラム化に、それを『効果的に』使っている。……君たち甲武の正規軍は、知識が諜報部の下位の工作員の指導を受けたゲリラ以下と言う訳だ。遼州独立時に地球軍が示した愚にも通じる。悲しいことだ」
近藤は唇を結ぶ。詰襟のボタンがかすかに鳴った。
カーンは続ける。
「報告書というのは事実を書くから報告書なのだよ。推論で塗るなら、それはタブロイドと同じ。……君の情報網がその程度なら分かる。だが、私の網が拾い上げ、拷問室でCIAの工作員が吐いた『法術師』の素質の多様性……あれすら説明できない紙束を、なぜ私に? 私が欲しいのは、アメリカや東和が握っているであろう全体像の影に少しでも近づく報告だ。それ以外は、無意味だよ。私はそんなものを見せてくれと君に頼んだわけではないのだがね。それ相応の資金は用意した割に……正直失望しか無かったよ」
近藤の額の汗が眉から落ち、軍靴に点を作る。
近藤は息を荒げ、語気を強めた。
「ですがカーン閣下!現状、我々が情報統制に優れた東和共和国の内側で、同志とともに動ける範囲は極めて限られております!その中で、我々はできる限りの調査を……。それに『法術師』など、多少脳波に異常のある遼州人にすぎません!軍人は銃と剣で戦うから軍人です!発火能力など、テロリストが独占していればよろしい!あのような能力が戦争の帰趨を占めるなら我々の足を引っ張り続けた遼帝国軍の弱さをどう説明すればいいのですか?」
机に両掌をつく音が、組子を震わせる。
カーンは顔色を変えない。むしろ、ほんの少し楽しんでいるように見える。
『……だからお前たち『サムライ』は、いつも『知らないもの』に背中を刺される……我々が君達と同盟を結んだのは間違いなのかもしれないね……そのような不意打ちを『卑怯』の一言で解決すると考える軍人はただ無能なだけだよ……戦争では使い物にならない時代遅れの骨董品……なるほど、明治維新で『サムライ』が排除されたのはもっともな話だ』
そんな近藤への皮肉がカーンの脳裏に浮かんでは消えた。
「そんな負け犬の言い訳は生産的ではないな。正直、今の言葉で私の祖国は甲武と同盟して戦争を始めたから敗戦国となったと確信したよ。情報統制なら、東和共和国には公安調査庁と言う独立組織があり、遼州同盟司法局には公安機動部隊という切り札がある。公安調査庁は東和の、そして公安機動隊は同盟の看板だ。君のような金集めだけが得意な軍人は見過ごすのだろうが……彼等にできないことを君の資本力なら出来る……そう豪語したのは嘘だったということで良いのかな?」
『金集めだけ』。刃が骨に当たった感触。
近藤は表情を制御できない。
カーンは言葉を継ぐ。
「戦争に資金は要る。だが、それ以上に情報だ。……理解してほしい。『ビッグブラザー』。名は知っているだろう?東和の公安調査庁。それを動かしているのは『彼』だ。そして、司法局の公安機動隊……こちらは『ビッグブラザー』の為ではなく遼州同盟加盟国の利益の為と称して我々の前に立っている……前に立っているなら少し避ければ横をすり抜けることができる。そんな日常的に君が行っている動作をこの報告書の作成の際に思いつかないとは残念だね」
近藤はうなずきも否定もできず、まぶただけが瞬いた。
「『ビッグブラザー』の存在は知っていますが。あの存在は遼州圏ではアンタッチャブルな存在です。閣下の国も大戦末期にあの存在に触れたことで敗戦時期を早めたことはご存じのはず。そして遼州同盟司法局配下の公安機動部隊……同盟機構の帳簿にも名前はあります。しかし、全員が軍用義体のサイボーグで構成された部隊を、同盟の乏しい予算で維持?噂では彼らはあの『ビッグブラザー』の手ごまである公安調査庁と並び遼州すべての情報を握り、国家をも動かす存在だと。……馬鹿げています」
近藤にはどこまでも『サムライ』としてのプライドがあった。それが、下級士族と言う食うに事欠く環境に生まれた自分だとしても名字すら持たない平民達とは違うという意識がそんな言葉を口にさせていた。
「そうか。君がそう思うなら、君の中ではそれが真実なんだろうね。私もそう言うことにしておこう」
柔らかな相槌ほど、人を冷やすものはない。
カーンは窓越しに漂う残骸の線を追い、さらりと針を刺す。
「では、なぜ甲武国の諜報部は東和での活動に制限を加える?……理由を、私が納得できる形で説明してくれたまえ?どうしてなんだね?そもそもその理由を君は知っているのかね?」
近藤の喉が鳴る。
大本営勤務のころ、上官たちが東和への諜報に、言いようのない恐れを滲ませていたのを思い出す。説明の言葉が出ない。
沈黙が、答えの形をとる。
「話を戻す。『ビッグブラザー』の存在は君も知っている。だが、あれは東和の一国平和主義の道具にすぎない?ふむ。嵯峨という男が『公安機動隊』を味方につけているというのも噂に過ぎないと?あの男が時に『時代を読み切った』手を打つのは偶然だと言いたいわけかね?……それは嵯峨の作った虚像である、と。君はそう判断したと私は判断すればいいのかね?」
近藤は、胸を張る代わりに、視線だけを上げた。
カーンの口元に、笑いにも溜息にも見える皺が刻まれる。
「そうか。なら、そうしておこう。それが虚像なら、この報告書には矛盾はない。……読むまでもなく、結論ありきで書いた紙に矛盾がないのは当然だがね」
カーンはグラスをテーブルへ。指先を離す無音が、近藤には爆音に聞こえる。
窓外の残骸が、航法灯の微光を受けてゆるく回る。
古戦場は今日も静かだ。死者は、よく聴く。生者の嘘も、臆病も、驕りも。
近藤は、言葉を選び直すために、唇の内側を噛んだ。
口腔に血の味がわずかに広がる。
呼吸を一拍、整える。
「……閣下。わたくしどもは誠の能力を検査しました。結論として、件の『法術師』としての力の発現は認められない。報告は、その事実に基づいております」
声が、途中でわずかに上ずる。
カーンは、すぐには返さない。
代わりに、机の上の紙巻に火を点ける。灰皿はない。代用品として、古いスチール製のペン立てが置かれている。
紫煙が、古い革とブランデーの香りに重なる。
「『事実』ね……敗者がいいわけとしてよく使う言葉だ。そんなものは後方から見ている私にでも見れば分かることだ。そんな報告を求めた覚えは一度たりともないのだがね」
カーンは煙を細く吐き、灰を静かに落とす。
「では問おう。君は何を見た?どこまで見た?君の『検査』は、どの枠の中で、何を除外して組立てられている?」
近藤は、用意してきた語を捲ろうとして、握った拳の中に汗を感じた。
「脳波、筋反射、視覚聴覚の閾値、反応時間、各種ホルモンの分泌パターン……標準化した軍の検査科目はすべて——」
「標準は凡庸のためにある」
老人の声は冷たいが、怒りではない。教育だ。ただ、近藤には、その言葉の重さが半分も届いていなかった。
「『法術師』という異常を、それで測る?君のメジャーで測るために、相手の身体を切り詰める気か。……だから言った、『敬意』がない!君は目に見える事実しか見えていない!君は胃が痛くなった時、自分の目で自分の腹を見てその症状を判断するのかね?違うだろ?ちゃんと医者に行ってレントゲンを撮る。甲武海軍には最新鋭の医療施設があるからあらゆる検査が君に行われる。私の求めていた報告書にはそう言う検査が行われたという証拠が見える報告書なんだよ!君はまるで分っていない!」
近藤は、言葉を失う。
カーンは、窓に背を向けるように椅子を少し回した。
漂う廃艦の骨が、光の筋に切り分けられた。




