第35話 子どもの正義と大人の事後処理
夕暮れの光が隊本部のガラス越しに差し込み、机の上の書類や灰皿を薄く照らしていた。外では通勤帰りのひと波が街灯に溶ける時間だ。『特殊な部隊』の隊長室は狭く、生活臭と作戦資料の匂いが混じり合う。誠は車を降りた瞬間から、体中の筋肉が抜け落ちたように重く、空気の一つひとつが鈍く感じられた。扉を開ける前に深く息を吐き、今起きた出来事が本当に終わったのかどうか確かめるように自分の手を見た。
初めての戦闘に憔悴しきった誠は、いつものカウラの『スカイラインGTR』で本部に帰った。
リアウィンドウに映るネオンがゆっくりと揺れ、誠はその揺らぎに自分の鼓動を重ねた。助手席でカウラが無言でハンドルを握っている。彼女の横顔はいつもより少し硬く、車内のかなめが意地でも流す彼女資産のカセットの『中島みゆきベスト』を流していた。
誠はそのまま休むことも許されずに『特殊な部隊』の隊長室に呼び出された。
隊長室のドアには幾つもの名札の跡が残り、時間と共に磨かれて凹んだカギ穴があった。中に入ると、いつもの匂い、古いタバコとインクと金属の調和がした。壁に掛けられた地図には、過去の作戦の赤い印が残り、誠はそれが自分の小さな世界の、見えない境界線のように思えた。その赤い印のどれかに、今日の自分の戦闘もいつか加わるのだと思うと、誠は息苦しくなった。
隊長室に入った誠は、『駄目人間』である嵯峨の正面にランと並んで立たされた。
ランの姿はいつもと変わらないが、今夜はその目の奥にわずかな疲労が見え隠れした。ランは表情を崩さず、誠の震える手元を注意深く見つめている。嵯峨は机に肘をつき、古雑誌の角を指でなぞるようにしている。外で聞こえた銃声はもうここまで届かないが、その余韻が室内の空気をまだ震わせていた。
嵯峨の机の上には相変わらず風俗情報誌とギャンブル関係と思われる雑誌が恥ずかしげもなく置かれていた。
それらの雑誌は嵯峨の趣味というだけでなく、彼の『距離の取り方』を象徴している。派手で俗っぽい表紙は、重苦しい会話のバッファーとなり、緊張を和らげる役目を果たしているのかもしれない。誠はその上に散らばる角の丸まったページを見ながら、自分がまだ子どもに見えることを自覚した。
以前の自己紹介の言葉『四十六歳、バツイチ』……何年もの生き残り術が圧縮されている。嵯峨はその言葉を盾にして自分の不可侵領域を守り、ランや誠のような若手には決して踏み込ませない安心感を提供している。誠はその虚勢を見て、複雑な感情が胸の中で渦巻くのを感じた。
嵯峨は、ぎしぎしと音を立てる隊長の椅子に背を預け、頭の後ろで両手を組んで二人を見つめていた。
彼の姿勢は無防備でありながら、同時に指揮官としてのゆるぎない重みを帯びている。長年の経験で身につけた“余裕”は、言葉にしない統制力として室内に広がる。ランはその横で軽く頷き、誠に一瞬だけ優しい視線を投げた。
「神前。突然で悪いけど、今回は、地球圏マフィアに対する薬物密輸容疑に対する東都警察からの依頼による『おとり捜査』ってことで話が付いたから。あそこは前から東和警察にマークされてたからな……親切な俺達がもたもたしてるからかたをつけてやった。そんなところだ」
嵯峨の言葉は平然としているが、一語一語には計算が混じる。誠にはその計算が『不都合を消すための煙幕』に見え、胸の中で反発が燃え上がる。だが、ここは隊長室であり、口論は結果を複雑にするだけだ。誠はそれを理解しようとしながらも、なかなか納得できない自分を感じた。
唐突な嵯峨の言葉に誠は言葉を失った。
言葉を失うということは、自分の世界が別の解釈で塗り替えられる瞬間だ。誠は自分の中にあった確信が音を立てて崩れるのを感じた。外で鳴る風の音がいつもより大きく、遠い。誰かがページをめくる音さえ耳に痛い。
あれは『おとり捜査』などでは無く明らかに自分を狙った拉致事件としか誠には認識できなかった。
「まー、落としどころとしてはそんなもんじゃねーかな?アタシとしてもその方が色々と都合がいーわな。実際に神前があの機体に乗って出る時は神前の『素質』を相手が知らねーほーが都合が良ー」
ランの口調は軽く、だがその軽さは誠の心に刺さる。ランは誠の近くに立ち、時折ポケットを弄る仕草で場を和らげようとする。だが誠の目に映る彼女の振る舞いには、確かな統制と冷たさがあった。隊のまとめ役としての負担が、無言の圧になって伝わってくる。
ランは嵯峨の決定をさもそうなることを望んでいるかのようにそう言った。
ランの言葉は『共同戦線』のサインでもある。上司同士の合意は現場を平静化させる効用があるが、若者の心に棘を残す。誠はその棘を引き抜けずにいる自分を責めた。
二人の上司のまるで打ち合わせていたかのような会話に誠は握った利き手の左手に力を込めた。
誠の左手は小さく震え、指の間に血の引いた感覚がある。戦闘は終わったが、身体はまだ戦闘モードだ。手の震えは恐怖の名残であり、同時に怒りの予兆でもある。彼はそれを抑えようとしたが、胸の裡にある正義感が熱を帯びてくる。
事実を隠蔽してでも組織を守ろうとする『狡い大人』を誠は初めて目の当たりにした。
「おとり捜査? それって嘘じゃないですか!僕は、一方的に拉致されたんですけど!あれは地球人の遼州人への人権侵害以外の何物でもないですよ!隊長!あなたには遼州人の誇りってものが無いんですか!」
誠の言葉は震えているが、その芯はブレない。若さの正義は粗削りで痛いが、純粋だ。ランと嵯峨はその言葉を聞き流すように見せるが、室内の空気は確かに動いた。嵯峨の目が一瞬だけ細くなる。彼は過去に見た同じような目を思い出しながら、誠の叫びを内側で消化しようとしている。
部隊長自らの捏造に誠は思わず反発した。
反発は成長の第一歩でもある。だが反発はまた、孤立を招く危険もはらむ。誠は自分の声が、組織の壁の向こうに届くかどうかも知らないまま叫んだ。ランの表情は変わらないが、その眉の端がほんのわずかに下がった。
これは拉致事件である。
拉致という言葉が口に出された瞬間、現場だった風景が再生される。狭い階段、冷たい金属の手すり、そして誠の耳元に響いた笑い声。過去のイメージが一つずつ積み重なり、自分の存在が剥き出しになっていく感覚は、いつまでも消えない。
その事件の当事者である自分は地球圏を告発する権利がある。
だが『権利』と『現実』は違う。誠の心には正義と恐怖、そして帰属の悩みが渦巻いている。彼は自分の声が世界を動かすと信じたい一方で、実際には小さな歯車に過ぎないことを本能的に感じていた。
誠はカウラの運転する『スカイラインGTR』の中でそれだけを考えていただけに嵯峨の言うことには承服しかねた。
「遼州人の誇り?遼州人の特徴と言えば『どんなに美男美女でもお金がないとモテない』ことだよね?モテないことは、そんなに誇りにならないよ?俺は地球人の国の『甲武国』でその事を十分に知ってモテるように努力したから。だから俺は『モテて』結婚できたの。それにまさか『特殊部隊』の隊員が民間人に過ぎないマフィアの下部組織に何の抵抗もせずに拉致されましたなんて……そんな恥ずかしい話うちから言い出すわけにはいかないよ……うちはね、遼州同盟司法局直属の実力部隊と言う触れ込みの『特殊な部隊』なの。マフィアの三下にのこのこついて行きましたなんてかっこ悪くてさ、俺も言えなかったんだよ」
嵯峨の言葉は冗談まじりだが、その背後には国家と体裁を守る必然がある。遼州圏の『立ち位置』は脆く、地球との摩擦は最小限に抑える必要がある。嵯峨はそうした政治的リアリティを誠に叩き込むために、あえて皮肉を含めた説明をしたのだ。
そう言うと嵯峨は静かに誠に目を向けた。
目が合う瞬間、誠は自分が老獪な嵯峨に比べてあくまで何も知らない若造であることを思い知らされる。嵯峨の目は戯れと厳しさ、そしてどこか憐れみを帯びている。彼は誠を『試す』ように見つめ、誠はその視線の重さに耐えながらも言葉を探す。
「でもそれって嘘じゃないですか!事実と違うじゃないですか!後で問題とかにはならないんですか!」
問題になるか否かは、しばしば権力によって決まる。誠はまだその『現実』を実感できていない。ランは椅子にもたれ、嵯峨の言葉を補強するために静かにうなずいた。
普段は穏やかな誠が顔を真っ赤にして抗議をするが、嵯峨は軽く手を挙げてそれを制した。
手を挙げられた瞬間、誠は子どもに戻る。彼の言葉はそこで一旦静まるが、炭火の下でくすぶる小さな炎のように消えるわけではない。いつかまた燃え上がるだろうことを、誠自身も感じていた。
「あのね、事を大きくしてどうすんの?被害者はお前さん一人で、お前さんは俺の部下だ。穏便に話を済ませることのどこに不満があるの?それに遼州同盟と地球は国交が無いんだよね。これで遼州人が目の敵にしている地球人のマフィアが『特殊な部隊』の隊員の秘密を握ってどこかの政府の依頼で拉致ったなんてことになったら……最悪戦争だよ?お前さん一人の命の為に東和共和国を巻き込んだ『第三次遼州大戦』でも起こせばお前さんは満足するの?まったく……お前さんのちっぽけな誇りよりも宇宙の平和が大事なの。それが『武装警察』のお仕事なの。分かったかな?お前さんと同じくらいの年の時、俺も『自分がこの世界で何かできる』とか餓鬼の考えそうな夢を見てたもんだよ……でも世の中はそうはいかないんだ。声を上げればなんとかなる?そんなの聞く人が居ればの話だが、その聞く人だって自分の利益しか考えていないのが世の中という物なんだ。個人の身勝手な正義感なんてロードローラーで引きつぶすように簡単にぺちゃんこにしてしまう。それが世の中なの。それが現実。いい勉強になったろ?」
ロードローラーの比喩は嵯峨らしい荒々しさだが、その言葉の陰には重たい現実がある。誠は自分の小さな世界が、その巨大な機構の歯車で押し潰される恐怖を初めて理解した。だが同時に、嵯峨のその言い方が彼を守ろうとしているのだと気づくのに時間はかからなかった。
冷静に、押し殺すような口調で嵯峨はそう言った。
その冷静さに安心を覚える者もいる。ランはその方針を受け入れているように見えるが、誠は違った。彼は目に映る真実を無理やり覆い隠すことに抵抗を感じていた。だが今は、上官の決定が優先される瞬間だ。
「戦争……僕がきっかけで……」
戦争という言葉はここでは抽象的な脅威でしかない。だが誠にとってそれは遠い可能性ではなく、帰属する共同体の生死を賭けた現実へと変わる危険信号だった。彼は喉の奥で唾を飲み込む。
「そう、地球圏はこの東和共和国とは戦争がしたいんだよ。この国の富……黙ってみているほど地球圏の支配者階級は甘くないんだ。口実一つあればすぐにこの国の『一国平和主義』なんていう国是は吹き飛ぶんだ。地球の歴史でも間抜けが一人死んだことを理由に複数の国家を巻き込んだ大戦争に発展した例なんていくらでもあるんだ。地球人はね、それくらい戦争が大好きなの。その地球圏がこの宇宙に存在する。そこと関係を何らかの形で持たざるを得ない。相手は人を殺すのが当たり前と思ってる人間でもまだ人を殺していないんだから例え隣にお前さんが住んでいたとしてもこの東和でも『あの人はいずれ人を殺します!』と叫んで交番に飛び込んでも笑われるだけだよ。それが嫌ならどうせそのうちその隣の殺人狂は死ぬ定めにあるんだから。それまで黙ってそいつがわめき騒ぐのを我慢するしかないよね。それがこの地球人のような殺人狂じゃない遼州人の国東和共和国でも常識なんだ」
東和共和国では無縁な言葉だが、その外の世界ではありふれた日常の殺し合いを想像して誠はつばを飲み込んだ。
そして、誠は自分が『誰のために戦うのか』を問う自問に立ち戻る。遼州としての誇りか、仲間としての絆か、それとも自分自身の生存か。答えは一夜では見つからないが、この夜に芽生えた疑問はやがて彼の行動を規定していく。
誠の考えはそこまでは及んではいなかった。
純粋であるがゆえに、彼の思考は直線的だ。だが上層部の話は曲線を描き、複雑さと曖昧さを増幅する。誠はその渦中に押し込められている。
ただ目の前の犯罪に囚われていた。
犯罪の傷跡は物理的にも精神的にも残る。誠はその生々しい断片を忘れたくても忘れられず、夜になると夢に見るだろう。だがその夢は決して終わりではなく、彼の成長の一部となる。
誠はこの『駄目人間』の底知れぬ恐ろしさに恐怖し、そんな『化け物』に息子を預けた母を恨んだ。そして、そう思ってしまった自分に、誠はすぐに罪悪感を覚えた。
母の顔が一瞬頭をよぎる。彼女がなぜ誠をここに送ったのか、その理由は複雑だ。安全だと信じて送り出したのか、それとも誇りを育てたかったのか。誠は母への感情が怒り、悲しみ、そして恥の混合であることを感じる。
「そこで、まあお前の件は『マフィアが暗黙の了解で見逃されてきた貴金属取引に紛れて行っていた麻薬取引』の現場にうちが突入したことにして、偉い人に報告したわけ。俺が地球系マフィアのボスをパクった件は、まあ連中も嫌な顔してたよ。『国際問題』だとか言いやがるんだ。殺人狂で核を使って戦争をするのが何よりの娯楽の地球人から遼州圏を守る。そのための司法局だろ?東和警察の連中は俺達を舐めてるのか?でもまあそれで戦争になることを避けられるんだから目的的には問題は何もないよね?地球圏国家の戦争凶たちは永遠に核戦争を続けて放射能で生きていくのが不可能になった地球と運命を共にしてもらうのを待つしかないの。まあ、あと200年もすれば地球人は絶滅すると俺は踏んでるから。それまで待て……ってその頃にはお前さんは死んでるか。でもまあ、仕方ないよね、『君子危うきには近づかず』。いつ欲に塗れて核を使うか分からない地球人とはつかず離れずで付き合うしかないのは地球人が自滅するまでのこの国の運命なんだ」
嵯峨の語り口は簡潔だが、その裏でどれほどの根回しが行われたかは想像に難くない。書類の改竄、関係各所の黙認、時には賄賂。それ『平和』を保つ代償であると彼らは暗黙の了解で受け入れている。誠はその現実に苛立ちを募らせながらも、言葉少なにしている。
嵯峨は上層部のそんな無茶な決定に何の不満も無いと言うようにそう言ってのけた。
言葉の裏側にあるのは“責任”だ。嵯峨は自分が矢面に立ち、部下を守るためならば多少の損失も甘受する覚悟がある。だがその覚悟が若者の正義感を奪うこともある。誠はそれを痛感する。
「『国際問題』って、なんでですか?犯罪者を捕まえたのに!そんな連中を放置している東和警察と地球圏が悪いんじゃないですか!地球人が10年に一度は核戦争をするのは彼等の勝手でしょ!僕達遼州人には関係ない話じゃないですか!連中が人殺しが大好きなのは僕も知ってます!でも、僕達は警察でしょ?悪い人を捕まえるのが仕事でしょ?相手は違う人種なら『民族浄化』と称して笑って皆殺しにする地球人なのは知ってます!でもそんな頭のおかしい地球圏の失態の責任をなんで僕達が取らなきゃならないんですか!僕は遼州人です!人殺し無しに一日も過ごせないような核兵器が大好きな地球人とは違います!」
言葉に出した瞬間、これを言ってはいけないとどこかで分かっていた自分の声を、誠は確かに聞いた。誠の問いは簡潔で鋭い。正義とは何か、法とは何か。彼はまだ子供のようにそれを問い、だがその問いは大人たちには煙に巻かれることが多い。嵯峨は長年それに耐えてきたが、今夜は誠の問いが胸に突き刺さる。
おっかなびっくり。
声の震えは消えないが、誠は一歩も退かない。彼は自分の信じることを口にすることで、初めて自分の立場を確認しているのだ。
そんな言葉がぴったり似合う表情の誠は、目の前の隊長の机に座っている嵯峨に向けてそう言った。
嵯峨の机には今夜の戦闘で拾った小物……折れたナイフの柄の一片や、血の付いたストラップの一部……が無造作に置かれている。現場の断片が、ここでは『書類の材料』に変わっていく。それが誠には耐え難い。
「子供のセリフだな。神前はまだ子供だってことだ。それとオメーの理屈は地球人が核戦争を起こす時の理屈と同じだ。『アイツは俺と違う人種』その言葉で地球人は眉一つ動かさずに東和に核の補充をする為の戦時国債を発行して核のボタンを押す。地球人と同じレベルに遼州人のオメーが落ちて何が楽しい」
ランの言葉は冷たいが、その冷たさは教育の一端でもある。彼女は誠の熱情を抑えることで、危険な方向へ進ませまいとしているのだろうか。それとも単に上官としての立場を守っているのか。誠にはまだ判断がつかない。
だがランの冷静さの裏には、誠に気付かれぬような配慮が垣間見える。彼女は時折、誠の肩に触れそうな手を止める。言葉と身体の間にある無言の気遣いだ。
「そりゃあ正論を言えばそうなんだけどさ。世の中そんな正論だけじゃ回って無いのよ。外交問題ってのは微妙なもんなんだよね。地球圏と遼州星系同盟の関係は特にセンシティブなんだよね。やれ『人権』がどうの、『私的財産権』がどうのと騒ぐんだよ、お互いに。社会に出ればそう言うのがあるんだよ……分かったかな?社会人になったばかりのお前さんには理解不能かもしれないけど、それをすぐわかる物わかりの良さってのも社会じゃ必要とされるんだわ。地球人が殺し合いが大好きってのは元地球人の国の甲武国で地球への先制核攻撃を万歳三唱で喜ぶ庶民を目の当たりにしてた俺には嫌というほどわかるけど……それはそれ、これはこれなんだよ」
『物わかりの良さ』……その語は大人の世界でよく使われる。妥協と折衝を意味し、正義よりも秩序を優先する価値観だ。誠はその価値観にまだ馴染めないが、ランの言葉には組織を維持するための冷徹さが含まれている。
嵯峨は適当にそう言うと静かに目を机に落とした。
目を伏せることで彼は会話を終わらせようとする。だがその沈黙が誠の胸に新たな疑念を残す。誠は立ち上がりかけて、しかし足を止めた。自分の主張が通じる日は来るのだろうか。
「まあ、東和警察も神前の『素質』を表沙汰にせずに、あの『地球圏犯罪者』の大物の身柄を拘束して、拘留を続けようって言うんだからな。俺に文句の1つも言いたくなるのは分からんでもない。だけどカルヴィーノの行動は遼州同盟の許していた活動域を逸脱するものだったから、何とかなったみたいだけど地球圏もとりあえずだんまりを決め込んでるみたいだし……連中も遼州人の持つ『素質』が表ざたになれば自分が危ないくらいの判断能力はあるから」
ここで出た『カルヴィーノ』の名は、誠にとっては悪夢の体現だ。だが嵯峨にとっては『ゲームの駒』にすぎない。国家間の力学が個人の運命を軽々とひっくり返すことを、誠は初めて知った。
直立不動の姿勢をとっているランと誠を前に嵯峨はそう言ってほほ笑んだ。
笑みの端にある余裕は、誠を一層孤独に見せる。ランは誠を支える気配を残しつつ、組織の論理を語る。誠は胸の内で何かを捻じ曲げられるのを感じる。
「じゃあ僕の責任は……」
責任という言葉の重さを、誠はまだ正確に測れない。それでも彼は口に出すことで自分を保とうとする。上官の答えを待つ表情は、青臭くも決然としている。
恐る恐る誠はそう言ってみた。
手の震えが止まらない。誠はその震えを見られまいと必死に目を逸らす。
嵯峨は顔色1つ変えずに語り始めた。
嵯峨が語るたびに、室内の空気は再編されていく。誠はそれを聞きながら、自分の立ち位置を見極めようとする。
「聞いてなかったのか?そもそもお前さんは、あそこに自分で突入したって言うことで口裏あわせも済んでるんだ。東和警察の連中もそれで書類が作れるって喜んでるんだから問題無いだろ?まあどうせ東都警察の連中には、俺は信用なんてされてないんだから、お前が責任云々言う話じゃないよ。まあここの上部組織の司法局の本局には報告義務があるから、それなりの書類出して東都警察の面子も考えずに捜査範囲を超えて暴走した俺達の責任のことに関しての処分を待つ形だが……『中佐殿』……。さすがに今度は『減俸二ヶ月』は食らうかな?俺もお前さんも無茶しすぎたわ」
減俸二ヶ月……その言葉は嵯峨にとっては『痛いが許容範囲』のバイアスを示すジョークだ。だが誠には現実味を持つ恐れの種でしかない。金銭的な損失よりも、組織内での自分の評価がどう変わるのかが気になる。若者の目に映る世界は、警察という制度の冷たさと温もりの差でできている。
嵯峨はそう言うと誠の隣で何も聞いていなかったかのように平然としているランに声をかけた。
ランは無表情で一瞬だけ嵯峨を見、その目に含まれた判断を内心で下す。組織は決して単純な善悪で動かない。ランは誠への対応をどうするか、その重責を感じていた。
『減俸2か月』
空気が一瞬だけ凍る。誠の心臓が跳ねる音が聞こえるようだ。彼はこれまであまり金銭問題を気にしてこなかったが、今夜は違う。現実が彼に早すぎる教訓を与える。
その言葉に誠は思わず背筋に緊張が走るのを感じて隣のランに目をやった。
ランの側顔には微かな笑いが掛かるように見えたが、それは慰めではない。彼女は“上司”としての役目を果たす覚悟を固めたのだ。
ランは全く動じるそぶりもなく、話を向けられたランは頭を掻きながら嵯峨に対する言葉を探っていた。
考えをまとめる時間を稼ぐための仕草だ。ランは誠を見て、やがてはっきりと言葉を返すだろう。それは誠にとって救いになるか、それとも更なる矛盾を植え付けるか。夜は深まり、決定は静かに下されようとしている。
「まー、うちらの神前の『素質』をうやむやにするための無茶で迷惑をかけた、『関係各所』の苦労を考えっとそんくらいが妥当じゃねーですか?西園寺の馬鹿が同盟に非協力的なベルルカンの失敗国の大統領に『発砲』しかけた時は、部隊全員下期のボーナス全額カットだったし」
ボーナスカットの話がさらりと出るところに、この部隊の『懲罰と報奨』の文化が透けて見える。嵯峨のジョークは厳しい現実の包み紙であり、組織は痛みを金銭で調整する術を知っている。誠はその軽さに唖然とする。
ランがさらりとそういってのけたのを見て、誠はただ驚きに目を白黒させるだけだった。
驚きは無力感を伴う。誠にはまだ『損得で動く大人の論理』が染み付いていない。彼はその論理に抵抗しながらも、どこかで『折り合い』をつけなければならないことを悟っている。
『こいつ等本当に『特殊な部隊』だ!毎回そんなに懲罰を受けてる?よく解体されないな』
誠の心の声は皮肉だが、組織は時に狂気じみた自浄作用を持つ。外から見れば不可解なルールがここでは生き残りの文法だ。誠はまだそれを完全には理解していない。
誠は危険度においてもここは『特殊な部隊』であることを再確認した。
特殊とは高い技能だけでなく、常識の逆をも包含する。誠はその“逆”に翻弄されながら、自分がここに残るべきかを静かに考える。
「じゃあ神前。報告書も何もいらないから。まあしばらく頭冷やしてじっとしてろや。これからは知らない人に声をかけられてもついて行かないという、小学生でも分かってる常識を実行してくれれば、それで良いんじゃない?」
嵯峨の結論は簡潔だが、その背後には多くの折衝と妥協がある。誠はその“普段着の常識”を守ることが、この場では最も現実的な防御であることを学ぶ。だがこの教訓は、彼にとっては頼りない慰めに過ぎない。
そう言うと嵯峨は目の前の書類に目を墜とした。
書類は夜の光に紙の白さを取り戻し、そこに押されたハンコや走り書きが現実を示す。誠はその紙に自分の名がどのように記されるのかを恐れながらも、静かに目を伏せる。
「行くぞ。処分は覆らねーから何を言っても無駄だ」
処分の確定は、今夜の出来事を一つの形式に収めることだ。誠はその形式と自分の経験の齟齬を噛みしめる。だが上司の言葉は既に決定を下している。彼は従うしかないのか……その問いだけが胸に残った。
いつもの小さな8歳ぐらいの女の子にしか見えないランの体から、誠を竦ませるような強力な『殺気』が放たれる。
ランの『殺気』は戦闘中の集中とは違う。今は、組織を守るための威圧の一種だ。それは誠にとって母親の叱責のようでもあり、教官の鉄拳のようでもある。彼女の手が誠の肩に触れると、その温度が現実へと彼を引き戻す。
ランは誠の腰をかわいい手で叩いて、誠に隊長室から出ていくように合図した。
合図の仕草は短く、だが意味は重い。誠は一歩一歩を確かめるように歩き、ドアを開けると外の冷気が彼を迎えた。夜の空気は鋭く、彼の胸の重さをそっと溶かす。
「それじゃあ失礼します!」
言葉は元気だが、それは見せかけの強さだ。誠は背中に何かを抱えて出口に向かう。だがその何かは、彼がこれからの人生で何度も抱えることになる『重み』の始まりである。
誠はこの組織のあからさまな組織防衛の意図のと世界の不条理に納得がいかない表情のまま勢い良く扉を開けて出て行った。
扉が閉まる音が部屋に戻り、嵯峨はひじを机の上についてその上に顔を乗せて残って立っているランを見つめた。夜は深く、外の雑踏は次第に静まっていく。嵯峨は煙草を取り出し、火をつけると、ゆっくりと煙を吐いた。
「『中佐殿』。黙りこくってないでちったあ、フォローしてやれよ。一応、お前さんの直下の部下だろ?機動部隊の隊長はお前さんってことになってるんだから。アイツの腹の中は社会に対する不満で一杯だよ?どうするよ?今後の機動部隊の隊長としては?」
嵯峨は次の一手を考え、ランはそれをどう実行するかを測る。誠は外で冷たい夜風に当たり、胸のうちの火を静めようとする。彼の内面の嵐はまだ収まらないが、夜は何も急かさず静かに染まっていく。
ランは頭を掻きながら嵯峨を正面からにらみつけた。
そのにらみは真剣だ。ランは部隊長としての責務と、若者を育てる義務の間で揺れている。彼女の目には決意が宿り、誠をどう指導するかの構想が静かにまとまりつつあった。
「確かにさ……アイツは気が小さくて拉致された事実にばかり目が行って、その原因である自分の『力』に気づいてないけどでもそこを何とかするのが上司って奴じゃないの?それに俺がアイツの『素質』を関係各所に言いふらしたおかげで動く馬鹿は今回のイタリアンマフィアだけで終わるとは思えないよ……さあ、どうする?」
『力』とは曖昧で恐ろしい。誠にとっては負担であり宝でもある。ランはその両面を見据え、誠が未来で“使える”人材になるかどうか、今が分水嶺であることを理解している。
嵯峨は目の前の書類をいじりながらそうつぶやく。
書類の紙の擦れる音が、夜の静けさを強調する。答えは簡単には出ない。しかし、この小さな会話が誠の進化を促す最初の一歩であることは間違いない。
しかし、ランは黙って嵯峨を見つめているだけだった。
黙っている時間は長いが、その沈黙が次の行動を決める。ランの沈黙は熟考のしるしだ。
「分かるよ……典型的な問題児ならパイロット候補生をぶっ叩いて育ててきたお前さんの領分だから……人物的には優等生の神前は扱いづらいってところなんだろ?でもさ、組織じゃん、うち。それにアイツは貴重な覚醒間近の『素質』を持った存在なんだ。そんな人材のえり好みは言ってられないの。それに俺達の『敵』を倒すにゃどうしたって神前の力が必要になるんだ……アイツしか今のところは居ないんだよ。『光の剣』を発動できる『法術師』になれるのは……今後は見つかるかもしれないけどな。俺には数人あては無いではないが……あの二人は神前よりよっぽど扱いにくいよ?そいつ等呼ぶ?たぶんお前さんは後悔して一日詰将棋をして過ごすなんて言う日常は送れなくなるよ?」
『光の剣』という語句が重く室内に落ちる。希望と恐怖が混じる言葉だ。嵯峨はそれを言葉として軽く使うが、その意味は深い。誠はその言葉を胸に刻み、やがてその重みを引き受けるかどうかを自問する日が来るだろう。
沈黙を続ける幼女に、嵯峨は諦めたように視線を落とした。
諦めは時に慈悲だ。嵯峨はランの決意を尊重している。彼らの間に流れるのは、厳しさを含む共同体としての思いやりだ。
「俺の負けだよ。そうだな、起きちゃったことはどうにもならねえが、問題はこれからのフォローだな。機動部隊隊長さんには苦労かけるが、よろしく頼むよ。神前の性格からして俺の決定への不満と自分の置かれた立場の危険性に気づいて辞めるとか言い出しかねないぞ。そこを何とかするのが上司であるお前さんの仕事だ……そこはお前さんの『仕事とは人格形成である』のモットーが生きるところだ。あてにしてるよ?」
責任の押し付けではない。嵯峨の台詞は信頼の表現でもある。彼は自分の罪の一部を認め、そのケアをランに託した。ランは深く息を吐き、頷く。
完全に嵯峨の言葉を無視して黙り込むランに根負けして嵯峨はそう言うとタバコに手を伸ばした。
タバコの火が夜の影をほんの少しだけ揺らす。煙が天井に溶け、言葉にならない約束を運んでいく。
「そんなことは言われなくても分かってんよ!しゃーねーなー……了解しました!」
ランの返事は短いが確かだ。誠が外で立ちすくむ間に、組織の機構は静かに動きだす。若者の葛藤はやがて成長へと変わるだろう。夜は更け、隊長室の窓に映る自分の姿が小さく揺れていた。
手で謝罪の意図を表明している嵯峨の言葉を背に、ランはめんどくさそうに頭を掻きながら部隊長室を後にした。
ドアが閉まると、室内には書類の紙擦れだけが残る。嵯峨は灰を落とし、静かに窓の外を眺める。誠の背中は遠ざかり、ランの靴音はやがて消える。夜はすべてを包み込む。
一方で誠は、そんな二人の会話が交わされていることを知る由もなかった。
ただ機動豚の詰め所の自分の席に戻った誠の胸に残った疑問は消えなかった。




