第27話 模倣された世界の住人たち
朝の光が薄く差し込む『運航部』の室内は静まり返っていた。スチールの机に置かれたコーヒーカップが、外の夏の蒸気を思わせる白い薄煙を立てている。壁には訓練スケジュールと、誰かが貼った古い映画のポスターが見える。ここは軍事警察だと名乗ってはいるが、人間臭い生活の跡が残る場所でもある。
「あれだけ撃つとストックがしっかりしているMSG- 90でも肩が痛くなるわね。それとあえて助言しなかったけど、誠ちゃん今度の訓練の時はストック伸ばした方がいいわよ。HK53のストックはレバーを下げるとちゃんと肩に付けられるようになるから。それで当たる肩が痛くなるけどあんなに無理して腕で反動を押さえつける必要もないからその負担はかなーり違うとおもうわよ……かなめちゃんも知ってて黙ってるのよね。面白そうだからどれだけ耐えられるか見てやろうって。カウラちゃんは何度か言い出すタイミングを計ってたけどあの子はあまり男の娘に免疫がない……地球人の遺伝子しか継いでいないはずなのに心は誠ちゃんと同じ『モテない宇宙人』の遼州人なのよね」
本部の『運航部』の部長席に『特殊な部隊』の運航艦『ふさ』艦長が腰を下ろしていた。
アメリアの椅子は少し大きめで、彼女が座るとちょうど椅子と体のラインが合う。部屋の空気は彼女の存在で軽く震えるように感じられた。机の端には古い革製ノートがあり、そこに走り書きされた『任務備考』が見えた。
アメリア・クラウゼ少佐は肩をさすりながら腕の筋肉痛で頬を引きつらせている誠を糸目で眺めた。
糸目の奥にある表情が一瞬だけ変わるのを、誠は見逃さなかった。いつもの茶目っ気のある笑いから、強くて静かな目線に切り替わる瞬間だ。
誠から見てもなかなかの美女である。
身長は180センチを超えるほどデカイ。
そして、特徴的に目が細かった。
相対的なサイズ感。誠は自分が190cm近い大柄なのだが、同じくらいの女性は見たことが無かった。これまで出会ったアメリアに匹敵する身長の女性は中学校時代にそのままバレーボールの体育推薦で全国大会優勝常連校に行った女子バレー部のキャプテンくらいしか思いつかない。それでもアメリアよりも数センチ低いのでアメリアが街を歩いていたら嫌でも目につくだろうことは想像がついた。
「あのー……アメリアさん。それ最初に言ってください!僕も撃ってる間、腕がやたら疲れてきてなんだか変だなあとは僕も思ってたんです。おかげで腕が棒のように硬くなってしまったじゃないですか!」
誠は筋肉の張りきった腕をさすりながら本心からそう思った。
誠の手は野球では変化球投手として鳴らしてきただけあって人並外れて大きい。そして野球と剣道で鍛えた腕力にはそれなりの自信があった。たぶん今回はその腕力が悪い面に働いたのだろう。誠も撃っていてこんな銃を開発した地球人の精神を疑うほどの撃ちにくさだったので、普通の腕力の男子であればストックを伸ばしてそれを肩に付けないとまともに発砲することすらできなかっただろう。
そんな二人が和気あいあいと会話を楽しむ本部の『運航部』の大きな部屋は、彼女に言わせれば自分の『城』らしい。
部屋の女子部員は隣の運航部のシミュレーションルームで訓練でもしているのか、誰一人いなかった。アメリアにその理由を尋ねようとしたが、この前の飲み会でしらばっくれたり人の話を逸らしたりすることに関しては天才的な彼女にそんなことを聞くだけ無駄なことは分かっていたので黙っていた。
静かな室内。機械音のしない空間は、言葉を交わす二人の声がよく響く。アメリアはその静けさを好むのだろう、誠に向ける言葉も、時に遠くの風景を語るように響いた。
「まあ、誠ちゃんはかなめちゃんが監督をしているうちの草野球のエースとして秋から頑張ってもらわなきゃならないんだから……そこだけは期待しているわよ。ストックを伸ばさずに何の疑問も感じないで腕力で銃を押さえつけるだけでHK53で前に銃弾を飛ばせるなんて……ちょっと自慢できることよ。普通の人なら途中で『何かおかしい』って気づくはずだから」
アメリアの口調に冗談めかした軽さが混じる。
「その話はもういいです!それより……草野球チーム……そんなものまであるんですか?」
アメリアの意外な言葉に誠はそう返した。誠には自分が体力馬鹿と見なされることはその一応一流大学を出ているというプライドが許さなかった。
「あるわよ……なんてったってここは野球の名門『菱川重工豊川工場』の敷地内にあるんだもの。ここの硬式野球部的のOBを中心として近くの中小企業や市役所なんかを巻き込んだリーグが昔からあるのよ。なんてったって『菱川重工豊川』と言えば都市対抗野球では25年前に4連覇を成し遂げた名門だもの。その後も今でも野球部は存続しているわけ。まあ、最近は地区大会で予選落ちが普通だけどその野球で会社に入った野球エリートの選手が引退した後も野球好きが治らずに腕が鈍らないように頑張ってるんだもの……誠ちゃんにはその強力打線を抑えてもらわなくっちゃ」
一応、野球をかじったことのある誠にもかつて都市対抗野球で何度とない覇者となった強豪チーム、『菱川重工豊川』の名前は聞いたことがあった。
東和共和国の四大コンツェルンの中でも『菱川グループ』は野球に力を入れていた。強豪チームである『菱川重工豊川』を擁する菱川重工だけでも、目立市に『菱川重工』の本社のほか、西国や北陸、関西にも工場があって、それぞれが都市対抗の強豪チームを持っていた。
さらに『菱川製鉄』系や『菱川自動車』系のチームまで合わせると、都市対抗野球は一時期『菱川グループ対抗戦』なんて陰口を叩かれていたぐらいだった。
考えてみればそんな中でも4回の都市対抗野球制覇の栄光を誇る『菱川重工豊川』のOB達の野球マニアたちが野球から抜けられずに今でも草野球を続けていても不思議はない。そしてこの隊で『人外』の『魔法少女』と認識したランの次に態度大きい野球好きのかなめがそれを敵と認定して野球部を立ち上げても少しも不思議なことは無かった。
「確かに『菱川』と言うと『社会人野球』というイメージがあるのは野球をやってる人間なら常識ですけど……僕は野球を諦めた人間ですよ。そんな期待の仕方って無いんじゃないですか?もうちょっと任務に関することでも期待してくれてもいいじゃないですか」
誠の反論にアメリアはあざ笑うような微笑みを浮かべる。
誠は『任務=真剣』と思い込んでいた。だがアメリアは『生活と任務は同居する』と考えているらしいように誠には見えた。
「いいじゃないの。草野球なんだから公式試合全面出場禁止のあの事件の影響もないわけだし。それに仕事に期待ねえ……人生期待……特に仕事に期待なんて持って生きない方が良いわよ。私も純粋にここでの生活は『娯楽』と『趣味の為のお金を稼ぐ手段』と割り切ってるから。この東都共和国の世界を見てごらんなさいよ。世界が望んだように進むなんて幻想なんじゃない?全部の技術を地球に合わせて進化させようなんて偉い人達は考えて無いわよ。地球じゃ当たり前の空飛ぶ車もこの遼州ではお目にかかれないし。まあ、地球は車を持てるのはお金持ちと高級官僚くらいで車を持てる数が東和のそれよりやたら少ないから出来る事なんだけど……東和並みに地球で庶民が空飛ぶ車を持ったりしたら交通事故だらけで大変なことになるわよ」
アメリアの言葉で誠は我に返った。
そう言い切るアメリアの顔には、過去の色々な経験が積もっている。遼州の人々は欲望と進歩の押し付けに敏感で、必要ない進化を拒む知恵を持っているのだと、誠は少しずつ理解し始めた。
「確かに……将来は地球みたいに温暖化で大変なことがあるというのにガソリンエンジン車が走ってるなんて……地球の人達が知ったら卒倒するでしょうけど。でも、そんなの石油が沢山とれるし、人口も地球よりはるかに少ないんだから当然じゃないですか?それに地球は当時人口が爆発的に増えてましたから。遼州圏はこの400年間人口が減ることはあっても増えたことは無いですし」
誠は理系脳だった。誠の合理は数字に根ざす。だが社会習慣や文化の合理性は、純粋な数理だけで測れないことが多い。アメリアはその点を心得ているというように誠の直球すぎる論理を子供の意見だというように優しいほほえみで受け止めていた。
彼の常識からしてみれば地球では実用化されている空飛ぶ車などSFの世界の話に聞こえていた。
そもそも、彼自身が普通に四輪自動車の運転すらまともにできないのである。誠の運転感覚からすれば平面を把握することばかりでなく、立体的に空間を把握しなければ大事故を起こすことが間違いない空を飛ぶ空飛ぶ車の制御など選ばれたエリートしかできないのは全く持って当たり前の話なのである。
技術を二十世紀末から進めようとしない東和では、空飛ぶ車は軍や警察のエリートの特権で、空飛ぶ車など市販される予定もなかった。そもそも東和では車のモデルチェンジと言うものは単にデザインが市場に飽きられたから起きる現象であって、次の新型車の性能が上がったという話を誠は聞いたことが無かった。
「地球人の真似して技術を磨いてより効率的、より高性能な製品を作る。そんな理想を追いかけるのも結構だけど、遼州流の足ることを知る生き方の方が気が楽よ。遼州人には地球人みたいに科学の進歩に自分達の生活を合わせると言う発想は存在しないし。自分達の生活に不便がなければ今で十分というのが遼州人だもの。だから400年間一切経済規模が全く大きくなっていないし、物価も上がっていない。まあ、お給料も上がらないんだけどね」
アメリアはいつものアルカイックスマイルを浮かべながらそうつぶやいた。
アメリアは完全に笑顔で細い目をさらに細くしながら突然咳払いをした。
その咳払いで、アメリアの表情が切り替わる。ユーモアから真面目へ。ここから語られる話は軽い雑談ではない、と誠は直感した。
誠の現実逃避へのぎりぎりの状態で奇妙な変化が起きた。
誠の視界の中でアメリアの表情から笑顔が消え、急に真剣な表情の人物に見えてきた。
そして、彼女の糸目が少し開かれ、紺色の瞳が見えた。
その瞳とみていつもの冗談まじりのアメリアじゃない……と、誠は直感した。
細い目の奥にあるはずの瞳が、まるで別人のように深く濃い紺色に変わる。誠はその変化に心臓が一瞬跳ねるのを感じた。人は表情で事の重大さを測るものだ……アメリアの変化は、これから話す内容の重みを示していた。
『目の錯覚かな……』
その鉛のような大きく見える瞳を見つめて誠がそう思った次の瞬間、アメリアは語り始めた。
「まあ、ふざけるのはこれくらいにして……もう誠ちゃんもうちの隊員なんだから……この国が……隠している事実に少し近付く権利があると私は思うのよね」
急にアメリアの纏っていた雰囲気が変わっていた。
そこには少し悲しげにほほ笑む美女の姿があった。
『部長』としての責任が、彼女の背中を押している。単なる冗談好きの先輩ではなく、歴史を語る者としての顔が出るのだ。
「私が知っていることを話すわね。一応、私も『部長』だから、いろいろ知ってるわけなの。内容が今の誠ちゃんには、理解できるかどうか分からないけど」
そう言うアメリアは先程までのお茶らけているときとは別の顔で話し始めた。
「すべては『悲しい出会い』から始まったの」
アメリアはそう言って遼州と地球の誠の知らない事実を語り始めた。
『悲しい出会い』。アメリアは確かにそう言った。それは歴史の耳を澄ませば聞こえる遠い雷鳴のような出来事。アメリアの声にはその雷鳴の余韻が乗っている。
「地球人の調査隊の持っていた『銃』と、『リャオ』を自称していたここ植民第二十四番星系、第三惑星『遼州』の『遼州人』が出会ったこと。その大地の下に『良質の金鉱脈』が埋まっていたことがすべての始まり……それこそ地球人がこれまで手にした量のすべての金を合わせた量の金を僅か1か月で採掘できるぐらいの良質の金鉱山が遼帝国には普通に存在する……その時、その事実を知った調査隊の理性は壊れたの……地球人の欲には果てが無い……それを独占すれば地球で大きな顔をしている政治と経済を完全掌握する『富裕層』や役人や軍人になれる『騎士階層』に自分達も仲間入りできる……彼等はそう考えたんでしょうけど……世の中そんなに甘くは無いわよ。辺境惑星の調査隊にそんなことをする権限を地球の支配階級の人達が与えると思う?」
誠は小学校の社会で習ったこの星の歴史の数少ない記憶を思い出した。
「でも目の前の『金』に目がくらんだ調査隊のメンバーにはそんなことは思いもつかなかった。『リャオ』の家にはその金鉱石で出来た皿や貯蔵用の甕がうんざりある。でも、『リャオ』はその価値に全く気付いていない。『リャオ』にとって金は柔らかくて加工の簡単な奇麗な色のいしっ頃に過ぎなかった。これは好機だ……これを『リャオ』を皆殺しにして持ち帰れば自分も支配者階級の一人になれる。そんな欲望が調査隊やそのうわさを聞き付けた地球では生きるのが精いっぱいだった地球で宇宙艦隊を編成できるだけの国力を持つ国からやって来た地球では食べるのが精いっぱいで『宇宙は無限のフロンティア』という政府の宣伝文句につられて地球を追い出された人たちの欲望に火をつけた。そして彼等はそれを実行に移したわけよ」
アメリアは諦めたような調子でそう語った。地球人による『リャオ』への一方的『人間狩り』。この事実は東和共和国の小学校の歴史の授業で最初に学ぶことで歴史に疎い誠でも知っている事実だった。
「遼州人は『銃』とさらにより効率的に遼州人を排除する近代兵器によって追い散らされ、そのすべてを地球の文明人達の金をはじめとする資源に対する『欲望』によって奪われた。地球人の執拗な追跡をかわして隠れて暮らし、あるいは地球人に紛れて地球人のフリをして生きることを強制されたことで『リャオ』が独自に持っていた言語は失われ、文字を持たない遼州人は『未開人教化』と言う名のもとに地球圏に『管理』された……そして地球の特権階級がびた一文東和では当たり前の『福祉』に金を使いたくないという理由で『宇宙追放の刑』同然に地球を追放されてこの星に流れ着いた移民たちは地球の支配者階級に『安価な労働力』として地球で使われていた鬱憤を晴らすかのように『リャオ』を無給の奴隷として酷使し、使いつぶした……」
アメリアの表情にはいつもの笑顔は無かった。
彼女の語る言葉は、遼州の痛みを知る者の語りだ。誠は自分がそこに直接的な責任がないことを知りながら、同時にその歴史の重みを感じずにはいられなかった。
「地球圏の人は……おそらくそんな私達から見た『真実』なんて知らないわよ。自分達は遼州人に良いことばかりしたと思ってる。『未開人』に『文明』を教えたと威張ってるんじゃない?むしろそんな金をはじめとする資源を掘らずに眠らせておく遼州人の考えることを理解不能で金を正しく使ってやったと自慢しているんじゃないかしら?でも要するに地球では自分達が選挙で選んだお金持ちの特権階級に支配されることが当たり前だったのに、この遼州では自分達が特権階級と同じ思いが出来る……でもそんなことがいつまでも許されるはずがない……まあ、今の地球の人達は『宇宙は神から与えられたフロンティア』とか今でも言ってるくらいだからその後でその奴隷化した『リャオ』が始めた独立戦争でどれだけ自分達が痛い目を見たかなんて言うことはまるで反省していないでしょうけどね」
アメリアの言葉に誠は違和感を感じた。
遼州に地球人が到達してから『遼帝国』独立までの二十年の戦争の歴史。誠はその欄が『地球人に抵抗し、独立を達成した』の一文で終わっていたことを思い出し、何か大事なことが隠されているような違和感を感じたことを思い出した。
「そんな遼州人と地球人の出会いの裏側の出来事はどうでもいいの。それ以上に問題なのは、この『東和列島』には、そんな悲劇を黙って見つめている『存在』があったことよ……まるでそんな地球人がやってくるのを事前に知っていたような……そして隣の大陸の同じ人種の『リャオ』がその奴隷になるのを静かに見守っている『存在』が……この東和共和国に」
アメリアは表情を殺してそう言った。
そして、真っ直ぐに誠を見つめた。
「『存在』……?そんな話、僕は聞いたことが無いですよ!僕も小学校で遼州独立の話が大事な話の割にあっさり終わるんで不思議だなあとは思ってましたけど……なんです?その『存在』って」
突如、本性を現したアメリアの言葉に誠は息を飲んだ。
無知である自分への驚きと、知らされた事実の重さに誠の胸は高鳴る。だが遼州生まれである自分が知らないこと……それ自体が彼のアイデンティティの裂け目を示した。
「地球人がこの星を見つけてから調査隊がこの『東和列島』に到着した時に、奇妙な事実に気が付き驚愕したそうよ。そこに住んでいる人々が『日本語』を話し、『日本語』で考え、『日本的』な名前を持ち、『日本人』にしか見えなかったってね。『銃』も地球人と互角に戦える航空機や戦車まで配備していたらしいわね、その『公式』な調査隊が到着した時には。だから彼等はこの東和共和国には指一本触れることができなかった。だって遼大陸の『リャオ』達は石斧と槍しか持ってない絶対勝てる戦力だったのに、この東和共和国には地球の最新鋭の兵器を上回るような戦力がごまんといる……そんなのと戦争する戦力なんて地球の支配者階級たちが死んで当然の移民たちに与えるわけがないじゃないの」
誠の知っている歴史とは違うその東和の過去についてアメリアが語る事実に困惑した。
『日本的』な文化を模倣する東和の存在。誠は自分の言葉や習慣が『模倣』だと教えられると、妙な疎外感を覚える。
「地球のその地球人としてはまともな調査隊の結果を『地球圏』に報告したんだけど……握りつぶされたそうよ。『遼州は未開人の星で技術が発生していることなどありえない』ってね……何のことは無いわ。要するに地球に住むに値しないという理由で捨てられた移民に支配者階級は身銭を一銭も切りたくなかったというだけの話よ。今でもあそこの『超富裕層』は政治にお金がかかるという理由で税金を一銭も納めずに『公平な税負担』の名目で間接税を全面導入したのよ。役人や軍人の自分の言うことを聞く『騎士階層』と呼ばれる人間や、ただでさえ食べ物を手に入れる収入も無いAIロボットの掃除しかできない『市民』に課してそれで国家を運営している……地球人はお金を持つとよりお金を欲しくなって一切それを自分のため以外に使いたくないと考える生き物なのよ」
アメリアの語るこのかつての『東和共和国』の歴史は誠のまったく知らない歴史だった。
理解不能で固まった表情を浮かべる誠を見てアメリアは優しい笑顔を浮かべて話を続けた。
優しい笑顔は鎮めの意図を持っている。重大な事実を突きつけられたとき、人はまず安心を求めるのだとアメリアは知っているのだろう。
「それに『リャオ』が主に住む遼大陸南部で起きた独立戦争も次第に地球圏の国家群の支配者階層の意思に従う移民たちの旗色は悪くなっていった……見た目は地球の東アジア人にしか見えない『リャオ』が地球のアメリカとロシアとインドに三分割されて国を失い犯罪組織の構成員としか生きる道の無くなった東アジア系『無法者』と裏取引をすることくらい……考えなかったのかしら?そして自分達が『無かったこと』にしたかったこの東和共和国の勢力がその『リャオ』達を黙って見捨てるとでも?地球の政府の人達。マジで『空気読んでよね』。いくら最初は石斧と槍しか持ってない『リャオ』でも横から条件次第で最新鋭の武器を譲ってくれるという親切な犯罪組織に属する地球人や、地球とほぼ互角の軍事力を持つけど『一国平和主義』の大義があるから直接かかわりたくないから武器だけはあげるという東和共和国が存在すれば独立できて当然じゃないの」
そう言ってアメリアは遠くを見るように顔を上げた。
軽口に見えて、その背後には怒りと嘲笑がある。人間の歴史は裏取引に満ちていて、善意の仮面の下に損得が隠されていることを彼女は知っている。
「それらの支援で戦力が拮抗し始めた段階でもう地球からの移民には勝ち目がなかった。遼州大陸の技術を持たない人達も地球のマフィアや東和共和国の軍事支援を受けたんですもの。あとは得意のゲリラ戦を展開されたら地球の支配階層がこれはヤバいと本腰を入れた時には甲武で宇宙で地球人に対抗できる文明に備えるために配備したはずの軍隊が『リャオ』に手を貸しますと言い出したらもう何もできない。……そもそも地球圏の犯罪組織と東和共和国の存在があった時点で最初から勝負は決まっていた出来レースよ。移民はただこれまでの復讐としてなすすべもなく争いを好まないはずの遼州人にこれまでの復讐とばかりに殺されていった」
アメリアはここで初めて笑顔を見せた。
笑顔は勝利の記憶を呼び起こす。皮肉なことだが、遼州の独立には外部の意図しない協力があった。歴史はそうした交錯でできている。
「甲武が言ってる甲武派遣の地球の部隊が寝返ったことで独立できたんだから、遼州独立の最大の功労者は甲武国だって主張だって、そもそもその時点では戦いの趨勢は決まっていて、その状況を見て地球圏からの独立の止めとして起きた事件と言うのが真相だもの。そんな地球のマフィアや東和共和国と言う謎の存在の支援を独立を叫ぶゲリラたちが受けて戦いを優勢に進めていたなんて言う裏事情がなければありえないわよ。私も軍の教育を受けた人間だから分かるけど、根っからの軍人ほど負ける戦いはしたくない。勝つ戦いならいくらでもしたい。だから甲武は地球に反旗を翻した。軍隊という物はそんなものよ」
そう言うアメリアの口元に笑みが浮かんだ。
「その独立の最大の功労者ともいえる東和共和国の影の存在。この国がある『東和列島』のそのあまりに突然とも思える進んだ文明の存在が現れるという奇妙な現象を引き起こしたのは、間違いなくその『存在』が原因……だと隊長は言ってたわ……なぜその存在が地球と伍す文明を『東和列島』だけで持っていたかは……今は言えない。ああ、お魚屋さんに行くとわかっちゃうかも。東和の近海で獲れるお魚が全部地球の元日本近海で獲れる魚ばかり……その時点で誠ちゃんは『不思議だなあ』と思わないといけないのよね。そもそも他の人類と魚と日本由来としか思えない脊椎動物が東和列島に住んでいるだけという状況が異常なのは理系の人間なら変だと思わなかったの?」
確かに、秋には地球の日本の落語に出てくるという『サンマ』が一匹10円で売られるのが年中行事であること自体が奇妙な現象と言えば誠にも理解が出来た。まさか『サンマ』に数十光年を超えるような超空間飛行が可能な文明を作る技術が開発できないことは誠にも分かる。教科書で『独立戦争』としか習わなかった出来事の裏に、こんな泥だらけの現実があったのかと思うと、誠は喉の奥が詰まるのを感じた。
そしてこういったアメリアの理論の組み立ての背後に『駄目人間』である嵯峨の顔が誠の脳裏に浮かんだ。
嵯峨のことを思い浮かべるのは、隊長の語り口の一部が現実離れした比喩を好むからだ。だが比喩の中には真実が潜むことがある。誠もこれまでも何度もそんな場面に出くわしてきた。
「そしてその『存在』は遼州人が地球の日本の『ある時代』を模倣することで生き延びるすべを見出した……その時代……ちょうど地球の日本でも養殖とか漁業の近代化とかが叫ばれていたらしいわね。じゃあ、その『存在』はその事を知っていて魚屋さんに並ぶ魚をこの星に持ち込んだのかもしれないわね」
そう言うアメリアの顔は一切笑っていなかった。これが何の根拠もない作り話なら普段のアメリアなら大笑いするところである。しかし、誠は魚屋に並ぶ『サンマ』も『鯖』も『アジ』も『太刀魚』も当たり前モノとして受け入れてきた。それがその『存在』がなにがしかの誠の知らない意図でこの星に地球から持ち込んだものだったとしても。その事実を嫌でも魚屋と言う身近な空間で当たり前のものとして見ているだけに誠はアメリアの言う言葉を信じるしかなかった。子どものころから当たり前だと思っていた光景が、急に『誰かに用意された舞台装置』みたいに思えてくるのが誠には恐ろしかった。
「生き延びるすべ?ただ、魚が好きってだけじゃないんですか?」
誠の精いっぱいのその言葉にアメリアはにやりと笑って答えた。
「そう、地球で一番満ち足りていた時代……『日本』の20世紀末……その時代を模倣すればこの『東和共和国』は豊かに繁栄できると……誠ちゃんだって魚は好きでしょ?あの魚は地球で生まれて地球で進化した魚。この遼州で生まれた魚ではない。東和共和国の『意思』はよりこの『東和共和国』を20世紀末『日本』に近づけるために地球からあの魚屋さんに並ぶ魚たちを運んで来た……」
アメリアの言葉に誠はただ思い出をめぐらすだけで事足りた。
誠の思い出もすべを20世紀末の『日本』を模倣するものすべてであると思い知ったからだった。
「でも……なんで二十世紀末の日本なんです?それとなんでそんなに魚に拘るんですか?当時の日本の食生活を完全再現したいって……冗談もここまで行くと悪夢ですよ」
素直な疑問を誠は口にしていた。
「それは戦争も無いし飢えもない。国民総中流で貧富の格差も少ない……超富裕層が政治も経済も司法も支配する社会の今の地球圏から見ればある意味理想郷じゃない?ああ、魚だけじゃないわよ。だって、時々ニュースで『熊』が出たり『イノシシ』がでたって大騒ぎになったりするじゃない?そのどちらも二十世紀『日本』の哺乳類。この星で生まれた動物じゃないからその『存在』が望まない限りこの星には居ることはあり得ないわ」
そう言いながらアメリアは誠にウィンクした。
アメリアのウィンクは遊び心だが、それは同時に現実の残酷さへの小さな防御でもある。理想を選ぶことは安全を選ぶことでもあるのだ。
「別にそれは悪いことじゃないわよ。戦争ばかりのそのほかの時代を模倣するよりよっぽどまし。でも……ちょっと違うような気がしないでもないけどね」
アメリアはそう言って苦笑いを浮かべた。
『ちょっと違う』……その曖昧な感覚が物語を動かす。歪みはここから生まれるのだ。
「まあ、二十世紀談義はそのくらいにして……その『存在』はおそらくどこの『人間型』生物でも持ち得るありふれた『妄想』を持っていたのよ」
「『妄想』ですか?」
誠には『妄想』などは理想の女性像ぐらいの身近な『妄想』しか思いつかなかった。
「それは人間はいつか正しい世界を実現できるという『妄想』が。そして、『地球』には『妄想』についての具体的理論があり、『東和共和国』にはその『妄想』を具体化する『意思』があった……隊長もそこから先の話になるとすぐに話をごまかすのよね」
『駄目人間』の話をはぐらかすことにアメリアは不満を持っているらしかった。嵯峨のはぐらかしは、軍組織特有の生存戦略だ。時に真相を明かすことは部隊を危険に晒ことになる。誠はその事は十分理解できた。
「その『意志』がこの国の生活水準をその『意志』が正しい世界だと考えている20世紀末日本で止めている……隊長はそう言っていたわ。そしてそれに影響されるように他の同盟加盟国の元地球人の国の生活レベルもある時代で止めている。それがこの遼州圏を支配している『意志』が実現したあるべき社会の姿って訳」
アメリアはいつもの合えるか一句スマイルを浮かべながらそう言った。彼女の語る『止める』という表現は衝撃的だ。進歩を意図的に停滞させる『意志』が存在するという発想は、多くの人にとってディストピアを連想させた。
「それが正しいかどうかなんて私には分からないけど……隊長は無責任に『いいんじゃないの?それでこれまで困らなかったわけだし』ってそう言っただけだった。まあ、あの人も現状が困らなければそれでいいという考え方の典型的な遼州人だから。でもその『意志』が正しいかどうかなんて考えて無いみたい」
静かにアメリアはそう言った。
「『存在』……『妄想』……『意思』……『東和』……そんな『意思』がこのあえて遅れているこの国にあるなんて。その遅れている理由も『意志』の存在によりすべてが決められていたなんて……つまり、この国の『二十世紀末っぽさ』は、偶然でも政府が無能な訳じゃなくて、誰かの『こうあるべき』という意志の結果……?」
誠はただぼんやりとつぶやく。
アメリアの言葉は理解できない。
それが何を意味するのか分からない。
そして分かりたくなかった。
自分達は満ち足りているからあえて進歩しようとしていないんだ。
誠にとって東和の常識はその一言に尽きた。
正体もよく分からない『意思』とやらが誠達の生活を決定している。
そんなディストピア小説の一幕のような事実を誠は信じたくなかった。
自分たちは『足るを知っているから進歩しない』遼州人だから進歩を拒否していたんだ……誠はこれまでのそう信じていた時の方が、どれだけ気楽だったかと思い知った。




