第24話 自由人の歌と、残ってほしい男
結局、ちっちゃな鬼教官のランの監視を受けての走ることを命じられた誠だったがランの『今日は初日だから定時で許してやる』の一言で解放された。ほとんど動くこともままならない状況で誠を見捨てたことに罪悪感を感じて着替えを済ませたパーラに導かれるままに彼女の四輪駆動車で寮まで送られると早めの夕食をかきこんでそのまま泥のように眠った。
疲労の重みで、夢と現の境が薄くなる夜だった。天井の蛍光灯の残像がまぶたに焼き付く。日常は唐突に襲い、体力は無慈悲に奪われる。しかし身体の深いところにある『休ませていい』という許可を、誠は心のどこかで受け取っていた。
これまでの東和宇宙軍のパイロット教習課程でもこんなに体を痛めつけるような無茶なトレーニングを強制されたことは一度としてなかった。あくまで科学的により優れたパイロットを養成するという目的の下で作られた訓練課程にランの前近代的な思想の入り込む余地などありえなかったからだと誠は思い返した。
訓練の質は違えど、ここは『特殊な部隊』である。そしてランの言った『初日だから許してやる』ということは次はたぶん定時を遥かに超え深夜まで走り続ける日々が続くことになるであろうことを想像して恐怖に震えた。
疲れた脳に浮かんでくるのは体育会気質のランの偉そうなその『狂気』すら感じる幼く見える笑顔だけだった。
幼い鬼教官のランの顔は脳の片隅でループしていた。彼女にとっての理想は、身体で証明することだ。彼女の理想は鋼の肉体を持ち、どんな戦場でも揺らぐことのない精神を持った人物だった。そんな理想なら体育大学の体育学部の学生でも採ればいいじゃないか……と、誠がぼやいたことがあった。そのときランは、平然と『本当はそうしたかった』と答えたのだ。
それにうなされつつ誠は道場の生活習慣から日の出と同時に目覚めた。
規則は体に沁み込んでいる。畳の上で覚えた朝の所作が、ここでも同じように反射的に出る。目が覚めると、まず呼吸を整え、次に窓の外の空気を確かめる。外は日が昇ったばかりだというのにもうすでに熱気に覆われつつあり、街路樹の葉が光を受けて揺れていた。
「なまってるな……大学時代は運動なんてほとんどしなかったからな……まあ、ここに来るのが前提だったら東和体育大学にでも行くんだったかな……たぶんクバルカ中佐なら『その方が正解だ!』とか言い出しそうだな」
そんな疲労感の抜けない朝を迎えた誠の転属三日目の土曜日は休日だった。誠は筋肉痛に苦しみながら朝食をとるとそのまま寮の自室に戻ってベッドに横になった。
いかにも官給品の安いベッドのスプリングはきしみ、薄い掛け布団は熱を吸っていく。体の痛みがじわじわと染み出し、誠は窓から差し込む朝の光を見つめながら、何もしない時間の心地よさに身を任せる。
寮の天井にはシミが浮き、薄汚れていて、いかにも中古の建物を借りてでっち上げたものだということを誠に思い知らせた。
建物は古く、管理もギリギリだ。だが、そうした粗野な環境こそがこの部隊らしさを際立たせる。誠はそうした風景を、かつての道場の古さと重ね合わせる。古いものが持つ匂いと、それに慣れ親しんだ自分が悪くない。
「今日は……初めての休日か……どうしようかな……寝て過ごす……いや、これまでのパイロット育成訓練寮のあの自由の無い境遇から出られたんだ。何か自分で出来ることをしないともったいないような……でも体力を使うことは嫌だな……という過去の状態じゃ無理だ」
無為に過ごす時間は、慣れないと落ち着かない。誠はとりあえず配属になったら何をしたいかと思っていたことを順番に思い返した。
とりあえず体を動かして何かをするというのは足も腹筋も鉛のようになって動くこと自体かなりつらい現状ではその候補から外すべきだろう。
そんなことを感じながら天井を眺めていた誠の目の前に茶髪のヤンキーの顔が急に現れた。
「うわっ!」
寝惚けているところへ突如の登場。リアリティと非日常が同じ瞬間に交差する。誠は思わずのけぞった。
「なんだよ、気の小さい野郎だな……うちは『軍事警察』……つまりマッポなんだ。俺は何度も連中には世話になったがオメエみたいに気の弱い態度の連中は居なかったぞ。じぶんがマッポの手先だという自覚をもって緊張感をもって過ごせ」
ノックもせずに誠の私室に入り込んだ島田はタバコをくわえたまま誠の顔を覗き込んでくる。
島田は朝の空気に慣れているかのように悠然と構えていた。ベッドの上の誠の驚き顔を見て、楽しげに口角を上げる。彼の存在は、この部隊の『俗っぽさ』と『根っこの優しさ』を同時に示していた。
「ここは個室でしょ?いきなりなんですか⁉それにそのタバコ!僕はタバコの匂いは苦手なんで!」
突然の出来事に慌てながら誠は島田のタバコから出る煙をあおいだ。
喫煙の煙が部屋の空気を瞬間的に占拠する。匂いは強く、だがここでは気にされない。島田の姿勢は挑発的に見えて、実は世話焼きの兄貴分そのものだ。
「俺に意見か?一日ぐらい偉大なる中佐殿のしごきを受けたくらいでずいぶんとまあ偉くなったもんだなあ。まずオメエは俺の舎弟であるという自覚を持て。オメエんちゃあ俺に意見する権利なんかねえんだよ。ああ、オメエ宛にお前の母ちゃんからの荷物だと。それを運んできてやった機の効く兄貴分に感謝しろよ……それにしても母ちゃんから荷物……まだ母ちゃんが恋しいのか?マザコンか?俺はお袋は俺を生んですぐに死んだからお袋の顔なんて見たこともねえからマザコンという物がどういうものか分からねえ。今度一日マザコンという世の女に嫌われる嫌悪感溢れる奇妙な生命体として一日サラと一緒に観察日記をつけるから付き合え」
そう言うと島田は部屋の中央に置かれた大きめの段ボール箱を指さした。
箱は昨日の誠が受け取ったものかもしれないが、島田はそれを『ネタ』として持ち出す。男の冗談は下世話だが、そこに人情が滲む。誠は箱を見て、微かに胸が温かくなった。そして、島田の『母親がいない』という境遇を屈託も無くさも当たり前のように語る姿に少し違和感を感じていた。
「意見とかそう言う問題じゃなくて僕は当然の権利を主張しただけです!それに僕はマザコンじゃありません!それとサラさんと一緒に観察日記をつけたいから付け回すってなんですか?僕にもプライバシーがあるんですよ……僕は何時から舎弟から珍獣に格下げされたんですか?」
誠はそう言うとベッドから起き上がって段ボール箱の傍らに立った。
否定は即座に出たが、どこか嬉しそうだ。母の気遣いをありがたがる一方で、男のプライドも保とうとする。
「舎弟から珍獣……神前、良いこと言うな。でもまあ、アタシはあの西園寺のメカねーちゃんとは違ってちゃんと人間は人間として扱うことを心掛けてるからな。それよりその荷物はなんだよ、見せろよ……あれか?なんかいやらしいビデオとか入ってるのか?そうじゃなきゃ俺の行為は無駄だったことだな。もしそうでないならなんか礼はしろよ……俺は舎弟のオメエに俺の何の得にもならねえことをしてやったんだから」
にやけた表情の島田をにらみつけると誠は段ボールに手をやった。
島田の言葉はいつもの下世話な挑発。だが誠はそれを受け流しながら、丁寧に包みをほどいていく。箱の中身を見せることが、この関係の小さな儀式になっている。
「中身は分かってます!住む場所が決まったら送ってくれって頼んどいたんです」
誠の言葉に島田は意外そうな顔で鼻を鳴らす。男同士の軽口は、この薄汚れた部屋に響き、やがてどこか安心できるリズムを作る。
「へー」
野次馬根性で見つめてくる島田に見られながら誠は段ボールを開けた。中には道具箱と戦車のプラモデルが入っている。
模型箱の角の擦れ具合には、送り主の手の温度が僅かに残っている。誠はそれを手に取り、小さな世界を見つめるように箱の図柄を楽しんだ。模型は彼の静かな友だちだ。
「なんだ?それだけかよ……つまんねえし俺の行為は無駄だったということか?本当にやらしいものは何も入ってねえの?そんな個人的な趣味の物をわざわざ俺に運ばせたんだから、きっちり後で何か物で礼を示して見せろよ。それが俺の舎弟としての当然の義務だ」
呆れたような調子で島田が誠を見つめてきた。
島田は興味のない顔をしているが、誠が一つずつ取り出す様子をぼんやりと見守る。案外、彼もこの手の話は嫌いでないのかもしれない。
「いいでしょ!とりあえず休みの日にやることが無いと困りますから。その為に送ってくれるように頼んでおいたんです!ちょうど昨日はクバルカ中佐の無茶なトレーニングで動くのもつらいんですから!」
誠はそう言いながら部屋に備え付けられた机の上にそれらの品物を並べた。
机の上に並ぶ小さな部品は、無口な日常の友となる。ヤスリの手触り、接着剤の匂いは休日の静けさと合う。誠はその行為を思い浮かべるだけで、穏やかな満足を覚える。
「昨日のアレが辛い?そんな事あのちっちゃい姐御の前で言おうもんなら『役に立たねえ奴は死ね』とか言って手持ちの白鞘出来られるぞ。しかし、プラモかよ……つまらねえの。しかも見た感じ俺の知らねえ戦車だな。俺だって技術屋だから兵器の勉強はしてきたつもりだがこんな戦車見たことねえぞ。こんな戦車の専門書にも出てこねえようなマイナーな戦車なんて買う奴いるのかよ……って目の前にいるわけだな。そのあたりは理解した」
やる気のない表情の島田に見守られながら誠は戦車のプラモデルの箱を開ける。
模型の箱の絵柄は濃密で、過去の戦場の空気を一瞬にして呼び戻す。誠は少年の頃の好奇心を箱の中から掘り起こすように蓋を開ける。
「まあ、20世紀初頭からの戦車の専門書でもたぶんこの戦車は載っていないでしょうね……そんなに地球で開発された全部の戦車を載せていたら全何巻になるか分かりませんから。でも、この戦車は知る人は知る戦車で遼州圏のメーカーも何度か出してたこともあるんですよ。でも今は絶版なのでこれは地球のイタリア製の密輸品で高価な品物なんですよ。その名もM13/40。カッコいいでしょ!」
自慢げにパッケージを見せつけてくる誠に島田は明らかに関心を失ったような死んだ目で誠を見つめてくる。
島田の『興味なさ』もまた彼の愛情表現で、誠はそれを冷ややかに受け止めつつ心の中では嬉しく思っている。人付き合いの手の内を知るというのは、寮生活の基本だ。
「知らねえよそんな名前の戦車。そもそもどこの戦車だよ、その戦車。戦車と言えばふつうドイツだろ?ドイツの戦車にそんな戦車の名前はねえぞ。Ⅱ号戦車とかⅢ号戦車とか言うのがあの国の戦車の呼び方でゲルパルトの飛行戦車もそれを踏襲しているんだから。俺も飛行戦車の研究は軍人としてしてるんだ。馬鹿にするんじゃねえ。それに模型マニアが飛びつく戦車と言えばⅤ号戦車パンサーとかレオパルドⅡとかじゃねーのかよ……」
島田の言葉に誠は人差し指を立てて諭すような視線を送った。
「そんな誰でも知ってる普通の戦車は中学時代に卒業しました!究極の戦車はイタリア戦車です!戦車は戦うマシンじゃ無いんです!そこには人が乗っている……その背後には果てしないドラマが隠されているんです!」
誠の真剣な弁は、島田にとっては滑稽だが、どこか温かい。人は誰でも自分だけの「物語」を商品に見出したいものだ。誠はその淡い情熱を捨てずにいる。
誠のコアな趣味にドン引きしながら島田は立ち上がると大きくタバコをふかした。
「そんなもんか……俺も機械にも戦車にも詳しいつもりだがイタリア戦車が優秀だなんて話は聞いたことがねえ。で?そのM13とか言う奴。性能良いの?強いの?何度も言うけどイタリア戦車が強いなんて話は俺は聞いたことがねえぞ?」
島田は誠が持った戦車のプラモの箱を見ながらそう尋ねた。
「んー……まあ設計の思想にロマンがある、って言えばいいかな……あくまで自国の技術力と戦術レベルとしては最高限度の思想を実現した戦車と言う感じですかね……でもまあ、確かに第二次世界大戦に登場した他の戦車と比べるとあんまりよくないですよ……そもそも枢軸国はドイツ以外は工業力ではソ連といい勝負なのに一流のアメリカやイギリスと戦争したんですから戦車の性能が悪いのは当然のことなんです!まあ、敵が設計思想は第一次世界大戦のそれと言う時代遅れな割に装甲が馬鹿みたいに厚かったイギリスのマチルダ歩兵戦車とか、量産が簡単だからという理由で意味不明な飛行機のエンジンを使ったから正面面積が馬鹿みたいに大きいわりに75mm砲なんていう登場した時は反則クラスの火力を誇ったⅯ3リー戦車とかだったんで……一方的にやられました……」
誠は落ち込んだ口調でそう言った。島田も明らかに時代遅れの戦車であるという誠の言葉とプラモの箱の戦車を見比べながら誠を馬鹿にするような視線で見つめていた。その明らかに自分の好きな戦車を馬鹿にされたような感覚が誠のモデラ―魂に火をつけた。
「でも!日本の九七式よりはマシだから良いんです!そもそも火力を増すために口径を50mmから47mmにスケールダウンするなんていう、ほとんどギャグみたいなことをやった結果——ヨーロッパでは撃てば間違いなく火を噴くから『マッチボックス』と馬鹿にされたんですよ。頭に来たパットン将軍が『こんな使えない戦車じゃなくてパーシングをよこせ!』って大統領に直談判しようとしたほどの駄作戦車・M4シャーマンに機銃で撃破されたなんて伝説もあるくらいです!」
ここまで言った瞬間、自分がある地雷を踏んでいることを島田のに焼けた顔を見て気が付いた。
「……ああ、西園寺さんは地球人のハーフだとか言ってましたね。甲武国はその日本人の末裔の国でしたね……今の九七式戦車の悪口は聞かなかったことになりません?」
誠は淡々と欠点も含めて語る。美化しない姿勢が好ましい。島田はそれを聞くと、ため息交じりに鼻を鳴らす。
「ああ、俺もあのメカねーちゃんの拳銃は怖いから黙っていてやる。それよりそのM13か?弱い戦車だって言いてえんだろ?そんなの意味ねえじゃん。兵器は勝ってはじめて兵器なんだ。俺ら整備班には死にに行く操縦手の為のメカを弄る気分になんかなれねえな」
実務の感覚は容赦なく現実を切り取る。島田は現場で泥にまみれて働く男だ。夢とロマンを語る誠を優しく突き放すのは、結局のところ相手を思うからだ。
「性能じゃないんですよ!戦車ってのは!ちっちゃいわりに戦場では頑張ったんですよ!エルアラメインの戦いではアメリカが中東での権益拡大のために大量にイランに在庫していた最新鋭のアメリカ製戦車で武装したイギリス軍相手に大敗を喫して敗走するロンメル将軍のドイツ軍の背後を守って奮闘して!命を懸けて戦ったんですよ!イタリア軍が逃げるしか能が無い軍隊なんて嘘です!あの戦いを見ればわかります!」
誠の熱弁は止まらない。彼にとって模型は単なる趣味を超えた、歴史へのリスペクトだ。
「へー。それでどうなった?」
関心なさそうに島田がそう言うのに誠はうつむきながら言葉をつづけた。
「全滅しました……アリエテ師団がそれでドイツアフリカ軍団司令、『砂漠のキツネ』と呼ばれたロンメル将軍のエルアラメインの戦いは枢軸側の敗北に終わったんです」
歴史の皮肉を受け止めつつ、誠は模型の細部に視線を落とす。小さな砲塔も、履帯のつなぎ目も、彼にとっては生きた証言者だ。
「だろうねえ……その箱に描いてある絵を見れば機械の知識のある俺なら分かるけど、20世紀初頭の戦車にしたら形が時代遅れの格好だもん。確かにお前さんの言う通り日本戦車は例外。アレは第一次世界大戦に使われるべき戦車だから。確かにそのことを西園寺さんに言うと射殺されるから俺も言ってねえけど」
島田は冷ややかにそう言うとタバコをくゆらせた。死と隣相手のパイロットの機体を扱っている島田から言わせれば、ロマンなんて言葉は、死なない側の勝手な言い分なのかもしれない……と、誠は少しだけ思った。
しかし冷ややかさの裏には、真剣に相手の話を聞いてやる余裕がある。島田は誠の少年趣味を責めるようでいて、その無邪気さを悪く思ってはいないのだ。
「まあいいや。プラモでも作って気を紛らわせりゃそれでいいんだ。今日、明日と休みなんだから、身体を休めて月曜に備えろよ」
そう言って島田は部屋を後にした。
ドアの閉まる音が小さく響く。誠は残された静けさを楽しむようにため息をつき、机の上のパーツを並べる。休日の時間はやはり心地よい。
「さてと……ニッパーや紙やすりはあるけど、他にもほしいものがあるからな。よし!今日は豊川の街に出てプラモ屋を探そう!『特殊な部隊』のしごきなんかには負けないぞ!歩くぐらいならちょうどいい筋肉痛のリハビリになる!僕も良いことを考えるものだ!」
誠は自分に言い聞かせるようにそう言うと立ち上がって私服の入ったバッグに手を伸ばし、街に出かける準備を始めた。
外へ出る足取りは軽い。道具を買うという行為は、作業への約束であり、心の休暇の延長だ。誠は静かに嬉しさを噛み締めながら寮の階段を降りる。
「いっぱい買っちゃった」
それから数時間して誠は初日に行った月島屋のある商店街で見つけた小さな模型店で買った袋を下げて寮の自分の部屋の扉を開けた。
袋の手触りは紙の擦れる音と、細かな箱の重さが伝わる。休日の収穫を胸に、誠は鍵を回す手が少し震えているのを感じた。期待という小さな高揚感が、体に心地よい。
「あれ?出かける時に空調は止めたつもりだけど……」
ひんやりとした自室の空気に違和感を感じながら部屋の戸を開けると、誠はそこに人影を見つけた。
人影は、まるで日常の侵食者のように戸口に立っていた。だが侵食者の正体はやはり『同僚』であり、安心の木陰でもあった。
「よう!」
おかっぱ頭に黒のタンクトップ。
そして左脇には愛銃『スプリングフィールドXDM40』。それは西園寺かなめ中尉だった。出かける直前に島田とかなめの悪口で盛り上がっていたことを思い出し誠の背中に寒いものが走った。
かなめの存在はいつも予定外を連れてくる。だがその予定外こそが、寮生活のスパイスだ。彼女がいるだけで部屋の空気が一変する。気の強い彼女なら男子寮だろうが関係なくふらふら訪ねてきても少しも不思議でないと感じるのが誠にも不思議に思えた。
「なんだ、西園寺さんが来てたんですか……別に僕は島田さんと一緒に西園寺さんを怒らせて射殺されるような西園寺さんの悪口は言ってないですよ……ええ、言ってないです」
誠は誤魔化すようにそう言いながら手提げ袋を部屋の片隅に置いた。
「アタシの悪口?いいよ、今のアタシは機嫌が良いんだ。完璧な人間なんて居ねえのはアタシも知ってたから好きに言いな。それに島田の馬鹿の言うことだ。馬鹿の言うことをいちいち気にしてたら世の中疲れてやってランねえよ。それにしても……なんだ、男子下士官なんて戦場では消耗品でしかない兵隊に割り当てられた割にいい部屋じゃねえか。馬鹿の島田が寮長をやってるって聞いてたからもっと壁に落書きでもしてあるような部屋を想像してたのに」
かなめの視線は鋭くも無邪気で、誠の部屋を一瞥して評価する。外観や豪華さで価値を決めない誠にとって、その雑な観察はむしろ快い。
「なんでそんなゲットーみたいなイメージなんですか?島田先輩は何者なんですか?ああ、あの人は暴走族だからコンクリートの壁を見るとスプレーで落書きをしないと気が済まないとか言うところはありそうですけど」
さすがの誠もかなめの島田に対する偏見には異論を覚えた。それと同時に島田の行動パターンがあまりに誠が知っている『ヤンキー』や『不良』や『暴走族』のそれと一致しているのであながちかなめの偏見も全否定する勇気も誠には無かった。
「そりゃあヤンキー……じゃなきゃ元暴走族。ああ、東和陸軍に入ったら今頃は特殊犯罪に手を染めて塀の中にでもいたんじゃねえの?特殊詐欺の受け子とか……ああ、アイツ口は立つから掛け子の方が似合うか」
ベッドに腰かけて真顔でそう答えるかなめを見ながら誠は呆れたように立ち尽くす。
かなめの一言は単純だが、そこに含まれる意味は深い。ヤンキーとは単なるファッションではなく、仲間を守るための姿勢だ。誠はそれが嫌いではない。が、暴走族……そして特殊犯罪者となるともうすでに島田は社会の敵だとかなめは見なしているようなものである。
そんな誠はかなめの隣に置かれた意外なものに目をやった。
「あのー……それ、ギターですか?」
かなめの足元にあるギターケースを見てそう言った。いかにも年季を感じさせる黒いギターケース。乱暴者のかなめらしくあちこちに傷があるのが誠には少し安心感を感じさせた。
「なんだよ。アタシは楽器は得意でね。それともオメエはアタシが銃以外を持ってるのが不服か?ちなみにアタシは地球圏で作られた弦楽器のほとんどは引けるんだぜ……特に最初にならったのは琵琶で次が琴。特に琴の腕は……たぶんアタシの引いた曲は正月になると東和の正月番組のオープニングには必ず流れるからオメエも聞いたことがある。というかあの曲をレコーディングした時はアタシは15だったからその翌年から正月になると必ずアタシの演奏した琴の曲……ああ、『春の海』っていうんだぜ、あの曲。アレをオメエは嫌だと言ってもテレビで聞いてきたわけだ。ああ、つまんねえ自慢話はアタシらしくもねえか」
かなめの問いは少しふざけているが、その眼には真面目さもある。人は銃だけでは生きられない。心の拠り所が必要なのだ。
「そんなことは無いですけど……それと琵琶と琴って……しかもあのお決まりの正月の曲って西園寺さんがあの琴を弾いてるんですか?というか西園寺さんは何者ですか?そんな東和のすべての放送局であの曲が流れるなんて……確かにただのSEだから誰が弾いてるかなんて考えたことも無いのは事実ですけど……それより、ギターの次はベースギターとかじゃないんですか?普通」
かなめは誠の言葉を無視してギターケースを開けた。
「アタシが最初にならった楽器は琵琶だ……次が琴で、他にも友好国のゲルパルトではクラッシックが盛んだから、バイオリン、チェロ、コントラバスなんてのは当たり前だな。まあ、お袋が『かえでが出来るんだからあなたもできるでしょ?』とか妹の付き合いでバイオリン以下はやってた。ただ、うちの近くに住んでた東和に憧れてる住人が弾いてたギター以上にアタシの心をつかんだものはなかった……だからギター以外は銃でも突き付けられなきゃ弾きたくねえな」
そんな独り言を言うかなめの手の中に年季の入ったアコースティックギターが納まる。
ケースの内張りは擦れ、弦の光は少し曇っているが、それでもギターは気品を失っていない。かなめの手に馴染む姿は、不思議な説得力がある。
「なんだかギターって……西園寺さんにぴったりですね……でも琵琶は……そう言えば隊長室には琵琶がありましたね……それと西園寺さんの話と関係あります?」
かなめはいつも黒いタンクトップに茶色いホルスターに銃。そしてダメージジーンズと言う姿である。今日も休日だというのに銃を持ち歩いているが、ギターを弾くときは邪魔になるというように誠のベッドの上にホルスターは投げ捨てられていた
「褒めてもなんもでねえぞ。下手な世辞はアタシが一番嫌いな言葉だ。それとアタシとあの『駄目人間』の関係も詮索するな。それはアタシにとっては恥以外の何物でもねえ」
そう言って、かなめは笑いながらギターを軽く撫でた。
その仕草には無骨な優しさがあり、誠は思わず息を飲む。かなめの粗暴さは外側だけで、内側には繊細な層があるのだ。
いつものガサツなかなめとは違い、その手つきには優美さを感じさせた。
「好きなんですか?ギター」
誠は腕慣らしにギターをつま弾くかなめを見ながらそう言った。
「嫌いで弾く馬鹿はいねえだろ?それよりいつまで立ってるつもりだよ。そこに座れよ」
ベッドに腰かけたかなめは部屋の中央で立ち続けている誠にそう言った。
言われるままに誠がベッドに座ると、かなめはぎこちないが丁寧にギターを構え、指先で弦に触れた。音が柔らかく、部屋の余韻を満たす。
仕方なく、誠はその場に腰かけた。
「西園寺さん。でもいきなり僕の部屋でギターを弾くなんて……何かあったんですか?」
誠は改めて一度考えてみてなぜかなめがここにいるのか不思議に思ってそう尋ねた。
「何にもねえよ。涼しくなれば千要駅前の広場とかで弾くんだけど……この気温じゃ客も集まらねえ。それにアタシは自由人なの。ギターを弾きたいときに弾いて歌いたいときに歌う。それだけ」
そう言うとかなめはギターをかき鳴らし始めた。
予想外の旋律が部屋に広がる。かなめの声は低く、かすれていて、しかし奥の方に強さを秘めている。誠は思わずその声に耳を傾ける。
「聞いとけ。アタシの歌」
そう言うとかなめはゆっくりとした曲を弾き始めた。
導入のコードは懐かしさを誘い、そして歌は語りかけるように進む。かなめの歌声は、過去の痛みと諦観を含む一種の宣言だった。
初日にカウラの『スカイラインGTR』の中で聞いた二十世紀の女性シンガーの曲を思わせるどこか切ない旋律が誠の部屋に響いた。
『……アイツのことを……思いながら……アイツが誰かのものになる夢を見て……』
言葉は朧げで、しかし情景は鮮やかだ。かなめは自分の声を道具のように使い、歌で自分を表現している。
彼女のかすれたような歌声にマッチした悲しげな旋律だった。
『……アタシもいつの間にか違う男に抱かれて……それで良かったと安心してる……』
歌詞の断片が漂い、誠の部屋の空気が濃密になる。かなめの歌は、普段見せない感情の脈動をここに取り出している。
悲しいすれ違いの恋の歌。恋の歌のほとんど存在しないこの東和共和国から出たことのない誠にはある意味新鮮に感じる歌だった。
どこかかなめに似合っているようで誠は彼女の歌に聞き入っていた。
かなめが歌うのは道ならぬ恋に悩みつつ前を向いて生きていく強い女性の歌だった。
強さと弱さが同居する曲だ。かなめは鋭く、しかしどこか守られることを欲しているようにも見える。そのギャップが誠の胸を打った。
『西園寺さん……歌が上手いんだ……人にはこんな一面もある……僕が見ていた西園寺さんは西園寺さんの一部でしかないんだな』
誠はサビに行くにしたがって盛り上がっていくかなめのギターと歌声を聞きながらそんなことを考えていた。
かなめの絶唱が終わると、ギターの音が止み静寂が訪れた。
余韻が床に溜まるように、二人の間に小さな静けさが横たわる。誠はその静けさを大切にした。
「西園寺さん……」
誠は笑顔で気持ちよく余韻に浸っているかなめの顔を見つめた。
「これは昭和の歌手にインスパイアされてアタシが作ったアタシのオリジナル曲。いつもは中島みゆきや森田童子のコピーを弾いてるが、オメエにはアタシのオリジナルを聞いてもらいたくなった。路上でも聞けねえレアな曲だぞ。ありがたく思え。アタシは歌いたいから歌った。アタシは趣味で休日には駅前の路上でこんなことをしている。そん時はほとんど昭和歌謡的のカバー曲ばかりだがな……ははーん。その顔はアタシがそんなことをするのは意外だって思ってる面だな」
ギターを仕舞いながらかなめは誠をいつものガラの悪そうな視線でにらみつけた。
その言葉の端に含まれる自慢と照れは、かなめの不器用な優しさだ。誠はそれを受け止め、ほんの少し顔が赤くなる。
「そんなこと無いですよ!強く生きていく女性を歌うのは西園寺さんに似合ってると思いますよ!」
取り繕うように首を振りながらそう言う誠をかなめは白けた瞳で見つめていた。
「今日ここに来たのはアタシの気まぐれだが……話は変わるが、オメエには残って欲しいんだ。うちにな。歌ってる間にアタシはそう思った。そんな時のアタシの勘は大体あってる。オメエにはここに残る必要がある。それがオメエの為にもなる。アタシはそう思ってる」
そう言いながらかなめはギターケースを膝に乗せて誠のベッドに腰かけた。
かなめの表情の裏に、言葉以上の誠への思いが滲む。気づかないくらい小さな示唆だが、それは誠にとって暖かく、根を張るようにじんわりと効く。前にパーラに『一緒に逃げよう』と言われた時とは、まるで正反対の誘い方だった。
「残って良いんですか?」
誠はかなめの本心かららしい言葉に少し心を動かされながらそう言った。
住み慣れない世界に根を張るには、誰かの一押しが必要だ。誠はその手をただ受け取るかどうかを試されている。
「そうだ。オメエをうちに根付かせるのが隊の方針だけど、それだけじゃねえ。アタシ個人の勘がオメエはうちに必要な人間になるって言ってるんだ。アタシの勘は間違いねえ。さもなきゃアタシはそもそもここでこうしてギターを弄っちゃいねえ」
かなめの言葉には意外と確信がある。訓練の荒波に揉まれた彼女の直感は、当てにならないようで当たることが多い。誠はそれを心地よく感じた。
「必要な人間……ツッコミとしてですか?」
誠は気まぐれそのもののかなめの言葉に半信半疑でそう返した。
場が和む中で、誠の『ツッコミ』はチームの潤滑油になりうる。彼はそれを自負していないが、周囲はそれを期待している。
「確かにオメエのツッコミはうちに必要だが、それだけじゃねえよ。オメエの人柄がうちみたいなはみだしもんの寄せ集め部隊には必要なんだ。まずは、アタシのギターのリスナーとして必要だ。それだけの理由じゃ不満か?」
そう言うとかなめは立ち上がってギターをギターケースに仕舞うとベッドに投げ出されたホルスターを着用して帰り支度を始めた。
その言い方は不器用だが誠の胸には確かな温度が残る。かなめの優しさはいつもポーカーフェイスの裏でこっそり働いている。
ああ、たぶんこの人は、自分の歌を『分かってくれそうな相手』の前でしか歌わないんだろうな、とホルスターの位置を調整しているかなめの背中を見ながら誠は直感した。
「もう帰るんですか?」
慌ててそう言った誠にかなめは呆れたようなため息をついた。
「アタシの勝手だろ。アタシは好きに生きてるの。オメエがどうこうできることはねえよ」
そう言って笑いながらかなめは誠に背を向けて歩き始めた。
言葉通り、かなめの生き方は自由だ。だがその自由は、時に責任を伴う。誠はその微妙なバランスを見定めようとしていた。
「あの、寮の入り口まで送ります」
「いいよ。オメエも昨日は一日走って疲れてんだろ?しばらくは姐御の基礎体力トレーニングが続くから……そいじゃ!」
軽く笑ったかなめはそのまま誠の部屋を出て行った。
扉が閉まる音は小さく、その後に残るのは空気の温度の違い。誠はしばらく座ったまま、さっきの歌とかなめの言葉を反芻する。
「西園寺さん……あれがあの人なりの気の使い方なんだな……『リスナーとして残って欲しい』か……それも悪くないかも」
誠はなんだか優しい気分に包まれながらかなめの座っていたベッドの縁に腰を掛けてぼんやりと部屋を眺めていた。
休日はいつの間にか夕方に近づき、静かな生活の小さな充足が心の中に積もるのを感じていた。




