第百七十一話
男性に案内された先は確かに宿屋だった。やや古風、趣のある、独特の雰囲気の、など色々な表現はできるが、端的に言えばぼろい宿だった。
「ここがうちの宿だ。見かけは多少アレかもしれないが、サービスは悪くないぞ」
堂々と言う宿の主人にアタルが持つ選択肢は一つしかなかった。
「一晩厄介になるよ」
ここに来るまでも他に宿がある様子がなかったため、この返事が出るのは当然のことだった。アタルが決めたことであればとキャロたちは特に異論は出さなかった。
「毎度どうも、それじゃすぐに部屋の準備をするからエントランスで待っていてくれ」
少しきしむような音を立てて扉が開き、エントランスと呼ばれた場所でアタルたちは待機する。
「エントランス……ねぇ」
待たされている間にアタルが周囲を見渡す。受付前はエントランスと呼べるような場所ではなく、申し訳程度のカウンターとボロボロの椅子とテーブルが置いてあるだけだった。
「なんか、すごいですねっ」
苦笑交じりのキャロも言葉を濁してはいるが、良い印象を持っていないのは明らかだった。奴隷生活で環境の悪さに耐性があっても、この場所は宿屋と名乗るのはどうなのかなと思っているようだ。
「……とりあえず雨露をしのげるだけありがたいと思うしかないな」
旅の途中は全てが快適と行かないことを理解しているアタルも仕方ないと無理やり自分を納得させていた。
今にも壊れそうな椅子に座る気にもならず、立ったまま待っていると宿の主人が戻ってくる。
「待たせたな。上がって一番奥の右手の部屋だ。これがカギになる」
細かい条件を説明せずに、主人はカギだけ渡すとそのままカウンターの奥に引っ込んでしまった。
そのことがさらにアタルたちの心証を悪くした。
「……どうする?」
「……どうしましょうか?」
『行かないの?』
きょとんとした表情のバルキアスは既に階段をあがろうとしていたが、立ち尽くしたままの二人に首を傾げる。
宿屋であれば通常あるような料金や宿泊日数、細かいサービスなどの話を聞いていないため、部屋に向かうのもためらわれていた。だが主人が戻ってくる気配もなく、バルキアスも部屋に向かう気になっているので、アタルたちは仕方なく二階に上がっていくことにする。
「ここか」
あてがわれた部屋は、唯一部屋番号が扉に書いてある部屋であり、カギについている番号とも一致していた。
カギを開けて入ってみると、古い室内には似合わない新しいシーツのかかったベッドが二つ用意されていた。ベッドだけがこの室内で浮いた存在として見える。
「まあ、これくらいはしてもらわないとな……」
「で、でも、お部屋はわりと綺麗ですよっ! ほら、窓をあけ……あれ?」
空気を入れ替えるべくキャロが窓を開けようとするが、かたくて開かないようだった。
「……壊さないようにそのままにしておくか」
採光がとれず、唯一の灯りは申し訳程度に置いてあるランプだけだった。
ため息交じりにアタルはベッドに腰かける。
「とりあえず、そろそろ日も落ちるから部屋で飯を食ってゆっくり休むことにするか」
「そうですねっ、正直ご飯を出してくれたとしてもちょっと不安です……」
衛生的にも味的にも期待が持てないと思ったキャロもアタルの意見に賛成する。
『僕もお腹空いた!』
バルキアスは、そんなことはどうでもいいから早くご飯をと口を開き、尻尾を上下に動かしていた。
「ははっ、バルはそんなに空腹なのか。わかったよ……その前に明るくするか」
無邪気なバルキアスに癒されながらアタルは魔法で光の玉を作り出すと天井で待機するように打ち上げる。
「これで見やすくなったな。それじゃ食事を出すとするか」
カバンの中から三人分の食事を取り出し、みんなでいただきますと挨拶をしてから手をつけた。
「うん、美味しいですっ」
『美味しいねぇ』
部屋を満たす食欲をそそる匂いにつられてすぐに手をつけたキャロは美味しい食事にほっとしたような笑顔に、バルキアスはとろけるような表情になっていた。
「さて、それじゃ俺も……誰だ?」
二人の表情を穏やかな気持ちで見ていたアタルはふと部屋の外に誰かの気配を感じ取ったため、食事の手を止めて扉に向かって声をかけた。
しかし、ガタッと音がするだけで向こう側から返事は返ってこなかった。
「……見てくるか」
警戒したアタルは気配が遠ざかったことはわかっていたが、念のためそっと扉の外を見る。
「人、それも複数か。靴あとから見て店主じゃないな」
床を見るとあまり掃除をしていないせいかかなりの埃がたまっており、ここに先程までいたであろう人物の靴あとを残していた。
「わかるんですか?」
「あぁ、店主の靴は底が平らな靴だった。この靴あとは旅人が履くようなものだ」
どちらも特徴はあまりないが、埃のおかげで新しいものだということがアタルにはわかった。
『くんくん、なんか変な臭いがする』
埃を吸い込まないように気を付けつつ床に鼻を近づけたバルキアスは、一般的な人の体臭とは別の臭いを感じ取っていた。
「様子見だったのか、俺たちを探ろうとしたのか……明日は早めに出ることにしよう」
扉を閉めながらのアタルの言葉に同様の考えを持った二人は頷いて返した。
食事中の事もあって夜間に敵襲があることも考え、三人は交代で番をすることにする。それぞれが気配察知能力に長けているため、見張りをするのに向いていた。
翌朝
魔法の光でほんのり照らされた室内で、アタルは体感時間で朝を迎えただろうと判断して周囲への警戒を緩めることなく立ち上がる。最後に見張りを担当したのはアタルだったため、二人を順番に起こしていく。
「キャロ、バル、起きろ」
二人にそっと声をかけながら、順番に優しく身体を揺すっていく。
「う、ううん……おはようございます」
『……おはよー』
落ち着かない環境のせいで二人とも眠りが浅かったらしく、すぐに目を覚ます。ひとまず何も起こらずに朝を迎えられたのだと息をつく。
「まだ夜があけて間もないが、そろそろ準備をするぞ」
アタルは既に身支度を整えており、二人もすぐに着替えを終える。鎧など最小限に外していただけだったため、すぐに完了した。
「さて、ここから何があるかわからないが……行くぞ」
まるで戦いに行く前のような気持ちを持って部屋の扉を開けると、階下にある受付へと向かう。相変わらず埃が積もったままで全体的に汚い。
「おや、みなさんこんな朝早くから出発ですか? なら、まずは料金の精算をお願いします。銀貨三枚になります」
アタルたちが下に降りてくるとちょうどエントランスにいた男性と鉢合わせした。特にサービスはされていなかったが、この金額なら法外な値段ではないため、アタルは支払うことにする。
「あぁ、これでちょうどだな。世話になった」
「毎度どうも……それではくれぐれもお気をつけて」
含みを持たせたような口調の主人の言葉にひっかかりを覚えながらも、アタルたちは宿を出た。
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