十二話
目の前に尻があった。
現状を明確に説明するには最も適した一文であると自負できる自信が俺にはあるのだが、それだけでは現在に至るまでの経緯を上手く推測することが困難であるため、俺はもう少し目の前の尻を観察しようと思う。
まず第一に、白いフリル付きの裾丈が異常に短い黒ワンピースから覗く、真っ白でありながらムッチリとしている太ももに俺の視線が集まってしまっているのは今更言うまでもない事実だ。もう少しでおパンツが見えてしまうのではと期待してしまうのは男として当然の願望であるし、そしてその願望を叶えるために行動してしまうのも、これまた男として生まれたからには当然の事象であり、自明の理でもある。
つまりは、原因不明の意識混濁から目覚めた俺は、それらの疑問を思考の隅に追いやって目の前に降臨していらっしゃる御尻様に、全ての意識と情熱を向けている訳なのだ。現状なんて知ったことじゃない。俺にパンツを見せてくれ。
とまあ、欲望を全開にしている俺は今、何処とも知れない場所で横向きに寝転がっている状態で、眼前にてふりふりと左右に揺れるお尻をジーと見つめている。左右ではなく上下に揺れればおパンツを拝見できる確率が急上昇すること間違いなしであろう、超ミニ丈のワンピース様に全身全霊の賞賛を送るのも紳士として忘れてはいけない責務だと俺は考えている。しかし、パンツを見せてくれない事にはお話にもならない。ので、
「尻イイイイイイイイイイイイイ!!」
俺は謎の怠慢感に苛まれている己が肉体にムチを打ち、全力前進で眼前に聳える真っ白な太ももに飛びついた。その尻にブラックホールが発生したのではと想像してしまうくらいに、俺の身体は予想を上回った速度で飛びついてしまった。
血液不足による思考能力低下が招いた愚かしい行動だという事に、今の俺が気付けなかったのは仕方がない事だと思う。性欲が溜まっていたとか、決してそんな卑猥な話ではないのだ。
「うきゃあ!?」
俺の顔面が柔らかい感触を感じた瞬間、耳を打つ可愛らしい女の子の声。
声音的に少女だと判断できたが、今の俺は尻の感触を味わうのに忙しい。このままフローラルの香りを放つ極上尻に埋もれて一生を過ごしたいと考えてしまう俺は異常者ではないはずだ。きっと、世の男性諸君もこの尻の魅力に気付けば俺と同じ結論に至ることは確実だろうからな。
だが、この幸福が無限に続いてくれるのかと聞かれると、それは否定せざるを得ない。
俺が尻の感触を顔面全体で味わっていられるのは、コンマ五秒から一秒の間くらいであるからだ。これ以上の時を幸せの中で過ごすことは、尻の保持者が絶対に許してはくれない。何故なら、
「この――ド変態野郎!!!」
「ブゲハァッ!!?」
予想すら出来ないほどの、手痛い逆襲が待っているからだ。
俺の場合、顔面への拳骨であった。岩石のように固く握り締めた拳を高く掲げ、それを鼻っ面目掛けて全力で振り下ろすのだから、その激痛については説明するまでもないと思う。
ゴキッ!! て言う凄まじい音が俺の顔面から発生した。
鼻が陥没したのではなかろうか。ゴルフボールを嵌め込むことができるくらいの穴が出来たのではないだろうか。それはもう、言葉では表現できない痛みだ。
「ブホッ!? べばぼべぼ!??」
実際に、言葉にならなかった。
顔面の形が変形しているせいで呂律が全く回らない。こんな体験は初めてだ。
「こ、この野郎!! 女の尻に顔を埋めるなんて何考えてんだ!! バーカバーカ!!」
俺は寝台にしていたベンチから見事に落下し、そして地面をのたうち回った。
少女の尻に顔を埋め、そして殴られて地面を転がる男が此処にいた。
……俺だった。信じがたい事実である。
「おい、変態! いつまで寝てやがるんだ! さっさと起きろ!」
「ばべばべんばいば(誰が変態だ)!」
言葉にならない謎言語を発しながらも、俺は震える足に力を入れて立ち上がる。K.O寸前のボクサーみたいな有様だと言えば、俺の状態をより理解しやすいと思う。人の身から逸脱している俺にこれだけのダメージを与えるとは……この尻少女、侮れん。
「イテテテ……」
陥没したのではないかと恐る恐る顔面に手を当ててみれば、鼻は何とか原型を保っていた。
良かった、陥没してなくて。鼻血はドバドバと流れ出てはいるが、それぐらいなら許容範囲内である。適当にティッシュでも詰めておくとしよう。
「自業自得だ変態。一体何がしたかったんだよ、お前」
「いや、目の前にふりふりと揺れる尻があれば、飛びついてしまうのが男の性でして」
「べ、別に振ってねえよ!! お前がいつまでも寝てるから、暇潰しに準備運動してただけだし!」
「あらそうですかい……って、此処はどこだ……?」
憤慨している少女を無視し、周囲に視線を向けて自分が居る場所を確認する。
眼前には怒り猛る美少女。
美少女の背後にはブランコ。その隣には象さんを模して作られた滑り台。
そして俺の後ろには、俺が寝台代わりにしていた緑色の木製ベンチ。
「此処は……公園か?」
さっきまで尻に夢中で気付かなかったけれど、見覚えのある公園だ。
家からそれほど離れていない距離にある公園だったはずだ。確か名前は白蛇河公園だったか? 小さい頃はよく美沙と一緒に遊びに来ていた記憶がある。
「何でこんな所に? ……くそ、尻の感触しか覚えてねえ!」
「そ、そんなもんは今すぐ忘れろ!! このペド野郎!!」
うむむ、随分な言い草だな、このワンピース少女。
ていうかお前、ペドって言うほどの見た目でもないだろ。その慎ましいながらにも中々に将来性を感じさせる乳に、ムッチリとした触り心地の良さそうな太もも。何よりあの柔らかいお尻だ。十分に性的な目で見られても不思議ではない体をしてたぞ。身長だって、180センチある俺の肩くらいには余裕であるみたいだし。
まあ、尻に顔を埋めた俺に非がある訳だから、わざわざ言い返したりはしないけれど。
「あはは、その件についてはとりあえず置いとこうではないか。色々と聞きたいこともあるし」
「……その露骨な話題転換についてツッコミを入れたところだが、今は見逃してやる」
白髪、いや銀髪と表現したほうが正しいであろう髪色をした少女は、不承不承といった様子で腕を組み、そして深い溜息を吐いた。その開いた可愛らしい小ぶりの唇からは、ナイフのように鋭い八重歯が見え隠れしている。さながら吸血鬼のようだ。
しかし、その会話力だけは頂けないな。
俺の巧妙に隠された話題変換に気付いた洞察力は認めてやるが、見逃す気があるのなら態々言わないでくれよ。空気がギスギスしちゃうだろうが。折角シリアスっぽい雰囲気を演出しようとしたのに。
「で? 聞きたいことってのは何だ? 気分が良ければ教えてやらんこともないぞ」
やはり偉そうな態度を取る銀髪娘。
こんにゃろう、もう一回お尻に顔を埋めるぞ。そんで次はパフパフするぞ。
「なんでそんなに偉そうなんだよ、お前。……まあそれは良いとして。
――お前、何者だ?」
ド直球に、包み隠さず質問してみる。
普通の人に『お前、何者だ?』と質問したとしても『一般人です』としか答えられないであろうが、普通の人にはない何かしら特別な要素を持っている人間にならば、この質問は有効だ。正体とはつまり、その人の本質についてを表しているのだ。つまり普通の人の本質は『普通』。当然のことだ。
その点、この少女の本質は間違っても『普通』でない。日本では有り得ない格好や身体的特徴も然り。
そして何より……『人ではない匂い』がする。この感覚は俺の感性ではなく、おそらくタマのものだろう。アイツが俺と融合してしまった以上、肉体面だけではなく、俺の意識にも何かしらの影響が出ていると考えるのが妥当だ。
余談ではあるが、俺の順応能力は常人よりも遥かに乏しい。
高校に入学した当初も、俺は新しい環境に馴染めずに友達を作るのも相当苦労していた。まあ、この点は美沙という圧倒的なカリスマ性の持ち主と知り合いだったため、その繋がりで友人を作ることも出来た。つまりは美沙目当ての男共が群がってきた、という結果な訳ではあるが、それでも中々に面白い友人関係を構築できたと俺は思っている。
そんな、自分ひとりでは友達を作ることすらも満足にできない俺が、突然妖怪と合体したという事実を突きつけられて平静出られるであろうか? いや有り得ない。俺の神経はそこまで図太くは出来てない。散々に取り乱した挙句に引き篭るのがオチだったはずだ。
ならば、どうして俺はタマの存在を簡単に受け入れ、そして体内の居住を許しているのか。
――それは、俺自身が人外になってしまったからに他ならない。
自覚はあった。人見知りである俺が、出会って間もないタマとは簡単に軽口を叩けていた。
それどころか、タマの存在を幻聴として処理することなく妖怪として素直に認めてしまうなど、それこそ疑り深い俺の性格からしたら有り得ない事だ。
つまりは、タマと融合したことで俺の価値観が大きく変質させられた、という事だ。
今では妖怪の存在も信じているし、陰陽師や祓魔師の存在も心の底から信じている。
それは全て、タマからの影響なのだ。
明言しておくが、これは価値観の変質であり記憶の改竄ではない。
だから俺には妖怪や陰陽師だとかいうオカルト系の知識は皆無に等しいわけだ。
でも、それでも目の前に居る少女が異常であることくらいは感じ取れる。視線を合わせるだけで恐ろしいと感じてしまうほどの、人間では実現し得ない圧倒的強者の雰囲気を放っているのだ。
「……ほう。お前、ただの人間ではないらしいな。そういえば、血の味も最高に良かったな。未だに食した事のない、甘露にして濃厚な味わいだった」
「……血?」
「覚えていないか? 私はお前の首筋に牙を突き立て、そして血を頂いたのだ。余りにも美味くて吸い尽くしてしまいそうになったがな。流石は穢れを知らぬ童貞だな」
そう言い、桜色の唇を真っ赤な舌でペロリと舐める少女。
この女……つまりは俺の血を吸ったということか。ならば立ち眩みのようなあの症状も、血を吸われた影響ってことか。ていうか、童貞とか言うんじゃねーよ。この年齢の男の子に対しては禁句なんだぞこのやろう。まあ、隠したりはしてないけどさ。
(童貞の血が美味くて、そして首筋に噛み付く……か)
それなら導き出される正体は一つしかない。俺のちっぽけなオカルト知識の中で、鋭利な牙を突き立てて生き血を啜る化物など、あれくらいしか心当たりがないからな。
「お前、吸血鬼か」
確信しているような口調で俺は言った。
こんな中二病とも思える言葉を人様に向けて言うには中々に覚悟が必要だった。お前、吸血鬼か……なんて日常生活ではまず言わないフレーズだろう。俺も二度と言いたくない。
だが、俺の言葉は正しい。
この少女は吸血鬼。またはそれに準ずる何かだ。それだけは断言できる。
上手くは言えないけれど、俺の変質した価値観がそう告げている。
「ククク、その通りだよ。私は不死者の王にして生死の狭間に存在するフリークス。……と人間のハーフに当たる存在だ。つまりはダンピール、明確に言えばヴァムピーラである訳なのだが、言難いのであればヴァンパイアと呼べばいいさ。大して変わらないからな」
ニイっと牙を剥き出しにして凄惨な笑みを浮かべる吸血鬼。
何処までも透き通りそうな白い肌が、その凶悪な笑みを更に引き立てるように朱色に染まった。
(やっぱり……か。何でこの短期間に怪物と三度も邂逅しなくてはならんのだ)
タマ、妖魔、そして吸血鬼。
こんなに連続して化物と遭遇する高校生など、世界広しといえども俺一人のはずだ。この事実を不思議現象大好き少女である美沙に知られれば俺はどうなるのか。……考えただけでも恐ろしい。
「じゃあ、お前は間違いなく吸血鬼なんだな?」
「そうだと言ってるだろ」
「……なら、名前を教えろ。俺は御鏡涼貴。普通の高校二年生だ」
「え……?」
自己紹介。
互いに種族が違えど、コミュニケーション能力があるならば当たり前にするべき対応である。第一、いちいちヴァンパイアと呼んでいてはスゲー面倒だ。名前呼びの方がずっと楽だし、親しげな雰囲気を醸し出す事もできる。
「ほら、名前だよ。お前にもあるんだろ?」
「あ、うん、あるけれど……」
「なら教えてくれよ。お前自身を俺に紹介してくれ」
ぐっと顔を近づけて催促する。
何故だか銀髪少女の顔色が赤らんだ気がするが、多分気のせいだろう。視線をあからさまに背けられたのも気のせいだと信じたい。俺って嫌われてないよね? 尻に顔を埋めといて言う台詞じゃないけどさ。
「ふ、ふん。私の名か。よし、教えてやろうではないか」
三歩ほど後退して俺から距離を開いた彼女は、先程と同じように腕を組んで尊大な態度をとる。取り繕っているようにしか見えないが、まあ可愛らしいので放っておくとしよう。
「私の名前は霧依。景浦霧依だ。よく覚えておけ!」
ビシ! と俺を指差しながら己の名を高らかに紹介する霧依さん。
これ程までに高圧的な自己紹介を体験したのは初めてだ。美沙だって初対面の挨拶の時はもっとしおらしかったぞ。そんな態度じゃ社会に出てから上手くやっていけないんではないかな。吸血鬼が社会に出るかどうかなど俺が知る訳もないのだが。
などなど、霧依の自己紹介の態度に驚いていた俺ではあるが、他にも驚くべき要素がもう一つあった。
――コイツ……日本人だったの?




