T-15 奉る街のまつろえぬ姫君 −明治落日御國仕舞ノ顛末記−
明治五年。
士族の青年・藤野は政府高官たる後見人の手引きで、関東某所に隠された人ならぬ者達が生きる禁域・ミササギノ祭街へ足を踏み入れた。
十三年前、徳川幕府の下命によって祭街へと参じて以来、いまだ帰らぬ主君・波津姫をなんとしても連れ戻すために。
……しかし幕府が遺した祭街をこの世から滅ぼさんとして、明治政府が密かに主導する征伐の刻限もまた、刻々と迫りきていたのだった。
「鬼も龍も狐狸も妖異も、かつては誰かの神であった。滅んだはずの者達も、語り継がれる限りは不羈。然れども御代は既に明治。まつろわざりし者どもと、徒人は遂に散別る。開化の声も高らかに国を開いた代償に、我らは神を召し籠めて、永訣を誓い奉る」
これは、末期の神の枕辺で人の子が斯様に告り上げる……やがては忘れ去られるべき、看取りと葬送の物語である。
蒼旻の風を薙ぎ裂いて、異形の龍が疾く翔る。月白の鱗の淡き背に座し、これを駆るのはうつくしい娘だ。神さびて透いた双角に腕を添わせ、悠々、街を見下ろし奔る。少女の長い射干玉の髪が風に遊べば、水浅葱の小袖に纏った金襴緞子の打掛もまた澄んだ碧落にたなびき映える。
「姫君!」
ミササギノ祭街の空をゆく龍が街路の真上に姿を見せた時、その背に乗じた姫御前へ、彼女を――主君を追いかけてきた、二十を幾らか超えたほどの男が地上から声を張り上げた。
「波津様! どうかご帰還くださりませ!」
吠えるようにびりりと放たれた懇願は、その涼やかな面差しには似合わぬ必死の叫びである。安易で率直な物言いだが仕方ない。なにせ男は今日もまた論を唱え道理に訴え世情を語り、数字や理屈を並べどうにか姫を説得する為に二刻をこえて追い縋ってきた。
全力で駆け疲労困憊、足はもつれ思考は鈍る。汗にまみれて視界も霞む。それでも止まるわけにはいかない。
ゆえ、上等な仕立ての詰襟の洋装に身を包み、ざんぎり頭と称すには伸びすぎた黒髪が額や首筋で乱れるのも構わず、一瞥で重宝と判ぜられる二本差しを腰に下げ……必死に龍と姫とを追って地上をひた走るのである。
日本各地の街並みがつぎはぎされた祭街は入り組んでいるが、この道は江戸の日本橋に似て彼にも馴染みがある。二日前に難儀した断崖に迫り出す寺院群の絶壁とは比ぶべくもない。後ろ足二本で闊歩するとろけた瞳の巨大な化け猫や、串団子を歩き食う落武者達とすれ違いつつ、男は一心に主君を追った。
波津姫は時折振り返っても「いい加減諦めよ、藤野一人で帰るがよい!」と声を投げ落とすのみである。
けれど藤野は絶対に、祭街から彼女を連れ帰らねばならない。なにせこの街は二ヶ月後、明治政府の命によって密かにこの世から滅ぼされる。
……三世を誓った、主君である。かけがえのない唯一の御方だ。必ずお助け申さねば。
不意に龍が、五色の彩が煌めく尾で弧を描いた。ここ数日の奮闘で動きを学んでいた藤野は、行先と見えた左方へ伸びる細い路地に飛び込んだ。この先は祭街有数の繁華な大路へ抜ける。そこで建物の屋根にでもよじ登れば、力に訴え御身を龍より引き離す事も叶うやも。実力行使は下策と承知だが、選べる手段がもう他にない。
そして藤野は腹を括って路地を飛び出し――たたらを踏んだ。
突き当たったその先では、二艘の神輿が盛大にぶつかりあっていた。掛け声も音曲も高らかに衆生が群れひしめいていた。華やかな拍子で太鼓や笛や鉦や鼓が乱れ響き、喧嘩神輿の担い手達を囲うようにして、力強くも楽しげな踊り行列が躍動していた。
さらに言うならば、一方の神輿の上では豆狸の八人兄弟が、平家の赤旗を掲げた少年武者と共にぽんぽこひしめきはしゃいでいた。他方の神輿には妙齢の三姉妹と隻眼痩躯の大鬼が座し、大揺れのなか四人揃って磊落と酒を煽っていた。
「くそ……っ!」
口汚くも、うめくほかなかった。
疲弊しきった頭で思い返せば、確かに囃子も掛け声も遠く聞こえてきてはいた。熱気の気配も察してはいた。
しかしここはミササギノ祭街である。神も仏も鬼も獣もその係累もあれもこれもと詰め込まれた為、四季も昼夜も時代も乱れ混淆した、異様異質の領域である。関東某所に街を称して在せども禁域として隔離された、文字通りあの世に片足を突っ込んだ場所だ。もはや日ノ本唯一となった、人ならぬ者が息衝きざわめく領域である。狂いに狂ったなにもかもは、この街においては平静のこと。
昨日は東の下町で水掛け祭りが盛り上がったし、明日は北の高殿の宴で五節の舞姫が踊ると聞く。宵ともなれば花街では花魁道中が夜毎華やぐ。なんなら藤野が街に足を踏み入れた七日前には、文字通り盆と正月が一度に来ていた。
如何な不自然もここでは当然と必死に信じていたがゆえ、彼は不覚をとったのだった。
「おまえはおまえで、達者で暮らせ!」
頭上からは波津姫の声があざやかに注ぐ。藤野は悪あがきさながらに祭りの喧騒へ強引に踏み出したが、所詮人の身には無謀。笠の下が霞がかった顔のない踊り手の列に割り込んだ瞬間、奇妙に弾かれ……次に己を取り戻した時には、開け放たれた縁側より風と光が燦と差す畳の上に寝かされていた。
――なんと不甲斐ないことか。
天井を睨みぐっと唇を引き結んだ藤野を、若い男女が覗きこんでいる。一人は無邪気に瞬く町娘で、藤野とも近い年頃のもう一人は……いにしえの京にて女君と歌でも詠み交わしていそうな風情の、見目麗しい公達であった。娘が纏う流行柄の小紋に対し公達が衣冠束帯である為、なんとも馴染まぬ二人である。
藤野がはっと飛び起きると公達は「あなや」と驚いて、娘のかたわらへ退いた。
「人間ちゃん、怖かったねえ。もう大丈夫だからねえ」
一方、娘は赤子をあやすような仕草で藤野の頭をわしゃわしゃ撫でる。彼女の羽織の裾からは黄金の獣の尾が揺れていた。その特徴や藤野への接し方からして、どうやら娘の方は祭街に籠められるべくして籠められた、人ならぬ者であるらしい。
「無様にいたはし、わろし……」
逆に藤野をじとっと眺める公達は言動からして人間だろうが、彼の生まれは数百年ほど過去の平安京あたりと見える。そしてこの神狐か妖狐と思しき娘に、文字通り飼われて久しいはずだ。
この街に棲む人ならざりし者どもが、しばしば人の子を犬猫のように愛玩し、時に溺愛している事実は〝行く先々で可愛がられる野良猫〟扱いされたこの数日間で藤野も嫌というほど実感させられてきた。
「ほらほら、おにぎりあげようね。人間ちゃんおにぎり好きだもんね。おいしいちゅるちゅるのおやつもあるよぉ」
……これである。餌付けをしたがる。軒先でかまいたがる。やたら撫で回したがる。扱いがもうあからさまにそれでよろしくない。しかし背に腹は変えられない。藤野は諦観と共に握り飯を頂戴し、案の定具材として仕込まれていた謎の肉片も咀嚼した。以前後見人と食べた牛鍋と似た風味からして四つ足の肉の類いであろうが、おそらくこれも特殊な物だ。なにせ一口食むたびに四肢の痛みがみるみる消える。それに異様なまでにうまい。これよりもなお美味と聞く〝おやつ〟の正体が不老長命の秘薬であると知らなければ、そちらも特に拒むことなく求めてしまっていただろう。
腹が満たされてくるにつれ、しかしにわかにかなしさが増した。最初の恩賞として波津姫手ずから藤野の口へと詰めてきたのもまた、握り飯であったと思い出された。父母の喪に服す少年の隣で、彼女も同じ物を食した。
藤野の主君が――亡き兄の遺言でその名を騙り、男を装った姫君が率いたのは、吹けば飛ぶような小藩であった。問題も多く抱えていた。動乱の時代を無事乗り越えられるとは誰も信じていなかったが……彼女は辣腕の名君であった。幼い藤野を家臣と呼んで連れ歩き、その先々で驚くような成果を手にした。困難を霧散させた。因果を解いて盟友を得た。そんな御方に仕えられる事が幼心に誇らしかった。斯様な主君であったからこそ、握り飯一つで忠義を誓った。
『おまえは私がいなくなっても、私の跡を引き継いで、この先この国で果たすべき、おまえのお役目をまっとうできる。なあ藤野、そうだろう?』
十三年前、徳川幕府の下命に従い、祭街へと一人参じた主君の言葉に彼は愚直に従う他なく、耐えて黙して見送った。やがて大政は朝廷に奉還され、幕府は倒れ国は開かれ、激動の時世諸共に藤野自身もまた変わった。
此度決死の思いで主君を訪ねた藤野へと、波津姫はあの日と変わらぬ齢十八の愛らしい姿で凛然と「おまえが健勝でなによりだ」「なんと立派になったことか」と、ただ朗らかに喜んだ。そして「おまえは一人でお帰り」と告げ置き、ほの白き龍と蒼穹へ逃げた。
以来、藤野の声には聞く耳持たずだ。元より誰に諮るでもなく、脳裏に描いた奇想天外な絵図通りに見事難題を解いていらした御方だったが……しかしかつては藤野にだけは意図も理由も細やかに説いてくださったのに。
……握り飯を食みながら、彼はとうとう涙を堪えきれなくなってしまった。十三年間押し潰してきた、己への痛烈な失望と自責と後悔が噴き零れるのを自覚した。
あなたは唯一の家臣さえ、もはや不要と思われたのか。だとしても主君を見捨ておめおめと一人、いったいどうして帰れよう。まこと面目次第もない。末期の供さえ許されぬなど、ただただあまりに不甲斐ない。しかしそれでも、なんとしてでも。
「あなたにだけは、捨てられたくない……」
――あなたにだけは、生きてほしい。
脆く本音をあふれさせた藤野へ注がれるまなざしが狐の娘と公達の他にもう二つばかりあることに、今はまだ誰も気づかない。
「あれほど執着しているのなら、むしろ計画に伴っては? そもそもそなたの麾下なのでしょう?」
開け放たれた縁の先、小庭を挟んだ向かいの屋根から、黒々と底知れぬ双眸で藤野を見下ろす十五、六ほどの少年が、かたわらに座す少女に問うた。
龍身に変じ姫君を背に乗せ、祭街の天をゆく彼が人の身形に纏うのは、大変古風な装いだ。耳元で輪を結って余りを長く胸へと垂らした下げみづらに、鈴鳴る足結が膝下にくくられた目の粗い白絹の衣袴。随所に飾られた玉と帯の彩が鱗と揃いのしろがねの髪に映える、古き時代の貴顕のそれ。
「……それはならぬよ、戸依比古」
波津姫は、共犯者へと静かに告げた。
「あなたが龍でも神でもないただのまがいものだとさえ、私はあの子に言えないのだもの」
秘密はいつか不和を生む。分かち合えない秘密に彼を、これ以上近づけたくはない。





