美食レース
スミレが来る七か月ほど前の話
「ウチが発注量のケタまちがえてて、肉、ヤバいくらい用意してもらっちゃったのはわかるすけど……」
「『わかるすけど』、なんなんだよ」
「でも普段の仕入れ量から考えて、ウチこんなに頼むワケなくないすか!? 払えないよこんなの!」
「ちゃんと肉を用意したこっちの都合無視して通常の発注量しか仕入れないってのぁ道理に合わねーだろがよ! ざけんなコラ!」
「恫喝やめてくださいーっ。どうせ儲けられるチャンスだと思って、量おかしいって気づいてたのに見て見ぬふりしたんすよね!」
「祭りに際して催しでもやんのかと思ったんだよ! だからこっちゃぁ親切で山まで行って原生の猪を仕留めてきたってのに!」
「五頭まるまるなんてウチの客数で捌けるワケねーでしょう! いつもの量しか要らねんですって!」
「客なら俺も多少呼んでやらぁ、だから買えよ! つーか俺もコレ捌けねえと次の〝外〟への遠征費用がヒネり出せねーんだよ!」
「えっじゃあウチの仕入れも止まる?」
「だから最初からそー言ってんだろがよ!」
仲裁人として理逸が呼ばれた先で、組合所属の二者が侃諤の議論を交わしていたのだがだんだん流れ変わってきた。
理逸も最初から二者の言い分を黙って聞いていたのだが、ことのあらましを整理するとどうやらどちらも悪意はなさそうだったのが悲しい。報連相の行き違いがために、組合所属の二名はどちらもいま沈没しかねない状況である。
殴り合いとかに発展しないよう同席していた理逸だが、場はヒートアップどころか冷めに冷めていまや凍結しかねない勢いだ。青い顔で黙り込み果てしなく落ち込んだ二人を見ていると、さすがになんとかしてやりたくなる。
「あー、ちょっといいか」
理逸が片手を挙げて発言の許可を取る。まあ許可を取るまでもなく場には長い沈黙が降りていたので、いつしゃべってもよかったのだが。
肉屋と飯屋の両名はすすっと手を差し向けて「どうぞ」のジェスチュアをしてくれた。
「どうしても消費しきれねぇってんなら、組合で買うよ。さすがに量が量だから満額は難しいけど八掛けくらいで、」
「九で」
落ち込んでるわりに肉屋の返事は素早かった。……おいこいつら売り先探してただけで実はグルなんじゃ、と一瞬疑念を抱いた理逸だが、飯屋がすかさず「じゃあウチも九掛けで」と言って「てめぇ自分のミスのせいでこうなってんだってまだわかってねぇのか、あ゛ぁ?!」と言い合いがはじまったのでやっぱりグルではなさそうだった。
九掛けで肉を仕入れたとして……費用概算はなかなかデカい。
とはいえ傘下の、それなりに客入りある店と肉の目利きができる専門職を失う方が損だと理逸は判じていた。おそらく深々も同じ判断をするだろう。あれで結構身内には甘いのだ。
ともあれなんとか、肉を消化か。
消費。使い切り。なにかいい策はないものか。
ああ、考えていると腹が鳴る。そういえば昨晩は欣怡のやつに飯を盗まれてひもじい思いをしたのだった。せっかく気に入っている店の肉圓を買っておいたのに、一人暮らしの家に帰るときれいさっぱり盗まれていた。腹が立ったのでこっちも奴の部屋に売れるものがないか物色に入ったが、衣服のほかになんにもないので質流しすることもできなかった。
まったく、食い意地の張ってる奴はいかんともしがたい。まあ、南古野という街自体が食い詰め傭兵のたまり場のようなものだし仕方ないところもあるのだが。そうはいっても実害を被る側としては腹が立つ。腹をすかした気持ちのみじめさはよくわかるが、だとしても……だ。
──などと思い返しているうちにひとつ閃いて、ため息をつきながら理逸は席を立つ。
なんとなく、あの女から解決策を思いついたのが癪だった。
表通りに出ると通りかかった組合員に「七ツ道具・三番だ」と名乗ってちかくの詰所に伝令を頼んだ。ほどなくして、《轢き役》の異名を持つ神速のメッセンジャーがやってくる。
「用件は? 三番」
「安楽堂とか盛鮮味とか新丼とか、……まあとにかく組合傘下の飲食店とそれに類するところ全部に、安く肉を卸す用意ありって伝達」
「一店舗の失態を全体でカバーさせる気か? 押し付け喰らった側は根に持つぞ」
「さすがにそうはさせねえさ。ちゃんと利益出るように采配するよ」
「だがいくら安くとも在庫や仕入れ量との調整が面倒だろう。その圧迫も含めて、納得させられるのか」
「ちょうど明日から新酒の時期だ。祭りと連動させる」
理逸の言葉に、ほほうと《轢き役》は顎に手を当てた。
「酒盛りとデカ盛りの祭りだ」
#
かつて日邦では十一月あたりが酒の新酒シーズンだったという。
それは芋の収穫時期から計算してのことだったので、年中採れる千変艸の芋を使う現在はあまり気にしなくともよいのだが。失われた季節感を少しでも残そうと、なんとなくいまも南古野では十一月を新酒の季節としている。
第一週はとくにこの新酒を祝うのが常態で、どこの店でも酒を振る舞い、料理も豪勢になる。……まあそういう時期だったので、肉屋が勘違いしたのも多少は理解できる。
「今回は組合主導でイベントにしたるがぁ」
キャップを目深にかぶり、グレーのパーカのぶかぶかした袖先から出た指に煙草を挟む朝嶺亜が言った。
大盛りの肉メニューを出した店とそのメニューを食い切った者に褒賞を出す。さらに、そのメニューの販売数がもっとも多かった店と、食い切ったメニュー数が多い者には追加の褒賞を出す。
イベント名は『安全組合主催・美食饗宴』と銘打たれた。
盛り上がりを考えて、朝嶺亜は店とのあいだに入りメニュー決めから褒賞の額から飲食店マップまでを一晩で組み立てていた。発案者である理逸ももちろん動いたが、仲介役を成すのが得意なわけでもないのでだいたいは彼女に頼り切りだったと言える。
寝不足らしく普段よりくまのきつい彼女は、くぁ、とあくびをかましてから煙草をくわえた。
「すみません、突貫で企画立てまで」
「気にせんでもええがじゃ、どーせこの時期はいつもこんなんだでよ。むしろ方向性出してもらえて助かっとるわ」
ぷかぷか煙を吐きつつ、片手を挙げて朝嶺亜は去っていった。たぶんねぐらで寝るのだろう。今度なにかお礼をしなくては、と理逸は思った。
さて辺りを見渡すと、幾多の店が活気に満ちて軒を連ねている。組合傘下の店以外も多少は参加していてどこも安く仕入れた肉を用いた店舗独自のメニューを大々的に打ち出しており、いい匂いが漂ってきている。
理逸も結局ろくに寝ず食べずだったので、ここらで腹を満たしておこうと思った。近くの店にあたりをつけて歩いていく。
のれんをくぐり、
室内の熱気にぶち当たる。
奥を見るとすでに丼が山と積みあがっており、異様な迫力があった。
「もう八杯めだっ! 十五杯まで折り返し、でもペースが落ちない!」
織架がなんか実況していた。
しゃもじをマイクのように構えて腕を振りまわしている。その横で店主がもくもくと調理を進めていた。
分厚い肉をさくりと揚げてカツにしたものが、ずるんと丼の麦の上に載せられる。溶き卵と熱いつゆがふんだんにかけられる。
湯気立つカツ丼が、派手なドレス姿の女の前に供された。
箸先がカッカッカッカッと乱れなくどんぶりの底をつつき淀みなく麦とカツをすくいあげていく。
背筋を正し、大口を開けることもなく、けれどペースも崩さず。
婁子々の口につぎつぎと放り込まれていく。
あっというまに九杯めもたいらげて丼が積まれた。
「特別メニュー『超特盛カツ十五連発』への挑戦、これはクリアされてしまいそうだぞっ! 店主お気持ちをどうぞ!」
「食いっぷりが良い」
「恐縮ですっ!」
やかましいのでこの店はやめておくことにした。引き戸をがららピシャンと後ろ手に閉める。
次の店へ出向き、かららと引き戸を開けてみた。
雰囲気の良い、定食など出していそうな店だった。奥の方から、濃く煮詰まった匂いが漂ってきている。じつにうまそうだった。
「期待できそうだな」
つぶやき、理逸は席についた。店内を見回すと壁面に木札が下がっており、黒い字で「焼き魚 定食」「煮つけ 定食」「朝告鳥 よだれどり」「角牛 ハラミ」「猪肉 鉄板焼き」などメニューが載っていた。赤字で書いてあるのはおそらく今日は提供していないものなのだろう。
しばらく悩んで、やはりここは猪を頼むか、と鉄板焼きに決めた。
水を飲みつつ、理逸は注文しようと店の人間の姿を探す。
ところがここにきてようやく気付いたのだが、店内に人の気配がない。
どうしたものかと思ってカウンターから中をのぞけば、女店主が裏口の方へ向かってなにやら話し込んでいる。
「今日の売り上げで金は返すっつってんの。いいモツ入ったんだから……え? モツならそこにあるだろって? どういう意味? は?」
なにやら笹倉組らしき奴らと激しい言い争いをしており、料理はいつまで経っても提供されそうになかった。あきらめて次にいく。
次の店はハンバーグが売りだと表の看板に書いてあった。
中を見れば店内カウンターに行儀よく並んで、客が品の到着を待っているのが見える。厨房の方もせわしなく動いており、いい具合の活気があった。
ここにしようと扉を開けて入り、理逸も席に着く。せかせかとやってきたホールスタッフに注文を訊かれたので「ハンバーグで」と答えておいた。
「大盛りです? それとも普通?」
「あーここも大盛り店だったか……いや、俺はそれほど食べる方でもないので。普通で」
「普通いっちょう。じゃあ提供は一枚で?」
「? 一枚とか二枚とか選べるんですか」
「『普通』なら一枚か二枚のどっちか。『大盛り』は三枚以上」
なら二枚にしておくか、と理逸は注文する。スタッフはあいよーと威勢よく、厨房へ戻っていった。しかし、ハンバーグは数えるときの単位が『枚』だったろうか。まあ、平たいタイプならそう数えるのかもしれない。
店内には肉の灼ける音と匂いが充満している。かちゃかちゃと食器類のこすれる音も食事の気分を盛り立てる。やっと空腹が満たせることを楽しみにしながら理逸は皿の到来を待っ
「う゛ぁあああああああああああ!」
出し抜けに絶叫が轟き、反射的に理逸は身構えた。
が。
「あああああああ!」「おおっ、おう、おおお」「ひいああぁぁぁあ!」
絶叫はさらにつづいた。
見ればカウンターに行儀よく並んでいた連中が、順番に絶叫しているのだった。
若干の恐怖を覚えながら理逸は彼らの前を見る。……別段なんということはない、順番がきて彼らの前にはハンバーグが供されているだけだ。
それを食った瞬間に、トんだ感じに叫んでいるだけだ。いや、だけと言っていいのか、これは。なんか身をくの字に折って泣いてる奴もいる。
わけがわからない理逸の前に、ホールスタッフがやってきた。皿を持っている。
「おまちどう、先に『二枚』です」
「あの、普通にやってきましたけど。アレあそこの席の客、大丈夫なんですか」
「え? お客さんもああなりたくて来たんでしょ」
「いや……俺はああはなりたくは……」
「あ、だから二枚なんだ」
「?」
「あそこまでになりたいわけではないけど刺激は求めてる。そんなとこですよね」
納得した感じにうなずきつつホールスタッフは理逸の前に皿を置いた。
上には青い切手状シート……向精神加速薬が二枚、ぺらりと載っていた。
はっとして、理逸は先の客たちを見る。
全員目に青い光を宿していた。涙も青かった。
店を飛び出す。
表の看板には「ハンバーグ専門店」と書いてある下にちいさな字で──「機構運用者の方専用」と刻まれていた。
おそらく皿に出てきたのは味覚用に調整された向精神加速薬だ。これを濫用した感覚強化で、味覚の上限を引き上げているのだろう。脳が、感じる旨味が、あまりにも濃すぎて絶叫しているのだ。食の楽しみ方がハイレベルすぎる。
「悪い、俺は運用者じゃないんだ」
そう告げてそそくさとその場をあとにするしかなかった。
#
なんだか、良い店に当たらない。
どこに行ってもなにかしら問題が起きていたり疎外感があったり、いい感じに食事をとれそうなところがなかった。
「腹減り過ぎて理想が高くなってんのかな」
横っ腹をさすりつつ、自問する。もう次の店はどんな店であろうと、ここで食うと決め込んでしまった方がいいかもしれない。……ただ、先の機構運用者専用の店みたいなのは勘弁してほしい。
通りを歩いて歩いてさまよって、ふいに目に入った店にままよと飛び込む。
出汁の香りと、八角を主としたスパイスに、包まれる。
視線を下げるとビニールのクロスがかけられたテーブルが四つと、乱雑にコップへ突っ込まれた割りばし。安っぽいパイプのスツールがそこかしこにある。客はちらほら。
狭い店内の奥にある厨房から、店主と思しき老婆が「ひとり? てきとうに座んな」と声をかけてくる。妙な店ではなさそうなので、腰を落ち着けようと思った。
と、視界の端でひらひら手を振る人物が居たので中腰で止まる。
「やーは。こんなとこで奇遇だね」
「……欣怡」
理逸の空腹の原因の一端を担っている女、楊欣怡が角の席に座っていた。毛先のうねる黒髪をかきあげ、チューブトップに包まれた大きな胸をテーブルの上に載せたまま頬杖をついている。暑いのか、普段羽織っている赤のボレロは横のスツールの上に畳んで置かれていた。
「ここ空けたげるから来なよ」
「どこもかしこも空いてんだろ。いいよ別のとこ座る」
「遠慮しなくていいよ」
「同卓だとお前、絶対俺の飯くすねるだろ」
「バレた?」
けらけら笑う彼女は、まだ昼間だというのにそれなりに酒が入っているようだった。まなじりの下がった柔和な印象の目元と頬はほんのりと上気しており、傍らにはある焼酎の瓶はすでに中身を半分ほどに減らしていた。
つまみはなにかと思えば、細いなんらかの麺をネギ、大蒜、唐辛子と共に油で炒めたらしきものが小皿に載っていた。
「つまみはそれか」
「炝拌干豆腐。湯がいてもどした干し豆腐の細切りと野菜を調味料と油で炒めたやつ」
「へえ……でもこれ、量減ってなくねえか」
「だーって。食べたら減るでしょ」
「食ってねえのかよ」
「見るだけのつまみだよ。日邦にはこういう『にらみ豆腐』って文化があるんじゃないの?」
「聞いたことねえよ」
なんだそのわびしい文化は。アホくさくなりながら、理逸はとりあえず彼女の向かいに腰を下ろした。すれば、欣怡は自分が飲んでいたグラスに瓶から焼酎を注いでこちらに差し出してきた。
「まーまー。一杯やりなよ円藤」
「俺あんまり酒好きじゃないの知ってるだろ」
「勧めたら断らないのも知ってるよ。なんだかんだで私のこと遠ざけようとはしないってことも」
「うるせえな……」
今日は面倒な絡み方してくるなと思いつつ、グラスを受け取った。欣怡はべつのグラスを店内の棚から取ってきて、また一杯注いでいる。
かんぱーいと気の抜けた掛け声とともにグラスを掲げたので、縁を適当に合わせておいた。焼酎は、出来立てのものだけあってフレッシュな果実に似た芳香を感じた。さわやかで、鼻に抜けるときにぴりりとアルコール辛さを残す。
さすがに白酒よりは度数も低いが、水割りにしてほしいなと思う。理逸が水を追加しているのをよそに、欣怡はがぶがぶと一杯をほとんど空にしていた。前かがみになってほぅと息を吐き、ぺろりと舌で唇を舐めている。
「飲むペース早いぞ」
「えへへ。お祭りのときくらいは飲まないとだよ円藤」
「体調崩すまで飲みたくはねえんだよ、俺は。つーかお祭りって言うけどこれ組合の行事だからな。沟所属のお前はあんま関係ないだろ」
「ひーど。同じ街同じ家に住む同士でこういうときくらい垣根なく過ごそうって気にならないの」
「立場が敵だろ、一応」
「一応じゃん」
「そりゃ別にお前は俺にとっちゃ仇とかでもないし。立場以外で敵対してないなら、一応って枕詞くらいは、つける」
「『お前は仇とかでもない』、ってことは仇、いるの?」
「いるっつったらどうする?」
別段深い意味はなく、ただまともに返すのが面倒でまぜっかえした。すると欣怡は神妙な顔であさっての方を向き「いるんだぁ」とつづけた。それきりなぜか一度、沈黙が場を占める。
なんとも言えない空気の中、たははと笑う欣怡はもう一杯注いで、今度はひと口含む程度にした。理逸はそのあいだにメニューを素早く見回して、「猪・回鍋肉」と書いてあったのを注文する。
「大盛り頼まないの?」
「腹は減ってるけど自分の許容量くらいわかってるよ。俺じゃ食いきれねえ」
「なら私は大盛りいこうかな。にらみ豆腐でしっかりおなか、空かせてたからね。すいませーん同じやつのチャレンジメニューひとつ」
「金ないんじゃねぇのか肉圓泥棒。豆腐をせこせこにらんでつまみにしてるくらいだろこの金欠」
「ここの大盛りは食べきればタダだよ?」
「総量三キロを二十分以内って書いてあるぞ、食いきれるのか」
「もし残ったら円藤に分けたげる」
「いや残したら全額支払いだろ。残すなよ」
「あはっ。残さないよ私。なーんにも残さない。残すとしたら記録だけだね」
自信があるのか理逸の言葉にも動じることなく、その後もとくとくと焼酎を注いでは飲む。理逸は最初の一杯をだらだら飲みつつ回鍋肉の到着を待った。
ほどなくして、良い香りが背後から漂って来る。猛烈に腹が減ってきた。
かちゃ、かちゃ、と皿と盆が擦れる音と共に、理逸の前に通常の回鍋肉。欣怡の前にはその十倍はありそうな大皿で同じ品が用意された。テーブルに置いた瞬間ぎしりと音がして脚部が軋む。まるで肉と野菜の山。周りで、どよめく声がする。
「やーは。なかなか壮観だね」
「……本当に食いきれるのか? 俺今日そんなに持ってねえから貸すこともできんぞ」
「へーきへーき。んじゃ私お箸使わないからレンゲくーださい。時間のカウントスタート、よろしく」
「はじめるよ」
老婆がぜんまい式のタイマーをきりきり巻いて、針を20のところに合わせた。
かちーんと音がして計測がはじまるや──欣怡は怒涛の勢いで回鍋肉をかっ込みはじめる。瞳は真剣そのもので、親の仇を見つめるかのように大皿を捉えている。
同じ品を頼んだ理逸が呆気に取られるほどの速度で、すくっては口に入れすくっては口に運び。噛んでいるあいだにチャッチャカとレンゲで大皿の中を混ぜ、いくつかの小皿に取り分けていく。
どうやらこの動作はうずたかく盛られた回鍋肉の内部の方を冷ますためと味に飽きたときのための準備らしく、またひと口放り込むあいだに左手でぱっぱと酢や花椒といった調味料を振りかけていた。こいつ、大食いに慣れている。
理逸も手を進める。甜面醤のからんだ蒜苗と青梗菜の漬物がしゃくりと鮮やかな食歯ざわりで、ぎゅむと噛み締める肉からうま味がしたたって舌の裏まで広がりなじんだ。これは絶品だとひと口で理解する。
味わって食べている理逸を後目に、欣怡は速度を上げつづける。
婁子々の食べ方は一定ペースでもくもくと減らしていく手つきだったが、欣怡はなんというか豪快だ。がばっと食べて飲み下していくとでも言おうか。喉に詰まらないか心配になる。
それでも当人はおいしそうに食べていた。時折酒を口に運んで「合うねー」と言う程度の余裕もある。
あれよあれよと肉野菜の山は量を減らしていき、大皿の底の模様も見えてきた。老婆はちっと舌打ちしてタイマーをにらんだが、時間は五分以上も残っている。本当に記録を打ち立てそうだ。
やがてすべてを胃袋に納めた欣怡は、デザートとばかりに炝拌干豆腐もつるつるっといただいて手を合わせた。おおー、と周囲では拍手が起きる。
「やは。どうもどうも。ところで喉渇いちゃったのでだれかお酒もらえる?」
ちゃっかりギャラリーに酒をタカっているところにも慣れた仕草が感じられた。客のひとりが「いいよ、完食祝いだ。そこの子の酒と小皿は俺にツケとけ」と豪儀なことを言っているのも聞こえる。これでこの女、完全にタダ飯だ。
自分のぶんを食べ終えた理逸は、ちょっと視線を下げて欣怡の腹部を見ようとした。三キロも食べたらどうなっているのか、気になったのだ。
すると彼女は横のスツールからボレロを取り上げ、袖を腰に巻いてすすっと腹部を隠してしまった。
「や、さすがに恥ずかしいから」
酒のためにではない頬の上気を見せるので、そうか、と理逸は視線を外す。
#
「あー食べた食べた。これでお金ももらえるなんて最高だね」
そりゃこれだけ食うやつならうちから盗んで食っていくのも道理か、と妙な納得を覚えつつ理逸は欣怡と帰路についていた。上機嫌に前を歩く欣怡は、あれだけ飲んだからか少しふらついていた。
「褒賞が出たら俺の肉圓、買って返せよ」
「わーは。そのときに気が向いててかつお金に余裕あったらね」
「なんでそう金ねぇんだよお前……なにか買い集めるとかしてるわけでもないのに」
「情報屋やるのは元手となるお金が要るんだよ。あとあんまり物は残したくないから買わない」
さらりとこぼした後半の言葉のあと、欣怡の足取りは若干酔いが冷めた、ように見受けられた。
酔って口を滑らせたのを取り繕うような、奇妙な間があった。
物を残さない……というのを聞いて、部屋の中の殺風景さを理逸は思いだす。売るものもないあの、がらんとした部屋。
「円藤もそうじゃないの?」
唐突に、こちらへ背を向けたまま欣怡は言う。
なにについて同意を求めているのかは、明白だった。
「まあ、そうだな」
理逸は特別に趣味もなければ、娯楽と呼べるものにもさほど興味が無い。よって彼の部屋も欣怡とさほど変わらず、買い置きの食糧と汲み置きの水と座布団と衣服くらいしかない。似たようなものだった。
そうなってしまっている理由について思いを馳せると、朔明の姿が浮かぶ。
「あーあ。それでもおなかは、空くんだよねぇ……」
前後のつながりを無視したような言葉。さもそれが嫌なことであるかのように、欣怡は言った。
でも、その言葉の意味はかすかに、理逸には理解できるような気がした。
なぜなら朔明はもう食べないし、笑わないのだ。
そこからは黙って家まで歩く。アパートに着いて、赤く錆びついた階段をかんかんと上っていく。
部屋の前に辿り着き、じゃあなと声をかけて理逸は自分の部屋に入ろうとした。殺風景な己の部屋。ひとりきりの部屋への帰還。
ドアの、目線の高さのところについた小窓に、己の姿が映る。
欣怡は理逸がドアノブに手をかけたところで「あのさ」と声を発した。
「私ね。人と食べたり人の物食べたりすると。ちょっと気が、まぎれるんだよね」
それだけ、と残して欣怡は自分の部屋へ引っ込んでいった。
……彼女もなにか抱えるものが、あるのだろう。がらんどうの部屋、物を買わない残さないという気持ち。
分かち合ってやることなど当然できはしないが、覚えておくくらいはしておこう。
そのように思って、理逸は扉を閉めた。




