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売雨戦線SS  作者: 留龍隆


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6/10

没有人知道谁是特别的

「あーは。功夫が足りないね」


 そう言って俺の額を小突くあの人に、最初は強い反発を覚えたものだが。あとになって振り返ると若い俺は、ここですでに心をつかまれてしまっていたのだと思う。


 ……生まれる前から沟に属し、育って、下っ端として雑務の役を得ただけの生粋の港湾育ちとしては。中途で組織に入ってきたこの人が幹部登用されている、というのも気に食わなかった。見栄えだけで選ばれたお飾り、ボスの情婦、あるいは秘書役。そんなところだろうと陰で腐していた。

 けれど彼女は顺风耳(シュンフェンア)の異名を持ち、あらゆる情報を抜く神出鬼没の情報屋。運び屋(ポーター)としての業務もこなしつつ組織に貢献し、なおかつこっそりと狻猊ことを師として铡刀掌(ヂアダォヅァン)の腕も熟達している(これは沟で公然の秘密だった)。


 勝手気ままで軽佻浮薄、それでいて立場は重役級。


 楊欣怡への嫉妬心があこがれへ明確に変わったのは、俺自身も実働部隊に入ったころだった。


 武術指南……といっても組手の延長だが、その時間が俺と彼女のもっとも大きな接点で、そして俺はその都度敗北を喫していた。

 彼女が着ていた赤いショートジャケットは、バストトップとアンダーの位置にベルトが廻っている。左右互い違いに伸びているこれの先端をぎゅうと引っ張って締めるのが、戦闘に入る前の彼女のルーティンだ。押し込められた量感のある胸部は若干目のやりどころに困るが、よこしまな気持ち以上に俺は真剣に取り組む気持ちが強かった。


 腰を落として半身に構え、右の縦拳でまっすぐに中段を突く。「倒す気で来ていい」と言われているので全力だった。

 即座に左掌で下方へ捌かれて彼女の後方まで引き込まれる。同時、右の掌底が俺の額をぱーんと弾いた。手加減されているのかのけぞりはしても倒れるほどではない。

 かぶりを振って前へと意識を戻す。彼女はささっと退いていた。ならばと足を進めて追いたて、間合いが交わる瞬間に連続して拳を出す。

 今度は斜めに歩を繰り出してすかされ、横合いから膝裏を踏みつけにされた。バランスを崩したところに額を掌で押し込まれ、ごろりと俺は転がる。

 ホットパンツから伸びる長い脚が躍動し、ダンッ、と顔の横に踏み込みを喰らった。

 これは決着を認めるしかない。俺は両手を挙げて降参の意を示した。


        #


 組手をつづけて、季節はめぐり。

 いつのまにやら俺は実働部隊の若人のなかで、楊欣怡を指示役とするフェンというグループに入っていた。基本は組織単位として集うことがないが、必要に応じて集合と離散を繰り返す市井潜伏型のグループだ。

 選ばれた条件はある程度腕が立つこと。俺は、そのことが誇らしかった。彼女に近づけたようで。

 けれど近づけたといってもどれくらいの力量差があるかはわからない。

 いままた、俺は拳をうまくいなされひっくり返されるところだった。


「ぐはっ」

「おしまーい」


 には、と笑う彼女は武装解除のつもりか胸元のベルトに指先をひっかけ、緩めた。汗ばむ深い谷間がのぞいて、俺は視線が釘付けになる。

 武術指南が終わり、俺含めた风の人員が死屍累々と転がっている。それでも根性で俺は横たわるのを拒否し、膝に手をついてなんとか立ち上がっていた。これを見て、彼女は笑いかけてくる。


「おー。今日もひとりだけ残ってるんだ? 感心感心。それとも手抜きしすぎちゃったかな」

「いえっ……先生は、いつもと、同じだと思います」


 荷役と配送の仕事で俺は体力を磨いていた。技で勝てなくともせめてスタミナで食い下がろうと思ってのことだ。まあそれでも膝はがくがくで、かなりしんどいのだが。彼女は汗こそかいてもまるで堪えていないらしい。

 俺のいまの格闘について、教えをくれる。


「きみ崩拳(中段突き)の間合いにクセがあるね。初撃で打つのは思い切りがいいけど乱打のなかでは体重移動がお粗末でほとんど使おうとしない。たぶん退歩での中段の練度が低い自覚あるんじゃない?」

「うす」

「もう少し五行のバランス大事にしないと付け入る隙になっちゃうね。得意技だけに絞るなら強く大きく気迫を持って。選択の幅で攻めるなら広く丸く視点を持って」

「うす……」

「やーだ。落ち込まなくてもんだよ? きみだけは実戦の空気で戦ってる感じするからね。それできるだけで周りより頭ひとつ抜けてすごいよ」


 ばしばしとこちらの肩を叩く彼女の掌は硬く、積み上げた功夫の練度が俺よりも厚く濃いことが思われた。

 それがわかっているのに、俺は思わず聞いてしまっていた。


「では先生の域に達するには、頭いくつ抜ければいいんでしょう。だれに勝てれば、並べますか?」


 んー、と頬に手を当て考え込む楊欣怡。

 ややあって返ってきたのは、あまり聞きたくなかった回答。


「私も師父には勝てないし。めざすべき高さならそうだなぁ……《七ツ道具》三番とか? あのレベルだと私でも苦戦しそうだよ」


 けらけらと笑う彼女を前に、俺はなんとなく嫌な気持ちになっていた。外の組織である安全組合の人間を、彼女が認めている事実が気に入らなかった。だいたい、亡兄のあとを継いで入ったいまの三番こと《蜻蛉》は俺と同い年で、まだ経験も浅いはずなのだ。そう差があるとは思えない。


 とにかく、その日から俺はひとつの目標として打倒《蜻蛉》を掲げることとなった。


        #


 それから知ったことだが、《蜻蛉》は彼女の隣に住んでいる。

 べつに妙な意味はなく、互いの陣営が持つ領地の最北端と最南端がそこであるがために幹部陣を置いて牽制し合っている……というのが同じ建物に住む理由らしいのだが、だとしても《蜻蛉》が妬ましかった。

 そのように《蜻蛉》を意識してからは、楊欣怡との会話の端々に彼の影があったことに気付く。仕事で組合に邪魔をされたとぶうたれていたときも、笹倉組の安東と卓を囲んで麻雀をしたというときも、京白市場でさっき夕飯を食べてきたというときも、いつもその影に彼が居たのだと。


 彼女にとっては隣人であるから目に入るというだけだ。

 きっと、そうに決まっているのだが、彼女越しに彼の話を聞くとどうにも表情がこわばる。


 敵だというのに《蜻蛉》は彼女に近しい。そう感じてしまう。

 自分はこの組手でしか接することができないのに、と思ってしまう。


「稽古に身が入ってるね」


 また、組手の時間。間合いを詰めての崩拳は、絶妙のタイミングであったため今度はいなされなかった。完璧なタイミングで放つことは威力以上に『効く』のだと、俺は彼女とのやりとりで学んでいた。


 左足を軸にくるりと転身して大きく避けた彼女。こちらに背を向ける彼女へ俺は右裏拳の横薙ぎを振るう。後ろに目があるかのように屈んでかわした彼女にめがけて、左の手で掌底を打ち下ろす。掲げた前腕で受け止められ、足までの関節でやわらかく威力を殺された。


 とはいえ当てた。接触するのも難しかった彼女に、手が届いている。


 つづけざま左足を進め、彼女の股下に潜り込ませる。膝から脛にかけて足を掛けられるのを嫌ったか、彼女は自らズルんと膝関節の力を抜いて背中からしなだれかかってくる。これを逃げようとすれば瞬時に打撃に転化してくると知っているため、さらに突き上げを繰り出して距離を詰める。


 握った右拳の甲を地に向けて飛ばす、鑚拳(突き上げ)。左腕を引き下ろしつつ自分の腹部から胸部を右拳で撫でるような予備動作のあと、こちらへ背を向けたままの彼女の後頭部めがけて飛ばした。


 当たる、と思った瞬間に彼女が掻き消えた。


 まっすぐにこちらへ倒れてくるはずが、腰を左回転で捻転させていく。この動きに伴い、まっすぐ倒れてくるはずの彼女の頭もわずかに横へ逸れた。拳がかすめて、外れる。


「惜しいね」


 背面は攻撃が有効な箇所が限られる。後頭部を狙うよう仕向けられたと気づいたときには遅かった。

 回転の勢いを載せた左肘が側頭部に突き刺さる。俺はとっさに息を吐き切り丹田から全身へ気血を巡らした。


硬功インゴン!)


 防禦を高めるよう気を練り、耐える。それでもぐわんと首が揺れる。耐えろ。耐えられる。耐えた!

 足裏に根を生やしたように俺は踏ん張り、下段に置いていた左拳で反時計回りの軌道で振るい──半月を描いた終着点で突きを成す横拳ワンチェンを繰り出す。ただこれは拳を当てるのではなく、前腕ごと彼女の肩甲骨からうなじにかけて押し当て、股下にくぐらせた左足につまづかせるための崩しの技だ。

 当たれば、いける。

 そう思った俺の頭部に斬り下ろす右の手刀がぶち当てられるのは、半秒あとのことだった。




「やーは。《雷劈レイピィ》まで遣わされるとはね」


 出すつもりがなかったらしい手刀の技を、彼女はそう呼んだ。

 痛む頭をさすりつつ立ち上がった俺に笑いかけて、「腕上げたね」と彼女は言う。

 まだまだ届かない、と感じさせられてしまった。


「でも周りにきみ以外残ってないよ」


 ほかの奴らは残らず気絶している。その意味でやはり、俺は頭ひとつ抜けているのだろうが。それでも彼女には届かない、及ばない。

 きっと《蜻蛉》にも及ばない。考えてしまうと、また気持ちが沈んだ。表情がこわばる。


「どしたの? 元気ないね今日は。少し気晴らしにでも行く?」


 俺の顔を見ての発言に、彼女のなかで特別な意味はないのだろう。

 わかってはいるが、今日は半端に自分の技が通用してしまい……『もしかして、勝てるかもしれない』と感じてしまったことが。欲を出し、期待してしまったことが、余計に俺を落胆させていた。

 みっともない話だが、「俺の強さが、他の人と比べられているのではないか」と思ってしまった。

 だれと?

 もちろん、《蜻蛉》と。


「むーふ。京白市場でおいしい店があるんだよ。人づてに教えてもらったんだけどカキフライが人気らしくてちょっと前から気になってたんだよね。一緒に行かない?」


 その、教えてくれた相手というのもだれなんだ?

 感じてしまう劣等感はぬぐいようがなく、どんどん俺の内面を蝕んでいった。

 かなり、修練は積んだ。いずれ彼女本人か、《蜻蛉》を倒すことができればと思っていた。そうすれば……そうすれば、並び立てるのではないかと。彼女に、選んでもらえるのではないかと。そう思っていた。

 その積み上げがまだ足りなかったことに、借金が利息以外まるで減っていなかったときのような途方もなさを覚えてしまった。


 遠い。遠すぎる、あまりにも。

 実感が、心をきつく締め付けた。

 言うつもりのなかったことが、隙間を伝って漏れ出る。


「あなたは、俺にとってあこがれなんだ」


 口をついて出た一言、絞り出されてしまった言葉。

 なんの脈絡もなく放たれた言葉の意味が、伝わってほしいという気持ちと。伝わらずに無かったことにしてほしいという気持ちと。ふたつが矛盾しつつ心の中で荒れ狂っていた。

 おそるおそる、顔を上げる。

 楊欣怡は見たこともない顔をしていた。


 けれどその顔を形どることに、彼女は慣れているようにも見えた。


「……それって私が好きってことだよね」


 そっけなく、冷めた、確認の言葉が飛んでくる。

 この時点で俺はもう、どうしようもないほどミスをした。そう自覚させられるに足る言葉だった。

 けど、ここで前言を撤回しても意味はない。わずかに悩んだ末、こくりとうなずくに留める。彼女はずっと黙っていた。

 やがて困った風に息を吐き──いつもの彼女なら、笑みのひとつも一緒にこぼしただろうにその目も口も笑いは無い──視線を合わせず、言った。


「私男の人が嫌いなんだよね」


 ある意味で、この答はやさしさだったのかもしれない。俺だから、ではなく俺が属すものを引き合いに出した否定。

 やんわりとした物言いで、彼女はつづける。


「まーぁ。だからって、女の子が好きなわけでもないんだけど。私がだれかと特別な関係になるってことそのものが存在しないの。だれとも特別になりたくないんだよね」


 だから、ごめん。

 短くもどうしようもない拒絶を突きつけられ、俺は「そうですか」と聞き分けよく引き下がる、べきだったのだろう。

 しかし得たかったものから突き放された……というその心情が、自棄にさせた。どうにでもなれと、ただ思うがままに言葉を継いでしまった。


「《蜻蛉》は特別なんじゃないですか」

「特別じゃないよ。男扱いもしてないけど」


 俺の問いかけに、楊欣怡はすぐそう返した。

 最初、俺はこの回答も用意していた言葉だったのでないかといぶかしんだ。だが彼女の顔を見るうち、そういうものでないとわかった。


「あいつはそういう気になれない(・・・・・・・・・・)からっていう安心もあるんだとは思うけどね。でもまー、私は安心なんて生まれてこのかたできなかったからさ」


 だからそれが特別扱いに映ることはあるかもね、と締める。

 安心。

 それは、奴が強いからなのか。……いやそういうわけではなさそうだ。

 じゃあ俺は最初から、とくに意味のない分野で勝ち負けを意識し、ひとり空回りしていたにすぎないのか。

 思い至ると急速に、自棄になっていた気持ちがしぼんでいく。恥じ入って、二歩下がり、「無遠慮と不躾を、本当にすみませんでした」と楊欣怡に頭を下げた。

 彼女は──やはりこれも慣れた顔つきで、「いいよべつに」と応じた。



        #



 嫌われただろうが、だからといって業務上での付き合いは変わらない。俺は彼女の率いる人員のひとりとして変わらず動いた。

 やがて、姑獲鳥グゥフォニヤオという存在をでっちあげて児童の水道局への横流しが始まり……俺は楊欣怡に「このコト嗅ぎまわってる円藤理逸に手ぇ出してきて」と命じられた。

 祭りの喧騒の中。

 数多行きかう人間の隙間で、俺は彼を狙った。

 相棒である異邦人の少女を連れている彼とすれ違いざま、打撃を撃ち込み合う。肩に置くように放った劈拳ピィチェン。半身を引いてかわされる。そのまま変化して横薙ぎの裏拳。屈んでかわされる。拍子をずらされ、鮮やかに。向こうは自然な動きで、俺はまるで対応できなかった。

 勝てなかった。

 突き上げを喉に食らい、気づけば俺は昏倒していた。……あとは、この戦いを接触の足掛かりとして楊欣怡がうまくごまかす手筈。

 俺はただ、その先は見ているしかなかった。ただの部下でしかない。特別さのかけらもない、俺は。彼女に嫌われた俺は。これ以上なにもできない。


 そして楊欣怡は組織間の抗争のうちに死んだ。



        #



《蜻蛉》こと円藤理逸のもとに届けられる予定の手紙……とやらが見つかったのは彼女の遺体を焼いてすぐだった。

 なかに暗号や、沟を害すること。あるいは組合を利することはないと見て、饕餮が届けにいくのだという。

 俺は「手紙を見せてほしい」と饕餮に食い下がった。ほかに笹倉の安東、拳の師である盧、および彼女を拾った王への手紙もあったそうだがこちらはどうでもいい。俺が知りたかったのは《蜻蛉》が本当に彼女の『特別』でなかったのか、それだけだ。

 饕餮はとくに俺という存在にも興味なさげで、すいと手紙を渡してくれた。

 封筒を開いて。

 その、紙面を見て。

 俺はやはり、己が届かなかったのだということを。より深く思い知ったのだった。

 

No one knows who is special.

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― 新着の感想 ―
欣怡の間話嬉しい ・女の色香に耐性がある(女性を性的に見ない) ・自己肯定感が低めで尊大で無い(男性的でない) ・不殺を貫いている 辺りが特別の理由なのかな
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